怖いけど私達の味方なんです。
「きゃあああああぁぁぁぁぁあああああ――――ッ!!!!!」
私は叫んだ。
十五年という歳月の中でも、間違いなく最大の音量で、叫んだ。
もし家族が家にいようものなら、あまりのやかましさに怒られていただろう。
私が住んでいるこの家が、周囲から少し離れた場所に建った築三十八年の、良く言えば『由緒ある』、悪く言えば『古い』一軒家じゃなかったなら……ご近所からクレームが入っていたかもしれない。
とにもかくにも、私は高校の制服を着替えることも忘れて、その姿に視線を釘付けにさせていた。
壁にへばりついた、私にあんな悲鳴を上げさせた諸悪の根源……。
それは、一匹の『クモ』だった。
たかだかクモでそんな声出すなって? それは確かにごもっとも。そりゃ、私だってクモくらい数え切れないほど見てきた。今さらクモくらいで、こんなバカみたく騒いだりなんてしない。
でも違うの、今私の前にいるそのクモは……『とにかく大きい』。
どんだけ大きいかって、私が知っているクモの数倍はあろうサイズ。八本の脚を広げたらもう、CDくらいの大きさはありそう。
こ、怖い……こんなでっかいクモ、今まで見たことない。
とにもかくにも、こんなクモが部屋にいたら恐ろしくて夜も眠れない。
掃除機で吸う、という案が真っ先に浮かんだ。
でも、それは早々に却下する。だって、そんなことしたら死んじゃう……。
ならば別の手段……ティッシュ越しに脚を掴んで、窓から外に逃がそうかと考えた時だった。
その巨大グモが突如、移動を開始したのだ。
しかも、私のほうに一直線に。
「きゃあ――ッ!!!!! きゃあ――ッ!!!!! 来ないで来ないで、やだやだやだやだやだ!!!!! まじやだもう、いやあああああぁぁぁぁぁあああああ――ッ!!!!!」
巨大グモは、その長い足をガサガサ動かして絨毯の上を闊歩し、私はもう半狂乱に陥った。
ていうかやばい、こんな騒音じみた悲鳴上げまくってたら、寝ているお父さんに怒られて……。
――お父さん?
あ、そっか。バカだな私、何考えてるんだろう。どれだけ騒いだところで、お父さんに怒られることなんてありえないのに。
だって、だってお父さんはもう……この世にいないんだから。
「はあ……」
ほんの少し前まで騒ぎまくってたのが嘘みたいに、急に気持ちが沈み込むのが分かった。
よろよろ歩いて、部屋のソファーに座り込む。俯いて溜息をつき、悲しい現実に直面する。
お父さんが亡くなったのは、三か月前のことだった。
ここからほど遠くない工場で、夜勤専門の従業員として働いていたお父さん……その日もいつも通り、午前八時頃……仕事を終えて帰路についていたお父さんを、車が撥ね飛ばした。
聞いた話では、車に轢かれそうになった女の子を助けようとしたんだって。赤信号を無視して、横断歩道に車が突っ込んできて……お父さんは、危うく轢かれかけたその女の子を突き飛ばして、代わりに……。
女の子は助かった。でもお父さんは、私とお母さんと、六つ下の弟と、おじいちゃんとおばあちゃんと、それにお母さんのお腹にいる赤ちゃんをを残して……命を落とした。
もうすぐ産まれてくる新しい家族、その顔を見ることなく……死んでしまった。
「お父さん……」
未だに私は、お父さんがもういないという実感が湧いてない。
いたずら好きでどこか子供っぽくて、よく私や弟にちょっかいを出してきて……でも力が強くて、頼りがいがあって、かっこ良かったお父さん。
家にゴキブリが出たら、『離れろお前ら、俺に任せろ!』なんて言って率先して退治してくれた。私も弟も、ゴキブリが大の苦手だった。というのもお父さんが、『ゴキブリは人を殺しかねない恐るべき生き物だ』、と教えてくれたから。
今思えば……お父さんのゴキブリスレイヤーぶりは凄かったな。
でも、もうゴキブリが出ても助けてもらえない。いたずらされることも、ちょっかいを出されることもない。お父さんと笑い合うことも、語り合うことも、励ましてもらうことも、慰めてもらうことも、私が所属してる吹奏楽部の演奏を見に来てもらうことも……もう、できない。永遠に。
気づいたら、涙で視界がぼやけ始めていた。やだ……もう泣かないって決めたのに。嫌というほど泣いて、泣きつくしたから……元気を出そうって決めたのに。
その時だった。
「よう、そんな悲しい顔してどうしたんだ?」
不意に話し掛けられて、私はビクッと身を震わせた。
思わず部屋の中を見渡す。当然ながら、誰の姿も目には入らない。
でも、声は間違いなく聞こえてきたのだ。一体誰……? そう思った時だった。
「おーい、こっちこっち」
まるで友達を誘うような気軽な口調で、またその声がした。
だ、誰……!? 私は恐る恐る声の元をたどり、視線を下げていく。
その先にいたのは、さっきのクモだった。
「……へ?」
間抜けな声を発する私。するとクモは、人が友達相手にそうするかのように……その前脚の一本を上げた。
「よう!」
――私は、また悲鳴を上げた。
いい加減くどいと思うから、具体的にどんな風に叫んだのかは省く。
「やかましいぞ、近所迷惑だろ」
そのクモを除けば、この部屋には私以外の誰もいない。隠れられる場所も存在しない。
つまり、私に話し掛けてきているのはそのクモ……って、そんなわけないじゃない!
