向かいのデスクの薙切さんをデートに誘う方法。
武 頼庵 様、XI様 合同主催「穏やか事務員さんの真実!!」企画の参加作品です。
向かいのデスクから、軽やかにPCのキーボードを叩く音が聞こえてくる。
その音だけでも、仕事ができる女性であることが何となくわかる。
向かいのデスクに座っている薙切さんは三つ歳上で、営業部の事務を担当している。彼女からすれば二十四歳の俺なんて、まだまだガキなのかもしれない。
しかし、憧れるのは自由だろう。
PCディスプレイの端から、そっと覗くと、細くて綺麗な指が滑らかに動いている。画面に向かう彼女にはクールビューティーという言葉がよく似合う。
華やかなネイルは付けず、爪を短く切り揃えられただけの指先がかえってそそる、なんて思うことをどうか変態とは言わないで欲しい……。きっと共感してくれる男はいるはずだ。
彼女は胸あたりまでの長さの黒髪を片側に寄せて、いつも上品なシュシュで結んでいる。
あまり化粧っ気はないが髪飾りの色や柄が毎日変わるため、オシャレをすることは好きなのかもしれない。
もくもくと仕事をこなす姿は、少し冷たく見える。
PCを使う時だけかけているブルーライトカットのメガネが、より近づきにくい印象を周囲に与えているのだろう。
しかし、一息入れる時にメガネを外す仕草が、とてつもなく色っぽいことを向かいの席に座る俺だけが知っている。そこに小さな愉悦を覚える。
何度も言うが、俺は断じて変態ではない。
少々メガネっ娘が好きで、ギャップ萌を好む普通の男だ。
同僚との飲み会の席で、「自分の性癖を『普通』だと言う人は、大抵『普通』じゃない」と笑われるが、俺は普通の男だ。
しかし、同僚に飲み会のネタにされるなんて些末なことだ。
それよりも、実際の薙切さんは愛想が良いと知っている男性社員が、そこそこいることのほうが問題だ。
真面目な勤務態度から冷たく見えるだけで、話しかければ柔らかな声で笑顔を向けてくれる。
立場や年齢の上下に関係なく、誰に対しても丁寧な言葉遣いで話すところも好感度が高い。彼女が誰かに笑いかける様子を見るたびに、胸がざわつく。
今のところ、彼女に特定のパートナーがいないことが救いだろうか。
そんなふうに憧れるだけの日々を過ごしていたあるとき、彼女についての妙な噂を耳にした。
それは、薙切さんのデスクの引き出しには何か物騒なものがたくさん入っている、という信じがたい噂だった。
噂の出どころは一部の女性社員のようだ。
上司からの信頼も厚い彼女に対しての嫉妬か何かが原因だろうと、最初は特に気にも留めなかった。
しかしある夜、うっとりとした表情で刃物の手入れをしている彼女と俺自身も遭遇してしまった。
その日は残業で、フロアには俺一人しか残っていないはずだったのに――。
彼女は俺の視線に気づくと、手にしていたものを慌てて引き出しにしまった。
急いでいるせいか、オペ中の医療器具のような金属音が夜のオフィスに響く。
引き出しを閉めると、彼女は何事もなかったかのような振る舞いで俺のほうを向いた。
「お、お疲れ様です! まだ残っていらっしゃったんですね」
しかし、笑顔がやや引きつっている。正直な人だ。
(あぁ、あの噂、薙切さんの耳にも届いたのか……)
「はい、まだ仕事が残っているので。今は、息抜きがてら自販機に。……薙切さんは定時でお帰りになったと思っていました」
「……忘れ物を思い出したので、戻ってきました」
「そうだったんですね」
「え、えぇっと……。用事も終わりましたので、私はお先に失礼しますね。残業、お疲れ様です」
「お疲れ様です。お気をつけて」
「ありがとうございます」
ぺこっと頭を下げた彼女は一目散に……とまでは言わないが、足早にエレベーターホールへと向かっていった。
先ほど、チラッと見えた引き出しの中身を思い出す。刃物が一つ、二つ……いや、もう少しあっただろうか。
(あれは――)
あの夜以降、薙切さんとは少し距離ができてしまった。話しかけると、彼女がわかりやすく動揺するのだ。彼女の趣味を知ることができて、むしろ俺は嬉しかったのに。
しかし、それを上手く伝える言葉が見つかない。下手をすると、さらに警戒されてしまうかもしれない。どうしようかと考えあぐねていると、鞄の中に入れっぱなしになっていた小さな紙が目に入った。
(そうだ。きっとこれなら……!)
