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七話 記憶

 ラクサの花がまた咲いて、そして散って、梢に葉が生い茂るころ。領主に代替わりがあり、俺と同年代の御子息が当主となられた。

 年代が同じというだけで、俺とは比べるべくもない、優秀な方だ。騎士でもある。見識も深く情もある。これから長くお仕えしたい方だ。

 その方が、代替わり直後の視察先で事故に遭われ、献身的な看護を受けたと連れ帰ったのは、「妹」だった。


 確かにそれは、とても美しい女性だった。

 健康的で、大輪の花のような明るい笑みを浮かべ、手入れのされた髪と肌と指、たおやかな所作。

 すっかり大人になっている。けれど見間違えるはずがない。

 「妹」だ。


「リゼ……」


 俺の呟きに気がついたのか、女はこちらに視線を寄越して、そして、唇の端をほんの少しだけ持ち上げて見せた。

 お兄ちゃん、と呼ばれた気がした。

 ついに追いつかれた。ぶるりと体が震えた。




 それから、俺は必死だった。

 領主が籠絡されては、この領地も、俺たちの暮らしも、おしまいだ。「妹」の異質さもさることながら、後ろにいるはずの詐欺師の強欲さも際限なく、領地を干上がらせるまで吸い付くだろう。

 俺は「妹」がいまだに詐欺師と繋がっていることを疑わなかった。「妹」が、俺に名乗り出ないことも、疑いに拍車をかけた。

 俺は徹底して「妹」に張り付いて行動を探り、自ら街の暗がりを駆け回り、また情報屋の繋がりを駆使して、奴らに関する情報を探った。


 どんな思惑があるのか、「妹」は俺のすることに何の反応も見せなかった。

 ただ、時折目が合うと、その目が三日月に歪む。

 お兄ちゃん。不幸そうね。嬉しいわ。

 そう言われている気がしてならなかった。

 目を離すのが恐ろしく、俺は家にも帰らず、ただ「妹」にだけ全神経を向けるようになっていた。


 半年ほどかけて、「妹」が詐欺師と結託をして、裕福な家に入り込み、当主や周りの人間を絡め取り、洗いざらいの財産を差し出させるのを繰り返してきていたことを、はっきりと掴んだ。

 被害にあった者の中には、一家離散や一家心中をした家が多く、直接の証人を見つけるのに苦労をした。情報屋たちでさえ、眉を顰めた程だった。


 読みと違ったのは、その詐欺師は既に被害者の一人に刺されて、死んでいたこと。ただそのおかげで、財産の動きを示す物証は溢れるほど見つかった。「妹」は証拠隠滅に詐欺師ほど熱心ではなかったらしい。


 主犯の一人は死亡していたが、証言と証人は手に入れた。

 俺はそこに至って初めて、領主に懇願してこのことを直訴し、俺の全て経歴を晒して「妹」の危険性を訴えた。


 そのころには、「妹」はすっかり領主のお気に入りの客分として、領地でも破格の待遇を受け、本館に部屋を与えられ優雅な生活を送っていたので、この直訴が功を奏すかどうかは、分の悪い賭けだと思っていたのだが。


 聡明な領主は、すでに「妹」の本質に勘づいておられたらしい。


「お前があまりに必死だったので、お前に任せてみようと思っていたのだ。素人にしてはなかなかよく調べた。これがあれば、今すぐ捕らえて問題なかろう」


 なんと、日頃親しくなさっている王太子殿下のご協力までいただいて、被害の全貌把握と被害者の救済、端下な協力者の洗い出しと捕縛まで約束してくださった。

 目の前で次々と指令が下され、騎士や兵士たちのみならず、多くの文官たちがすぐさま動き出すのを見た。彼らの優秀さは、領民としてよく知っている。

 俺は、抜け殻のようになった。


「奥方に感謝せよ」


 と領主はおっしゃった。


「彼女の家は、代々当家の家財管理の一端を担って来た。彼女とも親睦の会場などで話をしたことが一、二度ある。執事見習いとして堅実に努めてきたお前が、かの家に入ったのは、お前にとって喜ばしいことだった。

 その奥方から、お前の不謹慎な噂について謝罪の手紙を何度も受け取った。知っているか?——知らないか。そうだろうな。


 今回は許容したものの、本来の職分も家庭もそっちのけで調査にのめり込むなど、己の大切なものを疎かにする人間は、信用し難いものだ。心を改め、奥方を大切にせよ。

 奥方には何の事情も話してはいないようだが、弱っている心には、魔が付け込むぞ。早急に、よく互いに話をせよ」



 理解は、できていなかったと思う。

 精神の緊張が切れて、俺は抜け殻で、しかもふやけていた。

 領主のお言葉のどれほども頭に入らず、ともかくも、ようやく家に帰れると領主の屋敷を辞したのだ。


 だが俺の足取りは、家に近づくにつれ次第にトボトボとなり、しまいには、家へと曲がる最後の角で、立ち止まってしまった。

 俺は、もう長く、妻の顔を見ていなかった。

 歩きながら反芻していた領主のお話が本当なら。妻の家に俺との結婚で得るものはないのだ。この結婚はきっと妻が、俺を救おうとして持ちかけてくれたのだ。俺に負担をかけないようにと、結婚によって彼女の家が得る、ささやかな利の話などして。

