注文の多い小説屋
奇抜な店名が書かれた看板をじっと眺める。あの作品に登場する店の名前は「山猫軒」だったと記憶しているが、こちらは何の捻りもなく、そのまま屋号にしてしまったらしい。
人里離れた深い山奥ならともかく、都会のど真ん中に店を構えているのだから、得体の知れない化け物に取って食われる心配はないだろう、多分。何より、私は一旦芽生えた好奇心に逆らうことができない性分なのだ。
覚悟を決め引き戸を開けて暖簾をくぐる。強烈な個性を放つ店名とは裏腹に、内装は極めて普通だった。正確には、ごく普通のラーメン屋そのものだったのだ。ただし、食欲をそそるスープの香りは漂っていないし、カウンター席に並ぶ客たちが黙々と向き合っているのは熱々のどんぶりではなく文庫本だったけれど。
一番の大きな違いは、入店した時に威勢よくかけられるはずの「いらっしゃい!」あるいは「らっしゃあせえ!」といった挨拶がなかったことかもしれない。カウンター越しに腕組み仁王立ちで黙ってこちらを睨んでいる坊主頭のいかつい強面の中年男性、十中八九店主だと思われる存在が口を開くまで、体感10分ほどに感じた。
「すいませんねえ、お客さん。うちは完全予約制なんですよ。今日のところはお帰り下さい」
肌がひりつくほど凄みのある声は、拒否権などないことをはっきりと示していた。仕方なく退散したものの、好奇心の奴隷である私の脳内から諦めるという選択肢は完全に消え去っていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
翌日、電話で予約を済ませて再び店を訪れる。今回は無事、席につくこともできて安堵していると、頭上からあのドスの利いた声が降ってきた。
「お客さん、注文は?」
「……普通のラー……小説でお願いします」
危うく注文を間違えるところだった。数秒の沈黙後、店主は口を開く。
「すいませんねえ、お客さん。うちの小説屋は、一人一人の好みに合わせた作品を提供することが売りなんですよ。何でもいいから普通の小説を読みたいなんて方にお出しする物語はありません。今日のところはお帰り下さい」
なるほど。この時点で「注文の多い」の意味は理解できたし、おそらく私が作品を読破するまでにあと数回、あるいは数十回通いつめる必要があると予測もできた。だが、古の賢い狐とは違って、どうせ酸っぱいブドウに違いないと自分を納得させることだけはできなかった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「すいませんねえ、お客さん。今、スマホで時間を確認しましたよね? うちは作品と読者が二人きりで真剣に向かい合うひとときを提供する店なんです。それを軽んじるような方にお出しする物語はありません。今日のところは(以下略)」
「すいませんねえ、お客さん。うちは一期一会の言葉との出会いを大切にしているんですよ。ぱらぱら適当にページを捲って、もう一度読み返すような方に(以下略)」
「すいませんねえ、お客さん。今、行間を読んだでしょ? うちは文字が紡ぎ出す素材の味を大事にしているんですよ(以下略)」
「すいませんねえ、お客さん(以下略)」
「すいま(以下略)」
既に何度店を追い出されたか分からない。最近では、勤務中「すみません」と声を掛けられただけで反射的に退社してしまいそうになることがある。そろそろ精神の限界が近付いているのだろう。だが、私の胸中には今日こそ読破できるはずだという確信めいたものが脈打っていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
最後の一ページを捲る指は、誤魔化しようもないほどに震えていた。ああ、読んだ。読み終わった。ついに、完読したのだ。今までの人生でこれほどまでに満足感のある読書体験に遭遇したことはなかった。私は万感の思いを込めて、店主に告げた。
「お勘定をお願いします」
「……すみませんねえ、お客さん」
何だと、貴様。まさか、この期に及んでさらに注文しようというのか。既に完読しているので、今更帰れと言われても別に痛くも痒くもない。しかし、せっかくの夢見心地に水を差されたのは許しがたい。今日という今日は、たとえ出禁をくらうとしても徹底的に抗議してやる。
「……最後まで作品を読んだお客さんの幸せそうな表情が、うちの小説代なんですよ。それ以上、一銭たりともいただくことはできません。またお越しください」
もし目の錯覚でないのなら、あの不愛想な店主がほんの一瞬だけ笑顔を浮かべた気がした。なぜだか少し視界がぼやけてしまっていたので、断言はできない。一つだけ確かなのは、私はこれからもこの注文の多い小説屋の常連客であり続けるということだ。
些細な不満点を挙げるとするなら、終始「すみませんねえ、お客さん」という声かけへの恐怖や、禁止事項を犯していないかの確認作業で頭が一杯だったため、小説の内容については全く思い出せないということだろうか。