摩通と月の都の姫
かぐやの病が癒えると、再び、侍女がたくさんの恋文を運んでくる日々が戻ってきました。
そんな時です。
「姫、姫さま!」
あわただしくかけてきたのは、かぐやの父親の翁です。
そろそろ涼しくなってきたなと思いはじめたある日のことでした。かぐやは、烏たちにえさをやったあと、静かに手習いにはげんでいます。なので、摩通もちょっときゅうけいをするつもりで、縁側に出て、ごろりと横になっていました。そこに翁が走ってきたので、もう大変です。摩通は翁がつまずかないように、だいぶ向こうまで転がっていきました。
「父上さま………?」
筆をおいたかぐやの前にどっかりと座りこむと、翁はぜいぜい言いながら、文をさしだしました。
「帝が、姫をぜひお妃にとおおせでありますぞ!」
「――だれからですって」
「帝からじゃ!」
「………おことわりしてください」
「姫、帝からのお申し出でありますぞ!」
「お育ていただいた父上には、申しわけないと思っております。ですが、わかっていただきたいのです」
「わかってください」と、かぐやはかたくなに繰り返しました。
「なんと!」
今日ばかりは、翁とて、簡単に引き下がるわけにはいかないようでした。
「この国に生まれた女子の、これ以上ない幸せなのですぞ!」
「それでもです」
頑として、かぐやはゆずりません。こわばった眉根と、真一文字に引き結んだ唇が、決意の固さを表しているようでした。こういう時、かぐやは絶対に折れません。自分以外の何者にも屈しないのが、このお姫さまなのでした。
翁は、燃えつきたような表情で部屋を去っていきます。摩通も、ぼうぜんとその背中を見送りました。
「どうして、そんなに意固地になって」
摩通は、かぐやの心が今一つ分かりませんでした。
「そんなに、突っぱねる必要があるかな」
翁が言った通り、この国に生まれた人間には、帝の大事にされるところになるというのは、立派な名誉だと思うのです。
「大ありよ」
かぐやは、憤っていました。
「わたくしは、これではかごの鳥。自分で自分の生きる道を、選び取ったことなど一度もないわ。わたくしは、根っからの高貴の姫君なんかじゃない。小さい頃は、竹やぶを駆け回って遊んでいたわ。夜になると、隙間だらけの屋根からのぞく、きれいな月を見上げて眠るの。それだけ、覚えている。育ててくれたばばはいい人だったけれど、年よりだったから、その人が死ぬと、商人に引き取られたの」
かぐやは、ほろほろと涙をこぼしました。
「わたくしは、人形じゃないの。わたくしは、竹やぶで遊ぶ、ただの女の子だったのに」
「だから、どこかに、月に帰ってしまいたいのか」
摩通は、静かに問いました。
「帰ってしまいたいのか、生まれた竹やぶに。月の見える家に」
「そうよ」
かぐやは、嗚咽をがまんして、歯を食いしばって言いました。
「わたくしは、父上が好き。母上も好き。けれど、憎んでしまう前に、消えてしまいたいの」
「それじゃあ……」
摩通は、自分で自分の考えにおどろいていました。
「おれが言うとおりにするんだ」
「いったいなによ」
「『月の都の姫』の物語だよ」
「それがどうしたというのです」
「かぐやは、じつは竹から生まれたもののけで、この十五夜に月に帰らなければならないって、そういううわさを都じゅうに流すんだ」
あっけにとられたように、かぐやはこちらを見つめています。もう涙はすっかり引いていて、摩通は、それに気づいて、胸をなでおろしました。
「そうすれば、帝もあきらめるんじゃないかな」
「そうね」
かぐやは、力なく、両手をぽんと打ちました。摩通を心配させまいと思ってなのか、普段通りに笑おうとします。
「あなた、こういう作戦を考えるのだけはぴかいちなんだから……」
「そりゃあどうも」
(おれの言うことを、信じてないな。慰めの冗談だと思っている)
摩通はそう察したので、狐がよくやるように、ふんと鼻を鳴らしました。もう、かぐやにこういう皮肉を言われるのにはなれっこです。
「そんなの朝飯前さあ」
摩通が、鳥たちのあいだで『かぐや姫』のうわさを流してほしいというと、鷹彦はきらりと目を光らせました。
