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君の名前を、私が書き換える  作者: 雪見遥
第2章 2022年4月

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第17話 週末の勉強会

 日曜日の昼、私は時間どおりに駅へ向かった。月島愛はすでに着いていて、改札口の前で手を振っていた。


「美月、こんにちは!」


「こんにちは」


 私たちは一緒に図書館へ行き、窓際の席に腰を下ろした。彼女は教科書と前回の小テストを取り出し、私は自分のまとめたノートを広げる。分からないところを一つずつ、私のやり方で丁寧に説明していくと、最初は眉をひそめていた彼女の表情が、すぐに「なるほど」とほころんだ。確認のために練習問題をやらせてみると、なんと全部正解していた。


「ほらね? ちゃんとやれば、できないことなんてないんだよ」


「それは、美月の教え方がうまいからだよ〜」


 ぺろっと舌を出して、いたずらっぽく笑った。


 私は思わず笑みを返したが、その次の瞬間、ふと胸の奥に浮かんだのは——南條千雪という名前だった。いつも授業の進度についていけず、演習もめちゃくちゃ。塾の先生に何度注意されても、彼女の成績は一向に上がらなかった。


 気づけば、口が勝手に動いていた。


「月島さん、ねえ……成績の悪い人って、やっぱり怠けてるとか、努力してないからなのかな?」


 目を丸くして一瞬固まったあと、ぷくっと頬をふくらませて私をにらんだ。


「ちょっと待って、美月。その質問に答える前に、まず訂正! 『月島さん』じゃなくて、名前で呼んでよ。私たち、もう友達でしょ? 前は普通に呼んでたじゃない」


 胸の奥が、わずかに震えた。

 

 ——彼女は知らない。私にとっては、彼女と少しずつ離れていったあの三年間が、どれほど長く、重い時間だったか。今さら何事もなかったように「愛」と呼ぶのは、どうしてもぎこちない。けれど私は、小さくうなずき、その違和感を心の奥に押し込めた。


「……じゃあ、愛。どう思う?」


 彼女は顎に手を当てて、少し考えるように目を伏せたあと、ゆっくりと口を開いた。


「美月。そういう言い方って、ちょっと偏って聞こえるよ?」


 責めるような響きはなかった。けれど、その声の奥には、私の考えを静かに正そうとする真剣さがあった。彼女の視線がふわりと窓の外に流れ、まるで言葉を探すように柔らかく揺れた。


「私ね、才能も大事だと思うけど、努力だってすごく大きいと思うの。よく言うじゃん? 『成功は1%の才能と、99%の努力』って」


 私は思わずうなずいた。


 ——そう、たしかにその通りだ。どんなに才能があっても、努力を怠ればいずれ追い抜かれる。逆に、たとえ生まれつき劣っていても、時間をかけて努力すれば取り戻せる。


 愛は続けて、そっと言葉を添えた。


「ただ……人には、それぞれ違う資質があるんだよ。すごく頑張ってる子でも、私たちには見えない事情があるかもしれないし……。だから簡単に決めつけるのって、ちょっと違うんじゃないかな。もしかしたら、誰よりも努力してるのに、そう見えないだけなのかもしれないよ?」


 その柔らかい声は、不思議と胸の奥に小さな棘みたいに刺さった。触れたくない場所を、そっとなぞられたような痛み。


 脳裏には、いつも俯いている南條千雪の姿が、ぼんやりと浮かび上がっていた。


「うん……そうかもね」


 私は小さく返事をしたけれど、心の中ではまだ何かが引っかかっていた。思わず、もう一言付け加えてしまう。


「でもさ、今日私が教えたところ、あいはすぐできるようになったでしょ? やっぱり頑張れば、ついていけるものなんじゃない?」


 愛は笑いながら首を振った。その瞳には劣等感なんて一欠けらもなく、むしろ澄んだ光が揺れていた。


「でもね、どんなに頑張っても、私の成績はきっと美月には追いつけないよ」


 私は一瞬きょとんとしてしまい、彼女のその気にしていない様子に、少しだけ後ろめたさを突かれた。怨んでいるわけでも、嫉妬しているわけでもなく、ただ素直に自分の不足を認めて、それでも自分を受け入れているだけだった。


「さあ、どうだろうね? もしかしたら、もうちょっと頑張ればできるかもしれないよ」


 私はそっぽを向き、無理やりいつもの調子に戻した。


「はい、この話はここまで。今日のメインはまだ終わってないよ」


「え~うそでしょ、まだこんなにあるのに~!」


 彼女は小さく悲鳴を上げた。


「頑張りなよ。せめて書き終わったら、スイーツ奢ってあげるから」


「ほんとに?」


 目がぱっと輝き、そのまま一気に書き始めた。


 そして、私たちは夕方の五時に荷物をまとめて、一緒にスイーツ店へ向かった。


 ガラスの扉を押し開けた瞬間、甘いアイスクリームの香りがふわっと押し寄せてきて、テーブル脇の装飾ライトが柔らかな黄色い光を放ち、グラスの上で反射してきらきらと揺れていた。


 私と愛はパフェを二つ頼んだ。ひとつはストロベリー、もうひとつは抹茶と小豆。彼女はスプーンを手に取ると、ぱっと目を輝かせて、子どものように勢いよく大きなひと口をすくった。


「ん~! おいしい~!」


 彼女の声は、シロップでもかけたみたいに甘かった。


「気をつけてよ、こぼれるから」


 思わず笑ってしまい、彼女の頬についた小さなホイップの白い点を見つめた。


「えっ? ほんと? どこどこ?」


 彼女はあわてて何度か拭ったけれど、拭けば拭くほど広がっていく。私は苦笑しながら紙ナプキンを取って、そっと拭ってあげた。


「まったく……もうすぐ高校生になるのに、まだ子どもみたいなんだから」


「いいじゃん? 少なくとも、試験で潰れたりしないし」


 ぱちぱちと瞬きをして、まるで気にする様子もなかった。


 私は彼女を見つめながら、胸の奥に言葉にならない感情がふっと込み上げてきた。


 愛って、こういう子だ。成績は私ほどよくなくても、彼女はいつだって笑っていて、少しも引け目を感じない。私に間違いを指摘されても、「次は頑張るぞ」って顔で素直に受け入れる。差があることを理由に自分を否定することも、光を失うこともない。


 努力って、きっとそういうものなんだと思う。やる気さえあれば、きっとできる。


 その言葉を、私は無意識のうちに胸の奥へ押し込み、どこか確信めいた気持ちで握りしめていた。だって、私はずっと、小さい頃からずっと、努力だけを頼りに歩いてきたのだから。だからこそ信じていた。愛みたいに、ちゃんと時間をかけて頑張れば、誰だって追いつける。どれだけ差があっても、きっとどうにかなるはずだと。


「美月、次の小テスト……私、ほんとに頑張っていい点取るから! そしたら今度は私が奢るね!」


 愛はスプーンを掲げ、まるで宣言するように笑う。


「うん、楽しみにしてる」


 私は軽やかに応えた。その声には、ほとんど疑いの色なんてなかった。


 家へ帰る道の途中で、私はそっと思った。今日は、復習の進み具合がすごくよかった。次の愛の小テスト、きっと本当に伸びるはずだ。やっぱり、努力さえすれば、できるようになるんだ。


 あの頃の私は、まだ気づいていなかった。努力さえすれば、誰もが同じ場所へ辿り着けるわけじゃないということに。少なくとも、この社会が「成功」と呼ぶその言葉に、たとえ全力を尽くしても触れられない人たちがいる。

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