続々・なぞとき『幻の絵馬』~なぞとき『鷭狩』篇
鏡花大正12年の作に、『鷭狩』という短編がある。鷭というのはクイナのなかまの水鳥のことだ。
あらすじをまとめる、というほどでもない、登場人物がほぼ三人のシンプルな小品である。
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石川県の湖のほとりに建つ旅館の二階の部屋に、若い男が宿泊する。
湖の向こうには雪を頂いた加賀白山を望む眺望の美しい旅館は、なかば洋風建築で、二階といえども三階の高さがあった。
めずらしく客の少ない夜で、離れに泊まった老夫婦を除けば、本館には彼一人である。なかば開店休業のさびしい独り寝をかこちながら、深夜にトイレに立ったところ、美しい幽霊かと見間違えるほどの、お澄という女中と出会う。お澄は午前三時過ぎに到着するなじみ客を迎えるために、身支度の最中だった。
稲田雪次郎というその若い男は、深夜に人知れず美女と会遇したことを幸いに、お澄とさらに近づけるように、それとなく水を向けてみる。いったんは袖にされたと思ったのだが、なんとお澄は雪次郎の部屋に、酒肴をたずさえてやってきたのだった。
これからやってくるなじみ客が、女郎屋の亭主とお供の幇間であり、彼らが湖で鷭狩りを楽しむ予定であることを知った雪次郎は、お澄に意外な頼み事を切り出す。自分は売り出し中の画家であるが、鷭を画題にした絵が出世作になったので、鷭には恩義を感じている。どうにかして、せめて鷭が逃げることもできない夜明け前までは、彼らが狩りをやめるように説得してくれないだろうか。
その話になにかしら感応して、「あら! 私……」とお澄が言いかけたとき、くだんの女郎屋の主人が到着する。座を外して出迎えたお澄は、女郎屋を雪次郎の隣の部屋に案内する。通りしなにお澄が出てきた部屋のなまめかしい雰囲気を見て取った女郎屋は、あきらかに憤慨した様子である。
その後、隣室からは、女郎屋の怒声と肌を打擲するような音が聞こえてくる。女郎屋の大声の話からすると、お澄は雪次郎の願いを立てて、鷭狩りを引き留めたらしい。気になった雪次郎が露台に出て、隣の部屋の窓をのぞくと、女郎屋が鉄鉢でお澄を、青あざができるほど打ちすえている。
女郎屋は予定よりも遅く、夜明け近くになって狩りに出た。雪次郎の部屋をお澄が訪れる。罪悪感にさいなまれていた雪次郎は、じつは自分はなりそこないの画家で、鷭に恩義を感じているというのはウソであったこと、話に聞いた女郎屋の豪遊ぶりとお澄に身支度をさせた嫉妬からウソをついたことを告白する。
その話を聞いたお澄は、意外にも冷めた様子で、自分が世話になっている旦那に死ぬほどの覚悟で刃向かったのだから、私の願いも聞いてほしいと言う。
お澄の願いとは、雪次郎の小指がほしいというものだった。
うろたえた末に、覚悟を決めた雪次郎は、お澄に自分の小指を歯で食い切るようにうながした。
小指を食い切ってその血を浴びたお澄は、
「看病をいたしますよ」
と言うと、繻子の帯を鳴らしながら、するすると解いた。下じめばかりか下着一面が血に染まっていたが、その乳は白かった。
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初読のさいの感想を素直にいうと、鷭という鳥をからめた奇妙な展開の最後に、流血の惨事が突然訪れて、なんだか女の情念が爆発したみたいだけど、さっぱり意味のわからない話だなあ、と戸惑わされるだけの短編だった。
ことに小説の最後に置かれた、
「お澄は、胸白く、下じめの他に血が浸にじむ。……繻子の帯がするすると鳴った。」
という締めの二文は、暗示めいているという以前に、意味を通すことさえできない。
下じめ(下締め)とは、「女性が着物を着るとき、形を整えるために帯の下に締めるひも。腰ひも」のことなのだから、帶の下に締めているはずのひもが、帯をほどく前に血をにじませていたことが客観描写されるのは、まったくの不可解である。ここだけがお澄の主観描写であるというのもおかしいし、そうすると「胸白く」ということばの意味がますますわからなくなる。だいいち、血がにじんで気持ち悪くなったから帯を解いたということになるから、色気もへったくれもない。