昼休みになってから、そっと彼女に近づいた。
「あの、薙切さん。知人からイベントのチケットをもらったんですけど、良かったら一緒に行きませんか? 次の土曜日なんですが……」
「申し訳ありませんが、その日は予定がありま……、行きます!」
彼女はお断りの常套句を口に出したが、横目でチケットを見るやいなや、キャスター付きの椅子が転がっていきそうな勢いで立ち上がった。
そして、チケットを持つ俺の両手を握りしめる。
「行きます! いえ、ぜびともご一緒させてください!」
彼女の瞳がきらきらと輝いている。おそらく、興奮して瞳孔が開いているのだろう。まぁ、理屈はどうでもいい。とにかく綺麗だ。
そして、どうやら彼女の警戒心も緩んだらしい。とりあえずは作戦成功だ。
(でも、デートの誘いだとか二人きりで出かける意味とか、今は何も考えてないんだろうな……)
『何? なんであんなにテンション高いの?』
噂を広めた女性社員たちが、小声でヒソヒソと話しているのが目に入った。
『マグロの解体ショーでも見に行くんじゃない?』
『あー、でっかい包丁使うもんね』
そんなわけないだろ、と心の中でツッコミを入れる。
彼女を誘ったイベントは、世界の文房具の展示会だ。今回は北欧のものが多いらしい。そして、会場には物販コーナーもある。
このイベントには、彼女が高確率で食いつくだろうと予測していた。
あの夜に気づいたのだが、彼女が持っている文房具はかなりマニアックなものだ。ヨーロッパ製のアンティークで、それなりに値が張るものもあった。
彼女が引き出しにしまっている物騒な物とは、数種類のぺーパナイフやハサミだったのだ。
「薙切さん、文房具お好きなんですね。この前、手入れしていたハサミ、アンティークですよね?」
周囲にも聞こえるように、少し大きめの声で尋ねた。
「分かりますか!? さすが、文具メーカー社長のご子息ですね」
「――え? なんで……」
周囲が一気にざわついた。少し離れたデスクに座っていた部長の顔も固まっている。
たしかに、俺は老舗文具メーカー経営者の三男だ。
大学三年の時に身分を伏せて入社試験を受け、この支社に配属された。もちろん縁故採用ではなく、自力で勝ち取った内定だ。息子だからといって入社させるほど、甘い父親ではない。
しかし、仕事に支障が出ないようにと、念のために母親の旧姓を名乗っている。
このことを知っているのは、本社や支社の中でもほんの一部のはずだ。固まったままの部長はもちろん知っているが。
「私、文房具が死ぬほど好きで、この会社に入りましたから。社長のご親族についての知識くらいは当然ありますよー」
「いや、当然ってことはないかと……」
「そうですか?」
きょとん、とした顔で見つめられて胸が高鳴る。
(う……可愛い。死ぬほど好きならあり得る、のか……?)
いつもより幼く見える彼女に、思わずときめいてしまった。そして、俺の頭の回転も鈍くなってしまったようだ。
『なぁ、薙切さんって可愛いよな?』
『俺も前から思ってた』
『あいつが社長の息子ってマジ?』
俺たちのやり取りを聞いて、おそらく彼女の不名誉な噂は消えるだろう。噂に尾ひれが付いて、何人か殺してるんじゃないかとの話まで出ていた。
そして、それを助長させたのは、彼女が終業後にひとりでハサミを研いでいるところをある社員が目撃したからだ。
俺もあの夜、似たような状況に遭遇したのだが――。
あの日は、うっかり大事なハサミでガムテープを切ってしまい、その汚れを拭き取るために会社に戻ったのだと、薙切さんは恥ずかしそうに白状した。
ペーパーナイフやハサミは仕事のモチベーションを維持するために、お守りとして引き出しに入れているだけで普段使いにはしていないそうだ。
だから、彼女の趣味に今まで誰も気づかなかったのだろう。引き出しの中身の謎が解けたことで、何か彼女の役に立てたのなら嬉しいことだ。
しかし今後、俺が頭を抱えることは増えるかもしれない……。
水を得た魚のように、可愛らしい笑顔で文房具愛について語る彼女に興味を示した複数の男性社員の視線に苛立つ。
そして、“社長の息子”として、別の意味で興味を待たれてしまった自分への視線も痛い。
あぁ、こんな目立つ場所でデートに誘うんじゃなかった――。
少し軽めのテンポの作品になりました。
(主人公、ちょっと変態入ってますが……)
お読みくださり、ありがとうございました。