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君の名前を、私が書き換える  作者: 雪見遥
第1章 努力すれば成功できる、あの頃の私は、そう信じていた

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第4話 夢の空欄

 四月の初め、入学式の日。それは私が正式に高校生になった、人生で初めての朝だった。


 鏡の前に立ち、萃光高等学校の制服に袖を通す。自然と背筋が伸びるその制服は、名門校ならではの気品が隅々にまで漂っていた。


 上衣は純白のスーツカラーのシャツ。ウエストがわずかに絞られたシャープなシルエットで、襟元には立体感のあるネイビーストライプのネクタイが添えられている。どの折り目もまるでオーダーメイドのように整えられ、無意識に襟元を正してしまうほどだ。


 ジャケットはグレーの細かいチェック柄。深い灰色の地に、繊細な銀糸のラインが交差し、二つボタンのシンプルなデザインがきりりとした印象を与える。ボタンの縁には小さな校章の模様が刻まれていて、光が当たると控えめにきらめく。


 スカートは膝丈の定番プリーツスカート。グレーを基調に、裾にほとんど見えないほどの銀色の糸が一本縫い込まれている。くるりと回ったときにだけ、それがひそやかに光を反射して、まるで秘密の印のように浮かび上がる。それを見れば、誰もが萃光の生徒だと分かるはずだ。


 ネイビーのショートソックスに、黒のエナメルローファー。靴のバックルにも小さな校章のレリーフが施されていて、足音さえもこの校風に調和している気がする。


 左胸には共通の校章バッジ。デザインには「光」の意匠が取り入れられ、未来を照らすという校訓を象徴している。銀白色のエンブレムが静かに輝いていて、まるでこの制服をまとう者に「あなたはこの学校の誇りなのだ」と語りかけてくるかのようだった。


 この制服はあまりにも凛々しく、美しくて、思わず見惚れてしまう。着た瞬間、胸が自然と張り、足取りまで自信に満ちていく気がした。


「うわ……これ、めっちゃカッコいい……」


 鏡に映る自分にそっと呟きながら、ネクタイの角度を微調整する。


 幼いころから、いつかこの制服を着ることが夢だった。私にとって、これはただの学校指定の服ではない。努力が実った証。全国トップレベルの学府に認められたという誇りの象徴だった。


 その瞬間、まるで青春ドラマの主人公にでもなったような錯覚があった。すべてがまぶしく輝いて、空気の粒子さえ光を帯びているように感じた。


 朝ごはんのとき、両親が笑いながら言った。


「高校初日なんだから、記念写真撮らなきゃね!」


 玄関で家族写真を何枚か撮った。母は制服の裾を整えてくれて、光が一番きれいに当たる場所に私を立たせた。父はカメラを構えて、私以上に笑顔を浮かべていた。


 それは、祝福と期待に満ちた朝だった。私の人生が、新たな一章を迎える朝でもあった。家のドアを開けて、校門をくぐるその瞬間——私は心の中で、静かにこう呟いた。


 ——結城美月の高校生活が、始まる。


 ***


 時間は思った以上に早く過ぎた。気づけば、私はもう高三。17歳になっていた。


 朝の七時、いつものようにアラームが時間ぴったりに鳴り響いた。私は手を伸ばしてアラームを止め、小さくあくびをひとつ。まだ薄明るい光しか差し込まない部屋の中、ゆっくりとバスルームへ向かった。


 蛇口から流れる冷たい水が肌に触れて、ぱちんと意識が覚める。目を閉じたまま顔を洗い、歯を磨き、制服に着替える。一連の動きは、まるでプログラムされたように手慣れていた。顔を拭いてから顔を上げると、鏡に映っていたのは見慣れた顔——整えられた眉、きちんと整えられた髪、はっきりとした目元。まるで、すべてが完璧に整っているように見えた。


 カレンダーには、くっきりとこう記されていた——2025年4月14日。


 私は今も、早起きして登校する習慣を続けている。多くの生徒がまだ通学途中にいる時間、私はすでに教室の自分の窓際の席に座り、昨晩遅くまで復習していた社会科のレジュメを広げていた。静かに重要な箇所にマーカーを引きながら、キーワードを口の中で繰り返す。窓の外から差し込む光がページに降り注ぎ、黒いインクの文字さえも、どこか重たく感じられた。


 耳に届いてきたのは、低い声の会話。声量は控えめでも、内容ははっきりと聞こえてくる。


「結城さんって、本当に努力家だよね……さすが去年の学年一位」


「うん、一位じゃなくても、三位以内は絶対に外してないと思う」


「毎日勉強してて、ノートもめっちゃきれいで、色分けも完璧……」


「きっと将来はすごい学部に進むんだろうね。医学部? 法学部? それとも高収入で安定してる専門職かな?」


 私は振り返ることも、反応を返すこともなく、ただ静かに教科書をめくり続けた。だけど、どうしてだろう——胸の奥に、じわりと空虚な感覚が広がっていくのを感じた。どこかがふと緩んで、心の奥底に静かな波紋を残していくような、そんな感覚。


 たしかに、私はずっと「東京大学に合格する」ことを目標にしてきた。それを両親に伝えたとき、ふたりはとても喜んでくれた。「結城家の誇りだ」とさえ言ってくれて、「やっぱりあなたは期待を裏切らないね」と満面の笑みを浮かべていた。その口ぶりは、私が子どものころから何度も聞いてきたものだった。まるで、よく磨かれたトロフィーを褒めるような口調で。


 でも——私は、どの学部に行きたいんだろう?


 正直なところ、その問いについて真剣に考えたことがない気がする。ただなんとなく、「東大を目指すのが当たり前」と自分に言い聞かせていただけ。だって、それが日本で一番の大学で、その名前そのものが「勝者の証明」であり、「社会的ステータスの象徴」だから。でも、もし本当に合格したとして——その先に私は何を学びたい? どんな大人になりたい?


 答えは浮かばない。夢は何? わからない。


 私はただ、テストの得点分布の頂点を目指すことに慣れてしまっただけ。他人の目に映る自分が、賞賛や憧れの対象であることに、無意識に安心を覚えていただけ。「誇らしい存在」として生きることに、いつの間にか慣れてしまっていた。その先にある未来のことなんて、いつもこう言い訳してきた。「それは、後で考えればいいこと」だって。


 だって私は、「勉強こそが学生の本分」だと信じていた。努力して、いい成績を取ること、それが私にできる最良の選択だと思っていた。東大のような有名大学に入れれば、それまでの努力が無駄じゃなかったと証明できる。それ以上に——私の能力と成果が「価値あるもの」だと、親に証明できる。


 私は下を向き、見慣れたプリントの文字を見つめる。すると、心の奥からそっと、ある声が浮かび上がってきた——


 成績さえ良ければ、私は「優秀な生徒」で、「役に立つ子ども」だと認められる。頑張ってさえいれば、誰にも私の存在価値を否定させないで済む。ひたすら上を目指し続ければ、誰からも「あなた自身が本当に欲しいものは何?」なんて、聞かれなくて済む。


 だから、今はまだ考えなくていいんだ。合格してから考えればいい……そうでしょ?

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