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君の名前を、私が書き換える  作者: 雪見遥
第3章 2022年5月

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第1話 呪われた場所に座って

 放課後、コーヒーを一杯買ってから塾へ向かうつもりだった。ところが校門を出たところで、スマートフォンが震えた。


「美月、ごめんね。今になって思い出したんだけど、今日は家に誰もいなくて。もうすぐエアコンの修理の人が来るの。悪いけど、一度帰って、鍵を開けてくれない?」


 母の声は、少しだけ焦っているようだった。


 私は一瞬、言葉に詰まり、反射的に時間を確認した。


「でも……これから塾が……分かった。先に帰るね。そのあと急いで行けば、そんなに遅くならないと思う」


「本当に助かるわ、美月」


 そうして、慌ただしく家へ戻った。案の定、修理の業者はすでに玄関前で待っていて、何度も謝りながら中へ案内した。エアコンの点検と修理は、思っていたより少し時間がかかり、すべて終わってから塾へ向かったときには、ちょうど10分の遅刻になっていた。


 塾の入口に足を踏み入れた瞬間、無意識に歩調を緩めてしまった。遅刻自体が気まずい上に、ここに集まっているのは、ほとんどが「難関校を目指す」成績優秀な生徒たちだ。


 意を決して教室の扉を開けた瞬間、視線が一斉に私へと向けられた。教室の空気が、ほんの一瞬だけ張り詰める。


 教師はわずかに眉をひそめ、明らかに不満げな表情を浮かべた。だが、普段から成績が安定している「模範生」だと分かると、軽く席に着くよう合図するだけで、それ以上は何も言わなかった。


 ほっと息をつき、小さく頷いてから足早に中へ入った。教室を見渡すと、ほとんど満席だった。唯一空いているのは、後列の隅——南條千雪の隣の席だけだった。


 胸の奥が、すとんと沈む。眉が自然と寄り、強い抵抗感が頭をよぎる。でも、他に選択肢はない。一度深呼吸して、覚悟を決め、彼女のところへ向かい、隣に腰を下ろした。それでも私は、無意識のうちに椅子をほんの少し外へずらし、わずかな隙間を空けてから座った。胸の中に、何か異物が詰まったような、ひどく居心地の悪い感覚が残る。


 席に座ってから、何気なく彼女の制服に目をやった。たしか、私の通っていた中学の隣にある――雨の森中学校のものだったはずだ。私のきちんと仕立てられた、張りのある制服と比べると、その制服はどこか……くたびれて見えた。


 淡い灰青色の生地は、何度も洗われたせいか艶を失い、白いセーラー襟は照明の下でうっすらと黄ばんでいる。襟元と袖口には灰青の細い線が二本縫われているだけで、簡素というより、どこか心許ない。濃紺のリボンは伝統的な結び方のまま無造作に結ばれ、しわが寄っていて、今にもほどけそうだった。


 袖口の少し上には、「雨の森」と小さく刺繍されている。意識して見なければ、まず気づかないだろう。胸元には校章もなく、余計に頼りなく見えた。スカートは膝丈の灰青色のプリーツで、生地は薄く、洗い古された跡が照明の下ではっきりと分かる。白い短い靴下は少しよれていて、足元の黒いローファーのつま先には、擦り切れた痕が残っていた。


 全体として、古くて、地味で、目立たない。「おしゃれじゃない」「華がない」という印象が、この制服の一つ一つの折り目に刻まれているみたいだった。


 私は視線を逸らし、あまり見続けないようにした。それでも心のどこかで、思ってしまう。


 ——この差は、あまりにもはっきりしている。


 授業が始まり、教師は真剣な様子で解説を進め、クラスのみんなも黒板の説明に合わせてノートを取っていた。その最中、また無意識に隣へ視線を向けてしまう。彼女はどこか緊張しているようで、俯いたまま必死に何かを書き続けていた。筆圧は異様なほど強く、今にも紙を突き破りそうだ。文字は歪み、字間はばらばらで、見ているだけで思わず眉が寄る。


 ノートを見た瞬間、思わず息が止まった。あのページは……まるで災害現場だった。誤字だらけで、句読点はめちゃくちゃ、書き写された漢字はどれもどこか歪んでいて、文章は不自然なところで途切れている。まるで、まだ進化していない頃のGoogle翻訳みたいだ。


 思わず心の中でつぶやいてしまう。


「こんなレベルの課題を、先生はそのまま提出させてるの? ……さすがに甘すぎない?」


 本当はちらっと見るだけのつもりだったのに、気づけば目が離せなくなっていた。見れば見るほど、胸の奥がざわつく。存在してはいけない書写事故の現場を見せられているようで、頭の中では勝手に「正しい答え」を当てはめてしまう自分がいる。


