第8話 試練の夜
家に戻った私は、部屋のドアを閉め、一言も発さなかった。鞄の中身を取り出し、鞄はそのまま床に放り投げる。パタン、と軽やかでいて鈍い音が響き、静まり返った部屋の中でやけに耳に刺さった。それは、私が必死に保っていた何かの平穏を、あっさりと打ち砕く音のようだった。
ゆっくりと椅子に腰を下ろし、肘を机に突き、指先を額に押し当てる。長く、深く息を吐いた。机の上には、今日使った教科書や連絡帳、ノートが広がっている……どれもまだ子どもらしい、そしてきちんと整えられた匂いがして、「今のあんたは中学生なんだよ」と無言で突きつけてくるようだった。
「……中学生、か」
思わず笑ってみたが、少しもおかしくなかった。
「は……まったく……」
涙は、なんの前触れもなく溢れ出した。その言葉が落ちた瞬間、静かに頬を伝っていく。
「私……また高校受験しなきゃいけないの? また……この時期を、もう一度?」
声を低く絞り出す。語尾が空気の中で震えた。手は教科書の表紙をぎゅっと握りしめ、関節が白く浮き出る。まるで逃れられない現実を握り潰そうとしているみたいに。
「なんで……なんで私なの……? 神様……間違ってるんじゃないの?」
声が乱れ始め、風に擦られた紙のようにかすれていく。
「一度はもう、受けたんだよ! 本当に全力で、そのときの最高の私を……あんたに見せたはずなのに!」
「進学校に通って、成績は上位、目標は東京大学……もう十分、頑張ってきたじゃない……!」
「いったい……私はまだ何を欠けてるっていうの……?」
指先の力がふっと抜け、教科書がぱさりと床に落ちた。その乾いた音は、何かの防壁が砕けたように響いた。
手の甲で涙を乱暴に拭っても、濡れた感触は増えるばかり。涙は止まることなく湧き続けた。
「……疲れた……本当に、疲れた」
それは単なる肉体的な疲労じゃない。一度走り切った道を、もう一度最初から走らされる――そんな、どうしようもない無力感だった。それは「完璧な答案を提出したのに、もう一度解き直せ」と命じられるような、深く残酷な現実。
子どもの頃からずっと、授業でも試験でも、私はいつも冷静に分析し、方法を見つけ、最後までやり遂げる人間だった。文句を言わず、取り乱さず、人前で泣くこともなかった。なのに今日、初めて、わがままな子どものように、涙を抑えることもなく泣きじゃくってしまった。
うつむいたまま、私は自分の両腕で自分をきつく抱きしめる。そこに、まだ少しだけ残っている温もりや慰めを求めるように。耳に届くのは、自分の呼吸、押し殺したすすり泣き、窓の外で風が木の葉を揺らすざわめき……それ以外には、何の音もなかった。
これが、私の「タイムリープ」なの? これは運命が与えた試練なのか、それとも形を変えた罰なのか? 誰も答えてはくれない。夜は静かに私を包み込み、出口の見えない部屋に閉じ込めるように、静かで、閉ざされ、逃げ道のない闇で満たしていく。
私はそのまま自分を抱きしめ、体を小さく丸めた。涙は頬を伝い、枕の布地に染み込んでいく。いつの間にか、まぶたは少しずつ重くなり、この孤独で答えのない夜に耐えきれなくなっていた。疲れと混乱を抱えたまま、私は黒い闇に少しずつ飲み込まれていく。
――眠りに落ちた。夢ひとつ、見ることもなく。




