摩通と熊野詣
「熊野に行きたい」
これまた、夏も近づいたある日のことです。かぐやのとんでもないわがままが発動しました。
「聞こえなかったの、わたくし、熊野に行きたいの」
「なんだって!」
摩通は思わず大きな声で言いました。もちろんです。熊野はとても遠いところなのですから。
「団扇を使えばかんたんなのでしょう」
かぐやはかんたんそうにそう言いますが、摩通はぎゅっと顔をしかめて見せました。なぜなら、熊野まで団扇でひとっとびできたとしても、危険すぎます。かぐやのようなお姫さまが一人で外をうろうろすることなんて、まずありえないのですから。
「そりゃあ、団扇を使えば行けるさ。だけど、おれしかおともがいないんじゃ、かぐやがあぶないじゃないか」
「あら」
かぐやは目をぱちくりさせた。
「あなたがそんな心配をしてくれているなんて、わたくしとっても意外です」
摩通はちょっと赤くなりました。けれど、それには気づかないふりをします。
「――なんで、きゅうに熊野に行きたいなんて言い出すんだ」
落ちつくためにも、とにかく、わけを聞きくことにしました。
かぐやは、御簾から出てくると、からかうように摩通のまわりをぐるぐると回りました。
「知らないの?」
「なにをだ」
かぐやをふりきろうと、摩通は天井まで飛び上がりました。
「近ごろ、都の貴族たちのあいだで、はやっているのよ、熊野詣が」
摩通を見上げると、かぐやは「本当に世間にうとい人ね」と言いました。
「熊野に詣でたら『生きながら浄土に生まれかわる』と言われています。わたくしも、この世界を飛び立ってみたいの」
これには、摩通は言い返せませんでした。かぐやは、ただの物見遊山ではなく、命のせんたくをしに行きたいと言っているのですから。
「しかたがないな」
摩通はため息をつきました。
今、目の前には、十人の若者たちが立ち並んでいます。
「やあ、ほんとすごいや、主」
つるつるした人間の肌をさわったり、着物をながめたりしながら、若者たちはかあかあと言いました。
「おい、その烏語はやめろよ」
摩通は注意しましたが、若者たちは「わかったよ」と言いながらも、かあかあと笑いました。どうやら、ききめはないようです。
(本当に大丈夫かな)
かぐやを守る役目に烏たちをばってきしたのはいいものの(摩通には、彼らしかたよれる存在がありません)烏たちは自由ほんぽうで、言うことを聞きそうにありません。これでは、彼らにわざわざ術をかけた意味がないのです。
「いいか、おまえたちは、かぐやのおともなんだぞ。しっかりやれよ」
「そりゃあな!」
鷹彦は胸をはってうけあいます。
「主が、一生に一度かもしれない経験をさせてくれるんだもんな!」
摩通と烏たちは、目と目をみかわしてうなずきました。これで、かぐやを熊野につれていく準備がととのったのです。
「いいか、これから、団扇で熊野まで飛ぶけど、ものすごい風が吹くから、気をつけるんだぞ」
「おいらたちをなんだと思ってるんだよ、烏だぞ」
あいかわらずかあかあ言う烏たちにうんざりしながら、摩通はかぐやを、その中心につれてきました。
「みんなでかぐやを囲んでくれ」
摩通は高く舞い上がると、大きく団扇をふりかぶりました。最初の風で、都の上空に出ました。二回目の風で、もう熊野です。みんな、目をまわしています。
「お、こりゃ、発心門王子だな!」
鷹彦が声をはりあげました。
「鳥の世界でも有名だからな。ここから歩けば、熊野大社は………まだけっこうあるな」
若者の姿の烏たちが道をあけるよりはやく、かぐやが彼らをおしのけるようにして飛び出してきました。
「いいわ。さあ、歩きましょう」
けれど、かぐやのそんな元気も、しばらくするとどこかにいってしまいました。「足がいたい」「のどがかわいた」と、泣きそうな顔でこちらを見るのです。
(ほら見ろ)
摩通は知らんぷりをしていました。だって、わがままをなんでも聞いてくれる忠犬だとは、絶対に思われたくありませんから。
かぐやのほうを見ないかわりに、摩通は熊野の景色をたっぷり楽しみました。なだらかな山道がつづきますが、緑がとても美しく、風もすずしいので、ちっとも苦にはなりません。かぐやも、こういう景色を楽しみながら歩けばいいのにと、摩通は考えました。
「なあ主」
そんなときです。前方にちょっとした上り坂が見えてきました。また、かぐやが文句を言いそうなよかんがします。とうとう見かねたのでしょうか。鷹彦がとなりにならんで言いました。
「さすがにさ、もうおぶってやりなよ」
「じょうだんじゃない」
大きな声を出しそうになって、摩通はせきばらいをしました。
「おれがそんなことしたら、かぐやが宙にういているみたいに見えるじゃないか。」
「そりゃあけっさくだぜ!」
かぐやがふわふわと空中をただよっているすがたを想像したのか、しばらくかあかあ笑っていた鷹彦でしたが、ふと真顔になりました。
「なあ、主と姫とは、おれたちのような主従じゃないだろう」
それは、思ってもみない言葉でした。
「一人で生きるのに、慣れすぎているんだよな、主は」
「そんなこと……」
言いさして、摩通は口をつぐみました。そのかわりに、前を歩くかぐやの背中を見つめました。
「な、そういうのって、なんか寂しくないかい?」
摩通は、少し考えました。けれど、分からない、というのが正直なところでした。ずっと昔は、藪の中から里の灯を見つめて、心がしめつけられるような気がしたこともあったように思います。それでも、摩通は、強くなってきたのです。一人で、自分自身を守ってきたのです。
「かぐやは、なぜおれを相棒にしてくれると言ったんだろう」
「さあね」
鷹彦は、頭の後ろに手を組みながら、声を張り上げました。
「でもさ、どちらにしろ、その手を取るかとらないかは、主の今後に関わると思うけどね」
「何を、えらそうに」
摩通は、苦笑しました。自分の中に湧き上がってきた感覚が何なのか、つかめそうでつかめのが、どことなく、もどかしい思いがしたのです。
一つ呼吸をすると、摩通は、早足でかぐやに追いつきました。
「おい」
「なによ」
摩通から声をかけたのが、よっぽど珍しいのか、かぐやは目を丸くしています。
「肩を貸そう。おぶってやることはできないが」
「おぶって、なんて、わたくし、まだ頼んでいません」
そう言いながらも、かぐやはうれしげに、摩通の腕にすがりました。
やりとりを聞いた烏たちの、かあかあと笑う声が響きました。摩通はとてもばつが悪いような気がしましたが、かぐやの方では、心なしか、満足げな表情を浮かべていました。
「なかなか、楽に歩けるわ。あなたも、熊野に来たら少しは心が洗われたんじゃないの。きゅうに、気が利くようになるんだから」
魔通は、何も言うまいと思いました。摩通は、まったく人間のようには信心深くないし、気が利くようになったわけでもなかったのです。ただ、鷹彦に言われたかからだけではなくて、なんとなく、相棒というものの意味を、考えた結果だった気がしたのです。かぐやに、手を差し伸べてみても、いいんじゃないかと。
熊野の御社までは、まだ少し、歩かねばならないようです。摩通は、左の腕に、相棒というものの重みを感じながら、少し、ゆっくりと歩を進めていきました。
童話のつもりだったので途中までるびをふっていましたが、力尽きました。思い立ったら増やしてきます。