第2話 はじまりの誤解
2023年3月4日。まだ寒さの残る春の朝だった。空は低く垂れこめ、分厚い雲が覆っている。風には、冬の名残が冷たく混じっていた。
私はしっかりとした足取りで、萃光高等学校の校門をくぐる。手には受験票を強く握りしめ、足元は揺るぎなく、目には決意の光を宿していた。
この学校は、長年夢見てきた場所だった。進学の頂点であるだけでなく、私が人生の出発点として選んだ場所でもある。
萃光──日本有数の国立進学校。東京の中心学術エリアに位置し、長い歴史を持つ。進学指導と特別進学課程を備え、偏差値は75という驚異的な高さ。合格率は非常に低く、受験するのはほとんどが名門中学や有名塾出身の優等生ばかり。
「入学すれば未来が約束される」とまで言われるこの学校は、多くの生徒と保護者にとって夢のような学び舎だった。学校という存在を越え、明るい未来への扉として、現実と夢の象徴だった。
私は中一の頃から、ノートの表紙に「萃光高等学校」の名前を書いてきた。それは単なる目標でも、学歴への執着でもなかった。信念の投影だった。
「努力は人を裏切らない」──この言葉を、競争の意味を知った頃からずっと胸に刻んでいた。それは私自身への誓いであり、家族や先生、私を見守ってくれたすべての人へ証明するための言葉だった。「私は期待に応える価値がある。偶然なんかじゃない。私は、自分の努力でここまで来たんだ」と。
試験会場に入ったとき、予想以上に心は落ち着いていた。問題は模試より簡単で、時間も余裕があった。私は一問一問を丁寧に解いていき、字も整っていて、ペースも安定していた。二回見直しを終えたあと、残り十五分でペンを置いた。窓の外のぼんやりとした空を見上げて、静かに呼吸を整えた。
監督の先生が「終了」と告げた瞬間、私は心の中で強く唱えた。
──今回こそ、合格できる。
それは慢心ではなかった。確信だった。この答案は、数えきれない深夜の自習、綿密なタイムスケジュール、そして自分を追い込み続けた日々の成果だったから。
試験会場を出る頃には、空はさらに暗くなっていた。校門の外には保護者がたくさん並び、焦ったように見渡す人や、涙をこらえる人もいた。
私はその中を、一人で静かに歩いていた。まるで確かな未来へと続くレールを、一歩一歩踏みしめるように。
家に帰ると、日はすでに落ちていた。父は仕事から帰ってきたばかりで、母は台所で夕食の準備をしていた。テレビがついていて、リビングには温かな照明が灯っていた。
制服を脱ぎ、ソファに座って、おやつをつまみながらノートをめくって夕食を待っていた。
「今日の試験、どうだった?」
と父が聞いた。
私は顔を上げ、ためらうことなく静かに答えた。
「すごく良かった。ほぼ確実だと思う」
今回の試験は、ほんのわずかなズレもなかった。問題の傾向も対策通りで、時間配分も計画通り。試験会場を出た瞬間、私の中では「合格」がほとんど決まっていた。
テレビでは夜のニュースが流れていた。音は曖昧で、私はページをめくっていたけれど──
そのとき、不意に耳に入った。
「今日午後五時頃、萃光高等学校の校舎内で、受験中の女子生徒が用具室で首を吊っているのが発見されました──」
手元のノートが、「パタン」と音を立てて閉じた。
「警察は自殺の可能性が高いとみており、現場に不審な点は見られませんでした……教育関係者は『個人の耐性による問題』としており、社会的な過度の関心は必要ないとコメント……学校側は、現在も正式な声明を出していません……」
私は固まったまま、ゆっくりと顔を上げた。
画面には、つい数時間前まで私がいたあの校舎が映っていた。灰色の建物、人影のない廊下、そして体育館の横にある用具室の扉。
あの角、あの階段、あの扉──その全てが、胸の奥をぎゅっと締めつけた。