「誰、誰なの? どこに隠れて……!」
隠れられる場所なんかないってさっき確認した、でも私は現実が受け入れられずに、また部屋の中を見渡した。
「いやいや、俺だってば。どこにも隠れてなんかいないって、目の前にいるだろ?」
いよいよもって、私は受け入れざるを得なくなってしまった。
さっきから話し掛けてくる聞き覚えのない声、その主が、目の前にいるこの大きなクモなのだと。
「う、嘘……クモが、クモが喋って……!?」
「喋っちゃ悪いのか?」
しれっとした声で問い返してくるクモ。
い、いや、悪いかどうかって、別に悪くはないけれど……とにかく私は、驚きで歯切れのいい反論を即座に見つけ出せなかった。
「だ、だって……クモが喋るなんて気持ち悪いじゃん!」
いかにもその場しのぎな感じで言うと、クモはため息をついた。
「おいおい、ひどいこと言うな。俺は日夜、お前やお前の家族のために戦ってるってのに」
「は? 何言ってんの?」
するとクモは何の前振りもなしに、恐ろしいことを口にした。
「この家、ゴキブリがたくさんいたぞ」
「ええっ!?」
私は驚いた。
驚いたけれど、すぐにそのクモの言葉を鵜呑みにすることが間違いであることに気づいた。
「って、そんなの嘘よ……このところはゴキブリなんてほとんど見かけないもの」
まったく見ない、と言えば嘘になる。
最後の記憶では、家でゴキブリを見たのは確か四日くらい前のことだった。
その時は、私がゴキブリを退治する役を買って出た。お母さんも弟もゴキブリを怖がってやりたがらないし、いつもゴキブリをやっつけてくれていたお父さんはもういなかったから……だから、私がやるしかなかったのだ。
丸めた新聞紙で叩いて、気絶したゴキブリをティッシュ越しにつまんで窓から捨てる……たったそれだけの作業でも、身の毛もよだつようなおぞましさに襲われた。
何回も何回も石鹸で手を洗いながら、お父さんのありがたみを身に染みて感じたものだった。
「当たり前だろ、俺達が退治してるんだから」
「お、『俺達』?」
クモの言葉に、私は問い返した。
「この家には、俺の仲間のアシダカグモが二匹いるのさ。その中でも、捕食したゴキブリを放置しないで外に捨てるのは俺だけだけどな」
「えっ、他に二匹もあんたみたいなクモがいるって言うの!?」
驚いた私がそう言うと、クモはその脚でぽりぽりと頭を掻いた。
やれやれ、とでも言いたげなその仕草は、まるで人間そのものだった。
「まったく、まだ分からないのか……俺達がいなかったら、この家はゴキブリの天国だぞ? お前らの目の届かない場所に、一体何匹のゴキブリが潜んでいるのかなんて分かったもんじゃないんだからな。それともお前は、俺達アシダカグモ数匹よりも、何十匹……下手すりゃ何百匹ものゴキブリと一緒に生活したほうがマシだと思うか?」
「そ、それは……!」
何十匹、何百匹ものゴキブリ……想像しただけでもう、食欲が失せそうだった。
「少し話題が逸れるが、害虫は大きく三つのカテゴリーで区分されるんだ。雑菌やウイルスを媒介する『衛生害虫』、食品を食い荒らしたり、電化製品の内部に侵入して故障させ、経済的な損失をもたらす『経済害虫』。あとは実害こそないけれど、その見た目で人の気分を害する『不快害虫』だな」
「うんうん……」
すらすらと説明するクモ、何だかタメになる話だと感じた私は思わず、彼の話に聞き入っていた。
「こんな見た目だから、俺達クモは『不快害虫』認定を受けてしまっているんだが……ここでひとつ問題だ、衛生害虫、経済害虫、不快害虫……ゴキブリはどれに当てはまると思う?」
「えっ、どれって……」
不意に振られた質問に、私はさっきの話を思い出した。
雑菌やウイルスを媒介する衛生害虫。
食品を食い荒らしたり、電化製品の内部に侵入して故障させ、経済的な損失をもたらす経済害虫。
実害こそないけれど、その見た目で人の気分を害する不快害虫。
ちょっと待って、ゴキブリって排水口とか汚い場所から侵入するって聞くし、雑食で何でもかんでも口にする……残飯とかお菓子の食べカスはもちろん、ホコリとか人の髪の毛とか仲間の糞とかも食べるし、倉庫に保存されていた貴重な資料とか絵画が食い荒らされたこともあるらしい。そしてもちろん、黒くてカサカサ走るその姿を見るだけでも不快だ。
