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二話 花のこと

「庭に出たい。歩きたいわ。もう寝ているのに飽きたの」

「子供のようなことを言うね」


 案の定、老医師(せんせい)は私の望みをばっさりと断った。本当に、旦那様とは違う。


「でももう熱っぽくもないし、体がだるいだけ。動けば治ると思うの」

「庭へ出て、何をするの?」

「ラクサの木を、燃やそうかな、と」

「却下」


 本当に、本当に、もう!

 新聞を読みたいと言えば目を酷使するのは良くないと言い、家の者と話をしたいと言えば感染る病かもしれないからまだ早いと言う。家事や外出など論外だ。

 そういえば、鏡だって、なかなか見せてもらえなかった。

 確かに思ったより顔色が青白く肌が荒れぎみだったけれど、それで落ち込むほどではないのに、大げさだ。

 神経質というより、過保護、なのだろうか。医師なのに。


 でも、実は私、わりと好ましいのだ、この老医師(せんせい)が。


 もちろん私は旦那様ひとすじで、浮気とかではないけれど。

 今みたいに私が不満全開でじっとりと見ていると、ほら、段々きまり悪げになって、鼻の横の髭の際を掻くところとか。夜更かし気味で目の下にいつもクマがあるところとか。

 旦那様と同じね、なんて思ったりして、少し可愛らしい。


 私は、じっとり目をやめて、ふふ、と笑った。


「いいわ、お医者様のお見立てで、良いと言われるまでは我慢します。

 本当に庭に行きたいわけじゃなくて、部屋にずっと篭っていると、嫌な想像ばかりしちゃうな、と思っただけなの」


「花を見たくないなら、部屋を変えようか」


「見えないと、それはそれで嫌かな。知らないうちに怖いことが迫っているかもと、ずっと気にしてしまうもの。……ふふ、幸福を告げる木のはずなのに、罰当たりなこと言ってるわね」


 老医師(せんせい)は、虚をつかれたような顔をした。


「そうか、あなたもそう呼ぶんだね」

「知らなかったの?」

「この辺りでそう呼ぶことは知っている。でもあなたがそう呼ぶのは聞いたことはなかった……それに故郷では、悲しい話がついて回る木だから」


 この憎たらしいほどに春を象徴する木が、悲しい?


老医師(せんせい)はいったいどこの出身なの? 詮索するわけではないけど。

 昔、王家の方が精霊の住む森から一本分けていただいて、王宮に植えて以来、国中で愛される木になった、と祖母に聞いたことがあるわ。おとぎ話の昔々よ。

 ……だけどもしかして、本当にラクサの木の故郷なのかしら」

「いや、似ているだけの、違う木かもしれないし、俺の覚え違いかもしれない。ほんの小さい頃に郷を出たから」

「……そう」


 わずかに寂しげな声に、ふと、郷愁と共に思い出した。


「両親に、手紙を書かなきゃ」

「……あなたのご両親かい?」

「ええ、旦那様のご両親とは、もうご縁が切れていて、私が関わるのはお嫌なようだから。旦那様のことで、両親が心配していると思うの。手出しは無用、って手紙を出しておかないと」


 手出しって、と少し笑いをこぼしていたけれど、やはり老医師(せんせい)はぶれなかった。


「手紙を書くのも疲れるだろう。どう書きたいか、言ってごらん。代わりに書いてあげよう」


 出たわ、過保護!

 でも、寝台をインクで汚したくもないし。お言葉に甘えて、老医師(せんせい)が文机で用意をする間に、私は文案を練った。


「用意はいいよ、どうぞ」

「ええ。——こほん。

『愛するお父様、お母様へ。ご心配をおかけしております。少し体調を崩しておりますが、私は元気です。ご心配のあまり、以前のお約束を忘れてしまわれては嫌なので、お手紙をお送りします。代筆になりますが、過保護なお医者様がいらっしゃるせいですので、くれぐれもご心配なきよう。


 夫について、いろいろと耳を塞ぎたいような噂や中傷がお耳に入っているかと思います。けれど、お二人にお手回しいただく必要は、今は何もございません。私はまだ彼の妻であり、その本分を尽くしたいと思います。お認めくださると信じておりますが、改めて、どうぞよろしくお願いいたします。


 ただそのせいで、お二人に、ご心配だけではなく、現実的なご迷惑をお掛けするもあるでしょう。それは心苦しく思います。

 つきましては、いたずらに先延ばししないことをお約束いたします。私なりに、夫とよく話し合い、ふたりでこの先のことを決めたいと思います。話し合う機会は、遠からずやってくるでしょう。


 ——もしそれが、私たち夫婦としての最後の決断になりましたら、その時は、どうぞ愚かな娘に今一度、お父様とお母様の庇護の翼の中で立ち直る時間をくださいませ』」


 書きやすいように、特にゆっくりと口にした言葉は、するすると自分の胸に落ちていく。



 旦那様が家に帰らないことは、家の者はおろか、領主様の周囲はもちろん、街の至る所に知れ渡っている。

 あなたの旦那様は、昼も夜も、領主様の客分である美しい女性に付き纏っているそうよ、と何人の自称親切な方に教えられたことか。

 友人たちと会いにサロンやカフェに行けば、そんな人間が寄ってくる。街の大通りを歩けば、ひそひそと話しながら意味ありげにこちらを見て笑う人間がいる。

 彼らに傷つけられる謂れはない。わかっていても、旦那様のこころが私にはないという事実が、私を俯かせる。

 言い返すこともできずに、私は家に篭るようになった。

 そして、今や窓の外の春の気配にまで、怯えている。


 けれど両親は、家業のための付き合いや社交から外れるわけにはいかない。迷惑をかけることは分かり切っていた。いつまでも怯えて見ないふりをしているわけにはいかない。


 春が来れば、契約の見直しのために、旦那様は一度は私を訪れてくれるだろう。

 最後に言いたいことを言い合って、その上で旦那様が、契約は終わりだと言ったなら。

 いえ、きっと言われてしまうのだけど。

 逃げずに受け止めて、それから、両親の元で泣こう。その後のことは、後で考えるしかない。

 そういえば、両親と顔を合わせるのは久しぶりではないだろうか。ずいぶん間があいたが、最後にいつ会ったっけ——。


 また記憶がぼんやりとしたので、振り払って顔を上げれば、老医師(せんせい)が書き上げた便箋を見下ろしたまま、表情を落としていた。


「どうしたの? 上手く書けなかったなら、もう一度」

「いや、書けたよ。大丈夫。……大丈夫だ」

「そう? 大事な手紙だから、面倒だけど家の誰かに両親に直接届けてもらってね」

「今すぐ、出してもらうようお願いしよう」


 老医師(せんせい)は、手紙を持って部屋を出て、再び戻ってきて、お髭の下で口をもごもごさせていたが、寝台横の定位置にある、肘掛け椅子に戻った。


 私はまた窓の外を見て、蕾が変わらずそこにあるのに、ため息をついた。

 昨日のため息とは、違うかもしれない。

 覚悟を決める時の、深い息にも似ていた。


 老医師(せんせい)は、そんな私を見ていたようだったけれど。何も言わずに、私の手を握って、ぽんぽんと優しく叩いてくれた。

 こういうところも、いいと思う。簡単な慰めや気休めを言わないところが。


 ふと体がずしりと重くなって、起こしていた体を寝具の中に横たえると、私はすぐにうとうとと微睡んだ。

 さっき遅めの朝食を軽くいただいたばかりなのに。

 日毎、起きていられる時間が短くなっている、ような。


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