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君の名前を、私が書き換える  作者: 雪見遥
第2章 2022年4月

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第4話 2022年の両親

 制服に着替えたあと、私はベッドの端に腰を下ろし、膝の上で手を組んだまま、虚ろな目で前を見つめていた。


 まるで少しでも気を緩めたら、目の前の日常がガラス片のように粉々に砕けて、重力を失ったまま空中でくるくると舞い落ちていきそうで――その存在が本当に「現実」なのかどうか、証明するものなんて、どこにもない気がした。


 頭の中には、さっき鏡に映った幼い顔が、まだはっきりと残っていた。それは、私が知っている「今の自分」とは違っていた。こんな姿、今の私は知らない。


 でも、それ以上に鳥肌が立ったのは、あの一言だった。


「おはよう、私は結城美月です」


 確かに私の口から出たはずの言葉なのに、その声はまるで別の時間軸からやってきたかのように響いた。迷いもためらいもない、異様なほど澄み切った声で。


 ……全部が、現実とは思えなかった。夢のようでいて、夢よりも鮮明。記憶のようでいて、記憶よりも知らない。


 そんな精神の真空地帯に囚われていたそのとき、階下から澄んだ声が響いた。


「美月ー! 起きなさーい! 朝ごはん冷めちゃうよー!」


 その瞬間、私の体にビリッと電流が走った。背筋がきゅっと緊張して、心臓が一気に跳ね上がった。


 ……あの声。


 あまりにも懐かしくて、まるで夢の壁を突き破って、時の霧を越えて、直接耳の奥へ飛び込んできたみたいだった。


 お母さんの声だ、間違いない。私の記憶の奥深くで、何度も私を目覚めさせてきた、あの声。


 ……でも、少しだけ違っていた。変わったというより――若くなっていた。声には、まだ青春の透明感が残っていた。疲れた響きはなくて、代わりに明るさとハリがある。


 だけど一番心を揺さぶったのは、その声に宿る、あまりにも懐かしい響きだった。まるで、ずっと触れられていなかった心の奥の片隅を、そっと優しく撫でられたような気がした。


 数秒間、私は呆然と座り込んだまま、思考が追いつくより早く、鼻先にふんわりと温かな香りが届いた。


 卵の香ばしい匂い。そこにほんのり酸味を帯びたケチャップの香りが混ざる。甘くて、どこか懐かしくて、まるで長く閉じられていた記憶の扉が、そっと開いたような感覚だった。


 ……オムライスの匂いだ。


「……あれ? お母さん、もうずっとオムライスなんて作ってなかったよね……」


 私は瞬きをしながら、誰にも聞こえないような小さな声で呟いた。


 思い出す。高校に入ってからというもの、私の生活は模試や塾でパンパンに埋め尽くされていたし、お母さんも疲れやすくなって、朝早くから料理をすることがどんどん減っていった。


 うちの朝ごはんなんて、もうずっと前から、温かい手作りのご飯じゃなくなっていた。冷えたトーストや、慌ただしく済ませるだけのシリアルが当たり前だった。


 胸の奥に、何とも言えない不安と、それ以上に、どうしようもなく強い渇望が生まれた。


 何かに導かれるように、私は階段を駆け下りた。気がついたら走っていた。


 足元がまだ安定しないうちに、キッチンの中に、あの姿が見えた。


「今日はどうしたの? こんなに寝坊するなんて。いつもは呼ばなくても起きてくるじゃないの」


 彼女は振り返って、私を見て微笑んだ。口調には、懐かしい「小言」の響きが混ざっていた。


「お、おはよう……お母さん。あの……目覚まし、かけ忘れちゃって……」


 私はキッチンの入口で立ち止まり、ぎこちないまま立ち尽くしていた。視線は一瞬たりともお母さんから離れない。


 あのエプロン──しわくちゃだけど、見覚えがある。お母さんがよく使っていた、あの古いエプロンだ。でも……あれって、もうとっくに破れちゃって、それ以来一度も見ていなかったはずじゃ……?


