馴れ初めコロッケ
二十一時半をまわっても、フロアの明かりはどこか去りがたげに残っていた。
天井の蛍光灯は半分だけが灯り、人の姿もまばらで、その光が誰かの肩や資料の角をほんのり照らしている。
給湯室の奥で野々村 麦は電子レンジの前に立っていた。
そして、冷蔵庫の奥からタッパーを取り出す。
中には、朝に自分で揚げた拳大のコロッケが二つ。
昨夜の残り物を詰めるつもりだったのに、気がつけば、朝のキッチンで湯気の立つじゃがいもにフォークを入れていた。
おかげで遅刻ギリギリの出社になった。
そんな経緯で作られたコロッケの衣はところどころ、ざくりとした色になっている。
パン粉は乾いたままでは物足りなくて、少しだけ油を吸わせ、ほどよいきつね色に仕上げた。
中に詰めたのは、じゃがいもと炒めた玉ねぎ、半端に余っていた牛肉の切れ端、固ゆでの卵を粗く刻んだもの。
じゃがいもは粗めにつぶして食感を残して、玉ねぎの甘さと卵のまろやかさがふわりと馴染む。胡椒気持ち多めに。
冷めたあとにも残るような、あのこっくりとした香りをまとわせたくて、仕上げに鍋でバターをひとかけだけ絡めた。
それを昼用の弁当と一緒に持ってきた。
……たぶん、夜も会社にいるだろうと思ったから。
古い型のレンジが「チン」と、くぐもった音で鳴った。
少し焦げついた回転皿の上で、容器が一瞬だけ惰性で揺れる。
その余韻がまだ残っているうちに、背後で足音がぴたりと止まった。
誰かが来た──
麦は首をわずかにひねり、肩越しに視線を向ける。
──北川 拓人。
(北川さん、まだ残ってたんだ)
そう思った。
午後、チャット欄が静かにざわついた。取り返しのつかない、一つのミス。
北川は、誰よりも先に「俺が対応する」とだけ書き込んで、画面の向こうに消えていった。
その短い文章には怒気も焦りもなかった。
麦はごく浅く頭を下げ、それから静かにレンジへと向き直った。
北川もまた、何も言わず、何も動かず、その場にいるのが気配でわかる。
(電子レンジ、使いたいのかな)
そんなことが頭をよぎったけれど、声には出さなかった。
勝手な偏見だが、残業中のエンジニアは世間話が苦手そうだ。
それに。
(北川さんときちんと話したことないしね)
思い出すのは、蛍光灯の明かりに浮かんだ北川の姿──
疲れているはずなのに、どこか凛としていて、触れがたい静けさをまとっている。
目の下にはうっすらと仕事の色がにじんでいて、それでも整った目鼻立ちは涼やかで崩れを見せない。
斜めから差す光の中で見上げた時、その肩の高さに、思いがけず身長の差を感じた。
姿勢のわずかな傾きさえ無駄がなく、視界に入るたび、こちらの呼吸が少しだけ整う気がする……そんな人。
今日は、眼鏡をかけていない。
たしかブルーライトカットのものを使っていた、と誰かが言っていた気がする。
(……まあ、本人に訊いたりはしないけど)
この会社に来て、気がつけば半年が過ぎていた。
前職は小さな制作事務所。
もっと大きな案件に関わってみたくて選んだ転職だったのに……。
待っていたのは、理不尽なルールと手を抜く上司、そして昼夜を問わず鳴り続けるSlackの通知音だった。
株式会社レグラフト──名前だけは柔らかい響きをしているけれど、現実はまるで違った。
『顧客に寄り添うワンストップ対応』なんてキャッチコピーも、もう冗談にしか聞こえない。
営業はクライアントの言葉をただの伝書鳩のように持ち帰ってくるだけ。
現場に届く頃には、要望でもなんでもなく、ただの『圧』。