 彼女が「緑色」を「録色」と書き間違え、さらには文の途中に意味もなく句点を打ち込むのを、黙って見ていた。常識から外れた筆画や構造は、言語の基本的な論理そのものに挑んでいるかのようで、見ているこちらの頭皮がじわりと痺れる。


 小さくため息をつき、無理やり視線を逸らす。けれど次の瞬間には、また彼女の様子を盗み見てしまう。視線は落ち着きなく揺れ、指先はかすかに震え、一行書くたびに必ず手が止まる。まるで、誰にも見えない戦いを一人で続けているみたいだった。


 授業中、先生の解説を聞きながらも、まったく集中できなかった。本来なら内容に意識を向けるべきなのに、どうしても隣で俯いたまま黙り込んでいる彼女の姿に引き寄せられてしまう。胸の奥に湧き上がるのは、苛立ちとも困惑ともつかない、複雑な感情だった。


「彼女はいったい何を考えているんだろう。本当に聞いているの? それとも……もう自分のことを諦めているの?」


 無意識に身体を反対側へと傾け、距離を取った。その隙間は、ただの座席の間隔じゃない。私と彼女の間に横たわる、どうしても越えられない溝のように思えた。


 教師が質問を投げかけても、南條さんは相変わらず答えられない。教師は怒りを抑えながら、早口で言う。


「文章を理解すれば答えられる問題だぞ。こんな調子じゃ、授業についていけないぞ」


 その視線がこちらに移り、私のところで止まった。


「結城さん、南條さんに説明してあげてください。一つ一つ丁寧に教えている時間がありません」


 胸がわずかに詰まる。気が進まなかったけれど、教師に見られている以上、私は小さく頷くしかなかった。教室の隅で、古い扇風機がぶうん、と低い音を立てている。その音だけが、沈黙の秒数を刻んでいるみたいだった。


「……この段落、読んでみて」


 教科書を彼女の前に差し出す。視線が一瞬揺れ、迷うように逡巡したあと、ようやくページを受け取った。


「わ……わたしは……、こ……この、ま……」


 声は空気に溶けそうなほど細く、一音一音が喉に引っかかり、砕かれてからようやく零れ落ちる。


「ゆっくりでいい。大丈夫だから」


 できるだけ感情を抑えた、平坦な声でそう言った。


 南條さんは教科書の端を強く握りしめ、指先を震わせながら、もう一度深く息を吸う。そして、必死に続けた。


「こ……の……まち、で……う、ま……れて……」


 私は視線を落とし、その一文を追う。


「この町で生まれて、育った私は……」


 あまりにも普通の一文だった。難しい漢字も、複雑な文法もない。小学生でも、つまずかずに読めるはずの、そんな文章だった。


「……この文、そこまで難しくないよ。ちゃんと予習してきた?」


 思わず、そんな言葉が口をついて出た。


 答えなかった。ただ、ほんのわずかに、ほとんど分からないほど小さく、頷いただけだった。


 なのに、胸の内の焦りは、彼女よりも私のほうが強かった。どうして? どうして、こんなに簡単な文章が、こんな読み方になるの?


 そのまま続きを読もうとするけれど、間違いは止まらない。誤読が重なり、文の区切りも滅茶苦茶で、存在しない文字まで口にしてしまう。声は震え、視線は定まらなくなっていく。それを聞いているうちに、私の胸もざわつき、呼吸が詰まるような感覚に襲われた。


 助けたくないわけじゃない。でも、もし最初の「読む」という行為そのものが、これほど困難なら。私はどう教えればいい? 一文字ずつ訂正している時間なんてないし、試験は三回読み直すのを待ってくれない。そんな考えが、心の奥から浮かび上がってきた。


 ——この人、そもそも努力が足りないんじゃない?


 はっとした。その言葉を、口に出したことは一度もない。それなのに、まるで鏡みたいに、私が認めたくなかった考えを、はっきりと映し出してしまった。


 南條さんは悔しそうに教科書を閉じ、膝の上で指を擦り合わせている。まるで、間違いそのものを消そうとしているみたいだった。視線を逸らす。冷たい結論が、胸の中に浮かび上がる。


 ——こういう人は、時間を無駄にするだけじゃない。手を差し伸べる側の気持ちまで、無駄にしてしまう。


 その日の塾が終わると、私は急いで荷物をまとめ、ほとんど逃げるようにその席を離れた。頭の中に残っていたのは、ただ一つの思いだけ。もう二度と、隣には座らない。本当に、少しはちゃんと勉強してくれればいいのに。

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