 なのに俺は、最後のチャンスを失いたくないとそればかりで、彼女の思いやりに気づきもせず。

 しかもちっぽけなプライドで格好付けたがって、三年はお試し期間だ、契約結婚にしようなどと言い出した俺は、とんだチンケな勘違い男だ。


 俺は、ただ、彼女と結婚できるなんて、夢のように嬉しいと、正直にそう言えばよかったのに。


 日が沈んで、吹き寄せる冷たい風が、薄汚れた季節外れの服を着た俺を、芯から凍えさせた。

 職場の泊まり込みはいい顔をされない。設備もない。空き部屋の床を借りて眠り、住み込みの同僚たちに無理を言って、時に洗い場を借りて身体と衣服を洗って過ごしていたのだ。

 自分の見窄らしさに、愕然とした。

 領主屋敷の執事の一人として、あり得ない服装だ。これでまともに勤めていたと思っていたのだから、俺は相当に追い詰められていたらしい。

 領主が俺に任せてみようと思って下さらなければ、きっとすぐさま解雇になり追い出されていたはずだ。

 いかに周囲が見えていなかったのか。思い至って、羞恥に倒れ込みそうになった。


 領主が、「妹」を連れて屋敷の玄関に立たれた時から、記憶の細部が曖昧だ。

 あれは、夏のことだった。

 いつの間にか、冬。

 いや、曲がり角の家の庭に、ラクサの木が大きく道まで枝を張っている。その枝にたくさんついた蕾が、既にふたつみっつ、綻んでいる。

 冬どころか、春が来ているのだ。

 ぼんやりと妻の柔らかな笑顔を思い浮かべる。だがそれは、春の雨に霞むラクサの並木のように、おぼろで頼りない。


 会いたい。

 会いたくてたまらない。

 だが、まだ彼女は、待っていてくれるだろうか。

 

 

 立ち竦む俺の耳に、角の向こうから、近づいてくる小さな足音が届いた。

 妻だろうか。そう思って、日の落ちたこの時間にあり得ないと打ち消した。

 その時、背後に人の気配が突然現れて、俺は冷たい手で心臓を掴まれた心地で振り返った。


『お兄ちゃん』


 「妹」が、感情のうかがえない冷たい笑みを浮かべて、そこに一人で立っていた。

 いや果たしてそれは、実体なのか。「妹」の体を透かして、向こうの暗い道が見える気がして、俺は目を擦った。


「旦那様?」


 さらに背後から呼びかけられて、俺は今度こそ、飛び上がった。

 会いたかった人の声。

 振り返った先には、なぜか手に箒を持った、妻。妻、妻だ。


 妻の名を呼ぼうとした時。

 風が吹いた、と思ったのは、ラクサの木がざわざわと揺れたからだ。

 粘っこい響きの音が、俺の耳に届いた。


『私の愉しみを、邪魔するなんて。ひどい人よね。私は、幸せだったのに。みんなが不幸になって、幸せだった。どうして邪魔したの…? 昔一緒に逃げなかったことを、許せなかったのかしら。もう飽きたからと放っておいたからかしら……?

 でも、いいことを知ったわ。相変わらず不幸そうだと思ったのに、また隠してたのね。結婚していたなんて。最高だわ。

 ——ねえ、知ってる? 手に入れた幸せを失う時が、一番不幸なのよ…?』


 気づけば、いつの間に近づいたのか、妻を覗き込むようにする「妹」の姿を見た。手を伸ばして、妻の体に触れようとしている。

 心臓が縮み上がった。

 俺は、ばね仕掛けのように走り出しがむしゃらに二人を引き離した。


「きゃあっ」


 衝撃で妻がよろめいた時。

 今度こそ、強い風が吹いて。

 ふつりと、「妹」の姿は搔き消えた。


「リゼ?」


 昔呼んでいた「妹」の名を呼んでも、通りはしんとして、こそとも音がしない。


「リゼ?」


 もう一度呼ぶ。

 なにやら奇妙に焦りを感じて、俺は走り出した。

 領主のもとに行かなければならない。

 「妹」が逃げ出したなら、知らせなければならない。

 それだけが、頭を占めた。


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