何度も読みかえすうちに、最後の二文には、時間的な倒置が加えられているのではないかという気がしてくる。
鏡花の文体の特徴的な用例として、倒置を好むというのがある。
「幽に遠き連山の雪を」(『神鑿』三十七)
といった場合は、「遠くにあるためにかすかに見える連山の雪を」という意味を、漢文の読み下し文めいた口拍子で言っただけの、よく見かける倒置なのだが、鏡花の場合、これがしばしば、連文節ごとの倒置に拡大される。原因→結果ではなく、最初に気づいた結果を述べたあとで、理由を示すことばを使わずに、その原因を示すのである。たとえば、
「数珠が陰って、雲が通る。」(『由縁の女』二十八)
上の文では、雲が日を隠したから数珠に陰が差したわけだが、意識の流れとして感覚が優先された結果、時間的序列は倒置する。感覚として受けとめながらも、意味としては「雲が空を渡り、数珠に差していた日が陰った」と理解せざるを得ない。
本作の末尾は複文ではなく、「。……」に句切られた二つの文になっているのだが、同様に考えて順列を正すと、上のあらすじの末尾に書いたように、
「繻子の帯を鳴らしながら、するすると解いた。下じめばかりか下着一面が血に染まっていたが、その乳は白かった。」
と解されることになって、文意はかなり落ちつくように思う。
だとしても、帯を解いて身をまかせようとする女の、下着が血に染まり、乳だけが白いというのだ。それでもなお、いったいなにを伝えようとしているのか、わかるような、わからないような結末のままなのである。
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指を食い切る、物語の最後が判じ物のような文で締められている……となると、やはり、先日精読したばかりの『幻の絵馬』を思いだしてしまう。なにか、同じものの匂いを感じてしまう。
先に書いた「なぞとき『幻の絵馬』」では、「隠された設定のヒントが示される場所を探すとなると、最もありそうなのは、物語の分量的な中間点」だと決めつけたところから、強引になぞときを進めたから、いくらなんでも牽強付会の説だと感じた方も多かったのではないだろうか。
ところが、『幻の絵馬』と同じ匂いを感じる『鷭狩』にも、物語の分量的な中間点に、またしても同じように、なぞときのカギのようなことばが置かれ、なぞのままで放置されるのである。
「あら! 私……」
というお澄のことばがそれで、これも『幻の絵馬』とまったく同様に、言いかけたところで怪人物の来訪があって、気づかれないように糊塗されている。やはり鏡花は、いつものやりかたで、仕組んで、隠しているのである。
それにしても、いったいお澄は、なにを言いかけたのだろうか。
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まず『鷭狩』という小説は、ふつうにさらりと読んで、そうなのかなと感じるように、不幸な境遇に置かれた日陰の女が、一世一代の反抗を発揮して、その記念として男の小指をほしがった、という話なのだろうか。
それにしてはお澄という女は落ち着き払っているし、そもそも雪次郎という男は、その指を記念にしたくなるような人格をもつ男ではない。軽薄で、その場の雰囲気に流されて、つまらないウソをつく人物である。
それよりもまず受けとめるべきは、お澄という女の異常さであって、自分が指を食い切って、気絶するほどの痛みを感じているはずの男に対して、「看病をいたしますよ」などと、とぼけたことを言いながら、帯を解きはじめる。つまり情交を迫っている。お澄は、雪次郎の苦痛を見て、欲情しているのである。
お澄という女が変態である、という見かたにいったん立ってみれば、遊女屋の旦那が来るとわかっているタイミングで雪次郎の部屋を訪ねたことも、わざとドアを開けたままで他の男とのなまめいた室内を見せたことも、計算ずくであったと思われる。もちろんお澄は遊女屋の旦那の性格を熟知して、どう反応するのかもわかっていたのだから、それに加えて鷭狩りをやめろと言いだしたことの結果も了解ずみだった。
