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君の名前を、私が書き換える  作者: 雪見遥
第2章 2022年4月
18/25

第9話 二日目のタイムリープ実験

 第二日目の朝、私の目はまだ少し腫れていた。


 昨夜、学校から帰ってきた私は、泣きながらベッドに倒れ込み、何も考えられないまま半分眠るように意識を手放した。目はまるで二つの白玉団子みたいに腫れ、頬にはまだ枕の跡が残っていて、我ながら情けない姿だった。


 部屋を出て階段を降り、朝食を取ろうとした時、お母さんが私の顔を見るなり心配そうに声をかけてきた。


「大丈夫? どこか具合でも悪いの? それとも最近ちょっと疲れてるのかしら? 昨日は帰ってきた途端に寝ちゃって、夕飯呼んでも反応なかったわよ」


「新学期の初日でちょっと慣れてないだけだから、大丈夫だよ、お母さん。心配かけちゃってごめん」


「それならいいけど、朝ごはんはしっかり食べるのよ」


 お父さんも横から相づちを打つ。


「そうだぞ、体を大事にしてこそ勉強も頑張れるんだからな。頑張れよ」


 私は笑ってうなずいた。心の中はまだ少しざわついていたけれど、こういう何気ない会話が、昨日の混乱から少しずつ私を引き戻してくれる気がした。


 登校途中、コンビニでアイスコーヒーを買い、ストローをくわえながら考え込む。せっかく時間を越えてきたのに、毎日同じ中学生活を繰り返すだけなんてありえない……。今の私は高校生なんだ。私は手のひらで自分の頬を軽く叩き、頭をリセットするように気合を入れた。


「落ち込んでなんかいられない。小さなことでうなだれるのは私、結城美月じゃない。努力すれば必ず道は開ける、絶対に成功できる。私は今まで何度も百点を取ってきたし、常に学年トップ3に入ってきたんだ。この程度で倒そうなんて、甘いんだから」


 スマホのメモアプリを開き、今日の日付を記録する。


「4月2日、晴れ。タイムリープ二日目。朝食はお母さんの作った目玉焼き。黄身は私の好きな半熟」


 卵の焼き加減まで三年前とまったく同じ……。こんな微妙な重なり方が、不思議でたまらない。私はメモを取りながら、実験者のように日常の細部まで観察する。まるで校内版の量子観測実験だ。違うのは……今回の観測対象が、自分の人生だということ。


 落ち着け、結城美月。これは夢でも幻でもない……私は何度もそう言い聞かせた。そして、論理的で、厳密で、観測可能な実験計画を立て始める。


 第一段階は、未来の記憶が現実に影響するかどうかのテスト。授業中、私はわざとある問題に挙手して答えた。その答えは、私ははっきり覚えている。当時、クラス全員が答えられず、先生がしばらく時間をかけて解説したはずだ。結果は、やはり先生が驚いた顔で私を見た。


 成功。未来の記憶は現実に持ち込める。私はすぐにメモに書き込む。


「未来記憶、導入成功。カンニング可能」(……おいおい、それって本当にいいの? それは優等生のやることじゃないでしょう、結城美月? ずっと不正を嫌ってきたじゃない)


 ……まあいいや。このカンニングのスリルを味わってる暇なんて、私にはないんだから。


 第二段階、タイムラインが分岐しているかどうかの検証。


 放課後、私は三年前の記憶をなぞるように、ゆっくりとあの懐かしい小さな公園へ向かった。小道の両脇には桜が満開に咲き誇り、まるで春までもがこの運命観測の実験に参加しているかのようだった。薄紅と白の花びらが静かに舞い、私の足取りとともに時の狭間を漂っていく。


 もし記憶が正しければ、そこには一匹の灰色の猫が現れるはずだ。三年前のある日、私はあのベンチのそばで何度か餌をあげたことがある。中でも一度は、猫と遊びすぎて帰宅が三十分遅れ、母にこっぴどく叱られたのをよく覚えている。


「来るかな……」


 私は小さくつぶやき、曲がり角の茂みの陰に身を隠し、息を潜めた。


 視線は、あの見慣れたベンチに釘付けになっていた。記憶の中では、この時間になるとあの子がひょいと背もたれに飛び乗り、喉の奥でぐるぐると音を立て、尻尾で私の足首をそっと撫でる、まるで甘えているようでもあり、私がちゃんと覚えているかを確かめているようでもあった。


 時間が一分、一分と過ぎていく。微風が木の葉を揺らし、枝葉の隙間から陽光がきらめく。空気は静まり返り、まるで時間までもが固まってしまったようだ。十分が経過しても、ベンチは空っぽのままだった。


 私はわずかに眉をひそめる。


「……バタフライエフェクト?」


 昨日の私の行動が未来に微妙なズレを生じさせたのか。それとも、未来から来た私という存在自体が最大の変数なのか。思考は幾重にも波紋を広げ、水面のように揺らぎながら、この世界が本当に私の知っている時間軸なのかを疑い始める。


 その時——「ニャア」という、風鈴のように柔らかな声が背後から響いた。


 私ははっとして振り返る。あの灰色の猫が、背後の茂みからゆったりと歩み出てくるところだった。その所作は落ち着き払っていて、存在を証明する必要などないとでも言うようだった。猫は軽やかにベンチへ跳び乗り、体を丸め、尻尾を気まぐれに揺らしながら低く喉を鳴らす——まるで「遅かったじゃない」と言っているみたいに。


「……約十分遅れたけど、それでも現れたってことか」


 私はゆっくりと近づき、しゃがみ込み、そっと手を差し出した。猫は逃げるどころか、自ら尻尾を私の指先に絡め、温もりと柔らかさを残していった。その感触はあまりにも確かで、繊細な確認のようでもあり、小さな宇宙が耳元で囁くようでもあった。


「よし……今のところは、記憶通りってことね」


 私は立ち上がり、スカートの裾を払う。


 猫は相変わらずベンチに丸まったまま、まるで変わらない時間の切れ端のように、三年前の記憶を守りながら運命の交差点を見守っていた。


 私は空を見上げる。橙色の夕焼けが、最後の白い光をゆっくりと飲み込んでいく。夕陽は私の影を長く伸ばし、それは時間によってまっすぐに引き延ばされた一本の線のように足元から未来へと続いていた。まだその先を見通すことはできない。けれど、私はもうその軌道の上を歩き始めているのだと、確かに感じていた。

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