第6話 ゼロから始まる中三の教室
教室に入る前、ドアを開けきる前から、すでに中からにぎやかな声があふれていた。机や椅子がこすれる音、ふざけ合う笑い声、木の床に靴が響く軽やかな足音……それらすべての音が重なり合って、まるで何百回も繰り返された学校の交響曲のようだった。
私にとっては、その「懐かしさ」の中に、どこか異質な違和感が潜んでいる。だって私は、「未来から来た」存在だから。
この音、この風景、この当たり前の毎日は、時間軸がずれたラベルを貼られた標本みたいだった。手を伸ばせば触れられそうなのに、どこかガラス越しに見る、すでに過ぎ去った過去のように感じられた。
私は深く息を吸い込む。焦らないように、自分に言い聞かせる。頭の中で混乱した時間軸をなんとか整理して、目の前の自分という存在を再構築する──14歳の結城美月、中三のクラス委員長、優等生。
月島愛が私の前を歩きながら、ふと振り返って私を見た。そして、自分の席のほうに軽く顎を向ける。私は小さくうなずき、彼女の視線を辿るようにして自分の席へと戻り、椅子を引いて腰を下ろした。
指先が机に触れた瞬間、あの懐かしいザラついた感触がすぐに蘇った──木目の中にはいくつかの引っかき傷があり、さらに当時の私がボールペンでこっそり刻み込んだ名前まで……うん、やっぱりここは、あの頃の私の席だ。
あのときの私は、こういうのが「カッコいい」と思ってたんだろうな。
私は鞄を置き、ゆっくりと中から教科書とノートを取り出す。角が少しめくれた紙の間には、昨日書きかけの予習内容がまだ挟まっていた。何気なくページをめくると、その懐かしくも稚拙な筆跡がすぐに目に飛び込んできた。文字は斜めに傾き、行も定まらず、ページ全体が乱れていた。高校時代の私と比べると、まるでまだ脱皮しきれていない未完成の自分がそこにいた。
「ふう……」
思わずため息が漏れた。ただの中学レベルの勉強のはずなのに、その瞬間、言葉にできない重さがどっと押し寄せてきた。この教材をもう一度やり直して、また高校受験に挑むの……? そう考えただけで、頭の中に「精神的プレッシャー」という名の早送りボタンが押されたように、頭皮がざわつき、胃がきゅっと縮こまる。
先生が教室に入ってきた。チョークが教壇の端に「カツン」と音を立てて落ちると、教室の喧騒は一気に静まり返った。点呼、講義、板書──変わらぬ授業の流れ。私は先生が慣れた手つきでチョークを回す様子を見つめる。黒板の上には次々と文字が並び、窓の外からは風の音と運動場からの掛け声が聞こえてくる。すべてが記憶の中の青春と何ひとつ変わっていなかった。
私は無理やり黒板に視線を向け、「集中している優等生」であろうと自分に言い聞かせていた。だけど、視線はどうしても逸れてしまう。心の片隅がずっとざわついていて、波のように揺れ続けている。
──タイムリープ。どうしてよりによって三年前? なぜこのタイミングなの? そんな問いが、針のように胸の奥でチクチクと刺さり続ける。
先生の声がだんだんと遠くなっていき、無機質なホワイトノイズのように空気を振動させている。私は目の焦点を定められず、窓の外で揺れる光と影に気を取られたかと思えば、次の瞬間には天井のかすれた模様を目でなぞり、最終的には隣の席のクラスメイトの背中に視線が留まっていた。そのどれもが、あまりにも見慣れた風景だった。まるで時間が止まった記憶の一片のように、なのに、私はまだこの世界に生きているのに。
指先でペンを握ったまま、一向に書き始めることができない。頭がうまく回らず、空転を続け、何も言葉が出てこない。ふと我に返ったとき、ノートにはたった一行だけが書かれていた。しかも力を入れすぎていて、紙に深く跡が刻まれていた。それはまるで、記憶に彫り込まれた細い刃。言葉にならない反抗と、静かな抵抗を宿した線だった。
「……」
私は静かにペンを置き、膝の上で手をきゅっと握った。指の関節がうっすら白くなっていた。幼い頃から私の誇りだった「集中力」は、今日、この夢のようで残酷でもある「人生の再挑戦」の第一日目にして、音もなく崩れ去ったのだった。
***
チャイムが鳴り響くと同時に、教室はまるで何かの封印が解かれたかのように騒がしくなった。椅子が引かれるギシギシという音、教科書をめくるシャラシャラという音、誰かが大声で笑いながら教室を飛び出していく足音、一方で、机に突っ伏して眠りに戻る生徒もいる。窓が「カタリ」と音を立てて開き、冷たい風が一気に吹き込んできた。紙の端やスカートの裾を揺らしながら、それはまるで眠っていた現実感を呼び覚ますようだった──この青春という時間軸が、本当にまた動き始めたのだと。
だけど私は、その場に静かに座ったまま、手にしたペンを握ったまま、微動だにできなかった。胸が苦しくて、膨らんで、何とも言えない疲労感が心の奥底から湧き上がってくる。それはまるで水面下に潜んでいる暗流のように、じわじわと心の中を満たしていき、私という存在を内側から静かに飲み込もうとしていた。
勉強が嫌いなわけじゃない。本当に、そうじゃない。ただ、私、本当にまた中学三年生からやり直すの? またあの「受験」という長距離走を最初から走るの? また模試や塾に追われ、じわじわと搾り取られながら、あの「高校三年生」の地点にもう一度辿り着くの? そして、最後には歯を食いしばって、あの東大との決戦を迎えるの?
喉の奥に、じわっと苦味が込み上げてくる。何かがそこに引っかかっていて、上がるでもなく下がるでもなく、ただひたすら心臓の前で引っかかり続けていた。頭の中をよぎったのは、ほとんどワガママと言っていいような一つの思い。
こんなの、あまりにもつらすぎる。
私は歩んできた。ちゃんと一度、歩ききったはずなのに。なのに、また歩けって言うの?
これは単なる学び直しじゃない。「人生のプレッシャー曲線」そのものを、まるごと巻き戻して再生されているような感覚だった。もう乗り越えたはずの高い壁を、何者かに容赦なく谷底へ突き落とされて、またそこから這い上がれと言われているみたい、手足はもう痛みを覚えているのに、見上げるその崖は、あまりにも見覚えがありすぎた。再び……ゼロからのスタート。
少し首を傾けると、月島愛が隣の席の子と楽しそうに話しているのが見えた。私に気づくと、手を振ってくれる。変わらぬ笑顔を浮かべて。私もそれに応えるように笑顔を作ったけれど、顔の筋肉がどこかぎこちなくて、うまく笑えていない気がした。
頭の中では、さっき授業中に完全に意識が飛んでいたあの感覚が、まだ何度もリフレインしていた。それが私に繰り返し語りかけてくる──私は本当にタイムリープしたんだ。今の私は、別の時間軸にいる自分。ここから、すべてをやり直さなければならない。この教室から、再び始めるのだ。
私は深く息を吸い込んで、心の中を埋め尽くしていたあらゆる雑念を押し込めようとした。顔を上げて、窓の外の青空を見上げる。陽の光が教室に差し込み、斜めに傾いたまま、乱雑な机の上に落ちていた。それはまさに、青春というものが映し出すべき光景のはずだった。だけど、私の心の中は、なぜか重たく沈んでいた。
──どうあっても、私は乗り越えなければならない。たとえ……私の心が、まだこの現実を受け止める準備ができていなかったとしても。




