永禄7年
いつも誤字修正等ありがとうございます。安心してください半兵衛はまともですよ。
菩提山城
「して、噂の神童は如何でしたか兄上?我らが仕える価値のある人物だったでしょうか?」
「うむ、期待以上であったぞ久作」
穏和な顔は相変わらずであるが、目は笑っておらず女装もしていない半兵衛の口調は名古屋城にいた時とは全く違うものであった。
美濃斎藤家(一色家)の当主が斎藤義龍の時はまだ美濃もましだったのだが、義龍がまだまだ若いにも拘らず病死した後に家督を継いだ斎藤龍興は幼くいたらないのは仕方ないにしても、傲慢で、愚かであり重臣として贔屓する斎藤飛騨守と長井道利の傀儡となり政務を放棄して自身は遊び呆けて現実逃避をしていた後は最悪である。
その愚者達の中でも斎藤飛騨守は特に酷く、権力を悪用して傍若無人に振る舞うだけでなく、竹中半兵衛達若く優秀な者達を妬み手柄を横取りするだけでなく、事実無根の讒言を斎藤龍興に常日頃していたのである。
その予兆ではないが、前当主斎藤義龍存命の頃から斎藤飛騨守は半兵衛など有能な若手をなよなよして女子のようだ、頭でっかちは戦さ場では何も出来ず後方で震えてるだけだなどと言い掛かりをつけて人々の前でわざわざ侮辱して陥れていた。
半兵衛も忍び働きができる者達を男女数人抱えており、稲葉山城に女中として潜入させている者の報告によりそれらの状況を把握していた。
それなので幼い頃から神童と呼ばれていた半兵衛は、誰よりも早く斎藤義龍が病にかかり人前に出なくなってきた頃から危険を察知し、女装して武士らしからぬ言動や行動をとるようになり、義龍が死に龍興が当主になった後に茶筅丸に迫ったような行動を龍興にとることにより稲葉山城への出仕を免除(拒否)されていたのである。
ただその外見とは違い勿論竹中半兵衛も聖人君子ではない。
美濃三人衆である舅の安藤守就と斎藤飛騨守への復讐を計画している際に、噂に名高い尾張の熱田大神の加護を受けし神童茶筅丸の配下の忍びが自身の周辺を探っていることに気付いた半兵衛は自身も茶筅丸の情報を集めたのである。
今孔明と呼ばれる竹中半兵衛は、茶筅丸が面識のない外部の要人達と交流する際に仲達を名乗っていることを知りより強い興味を持った。
そして滝川忍軍達の行動を逆手にとり名古屋城に潜入することに成功したのである。
そこで竹中半兵衛が見たものは全てが驚きの連続であり、今まで感じたことのない高揚感と歓喜に包まれた。
女装と怪しい言動の半兵衛に対して茶筅丸は差別することなく「趣味嗜好は人それぞれだ。私は差別する気はない。その者に能力さえあれば老若男女どのような者でも重用すると誓うぞ」と笑う茶筅丸の言動に半兵衛は好感を持った。
滝川忍軍などの忍者、滝川葵など幼女、佐吉など童、自身よりも腹黒いのではないかと思われる武藤喜兵衛、歌舞伎者の前田慶次郎、海賊の村上水軍など年齢や性別、身分に関係なく様々な者達がいきいきと働いているのである。
織田茶筅丸の言葉に嘘偽りがないことを感じた半兵衛は引き続き茶筅丸のことを近くで見極めることにしたのと、自身も実績を残す為に何か仕事が欲しいと願い出た。
半兵衛が茶筅丸に任されたのは、堺で南蛮の宣教師より仕入れた南蛮小麦と言う植物の栽培である。
この時代の日の本の麦は割麦と言う大麦が主流であり小麦があっても質の劣るうどん粉のようなものであり、価格も米の3分の1ほどであった。
割麦は主に米に粟や稗など他の雑穀に混ぜて食べられたがあまり美味しい物ではなかったらしい。
まあ割麦やうどん粉も保存が効く為に重宝されたのは間違いない。
甲斐国の武田信玄のほうとううどんなどは後世でも有名だが、よく食された理由として甲斐国は米があまり取れなかったという切実な事情もあった。
気候的な問題で日の本での小麦栽培は色々な苦労もあるが茶筅丸は永禄6年の秋より今手に入る様々な種麦を半兵衛に栽培させ今後の品種改良に繋げるつもりなのである。
茶筅丸が言う夢物語のような話である、近いうちに紅芋、じゃが芋、とうもろこしとやら様々な穀物、食用の植物の種芋や種子を手に入れて皆が腹一杯飯を食べられ誰も飢えない領地を作ってみせると言う言葉に半兵衛は感動に打ち震えて全力で協力すること心に誓ったのだ。
尾張名古屋での限られた土地を有効利用する過程で開墾をするだけでなく、用水路の整備、農道の整備、長方形に整地するなど「ほ場整備」をされた農地をみると茶筅丸ならば実現可能なのではないかと半兵衛は考える。
そして竹中半兵衛が尾張名古屋で小麦の研究に取り組んでいた為、永禄6年に起こるはずであった新加納の戦いでの織田軍の敗戦は起こらず、戦いは痛み分けに終わった。
そして永禄7年になり小麦栽培に目処が立った為、竹中半兵衛は美濃にてやることあり、舅の安藤守就とも相談しなければならない為、茶筅丸に事情を話し美濃に戻り今に至るのであった。