「……なにボーッとしてるの? ほら、早く食べちゃいなさい」


 何かに引き寄せられるようにして、私はゆっくりとダイニングテーブルへ歩いていき、椅子に腰を下ろした。自然と視線が吸い寄せられたのは、目の前のオムライス。ふわりと膨らんだごはんを、ちょうどいい厚みの黄色い卵がやさしく包み込み、上にはハート型に絞られたケチャップが飾られていた。それはまるで、記憶の奥にしまわれていた、あのあたたかい朝をそっくりそのまま再現したようだった。


「……お母さんのオムライス、ほんとに、久しぶり……」


 独り言のようにぽつりとこぼした声は、とても小さかった。でも、その声に先に反応したのは、お母さんではなかった。


「おはよう、美月」


 驚いて振り返ると、リビングの奥から聞こえたその声の主が、視線の先にいた。


「……お父さん?」


 彼はソファにだらりと座っていて、片手には新聞、もう一方では老眼鏡を直している。ゆるんだ部屋着のままで、週末のホームドラマに出てくる典型的な「お父さん」そのものの姿だった。


「うん」


 軽くまぶたを上げて、焦点の合っていないような目が、自然な仕草で私に向けられた。


「……おはよう、お父さん」


 その瞬間、胸の奥に説明できない違和感と、じわりと染みるような切なさが重なって広がっていった。


 こんな風景……もう、ずっと忘れていた。高校に進学してから、お父さんは転勤で地方に出張することが多くなり、私も受験と模試と塾の連続で、毎日が戦場みたいだった。週に一度会えたら、それだけで幸運。


 でも今、彼はそこにいる、まるで何も変わらなかったかのように。まるで、すべてが昔のまま戻ってきたみたいに。


 喉がひどく渇いて、ひとつ息を呑んだあと、私は尋ねた。


「お父さん……聞きたいことがある。今年って……何年?」


 新聞をめくりながら、お父さんは気の抜けた声で答えた。


「なんだよ、変なこと聞くなぁ。今は2022年だろ?」


 ――2022年。やっぱり、三年前。


 その瞬間、視界がふっと暗くなった。まるで何かに覆われたみたいに。現実がゆらりと揺れ動いて、重力を失っていく感覚。


 頭の奥で、巨大な歯車がガラガラと音を立てて回り始める、まるで運命が、無理やり別のレールへと切り替えられていくように。


 でも、私はその混乱に飲まれなかった。


 大きく息を吸って、そっと首を横に振る。ダメだ、今は崩れている場合じゃない。


 無理やり自分を落ち着かせて、視線を現実へと引き戻す。震える指先をそっと皿のほうへ伸ばして、縁に触れた。冷たくて、ずっしりとした感触が指に伝わった。それはまぎれもない「触感」で、この世界が確かに存在していると伝えてくる。


 ……夢なんかじゃない。これは現実なんだ。


 心の中で、そっとツッコミを入れた。


「はいはい、運命さん。タイムトラベルとかやりたいのはわかるけど……せめて、初心者ガイドくらい用意してくれてもいいんじゃない?」


 私がなぜ過去に来たのか、まったく見当もつかない。ここで何をすればいいのか、誰も教えてくれない。元の時代に戻る方法は? それとも最初から戻れる選択肢なんて、存在しないの?


 答えはわからない。頭の中にあるのは、「不明」という文字だけがぐるぐる回っている。


 でも、それでも、私は進まなきゃいけない。きっとこれは、偶然なんかじゃない。

 この時間軸のどこかに、私がどうしても果たすべき何かが、静かに待っている。それを見つけて、変えなくちゃいけない。


 だから今、私にできることは──この世界をちゃんと生きること。目の前の暮らしを、大事にしながら、一歩ずつ前に進むことだけ。

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