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契約結婚の終わりの花が咲きます、旦那様  作者: 日室千種


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四話 花のこと

 それで、私は壊れきってしまったのかもしれない。


 箒の鍛錬はおろか、食事を取る気力も失った。

 身の回りの世話は、年配の女が俯きがちにそっと入ってきて、無言のままに終わらせすぐさま立ち去るばかり。

 寝台に横になったままぼんやりとして、何を考えているわけでもないのに、気がつけば涙が寝具を濡らしている。

 寂しくて、寂しくて。


「……旦那様。リオル様。会いたい。会いたい。リオル様」


 旦那様を、何度呼んだだろう。

 両親を、老医師を、呼びもした。

 けれど、旦那様にも、誰にも会えないまま、幾日過ぎたのだろう。二日、三日? それとも、ひと月?

 そして、ふと気づく。

 そういえば、家具も食器も、どこか古ぼけて見えないだろうか。

 気に入っていたヘッドボードの小鳥がおしくらまんじゅうしている彫刻も。大事にしていた銀の藤花房のシェードのオイルランプも。

 あらゆるものが古びて煤けている。


 それは私が壊れたからだと、そう思っていたけれど。

 だんだんと、世界がおかしいように思えてきた。

 いつの間にか、私の身の回りのものが、少しずつ入れ替わって、私を混乱させようと悪意を持って包囲を狭めてきているのだ。

 なんのため? そんなのどうでもいい。

 そうに違いないのだ。

 老医師も、そうして入れ替えられてしまったに違いない。替わりの人はまだ来ないけれど。きっともう、会えないのだ、あの人には。

 もしかしたら、両親も。だってもう随分と長い間、会えていないはずだ。

 では、旦那様は?

 私を大切に扱ってくれていたのに、突然帰って来なくなった旦那様は、もしかして、もうすでに——。


 魘されながらうとうととしていた私を、誰かが揺り起こした。この頃は昼も夜もよく眠れなくて、ずっと朦朧としている。

 私を揺り起こした誰かが、何か言っているけれど、聞き取れない。

 ああ、でも、やっと会えた。

 やっと来てくれた!


「旦那様、旦那様」


 縋りついた私を、旦那様は困惑したように支えてくれたが、すぐに扉の方から聞き慣れない女の声がして、旦那様がそちらを振り返った。


 ああ、そちらを見ないで。あの女のところになんて、行ってしまわないで。

 また、私を捨てて、そちらへ行くの?

 背中を向けて。


 慎重な旦那様の背中を押してあげよう、なんて思ってたことを忘れ去って、私は必死でその背に縋り付く。


「旦那様、お願い、行かないで。私を、捨てないで」

「メルガレーテ! ——やめろ、お前たち。彼女を脅かすな!」


 厳しい声が響いて、私は誰かによって、軽々と旦那様から引き剥がされた。


「メルガレーテ!」


 それは私の名。呼んだのは、私を旦那様から引き剥がした、白い髭の老医師だ。

 なぜ旦那様の目の前で、老医師が私の名を叫ぶの?

 なぜ、奪うようにして私を抱き締めるの?

 強く、強く、もう二度と離さないというように。


「奥様、悪い夢を祓いに来ました」

「気をしっかり持って」


 先程の女の、不思議な震えを持つビロードのような声が宣言し、旦那様が、老医師に抱きしめられたままの私を励ますように覗き込む。

 いえ。

 この人は旦那様じゃないわ。とてもよく似ているけれど、旦那様じゃない。


 やっぱり、旦那様はもう、入れ替えられてしまっていたのだ。

 ここは、この世界は、一体なんなの……。


 がくがくと体が震えた。

 怖くて、心細くて、私を抱き締める腕にしがみついたら。その腕から力が抜けて、老医師が、ずるりと崩れ落ちた。


「親父!」


 旦那様によく似た人が叫んだ。

 おやじとは、父親を呼ぶ名よね。

 けれどそんなことより、私に寄り添うように寝台に倒れ込んだ老医師の体が、とても熱い。息も苦しそうだ。

 担当医を外れたのは、体調が悪かったせいなのだろうか。まだ良くなっていなかったのだろうか。せっかく戻ってきてくれたのに。また、いなくなってしまうのだろうか。

 胸が引き裂かれるように痛んで、私はその背に手を当てた。

 硬く、まだまだ力強いが、肉の薄くなった背だ。

 愛おしい、老いた背だ。

 彼がいなくなったら、そう考えただけで、胸が潰れそうだ。


「大丈夫だ」


 老医師の口が、力なくそんな慰めを言う。初めて聞く、彼の気休めだ。

 私はガクガクと頷きながらも、老医師の右耳の下にある傷跡に釘付けだった。顎まで続く大きな傷。

 髭の下に隠れて、今まで見えなかったそれは、旦那様が馬車の事故から私を助けてくれた時の傷。少し色味は薄いけれど、間違いなく、同じ傷だ。


 答えを求めて顔を上げた私は、間近に迫っていた女の黒い目に囚われた。

 光のない、玉のような目に、年若い娘が映っている。

 生気のない不健康そうな顔に、不安と不幸を塗り込めたような、私——。


 その顔が、一瞬にして、薄紅色の花びらで覆い隠された。


「え」

「メルガレーテ!」

「母さん!」


 戸惑いと恐れの悲鳴。

 その合間に、苦々しげな女の声が響いた。


「ああ、花が、咲いてしまった」


 花が。咲き誇る花が、私の胸から突き出た枝の先で薄紅色に揺れている。


 契約の終わりの花が、咲いてしまったわ、旦那様。


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