案件は休む間もなく押し寄せ、どれもが急かすような締切ばかり。
なのに指示といえば、どこか空気のように掴みどころがなかった。
『元気な感じで』『今っぽく』『目立つ色で』
そんな指示が毎日のように飛んでくる。
意図も背景も語られずに、「とりあえず直して」とだけ言われることもある。
シックな赤を重ねてきたページに、「もっとポップで、ストリートっぽい赤にして」と、締切前に強い口調で言われる。
「同じ赤なんだから、いいよね」と。
赤は赤でも、世界観はまるで違うのに。
そういうことを分かっていないような声──『わかっていない』のは、言葉じゃなくて、『つくる』という行為そのものへの理解だ。
……デザインは、本来好きなはずだった。
ものをつくる仕事がしたくてここまで来た。
この仕事自体が嫌いになったわけじゃない。
だけど。
かつて確かに感じていた『好き』という気持ちが誰にも見つけてもらえない場所に置き去りにされてしまったようで。
手の届かない寂しさが日に日に胸に積もっていく。
今は、「いつ提出できますか?」という営業の軽い声を聞くだけで吐き気がする。
やりがい、なんて言葉は、時に美名を借りた搾取にしか聞こえない。
好きだったはずのものがじわじわと心をすり減らして、そんな皮肉が毎日に沁みていく。
麦は電子レンジの扉を開けた。
ふわりと広がる、揚げ油とじゃがいもの甘い匂い。
それに少し遅れて、バターと胡椒が鼻先をかすめる。
その瞬間だった。
ぐー。
と、音がした。
小さな腹の虫。
思わず視線を向けると、北川は目を伏せたまま無表情だった。
照れた様子も、謝るそぶりもない。でも、耳のあたりがほんの少し赤い気がする。
コロッケを半分に割り、ラップの端をくるりと折って差し出す。
「あの、よかったら……」
「……いただきます」
一瞬だけ間を置いてから、北川はそれを受け取った。
ビニール越しに伝わるほのかなぬくもりに、彼の指先が気づかぬほどの微かな動きを見せ──そのまま、彼は大きく口を開けた。
ザクッ、と音がした。
衣の硬さが歯に当たってほどけると、すぐに中からほくほくとした熱が立ち上る。
じゃがいもの甘さ、炒めた玉ねぎのねっとりした旨み、卵の黄身のやさしいコク。
そして、焦がしバターの香りが、順番に口の中を満たしていく。
麦はそれを横目で見ていた。
食べているのか、味わっているのか、一瞬だけわからなかった。
だけど、咀嚼の途中で、北川の肩がほんの少しだけ緩んだのを見逃さなかった。
コロッケの断面から立ちのぼる蒸気が鼻先をかすめる。
知っているはずの香りなのに、今夜はなぜか少し特別に思えた。
「……うま」
口元を親指で軽く拭ってから、北川がぽつりと漏らす。
その一言が麦の奥でずっと張りつめていた何かを、少しだけほどいた。
麦はひと呼吸置いて言う。
「一個丸々ありますけど食べます?」
──言葉にするつもりはなかったのに。
ただ言わずに戻るには、あの「うま」が思った以上に心に残ってしまっていた。
北川は目を逸らしたまま一つ、頷いた。
麦はタッパーからもう一つのコロッケを取り出し、紙ナプキンに包む。
「どうぞ」
彼は今度はラップを取らずに、紙越しにそれを持った。
そして、ぺろりと四口で食べ終え、一言。
「……コロッケって、こんな美味かったんだ」──一人言のようだ。
コロッケに特別な味をつけたつもりはない。
じゃがいもと玉ねぎ、ちょっとだけ残っていた牛肉、それから、固ゆで卵をざっくり刻んで混ぜた。
