序章 努力していたのに、誰にも気づかれなかった彼女のこと
その日は、試験の日だった。
春の光はまぶしく、廊下にはまだらな影が落ちていた。彼女は教室の一番後ろの席に座り、両手でペンを握りしめていたが、どうしても目の前の文字が読めなかった。
問題はまるで霧の中、文章は水のように滲んでいく。かつて暗記したはずのすべてが、まるで煙のように消えてしまった。
彼女は書こうとした。でも、すぐに線を引いて消して、また書いて、また消した。最後のページは、真っ白なままだった。
チャイムが鳴ったとき、彼女の指先は白くなっていて、もう動いていなかった。
彼女は校門を出なかった。教室棟の裏手にある、小さな小道をたどって、そっと人の波から離れていった。
辿り着いたのは、誰にも忘れ去られたような、古い部屋だった。彼女はそっとドアを押し開けた。蝶番が軋む音が、小さく空気を裂いた。それはまるで、眠っていた何かを呼び覚ましてしまったような音だった。
部屋の中は静かだった。春とは思えないほど冷たかった。
彼女は一つだけ灯りを点けて、ゆっくりと腰を下ろした。鞄から紙とペンを取り出し、静かに深呼吸してから、文字を綴りはじめる。
そして長い時間、書き続けた。タイトルも宛名もなく、ただ思いつくまま、断片的な言葉を。書いては消し、震える線でなぞり、インクが滲んでいった。筆跡はかすれていて、まるで彼女自身、自分が何をこの世界に遺したいのか、分かっていなかったかのようだった。
肩が時折、小さく揺れた。でも、目元に涙はなかった。それは泣きすぎた顔ではなかった。もう、とっくに泣き尽くしてしまった顔だった。
彼女は便箋を丁寧に折り畳み、誰の目にも触れないような壁の隙間にそれをそっと差し込んだ。振り返ることもなく、静かに立ち上がる。
空が少しずつ暗くなり、空気が張りつめていく。壁に掛けられた時計の秒針が、水のしずくのように響く。
彼女は部屋の隅へ向かい、そこにあった古びたロープを手に取った。指先はかすかに震えていたが、動きには迷いがなかった。まるで何度も練習してきたかのように。
木箱の上に立つ。足音は軽く、床板すら揺らさなかった。
窓の隙間から差し込んでいた光は、もうほとんど消えていた。舞い上がった埃が、静けさの中でふわりと浮かぶ。それはまるで、無言の雪のようだった。
彼女がうつむいたその瞬間、空気がぴたりと静まり返った。
音はなく、もがきもなく、叫び声すらなかった。そこにあったのは、ただ――静かで、誰にも知られない終わり。まるで誰にも読まれることのなかった、一枚の紙が静かに本の隙間から落ちていくような。
――そしてその後、彼女の名前を口にする者は、誰一人としていなかった。
もし、誰かが努力して、涙して、傷ついて――それでも世界に名前を遺せなかったとしたら。間違っていたのは、本当に彼女の方だったのだろうか?