つまり……。
「そ、それ全部に当てはまるんじゃないの!?」
その言葉を待っていた、と言わんばかりに、クモはその脚の一本をずびしっと私に向けて伸ばした。
「その通り! ゴキブリは衛生害虫であり、経済害虫であり、不快害虫でもある。つまり三つのカテゴリー全部に当てはまる、まさに害虫の筆頭格、害虫三冠王だ!」
クモは言う。
「あいつらは人気のない下水道やゴミ置き場を徘徊するから、食中毒を引き起こす雑菌や細菌を大量に持ち込む。飲食店でゴキブリが出たのを客に見られでもしたら評判はガタ落ち、商売あがったりだ。さらに奴らは温かい場所を好む、電化製品内部に侵入すれば故障の原因になるし、漏電して火災が起きることもあるんだぞ」
「か、火災……!?」
驚いた。
不潔な体で歩き回ったり、人に不快感を与えることは知ってたけど、まさかゴキブリが電化製品を壊したり、火事の原因になるだなんて知らなかった。
「人がゴキブリに噛みつかれればアレルギー症状の原因になるし、ペットがゴキブリを捕食してしまったら感染症や寄生虫に侵されることもある……分かったろ? お前達が思っている以上に、ゴキブリとは害の多い生き物なのさ」
お、恐ろしい……。
正直私は、お父さんが率先してゴキブリ退治を引き受けてくれたのは、ただの見栄かとも思ってた。
でも、違ったんだ。ゴキブリがどんなに危険で害の多い生き物なのか、お父さんは理解していたんだ。だから、私達を守るために……。
「で、そんなゴキブリをやっつけるエキスパートが、俺達アシダカグモというわけだ」
そういえば、さっきもこのクモは『アシダカグモ』という言葉を口にしていた。
察するところ、彼の種族名みたいだけど……聞き慣れない種類だった。
「エキスパート? どういうこと?」
「スマホで検索してみろ、分かるはずさ」
クモに言われるまま、私は制服のポケットからスマホを取り出して、『アシダカグモ』というワードを打ち込んで検索をかけた。
アシダカグモに関する記事を見つけた私は、その内容に思わず目を見張った。
クモと聞けば、巣を張ってそこにかかった虫を食べるイメージがあった。でも、この日本最大級の大きさを誇るクモは巣を張らず、人家に住み着いて獲物を探すのだという。
もちろんゴキブリも捕食対象だし、蚊やハエとか、他の害虫も。個体によっては、ネズミを捕食することもあるらしい。
しかもアシダカグモは自分の消化液を頻繁に体に塗り付ける習性があって、その殺菌作用でいつも清潔さを保ち、ゴキブリのように雑菌を運ぶことはない。
さらに彼らは臆病だから、自分より大きな人間には進んで近づかない。だけど獲物に対してはとても獰猛で……捕まえた獲物を食べている最中でも、別の獲物が視界に入った瞬間、すぐさま食事を放棄して狩りを再開するんだって。
「す、すご……!」
思わず声が出てしまった。
アシダカグモは、その敏腕ぶりからネット上では『アシダカ軍曹』と敬称されるほどで、このクモが数匹いる家のゴキブリは半年で全滅するとの記録もあるようだった。
外見がアレだから受け入れられない人もいるみたいだけど、それさえ乗り越えられれば最高の益虫、家の守り神なんだって。
「分かったか?」
「うん、分かった。ていうか見直した……あなた、すごいクモなのね……!」
不思議なんだけど、ほんの数分間話していただけなのに、クモが喋っているということに対する違和感や恐怖感が薄れていくのが分かった。
このクモが、とてつもない益虫だということを知ったからかもしれない。でも何だろう、懐かしさというか……とにかく表現できない気持ちが、胸に湧き出る感じがしたのだ。
「はは、ありがとう。でも反面、さっきも言ったが……俺達はこんな見た目だから不快害虫認定も受けちまってる。俺達を見かけたら、すかさず殺虫スプレーを持ち出す人間もいるのさ」
それを聞いて、私は彼が……いや、クモという生き物がどこか不憫な存在に思えた。
聞いたことがあるけれど、日本にいるクモのほとんどは人間に作用するほどの強い毒は持っていない。そういうのは『セアカゴケグモ』とか、少数の種類のクモだけだという。
害虫をやっつけてくれているのに、その見た目が怖いせいで嫌われることもあって、時には殺されてしまう……あんまりだと思った。