あとは塩と胡椒と、バターをほんの少し。
その程度の、少しだけ手間をかけたコロッケだ。
自分の手が確かに誰かの心に触れたような気がして、そのことが不思議なほど心にやわらかく残っているのを感じた。
その感覚をそっと抱きながら、手のひらに残るわずかな熱ごと、半分にしたコロッケを口へ運ぶ。
(うん、いつもの味)
食べ終えると、それきり何も言葉を交わすことなく、二人は無言のまま給湯室を出た。
北川は自販機で缶コーヒーを一本買い、歩く足取りもそのまま自席へと戻り、麦も空になったタッパーを袋に収めると、音を立てないように椅子へと戻った。
フロアに漂う空気は、相変わらず深く沈んでいた。
時折、どこかの席でSlackの通知音が短く鳴り、その音だけが時間の流れを思い出させる。
壁の時計の針はすでに二十二時を指していた。
目の前には修正依頼の入ったモックアップが開かれている。
添えられたメールには『もっと目立たせてください』『イイカンジに直してください!』『ちょっと色が違うのも見たいかもです』──軽い言葉の裏に、無理難題が折り重なるように並んでいた。
ほんの少し前なら、その一行一行に心を折られていたかもしれない。
けれど今は、不思議と呼吸が浅くならなかった。
少しだけ。
本当に少しだけ。
気持ちに余白が生まれていた。
◇
二十三時十六分。
フロアには空調のかすかな音だけが、どこか遠くから聞こえてくるように漂っていた。
麦はようやく修正案を出し終え、椅子の背にもたれていた。
背中には、じわじわと疲れが沈んでいる。
目の奥も重たい。
立ち上がろうとした瞬間、思いのほか脚が言うことをきかず、思わず苦笑が漏れそうになった。
今日という一日がそのまま、身体の底に沈殿しているようだ。
麦がコートに袖を通したちょうどその時、背後で音がした。
それから一拍の間を置いて、ゆっくりと足音が近づいてくる。
「お疲れ様です」
声はすぐ後ろからだった。
「……お疲れ様です」
「水曜のノー残業デーって、まだ制度として生きてるですかね」
「知りません。……定時に帰れたのは初日だけなので」
麦は上着の襟の折り目を直しながら答える。
「……んー、それはまあ、俺もですけど」北川が半笑いで続ける。「でも、納品日ですし、頑張ったら帰れませんかね?」
「さあ、どうでしょうね……」
「……野々村さん。水曜日、ラーメンでも行きません? 俺の奢りで。コロッケのお礼ってことで」
麦が片方の肩でバッグを引っかけながら振り返ると、北川はすでに上着を羽織り、ミニマルな黒のレザーショルダーを軽く斜めに掛けていた。
「帰れる気がしません。……それに、どうせ工藤さんあたりが差し込み案件持ってきますよ」
麦は、自分が投げやりな言い方をした自覚はあった。
でも、疲れきった今、それを謝罪する気にはなれない。
「ふうん? 残念ですね。俺の行きつけのラーメン屋、死ぬほど美味いのに。まあ、俺は一人でも行きますけど」
北川は、ちょっと楽しそうな声で続ける。
「昆布水のつけ麺なんです。麺の下に昆布水が張ってあって、それがもう、濃いのに透き通ってて。途中でライムと山椒で味を変えられるんですけどね。チャーシューがまた、低温調理でとろっとろ。脂っこくなくて、肉の甘みで食べられます。しかも、最後に残った昆布水にスープを少し足して、それをご飯にかけるとリゾットになるんですよ。〆なのに下手したらメイン──」
「行きます」
麦は、思わず口にしていた。
(……え? 今、私、何て……?)