「鳥たちはおしゃべりだからな。都は広い。鳥の言葉がわかる人間も探せば多少いるだろうし、すぐにうわさは広まるぜ」
その言葉は嘘ではなかったようで、次の日、摩通が都の上空を飛んでみると、あちらこちらで、その噂を耳にしました。小鳥たちのさえずりが、そろいもそろって、『かぐや姫』を語っているのです。
そのうち、人間たちの中にも、そのことを口にする者が出てきました。最初は、幼い牛飼い童から。彼の話を冗談半分に言いふらした者から、また別の者へ。それが主人の貴族に伝わり、また、別の貴族に伝わっていく。
巡り巡って、翁の耳に『かぐや姫』の話が入ったのは、三日後のことでした。
「おまえを、月の都の姫なのだとか言って、騒ぎ立てる者がいるのじゃよ。気にするでない。おまえが、帝の御心をとらえてしまったゆえ、うらやましく思って、邪魔をする輩がいるのだろうよ」
翁は、冗談めかして言いました。
それを、うつむいて聞いているかぐやは、いったいどんな思いなのだろう。摩通は、してやったりといった心持でした。これで、ちっとも信じていなかったかぐやも、少しは摩通を見直すに違いないのです。
かぐやは、唐突に口を開きました。
「わたくしは、月の都の姫なのです、父上」
思わぬ告白に、翁は腰を抜かしました。
「またまた、姫よ、翁を驚かせようとして」
かぐやは、首を振りました。
「父上は、ごぞんじないでしょう、わたくしが父上のところにくるまでに、本当はどんな道をたどってきたのかを」
おごそかに語るかぐやは、本当に、月の都の姫のようでした。
「わたくしは、竹から生まれました。ぐうぜん見つけてくださった竹取は、わたくしをゆうふくな商人に売りました。そうして、父上にひきとられたのです」
翁は、言葉を失っています。
「わたくしは、帝のもとへはまいりません。この十五夜に、月へ帰ります」
「じゅ、十五夜とな……今晩、今晩ではないか」
かぐやは、わずかに眉を上げました。
「それでは、今晩、月に帰ります、と」
(数えていなかったな……)
摩通は、心の中でふっと笑いました。かぐやらしいと思ったのです。
すぐに、話は帝に伝わりました。大勢のもののふたちが、屋敷に集います。かぐやを行かせまいと、帝が翁に貸し与えたのです。
屋根に立っていた摩通は、庭に舞い降りると、まっすぐ、かぐやの部屋の縁側に飛び移りました。
かぐやは、翁と媼にしっかりと肩を抱きかかえられ、御簾の中に座っています。
「かぐや」
摩通は、呼び掛けました。
「かぐや、行くのか、行かないのか」
「行くわ!」
かぐやが、翁と媼の手を振りほどいて立ち上がると、肩にかけていた打掛が、はらりと落ちました。
「わたくし、行く。摩通を信じて、行けるところまで」
摩通は、思わず微笑みました。
「じゃあ、来い」
かぐやが駆け出すと、止めようとする侍女たちが追いすがります。摩通は、かぐやが伸ばした手を、力強くつかみ取りました。
「よしきた!」
鷹彦の合図で、烏たちのはばたきが、かなたから聞こえてきました。弥助を先頭に、都じゅうの烏とも思える大集団が、夜空をおおいつくすように黒くうごめいています。烏たちは、どこからかっさらってきたのか、白木でできた小舟をぶら下げています。
屋敷につめかけた人々は、もののふも野次馬も、みなが驚きの声を上げました。そうして、ぼうぜんと、夜空を見上げるしかなかったのです。かぐやが、見えない何者かに手を引かれて、烏たちが折り重なって作る階段を、空へ向かって登っていくのを。
「おい、摩通、どこまで行くか?」
鷹彦は、いたずらっぽく尋ねました。
摩通りは、迷わず答えます。
「竹やぶに行く」
「おい、それどこだよ」
「おれが団扇でつれていくさ」
人々の驚きが、次第に嘆きへと変わっていきます。
かぐやは、振り返ることはせず、その瞳に涙を浮かべていました。それが、どういう涙なのか、摩通には、分かりませんでした。彼女は迷いのない表情で月を見上げています。何一つ、間違ってなどいなかったのだと、摩通は、自分のしたことを信じることができました。