第5話 学園七不思議
昼休みのことだった。先生に呼び止められた。
「結城さん、ちょっとお願いできるかしら。体育館の横にある倉庫を片付けてほしいの。あの部屋、今後のイベント準備に使うかもしれなくて。中にはずいぶん昔の物がたくさんあって、学校でまだ必要なものと処分していいものを仕分けしておきたいのよ」
先生は細かくびっしりと書かれたリストを私に手渡した。
「ここにあるリストに沿って確認してくれるだけでいいの。結城さんはいつも丁寧にやってくれるから、一番信頼してるのよ」
私は軽くうなずいた。
先生のお願いなら、私は決して断らない。だって、私はずっと「頼りになる生徒」であり続けてきたから。この立場は、私がずっと守り抜いてきたものだ。
それって当たり前のことでしょう? 私はずっと真面目に勉強してきて、成績だっていつも上位にいる、だから先生に好かれるのも当然。まるで数学の公式みたいに、理屈ははっきりしていて、結果も確実なのだ。
教室に戻ると、後ろの席の朝倉さんが身を乗り出してきて、興味津々に訊いてきた。
「ねえねえ、先生に呼ばれてたけど、なんだったの?」
「倉庫の掃除を頼まれたの。備品の点検も兼ねてるって」
私は淡々と答えた。
「えっ、あの体育館の横のとこ?」
朝倉さんは眉をひそめて、どこか複雑そうな顔になった。
「気をつけたほうがいいよ……あそこ、なんか昔……あの倉庫、怖い都市伝説があるって聞いたことあるし……」
私たちの会話を聞きつけた別のクラスメイトがすぐに寄ってきて、まるで新しいゴシップでも話すみたいに言った。
「え、あの倉庫のこと? 知ってる知ってる! あそこって、うちの学校の『七不思議』のひとつでしょ? めっちゃ有名だよ!」
朝倉さんは「しーっ」と人差し指を立てて、わざとらしく声を潜めた。
「聞いたことある? 夜、あの倉庫の前を通ると、中から誰かが文字を書いてる音が聞こえるんだって……シャッ、シャッ、って鉛筆が紙を走る音。それに、女の子の泣き声まで……泣きながら文字を書いてるみたいなんだって」
「それだけじゃないってば!」
もう一人が勢いよく割って入ってきた。
「壁に赤いペンで書かれたメッセージが現れるって話もあるよ。いくら消しても数日後にはまた浮かび上がってくるの。しかも、誰が書いたのか全然わからないって!」
まるで都市伝説のカードを出し合うかのように、彼らは次から次へと話を続けた。その口ぶりは興奮気味で、どこか浮ついていて。
「他の六つも結構有名だよね。たとえば、階段下の物置。あそこ、ひと月に一回勝手に開いて、中のホウキが一本ずつ減っていくとかさ」
「あと、トイレの鏡! 夜中に覗き込むと、将来の自分の姿が映るって話。自分が一番なりたくない姿を映すんだって」
「音楽室もやばいってば。誰もいないのにピアノが勝手に鳴り出すし、美術室の肖像画の目が動いて、通る人をじーっと見てくるんだって」
「しかもさ、毎年のように先輩たちが『自分も体験した!』って言うんだよ? まるで代々引き継がれていく『霊的な記憶』って感じ、めっちゃカッコよくない? まさに集団記憶ってやつじゃん!」
みんなは笑いながら話していた。まるでそれが新学期の恒例イベントみたいに、気軽な話題として、まるで肝試しの怪談を交換するかのように。そこには、重みも、敬意も、欠片ほども感じられなかった。
私は黙って、その話を聞いていた。
こういう「七不思議」とかいうやつ、私も前にいくつか耳にしたことがある。音楽室のピアノが勝手に鳴るだの、美術室の肖像画が夜に目を開けるだの、階段下の小部屋が月に一度勝手に開くだの……毎年微妙に話が違って、けれどどこかで誰かが同じ台本をなぞるように語り継いでいく。
まるで、学校全体が演じている一つの「伝説劇」みたいに。
そしてみんな、それを半信半疑で、でも楽しそうに口にして――やがて忘れていく。
「なんか、あの倉庫の噂って、昔そこで誰かが……って話が原因なんでしょ?」
「――ああ、自殺事件のことね」
朝倉さんは肩をすくめて、たいしたことないと言いたげな顔をした。
「もう何年も前の話だしさ。本当かどうかなんて誰にもわかんないでしょ? 結局、何もはっきりしてないし」
「学校側も認めてないしね。誰かが作った作り話かもよ?」
「でしょ? こうして語り継がれていくうちに、伝説になっちゃったって感じ?」