「なんでそんなに詳しいんですか?」と訊くつもりだったのに、実際に口から出たのは「行きます」。
それも、彼の話を遮ってまで。
彼は一瞬まばたきして、それからゆっくり問うてきた。
「……帰れるんですか?」
「帰ります。北川さんの奢りでラーメン食べます」
「ははっ」
北川が不意に笑った。
その笑顔が想像していたよりずっと幼くて、麦は少しだけ驚いた。
「北川さんが奢ってくれるんですよね?」
「はいはい、奢りますよ?」
「『はい』は一回で十分です」
「はい、野々村せんせ」
夜の自動ドアが、静かに開く。
冷たい風が、ビルの内側に淀んでいた空気をかき混ぜるように流れていく。
麦はうっすらと白く立ちのぼる自分の吐息をじっと見つめる。
それから、頭のどこかで遠くにあるラーメン屋の湯気をぼんやりと思い浮かべた。
ラーメン屋なんて、もう何年も入っていない。
そもそも、自分から行こうと思ったことがあっただろうか。
男の人と、並んでラーメンを食べに行くなんて。
それは、たぶん……ううん、確実に初めての経験だ。
それなのに、変に気負いもなく、ただその湯気を見たいと思った。
それだけのことが、今は少しだけ心を温めていた。
横を歩く北川から、風に混じって何かの香りがした。
朝に似た、澄んだ空気のような匂い。
草と木のあいだを抜けてきたみたいな、まっすぐな香りだった。
北川と麦は言葉を交わすことなく、ただ並んで歩き出した。
ビルの谷間を抜ける夜風は、肌をかすめるように冷たい。
それでも、街はまだ眠っていなかった。
路地の先では、焼き屋の暖簾がかすかに揺れている。
たばこの匂いが一瞬鼻をかすめ、次にすれ違ったのは酔った若者の笑い声。
少し先の横断歩道には、タクシーが二台、ハザードを灯して止まっていた。
街の光は濡れた路面にぼんやり映っている。
あちこちから厨房の湯気が立ち上り、人の声が洩れてくる。
それでも、二人のまわりには、少しだけ静けさが残っていた。
北川は、ほとんど足音を立てない。
それなのに隣を歩く気配だけは、ちゃんとある。
その距離がちょうどいい──なぜか、そう思った。
北川と麦は言葉を交わすことなく、並んで歩く。
駅までの、約四分間。
そのあいだ、ネオンの灯りが濡れた路面にぼんやりと映り、通りの足もとをゆっくり染めていく。
居酒屋の排気口からは、油やら焦げた醤油やらが混ざった匂いがゆるく流れていた。
タクシーが静かに角を曲がり、ランプの光がアスファルトの水たまりを照らす。
酔った誰かの笑い声が、遠くで弾けて消える。
夜の空気はまだ冷たいけれど、足もとには春の気配がほんのりと混じりはじめている。
そんな夜道を、二人の足音だけが静かに並んで進んでいった。
この時の麦は、まだ知らなかった。
肌をかすめる風の中に、かすかなぬくもりが混じり始めたことを。
小さなやりとりが静かに積もって、やがて一つの名前を分かち合う日につながっていくことなんて。
まだ、知らない。
だけど──
あれからいくつかの季節が過ぎた今、麦はそれを知っている。
◇◇◇
水曜日の正午間近。光はぼんやりと、ガラス越しに机の上を撫でていた。
窓の外では雲がゆっくりと流れ、遠くで風が何かを揺らしている気配がある。
エアコンの音はすっかり耳に馴染み、今は気配のようにしか感じない。
麦のディスプレイには午前中にまとめた進捗表が表示され、Slackは静かで、通知の数字もゼロのまま。
デスクの右隅には、カップスープと最近出会ったお気に入りの塩パンが並んでいる。
数年前、会社は吸収されて、仕組みが変わった。
働き方も、少しずつ。
繁忙期は相変わらず慌ただしいけれど、日々の暮らしには、ちゃんと余白がある。
拓人は今、現場から少し離れたところで、人を支える側にいる。
疲れた雰囲気がなくなり、顔色も前より明るい。
あの夜、何も言わずにコロッケを食べた人が、今は部下の悩みにじっくり耳を傾けている。
会議室ではよく、指輪をくるくると回していて。真面目な話の途中でその様子を見ると、つい少し笑ってしまう。
──時計の針が、十二時を過ぎた。
今日は、ノー残業デー。
ちゃんと制度として、生きている。
麦は、ふと夕食の献立を考えた──昼休みもまだなのに。
(……ええっと)
じゃがいもは、たしか家に残っていた。玉ねぎも二つ、冷蔵庫の下段に……。
パン粉はもうなかった。
そういえば、牛乳も切れている。
(スーパーに寄って帰ろ)
それだけのことが、心の奥にそっと立ち上がる。
塩パンの袋を手に取る。
指に触れたビニールの感触に、あの夜のぬくもりがよみがえる。
ラップを外した時の匂い。
一口で肩の力がほどけていった横顔。
それはもう、過ぎたこと。
……けれど、今の暮らしのどこかに、あの夜はたしかに根を下ろしている。
麦は深く息をついた。
春の光が静かに差し込み、オフィスの奥にやわらかい影をつくっていた。
【完】