摩通と悪霊
熊野から帰った後、かぐやは、ほんの少し熱を出しました。天狗の団扇で、高速で飛び回ったり、歩き慣れないのに無理をしたことがたたったのでしょう。
翁や媼は薬師を呼びにやったり、侍女に水を持ってこさせたりと大騒ぎです。全く、人間というものは、狐よりも病に弱いため、ささいなことで命を落としかねないらしいのです。しかも、天狗は、一人前になると時を巻き戻すことができるので、老いも病も気にしなくて良くなります。摩通にとって、人間の持つ感覚は、ものすごく遠いものだったのです。
人間たちが忙しく駆け回る屋敷の中で、かぐやは、まんじりともせず眠り続けていました。
摩通の方でも、少し疲れていたので、日中はのびのびと、本来の姿で過ごすことにしました。もちろん、かぐやのことは気にしています。時々、熱に浮かされてなのか「摩通……」と蚊の鳴くような声で呼ぶので、その度に立って行っては、枕元で丸くなるのでした。
夕暮れ時、ついうっかり、かぐやの枕元で寝込んでいた摩通でしたが、にわかに、毛を逆立たせました。そうです、摩通は今は、立派な赤茶色の狐なのです。
「だれだ」
低くうなって、目の前の影をにらみつけます。
「やあ、きみはこのお姫さまの使い魔かい?」
小さな炎のような気配が、一気に燃え広がって、ぼんやりとした人の形に寄り集まりました。摩通が立ち上がると、とがった爪が、寝床の畳に鋭くもぐりこみました。
「ちがうね」
「じゃあ、ただの飼い犬だね」
「どうでもいい」
摩通はうなりながらしっぽをふくらませます。
「おまえ、人間じゃないな」
人の形をとった炎は、しばらく揺らめいた後、ようやく姿を定めて、静かにたたずんでいました。
「どうしてそう思うんだい?」
「かげがない」
噛みつく勢いでそう答えると、相手は面白そうに笑います。
「きみだってそうさ」
「でも、おれはちがうさ」
「そうかい」
嫌味っぽく笑うと、相手はかぐやに視線を投げかけます。
「でもね、ぼくは人間にたよらないと生きていけないからね」
「どいういうことだ」
「この子の叫びを聞いて、せっかく、住み着いてあげようと思ったのに。ぼくは、そうやって人の魂を食べ、身体を借りる。現世を早々に終わらせて、新しく生まれ変わるのと引き換えに」
(――こいつは、悪霊だ。病魔だ)
摩通は歯噛みしました。天狗にとって、難敵でした。老いも病もないので、つまりは、お互いに相容れない存在なのです。
勝ち誇ったように、病魔はこちらを見やります。
「きみだってそうだろう?」
摩通は、言い返す言葉が見つかりませんでした。
「きみは、この子に寄生しているのさ。相棒なんて、言葉だけの契約さ。きみは、ただ食い扶持を探していたのさ。一人前になるために、この子を使っているのさ」
(それは、ちがう……)
摩通の爪が、いよいよギシギシとなりました。
「おれは、この子とは対等だよ。ただ、ほんの少し、この子がおれにとって重要だということがまさっているだけさ」
「へえ」
「去れ!」
掴みかかると、爪が虚空を切りました。
そこにはもう、病魔の姿はなかったのです。摩通は、狐につままれた(そう言って正しいのかどうかはさておき)そのような気がしましたが、ふと「病は気から」という言葉を思い出しました。かぐやに変わって、摩通の覇気は、病魔を追い返したのです。