「もしかしたら、今聞こえるって噂の声も、その子の怨霊だったりして~。うわ、マジ怖っ!」
彼らは笑い出した。
……ただ、その時、彼らが倉庫のことを話し出した瞬間、私の頭の中に、あるぼんやりとした記憶の断片が浮かび上がった。
たしかに、そんなことがあった気がする。
二年前だったか? 三年前だったか? ぼんやりとした記憶の中に、そのときニュースで短く取り上げられた場面が残っている。ひとりの女子生徒が、校内で自殺したという報道だった。映像はぼやけていて、ナレーションの声もまるで天気予報のように淡々としていた。亡くなった生徒の名前すら紹介されず、その後の続報もなかった。
もちろん私は、そんな――自分とは関係のない出来事に時間を割く余裕なんてなかった。
ただ「そんなことがあった気がする」という、輪郭のぼやけた知識だけが、頭の片隅にメモのように折り畳まれたまま残っている。「女子生徒」「学校の隅」――おそらくそのあたりのキーワードだけが記憶の断片として残っていて、詳細はもう思い出せない。まるで一度も開かれなかったページの角に、折り目だけが残っているような感じだった。
「そういう噂って、あんまり信じないんだよね」
私は淡々と言った。
それは幽霊話に対する不信感というよりも、「自分に関係のないこと」に対して無意識に築いてしまう、分厚い防音壁のようなものだった。
あの自殺の出来事は、私にとってはまるで最後まで読まれなかった新聞の社会面の記事のようだった。一度だけ目を通して、次の瞬間にはもう忘れてしまっていた。
今こうして彼らが「七不思議」なんて軽いノリで話しているのを聞いても、私は悲しくもなければ、腹が立つわけでもない。もっと言えばて何も感じなかった。
だって、大抵の人間なんて、そういう反応しかしないでしょ? 話題として触れるだけ。感情は表面にかすめるだけで、臨界点を越えれば、ただ煩わしくなるだけ。だからみんな、暗黙の了解で感情にラベルを貼るの。「未確認情報」って。そして、それをそっと話題の物置にしまい込むの。
空気が一瞬だけ重たくなった。彼らは互いに目を合わせた。
「ま、まあ、いいけどね~」
一人が肩をすくめた。その声はまるで教科書の一文みたいに温度がなかった。
「信じるかどうかは人それぞれだし、オレたちも、ただ聞いただけだからさ」
私は何も返さず、ただ手元のチェックリストに視線を落とした。紙に鉛筆を走らせる音だけが、妙に澄んで響いていた。
七不思議? 彼らにとっては、代々語り継がれる面白い怪談かもしれない。けれど、私にとってはただの校内の背景雑音に過ぎなかった。意味もなければ、解釈する価値すら感じなかった。
そして、かつてそこに「存在していた」誰かのことも、私は特に興味を持ったことはないし、理解しようとしたこともなかった。
本当のことを知ったのは、ずっと後になってからだった、あのページを一度もめくったことのなかった記憶の隅には、ひとつの名前と、ひとつの声なき告白が、静かに潜んでいたのだ。
――それは伝説なんかじゃなかった。誰かが最後に残そうとした、ささやかな声だった。
けれどそのときの私は、何も知らなかったし、知ろうともしなかった。
***
放課後、校舎にはすでに静けさが満ちていた。廊下には誰もおらず、教室の窓から差し込む斜陽だけが、床に長く細い影を落としていた。それはまるで、無言の案内のように私を導いていた。
私は職員室で鍵を受け取り、一人で体育館脇にあるあの古びた木の扉へと向かった――彼らが言っていた「七不思議」の一つの場所へ。
扉は、陽の光が届かない影の中に立っていた。そこだけがまるで別世界のように沈黙していて、私はその前に立ち尽くし、そっと手を伸ばす。だが、ドアノブに触れた瞬間、指先がわずかに躊躇った。
冷たく錆びついたノブ。長いあいだ誰の手にも触れられていなかったようだった。木の表面には薄く埃が積もり、縁には蜘蛛の巣が絡んでいた。まるで時間の流れがここだけ緩やかになったような、そんな空気の重たさがあった。扉の隙間からは、わずかに室内の気配が滲み出ている。それはどこか懐かしくもあり、過去のどこかに取り残された魂が、じっと次の訪問者を待っているかのようだった。
私は深く息を吸い込み、胸の奥に広がった妙なざわめきを押し込めた。
そして、そっと、扉を押し開けた。




