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君の名前を、私が書き換える  作者: 雪見遥
第1章 努力すれば成功できる、あの頃の私は、そう信じていた

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第6話 残されたもの

 倉庫の扉を開けた瞬間、鼻をつくのは濃い埃と古びた紙の匂いだった。窓の隙間から斜めに差し込む光は、薄暗さと静けさを照らしきれず、まるで凝り固まった空気がそのまま心にのしかかるようだった。


 中には古い机や椅子、そして乱雑に積まれた段ボール箱が所狭しと並んでいた。箱の中にはすでに壊れかけた木材や金属パーツが骨のように交差し、まるで眠ったままの残骸のようだった。


 決して広い空間ではないのに、想像以上に重たい。まるで記憶と声が積もり続けた古井戸のようで、近づくだけで過去の残響が聞こえてくる気がした。


 私はそっと足を踏み入れ、胸の奥に微かな違和感が浮かび上がる。


「ただの古い倉庫だよ」


 そう心の中で呟いて、自分を納得させるようにして、根拠のない緊張感を断ち切ろうとする。最初は別に怖くなんてなかった。だって、あの噂話も、私は本気で信じていなかったのだから。


 でもなぜか今の私は、朝倉さんたちの話に、少しずつ影響されてきた気がしてならなかった。


 壁際でスイッチを探り、手探りで押した瞬間、頭上の蛍光灯が「ジー……」という音と共に何度か瞬き、不安定に明滅した後、ようやくゆっくりと光を取り戻した。


 黄ばんだ光に照らされた棚には、埃を被ったままの古いロッカーと、押し潰された器材の段ボール箱が並んでいた。


 私は先生から渡されたリストを開き、順番に物品を確認していく。使えなくなった体育用具、黄ばんだマット、錆びついたバスケットゴールのパーツ……どれも予想通りで——特に変わったものはなかった。


 最奥に近づくまでは。


 奥の崩れかけた段ボール箱をしゃがんで動かそうとしたとき、不意に肘が隣の棚に当たった。


「わっ——」


 思わず小さく声を上げて、後ずさる。すると、揺れた棚がわずかに傾いたのに気づいた。


 直そうとする間もなく、その棚の壁側の隙間から、一枚の黄ばんだ紙がふわりと滑り落ち、音もなく床へ舞い降りた。


 私は一瞬動きを止めて、その紙を拾い上げた。最初に感じたのは、ただの疑問だった。……これは何? 誰かのメモ? それとも昔の資料?


 封筒もなく、表紙にも題名や宛名もない。いきなり本文から始まるその紙は、長い年月に晒されて縁がボロボロに崩れかけていて、まるでここにずっと忘れられていた、誰かの心の声のようだった。


 文字は歪んでいて、筆跡もバラバラで、文の並びに規則性はなく、めちゃくちゃだった。読み取りにくいほど乱れていて、私は思わず眉をひそめる。


 まるで雑に書かれた学生の落書きのようで、すぐに捨ててもいいと思った。


 ……それなのに、私の指は、その紙から離れなかった。


「ご……ごめ……なさい」


 私は一瞬、手を止めた。それはその言葉の内容というよりも……その文字の形が、どうしても普通のメモには見えなかったから。あまりにも崩れていて、震えていて、どこか……感情に溺れているようだった。まるで震える声が、そのまま紙の上に落ちているみたいだった。宿題のためでも、何かを記録するためでもない。これは……誰かが、自分の心が壊れないように、必死に踏みとどまろうとして書いた文字だった。


 元に戻そうかと思った。でも、言葉にできない何かが胸に引っかかって、私は無意識に視線を次の行へと滑らせていた。


「わたし……ほんとにがんばっ……たのに……」


 文は途中でちぎれたようで、誤字も多く、同じ言葉の繰り返しばかり。文法も、句読点の使い方も、めちゃくちゃだった。


 ——まるで、心の奥から一文字一文字を引き剥がして、無理やり紙に書きつけたようだった。


「きょ……今日は……その……学校のし……試験。あの、その……すごく……きれいで、すご……すごい学校……あそこに行けば、きっ……きっと将来が……あるって……。わたし、じゅん……準備したの。ずっと、ずっと……ほんとに……ほんとにがんばった……。でも、でも、あの問題を……開けたとき、わたしの頭……頭の中が……なにも、なにもなくなって……」


 私はそこで読み進める手を止め、「その学校」という文字に視線を落とす。胸の奥が、少しだけざわついた。これって……萃光のこと?


 私は気づかれないほど小さく眉をひそめて、そのまま続きを読んだ。


「わたし、さぼってたんじゃない。ほんとに……違うの。わたし、毎日がんばってたの。ほんとに……」


 ……これは、何の言葉? 誰に向けたもの? いや、そもそもこれは、誰が書いたの?


 その一文は、何度も何度も繰り返されていた。筆跡はどこか乱れていて、消しては書き直されたような跡も見える。文字の並びも不揃いで、ところどころ線が途切れて読めないものもある。それでも、その繰り返しの中にある「何かを証明したい」という強い想いと、同じ言葉しか出せない無力さが胸に突き刺さって、私は言葉を失った。


 私は妙な居心地の悪さを覚えた。


 この手紙に込められていた感情は……あまりにも重くて、激しくて、それでいてあまりにも不器用だった。まるで……手紙の書き方を知らない人が、必死に何かを伝えようとするような。注目を求めているわけでも、ただ感情をぶつけているわけでもない。ただひたすら、絶望の中で空気を掴むようにもがいている――そんな渇望だった。


