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君の名前を、私が書き換える  作者: 雪見遥
第2章 2022年4月
22/24

第13話 塾の最初の授業

 翌週、ついに最初の塾の授業の日がやって来た。


 放課後、私はいつも通り十五分前に教室へ入った。これは長年染みついた習慣だ――何事も余裕を持って計画し、遅れずに現れる。決して最後の一瞬に駆け込むような真似はしない。


 そうして初めて主導権を握り、学習効率を極限まで高められる。ただの塾であっても、私は一切の緩みを許さない。「土壇場の付け焼き刃」が長続きしないことくらい、ずっと前から信じているから。


 ここは、進学のためだけに存在する「圧力の凝縮された空間」だった。寛容などなく、あるのは競争と結果だけ。冷たく簡素な内装の壁には、「高校合格者一覧」や「歴代満点者の写真」が所狭しと貼られ、一つひとつの顔が、ここでは負けられないのだと無言で突きつけてくる。


 教室は密閉されたような空気に包まれ、冷白色の蛍光灯が容赦なく眩しく光っている。時計の針が刻む音は不自然なほどはっきりと響き、一秒ごとに試験のカウントダウンを刻むかのようだ。机の上に積み重なる分厚い教材や高く積まれたプリントは、果てしなく続く壁のようにそびえ立っている。ノート、教材、問題集、間違い直しノート、机の上にあるのは、それだけだ。教室の入口にさえ、こう書かれた標語が貼られている。


「最下位は、誰だって変えられる。ただし、心さえあれば」


 この塾は自由席のルールを採っているため、「先に行動した者が良い場所を取れる」という無言の暗示が常に漂っていた。私はいつものように、教室の中央よりやや前の三列目を選ぶ。目立ちすぎず、しかし集中するには最適の位置。ここが、私にとってのベストポジションだった。


 実のところ、ここで教えられている内容は三年前にすでに何度も学んでいて、時空を越える前の私ですら、徹底的に復習し尽くしていた。


 けれど——「優等生」である結城美月として、私は一片の倦怠さえ見せるわけにはいかない。常に集中し、常に勤勉で、常に端正でいなければならない。これが、人前にいるときの私の「キャラ」だからだ。先生に安心され、クラスメイトに比較の対象として名前を挙げられる模範生。


 ——そんな私でなければ、誰からも評価されないし、「必要とされる」こともない。そして、このキャラは決して崩してはいけないのだ。


 やがて、教師が教室に入ってきた。厳しい表情で、眉間には「成績至上主義」の威圧感が漂っている。手に持ったプリントを机に置くと、出席を取り始めた。


「南條千雪」


「……はい」


 その声は風のようにか細かったのに、私の頭の中では鋭く鳴り響いた。思わず声のした方へと視線を向ける。最後列の隅に座っている一人の少女がいた。顔色はどこか青白く、疲れ切ったような表情。視線は落ち着かず揺れ、かすかな怯えと陰りを帯びている。体全体を椅子に縮め込み、まるで自分の存在を必死に隠そうとしているかのようだった。


 南條千雪。その名前……どこかで聞いたことがある気がする。けれど、どうにも思い出せない。


 私の頭の中に浮かぶ名前の中には、たしかにそんな人物はいなかった。時空を越えてきた記憶が混ざってしまったのか、あるいは、17歳の私の側に残された、曖昧な断片なのか……。私はそれ以上考えず、視線を講義プリントへと戻した。


 教室の空気は重く、教師は黒板の前でハイペースに読解問題を解説していく。言葉の一つ一つが矢継ぎ早に飛んでくる。生徒たちは一斉にペンを走らせ、その音が重なって、まるで静かな競争のように響いた。ここに集まるのは、名門校や進学校を目指すエリートたち。当然、私もその一人。塾に「優しさ」など存在しない。


 私はすでに三問目の解答を終えていた。ペン先を紙の上に止め、静かに教師の次の言葉を待っていた。


「はい、この問題……」


 教師の視線が教室を横切り、不意に一人の名前を呼んだ。


「南條さん、この問題の解釈を読んでみなさい」


 教室の空気が一瞬で抜け落ちたように、紙をめくる音さえ耳に刺さるほど静まり返った。私は思わず後方を振り返る。彼女は突然顔を上げ、まるで何かに撃たれたように固まった。その瞳は虚ろで焦点を失い、ペンを握る手は強張り、肩を縮めて椅子の背にもたれかかる――まるで小さくなれば、この場から消えてしまえるかのように。


「早く。読むだけでいい、そんなに緊張する必要はない」


 教師の声は一応穏やかではあったが、はっきりと急かす色が滲んでいた。


 彼女の唇が小刻みに震え、蚊の鳴くような声がかすかに漏れる。


「……こ、この文は……た、多分……えっと……彼……彼が……その……」


 私は真ん中の席に座っていたが、それでもほとんど聞き取れないほどだった。ましてや講壇に立つ教師に届くはずもない。彼女の眉は固く寄せられ、頬は赤く染まり、指先は教科書のページを行き来するばかりで、かえって混乱を深めていく。まるで答えを知っているはずなのに、どうしても口にできないかのように。


 教師が軽く咳払いをし、不耐の色を帯びた声を落とす。


「もういい、飛ばそう。これは基礎問題だ。家で何度も練習しておくように」


 私は眉をひそめた。この問題は決して難しくない。先生がさっき解説したばかりで、要点も例文も黒板にまだ書かれている。ほんの少しでも集中すれば、答えられるはずなのに……どうして彼女はまったく思い出せないのだろう。


 予習をしていなかったのか? それとも、今たまたま上の空だったのか? いや、そもそも本気で学ぶ気がないのか? 本当に、こんな問題さえ答えられない人がいるのだろうか。そんな疑問が、静かに胸の奥へと浮かび上がってきた。


 彼女を見つめるうちに、私の心には言葉にできない距離感がじわりと広がっていく。目の前の彼女は、私がこれまで知ってきたどの同級生とも違う存在に見えた。ますます確信した。私はこの人のことを、本当に何も知らないのだと。


 彼女の存在はまるでひとつの穴のようだった。準備も自信もなく、戦う意志さえ持たずに、この進学を賭けた教室にただ座っているだけの人。


 どうして、こんな人がこんな場所に来ているのだろう? そして、さらに奇妙だったのは——彼女自身がそのことを説明しようとする気配すら見せなかったことだ。俯いたままの姿を見つめながら、私はまたしても言い表せない感情を胸に抱いた。理解できなかったし、理解したいとも思えなかった。

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