「あ、あの……さっきはごめんなさい。私、あなたを見て悲鳴を上げたり、気持ち悪いとか言って……!」
「いや、いいのさ。いたって普通の反応だからな。でも、分かってくれて嬉しいよ」
私の謝罪に応じると、クモはくるりと背を向けた。
「さて……そろそろ行くか。仲間達が待ってるし、もうこの家のゴキブリも狩り尽くしたことだしな」
「えっ、行っちゃうの?」
気づけば、私は彼を引き留めていた。
クモは振り返った。
「ああ。ゴキブリがいないってことは、俺達のエサも無いってことだからな。悪いけど窓、開けてくれるか?」
「うん、分かった……」
少しばかりの名残惜しさを感じたけれど、いつまでもここにいるわけにもいかないのだろう。
クモとのお別れが、こんなに寂しく感じるだなんて……ほんの数分前には、考えもしないことだった。私の中で、クモという生き物の理解が変わった。
彼らは見た目は怖いけど、私達の味方なのだ。
「その、ありがとう。今までもこれからも、私は家の中に入ってきたクモを殺したりしないから」
窓を開けて、アシダカグモが通れるくらいの出口を確保しつつ、私は告げた。
するとクモは壁をよじ登ってそこに向かい、窓枠に立ったところで立ち止まった。
「分かってる。君は優しい子だ」
そして、
「会えて嬉しかったよ、詩織」
えっ? 私は驚き、そして疑問を抱いた。
それもそのはず、一度も名乗っていないはずなのに、アシダカグモが私の名を呼んだからだ。
どうして私の名前を? そう問うより先に、アシダカグモはその前脚を曲げ、まるで『サムズアップ』のようにしてみせた。
「っ……!」
それを見た瞬間だった。
鏡の欠片を散りばめるように、私の頭の中にお父さんの姿が浮かび上がったのだ。ゴキブリを退治してくれた後、お父さんはいつも満面の笑みを見せながらサムズアップした。
このアシダカグモに感じていた親近感、このサムズアップ、それに、ゴキブリを退治してくれるという共通点……。
「お父さん……!?」
気づいた時には、涙で視界が潤んでいた。
アシダカグモは何も答えず、人が別れを迎える相手に手を振るように、その前脚を振った。
「お父さん!」
私の呼び声を振り切るように、アシダカグモは窓の外に消えていった。
窓から身を乗り出したけれど、もう彼の姿はどこにもなく――家の壁と、庭の景色が広がっているだけだった。
「お父さん、お父さん……!」
溢れた涙が私の頬を伝って、次々と流れ落ちていった……。
◎ ◎ ◎
「詩織、いってらっしゃい」
「うん、お母さん」
私はその日も、登校しようと家を出た。雲ひとつない澄んだ空で、本当にいい朝だった。
靴を履いて、通学用鞄を手に取って、玄関扉を開けて自転車小屋に向かおうとした時だった。
花壇を囲むレンガの上に、アシダカグモがいた。
この前と違って、もう私は驚くこともなければ悲鳴も上げず、少し笑みを浮かべて、
「お父さん、お疲れ様。いつもありがとう」
【アシダカグモ】
脚を広げるとCDほどの大きさにもなる、日本に生息する中でも最大種のクモ。徘徊性で、網を張らずに獲物を探し歩く。外来種で本来日本には生息していなかったが、一八〇〇年代後半に長崎県で初めて確認された。
そのインパクトのある見た目から誤解されがちであるが、人間への攻撃性、また人間に作用するほどの毒は有しておらず、網を張らないので家屋を汚されることもない。
見た目からは想像できないほど俊敏で、ゴキブリを初めとしてハエや蚊などの衛生害虫も捕食してくれる益虫である。捕食中に別の獲物を視界に捉えると、食事を中断して狩りを再開する習性があり、一晩で二十以上のゴキブリを捕食した観察記録も存在する。
さらに本種は自らの消化液を体に塗り付ける習性があり、その殺菌作用で常に自身を清潔に保っている。またクモ類の例に漏れず、消化液を獲物に注入して吸い込む捕食方法(体外消化)を行うため、本種が雑菌を運ぶリスクは極めて低い。
その能力ゆえに、ネット上では『アシダカ軍曹』と敬称されるほどに人気のあるクモである。
外見が外見なので不快害虫認定を受けてしまっている本種であるが、最強の益虫としての功績は今もなお敬意を集め続けている。
どうか見た目だけで判断しないで。
彼らは、怖いけど私達の味方なんです。