はっきりと覚えている。あの扉は、体育館へ向かう通路の突き当たりにあって、壁に沿うように設置されていた。試験教室は、すぐ隣の校舎だった。試験を終えて出てきたとき、私はなんとなく、そちらに目を向けた。そのとき、扉は半分開いていて、静かに、何も語らなかった。
でも、今になって思う。
──あのとき、あの扉の向こうで、彼女はもう……そこにいたのかもしれない。
空気が、ふいに重たくなった。まるで雲の隙間から何かが音もなく降り注いできて、私の胸の上にそっと圧し掛かってくるようだった。
台所から母が顔を出し、どこか困惑したような声で言った。
「どうしてこんなことに……もしかして、受験に失敗して落ち込んだの?」
父は眉をひそめ、沈んだ声で言った。
「今どきの子って……試験に落ちたくらいで、どうして自ら命を絶つようなことをするんだ? どう考えても、そんな理由で死ぬなんて、おかしいよな」
「結局、試験の失敗なんて、命を終わらせる理由になんてならないんだよ」
父は少し間を置いて、さらに重く言葉を続けた。
「今の子たちは、本当に……弱すぎるんじゃないか」
母は小さくため息をついて言った。
「でも……本当に、それくらいプレッシャーが大きかったのかもしれないよ」
「だってさ、不合格になるってことは、結局は準備が足りなかったってことでしょ? 努力が足りなかったからじゃないのか?」
私はようやく口を開いた。声は穏やかで、尖ったところも、高ぶったところもなかった。批判でも否定でもなく、ただひたすら、あの出来事の裏にあるものを見ようとするような、静かな問いかけだった。まるで、突然目の前に現れた難問に対して、論理と思考で解こうとするように。
「別に、その子が真剣じゃなかったって言いたいわけじゃないよ……ただ、もし本当に十分に努力していたなら、自分を捨てるなんて選ばなかったんじゃないかなって……」
父はうなずき、いつも通りの確信に満ちた声で言った。
「そう、それが正しい姿勢なんだよ。お前はいつも通りよく頑張ってる。それが、成功する者とそうでない者の違いだ。どんな状況でも、自殺だけは絶対に選んじゃいけない道だ」
そのとき、母がふと私を見つめた。何も言わなかったけれど、その目には、言葉にならないためらいが滲んでいた。何かを伝えたそうにして、でも結局は黙ったまま。
私もそれ以上は何も言わなかった。ただ黙って俯き、ノートを開き、何度も繰り返した模擬問題の確認を始めた。あのニュースがもたらしたわずかな揺らぎを、計画通りのリズムに身を委ねることで抑え込もうとしていた。そうすることで、心の秩序をなんとか保とうとしていたのだ。
窓の外では、細い雨が降り出していた。しとしとと、まるで誰かが声を潜めて窓辺で囁いているかのように。その雨音はやさしくて、けれど消えないほどに静かで──まるで何かが、今この瞬間から、そっと変わりはじめていることを知らせるようだった。
私は気づかなかった。ノートをめくる手を止めることもなく、母のさっきのまなざしの意味を考えることもなかった。
私は知らなかった。あのとき自分が口にした、「もし本当に努力していたなら、自分を捨てるようなことはしなかったはず」という言葉が、二年後、運命によって無慈悲に引き裂かれることになるとは。
そして思いもよらなかった。その言葉が、のちの私の人生において、拭いきれない後悔と、終わることのない自問の始まりとなることを。
なぜなら──あの日、再びあの少女と出会ったとき。かつて私が「努力が足りない」と決めつけた、あの受験生と再び向き合ったそのとき。
私はようやく知ったのだ。
彼女の努力は、私の物差しで測れるようなものじゃなかった。
私が軽々しく否定したその意志は、誰にも知られず、闇の中で血を流していた。その苦しみは、私が想像すらしなかったほど深く、ずっと止むことなく、誰にも気づかれずに続いていたのだ。
──あの日。
それは、私の人生の軌道が、静かに、でも確実に書き換えられていった始まりの日だった。