***
この世界は、やたらと「正論」ばかりを口にする。
「努力は必ず報われる」
「一分の耕しに、一分の実り」
「やればできる、やる気があれば、不可能なんてない」
あの言葉たちは、まるでどこにでも漂っている呪文のようだった。
「失敗」なんて言葉も知らなかった幼い頃から、ずっと耳の奥で囁き続けていた。教科書の見開き、塾の壁に貼られた赤い標語、先生の試験前の掛け声、卒業アルバムの寄せ書きの最後のページ――どこにでも、当たり前のように存在していた。
それらは決して悪意なんて持っていなかった。むしろ正しさの象徴のようだった。信じてさえいれば、夢のゴールに辿り着ける。努力すれば、できないことなんてない。それは童話の中の真実のようであり、人生の方程式そのもののように語られていた。
私は――そんな言葉たちを、何の疑いもなく信じていた。
努力すれば報われると信じて、ひたむきに練習帳を埋め、問題集を一問ずつ解き進め、私は確かに、自分の望む未来に一歩一歩近づいていると感じていた。
それこそが「正しさ」だと信じて疑わなかった。そして時には、心のどこかでこう思ってしまうこともあった。「うまくいかないのは、努力が足りないからじゃないか」と。
私はかつて、何のためらいもなくその言葉を“真理”として受け入れていた。自分を測るものとして、そして他人を判断する基準として。
――彼女に出会うまでは。
私は目の前で見たのだ。全力で、命を削るように努力している人が、それでもなお、私たちが「努力すれば届く」と信じていた場所に、決して辿り着けない現実を。
誰もが、同じスタートラインに立っているわけじゃない。
生まれつき高い場所に立っている人もいる。一度読めば理解できて、一度書けば身につく。けれど、全ての人がそうじゃない。
ある人たちは、すべての時間と力を注ぎ込んでも、私たちが軽々と越えてきた点数の壁に、ようやく指がかかる程度だった。
彼らは、歯を食いしばりながらノートを取り、繰り返す練習で指先を震わせ、こめかみに汗を滲ませていた。夜のライトの下で目を赤くしながら、ページをめくり、必死に暗記を続けていた。
それでも、彼らが出すのはミスだらけの答案であり、文字が傾いた乱雑なノートだった。そして世界は、そんな彼らにただ冷たく言い放つのだ。
「できないのは、努力が足りないからだ」
ただそれだけ。あまりにも、残酷なまでに単純な答え。
彼らは「できない」のではない。ただ、私たちとは違うだけ。
書くのが遅いのは、指先が脳とのズレに毎回必死に抗っているから。覚えられないのは、文字が目の前で跳ねて、歪んで、どうしてもピースの合わないパズルのように見えているから。
彼らが「怠けている」のではない。誰も、彼らに合った学び方を教えてこなかっただけ。
誰も立ち止まってこうは聞かなかった。「本当はちゃんと勉強したいんじゃない? でも、ずっと方法が分からないだけなんじゃない?」って。
彼らは、「理解が遅い人」「才能がない人」「勉強に向いていない人」と呼ばれてきた。
彼らは何度も何度も復習して、ノートを一ページずつ何度も書き写して、それでもいつも取り残されてしまう。全力を尽くしても、返ってくるのはたったひと言だけだった。
「ちゃんと勉強してるの?」
――してる。彼らは、本当にしていた。でも、それを信じてくれる人なんて、どこにもいなかった。
彼らはいつも教室の隅に座っていた。塾では一番後ろの席、試験会場では一番端。そこは光が届かず、誰の視線も向けられない場所。彼らは十分に輝いていない。十分に優れていない。やがて、自分自身さえも疑い始めてしまう。「もしかして、本当に私はダメな人間なのかも」って。
その自己否定は、失敗したことが原因じゃない。そう思わせるような、たった一つの基準しか持たないこの世界こそが、その根源だった。
そして、ようやく私は気づいた。本当に理解しはじめたのは、ここからだった。
可哀想だからじゃない。うまくいっている人たちを否定したいわけでもない。ただ……ただ、問いかけたかった。私たち自身に。
私たちは、あまりにも一つの物差しでしか「努力」を測っていないんじゃないか?「点数が取れないのは、努力が足りないせいだよね」――その言葉を、あまりにも簡単に口にしていないか?
その一言が、人を深く傷つけることがある。時に、その言葉一つで、生きることそのものをあきらめてしまう人もいるかもしれない。
その言葉は、目に見えないナイフだ。毎日ひび割れた心に、それは静かに、でも確実に突き立つ。それは、励ましなんかじゃない。それは、「裁きの言葉」だ。
この世界で、本当に書き換えるべきものがあるとしたら。それは、まずこの一言から始めるべきだと思う。
「君は努力が足りない」じゃない。本当は、こう言ってほしい。
――「君は、まだ理解されていなかっただけなんだ」と。