つまり、『鷭狩』は、加虐、被虐で性欲を高めあう男女の関係に、うっかり無防備に踏みこんでしまった青年の話で、お澄をひっかけようとして、じつは逆にひっかけられていた雪次郎は、自覚のないまま、危険なSMプレイに巻きこまれてしまったのである。
そう考えると、「あら! 私……」の秘密が解けてしまう。
「あら! 私、そんなに懇願されなくても、とっくにそうするつもりですよ」
である。
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もちろんお澄が、決死の覚悟で旦那に反抗したというのはウソではなくて、相手の加虐癖が自分の生命を奪うかもしれないというギリギリのレベルの被虐への挑戦に踏み切ったのだろう。
そこで逆転が発生した。
重要なのは、二階といえども三階の高さがあるという、わざわざ特記された位置の部屋で、これらの出来事が起こったという事実である。
鏡花は外出をする際に、「三階から上へ上がっては不可ませんよ」と奥さんから注意されていたのだというエピソードから、種村季弘はちくま文庫「泉鏡花集成 7」の解説の筆を起こしている。「鏡花にとって三階とは、ましてや三階からの上とは、妖怪の、すくなくとも人間ならざる存在の生息する場所だった」――ここから、戯曲作品についての論考が進められて、『天守物語』のような三階から上の天界、もしくは『海神別荘』のような海の底では、「きれいは汚い、汚いはきれい」という価値観の転倒が横行すると指摘している。
これにからめるかたちで『鷭狩』については触れられていないのだが、もちろん種村季弘は、この作品を集成に収録するにあたって、価値観転倒の系譜に連なる作品として、意識的に選んだのだろう。
二階といえども三階の高さがある位置の部屋というのは、なにかのきっかけさえあれば人間の本性の逆転も転倒もおこりうるという、考えかたによっては高楼よりも海底よりも怖ろしい境界線上にあるのである。まさにそのきっかけを得たお澄は、被虐の極から加虐の極へと一気に転倒を遂げて、男の小指を食いちぎった。
『幻の絵馬』では逆に、ヒロインの錦木和歌子は加虐から被虐へと転倒するのだが、そのきっかけとなったできごとは、地下の穴の底であったことを思いだしてほしい。『海神別荘』と同様に、海底地底の魔力によって必然的に逆転は発生した、あるいは逆転を必然化するために、地下の穴が用意されたのだといえる。
たしかに『幻の絵馬』は雑駁な印象を与える作品ではあるが、その雑駁な諸要素はすべて、鏡花流の小説工芸の作法に厳密に則って散りばめられている。鏡花なりの理にかなわないところのない作品なのだった。
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さて話を戻すと、『鷭狩』は、冷たい小説である。
ストーリーの飛躍と飛躍の間を、いつものように情緒や愛憎で埋めつくすことを、鏡花は放棄している。『山吹』のような作品でも見せる、ときおり感じさせる鏡花のハードボイルドである。しかし、そうした作品であればこそ、冴える美意識もある。
この小説を締めるのは、次のような文章だった。
「お澄は、胸白く、下じめの他に血が浸にじむ。……繻子の帯がするすると鳴った。」
訳文。「お澄は……繻子の帯を鳴らしながら、するすると解いた。下じめばかりか下着一面が血に染まっていたが、その乳は白かった。」
なんのことはない。
銃で撃たれた鷭の血に染まる湖に、雪を頂いた加賀白山の見立てができました、といっているのだ。
しかし、それだけであることが、鮮烈なのである。
短編『鷭狩』は、全集以外では、ちくま文庫「泉鏡花集成 7」に収録されています。
また、秋月しろうさんのページに現代語訳があります。 https://ncode.syosetu.com/n5346hb/