 彼女は努力したと言っていた。試験の準備もした、でも結局は間違えて、読めなくて、合格できなかった。先生に質問もしたし、ノートも取ったし、毎晩遅くまで練習したとも。彼女もあの学校に合格したかった。誰かを喜ばせたくて、自分に少しでも価値があると思いたくて……それだけだったのに、それでも不合格だった。


 ……こんなにも誤字が多くて、文章がめちゃくちゃだったら、そりゃあ落ちるかもな。


 そんな考えが頭をよぎって、でもその瞬間、私はその思考の冷たさにハッとした。あまりにも速くて、あまりにも冷酷な言葉だった。その思考が、自分でも嫌になるくらい。


 彼女はこの手紙を、誰に読んでほしかったんだろう? 先生? 家族? ……それとも、そもそも誰にも見つからないつもりだったのか。


 文は途切れ途切れで、文法も滅茶苦茶だった。それでも、そこに込められている感情は洪水のように押し寄せてきた。まるで誰かの助けを求める声。まるで、誰かへの最後の別れの言葉。そして私は、埃まみれの物置の中で、ひとり崩れ落ちたその心を読み上げていた。


 私は声を落とし、その最後の一節を読み上げた。


「もし……もしも、もう……いちどだけ……あったなら……ちゃんと……字を……書ける……ひとに……なりた……い……だれか……わたしの……かいたものを……わかって……くれたら……よかったのに……」


 その瞬間、私は気づいた。これは創作でもなければ、練習用の紙でもない。これは……遺書だ。


 指先が無意識に力を込め、紙がかすかに皺を刻む。私の手は、少し冷たかった。


 そして、最後まで読み進めた私は、名前の部分に目を落とす。


「南……〇……千……〇……?」


 名前は滲んでいて、筆画が途中で切れていて、最後の一文字はまるで水に濡れたかのようににじんで、輪郭が崩れていた。


 ……この手紙は、あの人が残したものなのだろうか。噂に出てくる、あの——学校で自殺したという女の子。みんなが言っていた。あの倉庫には幽霊が出るって。誰かがここで死んだからだって。だけど、学校はその事実を一度も認めていない。彼女の話も、もう都市伝説みたいにされて、嘘と真実が混ざった笑い話になっていた。


 でも、この手紙が——もし本物だとしたら。彼女は、たしかにここに「生きていた」んだ。


 私は紙に綴られた文字を見つめたまま、胸の奥に妙な感覚が浮かんできた。怖さじゃない。悲しみでもない。もっと言葉にしづらい重さだった。音もなく、静かに、心の底をゆっくりと引きずっていくような。


 まるで、ただの一枚の紙だと思って持ち上げたら、その重さが底知れなかったみたいな感覚。


 本来なら、こんな文章は読むのがつらいはずだ。でも私は、一行一行、ふだんよりずっと遅いスピードで読んでいた。


 言葉は壊れていて、バラバラだった。感情は、制御を失った嵐のように積み上がっていく。だけど、だからこそ——目を逸らすことができなかった。


 その言葉を読むたびに、胸の奥がずしりと重くなる。苦しいのは、共感からじゃない。どちらかと言えば、強烈な違和感——その感情の向かう先が、あまりにも極端だった。


 彼女は、自分なんて人の時間を無駄にする存在だって言っていた。人を失望させるだけの、足手まといで、厄介者だって……。でも、彼女がしていたのは、ただ文字を書くのが少し苦手で、成績が良くなかっただけじゃないか。


 ――どうして、それだけで「死ななきゃ」いけないの? どうして、彼女は自分に生きる資格がないなんて、思ってしまったの?


「悲しい」って気持ちが分からないわけじゃない。でも、こんな程度の挫折が……どうして、命を絶つ理由になってしまうのか、本当に分からなかった。


 努力って、本来は報われるものじゃないの? 成績が悪くても、補える方法なんていくらでもあるはず——先生に相談したり、資料を集めたり、友達に手伝ってもらったり……やり方はたくさんあるのに。どうして彼女は、もう一歩も進めないって思い詰めてしまったんだろう?


 それに……学校って、本当に生徒に対してそこまで冷たいものなの? 私だって、テストの点数が悪かったことはある。先生に叱られたこともある。でも、それでも先生たちは私に手を差し伸べてくれた。やり直すチャンスを、ちゃんとくれたのに。


 私は深呼吸して、落ち着こうとした。感情を一旦押さえて、まるで読解問題のように、冷静に分析しようとした。文構造、感情の推移、動機——そうやって切り分けてみようとしたけれど、心の中の何かが……やっぱり、引っかかっていた。


 私は手紙をそっと閉じて、静かにそれを見つめた。まるで、それは私にとってまだ解けない謎のようだった。


 それが何なのか、私にはまだ分からなかった。胸の奥をぎゅっと掴まれるようなその感覚が、「同情」なのか「後悔」なのか、あるいは単なる「疑問」なのかさえ、言葉にできなかった。


 ただ、ひとつだけはっきりしているのは——私は、分からないということ。


 そう、私には分からない。どうして彼女が諦めてしまったのか、どうしてこの世界に自分の居場所がないと思い込んでしまったのか、どうして「誰も失望しないこと」が、まるで救いのように、安らぎのように感じられたのか……分からない。


 私は、彼女のことを何も知らないままだった。


 だから私は、そっとその手紙を折り畳み、元あった収納棚の奥、壁際の隙間に戻した。それはまるで、まだ理解できない何かを、いったんしまっておいて、いつか正しい視点で向き合える時を待つような、そんな行為だった。


 でも、その手紙は確かに、私の心に何かを残していった。その「何か」は、まだとても小さくて、ぼんやりとしているけれど……まるで澄んだ水の中に一滴だけ落とされた墨のように、ゆっくりと広がっていく感覚だった。

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