猫の怖いやつ
JAの直売所に納品に行った帰り、駐車場で美千代さんにつかまった。
「ねえねえねえ、ちょっと聞いてちょうだいよ」
美千代さんはお隣の奥さんだ。
『お隣』とはいっても、畑三枚を隔てているから、こんな時でもないと顔を合わせることなんてないんだけど。
美千代さんはうちの母と同い年ぐらいで、ともかくよく喋る。
行きあうと一時間や二時間の立ち話はザラで、人は悪くないんだけど、できればあまり出会いたくない相手ではある。
特にJAの駐車場は日陰がなくて、時間は昼も近くなった高い日差しがつむじの辺りをジリジリと焼くような真昼だった。
ここでまた美千代さんの長話を聞かされるのかと思うと、話を聞く前から少しうんざりした。
「私が奢りますから、ランチでも食べません?」
別に毎日会うわけじゃないんだし、美千代さんの長話に付き合う時間の余裕もある。
だけど、眩しいくらい日がさす日向で立ち話はキツい。
私はそう思った。
だけど美千代さんは私の意図など一つも汲んではくれずに--おしゃべりなおばさんとは、そう云うものだ--笑いながら片手を振った。
「あー、いいからいいから、すぐ済む話だから」
いつもそんなことを云うけれど、『すぐ済んだ』ことなんて一度もない。
少しうんざりした気分で顔を上げたそのとき、私は、美千代さんがひどくやつれていることに気づいた。
以前の美千代さんは少し太っていて、頬は肉がパンパンに詰まって血色も良く、焼き立てのパンみたいにふっくらとした丸顔だった。
その頬がげっそりとこけ落ちて、顔色も青ざめている。
肩や腰も一回り小さくなって、肌の艶も悪く、やつれたというよりは『萎びた』みたいな風情がある。
何か死に近しい病でも得たのかと疑ったけれど、そんなプライベートを聞けるほど、私と美千代さんは親しくない。
だから遠慮がちに。
「最近、お元気ですか?」
美千代さんは、それを単なる挨拶の言葉と思ったらしく、肩をさすりながら言った。
「この歳になったら、どこも全部元気ってわけにはいかないわよぉ、最近じゃ腕が上がらなくってねえ」
それは逆に、小さな不調がある以外は『元気だ』ということだ。
安心した私は、この話題を早々に切り上げようとした。
「それは大変ですね、それで、何か話があったんじゃないんですか?」
「そうそう」
美千代さんは急に声を顰めた。
「おたくにも、あの猫、来る?」
こちらが会話の内容を把握していないのに、いきなり本題を話すおばさん話法。
私は答えを見つけ損なって、「え?」と間抜けな声で聞き返してしまった。
美千代さんの方は私が単に言葉を聞き取り損なっただけだと思ったらしい。
「だから、猫よ、猫。あなたのところは隣だし、来るでしょう、あの猫」
私は少しうろたえた。
というのも、私はすでに二匹の猫を飼っており、これが畑を越えて美千代さんのお宅にイタズラでもしに行ったのかと、そう思ったからだ。
「あの……うちの子たちが何かしました?」
美千代さんはヒラヒラと手を振って私の言葉を否定した。
「いやだ、違うのよ、あなたのおうちのミーちゃんは、とても綺麗な縞模様じゃないの。そうじゃなくってね、とても汚らしい色をした猫が、うちの周りをウロウロしてるのよ」
「汚い色ですか?」
サビ色のようなはっきりしない毛並みなのか、それとも汚れているのか、どちらにしろウチの猫たちではないことだけは確かだ。
「野良猫ってことですよね」
美千代さんは目をギラギラさせて、どんと足を踏み鳴らした。
「そうよ、どこからきたのか知らないけれど、汚らしい野良猫!」
この時は単純に「美千代さんは猫嫌いなんだな」と思っていたけれど、今思うと、この時すでに美千代さんはおかしくなっていたのかもしれない。
彼女は足を踏み鳴らして怒っていた。
「本当に、あの猫が!」
まるで足元にその猫がいて、それを踏み殺そうとしているみたいに、何度も、何度も足を踏み鳴らして。
誰にでも嫌いなものはあって当然で、美千代さんの猫嫌いを否定する気はない。
私の場合はクモが嫌いで、大人になった今でも、だんだら模様の大きなクモを見つけてしまったりすると悲鳴をあげて逃げ出す。
農業を営んでいるのだから畑や庭先でクモを見かけるなんて良くあることなのに、いつまでたっても慣れない。
だけど、この時の美千代さんの暴れっぷりは、好き嫌いの範疇を超えていた。
眼が縦になるんじゃないかというほどまなじりを吊り上げ、口の端にはすり合されたよだれが白い泡となって張り付いて、まるっきり狂人の様相だった。
「猫って赤ちゃんみたいな声で泣くじゃない? あの気味悪い声! ときどき縁の下に入り込んで、あの声で泣いているのよ、夕方から、朝までずっと!」
私はこの話をさっさと切り上げて、この狂人から遠ざかりたいと思った。
けれど、猫好きの性がそれを許さなかった。
「よければその猫ちゃん、うちで保護しましょうか?」
私がいうと、美千代さんの狂気が僅かに和らいだ。
「あらあら、まあまあ、私、そんなつもりで言ったんじゃないのよ」
口の端の泡を拭いながらも、美千代さんの目はつりあがってギラギラしていた。
「でもそうよねえ、あなたのところはもう猫ちゃんがいるものねえ、いまさら一匹ぐらい増えたって、困ることはないんでしょう」
美千代さんは、こんな嫌味な言い方をする人じゃなかった。
確かに話は長いし独善的ではあったけれど、それは田舎のおばちゃんなら誰でもがそうであるような--「自分のところで炊いた煮物を持っていけ」や、「お子さん、どこを受験するの、え、N高、あそこは評判良くないからS高にしなさいよ」みたいな無遠慮な親しさであり、嫌味のないさっぱりとした性格だった。
それが猫一匹のことでここまで取り乱し、やつれ果てるとは……
美千代さんにとっても、そして猫にとっても不幸なことだと私は思った。
だから私はさっそく翌日、昼のうちに美千代さんの家を訪ねた。
「いらっしゃいねえ、あの猫なら、もうじき来ると思うわ」
美千代さんは私を家にあげて、お茶を出してくれた。
そこから取り留めない話をしばらく。
美千代さんのお子さんが二人とも今は他県に働きに行っていることや、美千代さんの遠縁のおばさんが最近死んだことなど、私にとっては本当にどうでもいい話ばかりだった。
私はそれに相槌をうちながら、猫が現れるのを待った。
20分くらいもたっただろうか、美千代さんの相手にもそろそろ飽きてきたそのとき、今まで饒舌だった美千代さんがピタリと言葉を止めた。
「来たね」
鼻の頭に皺が寄るほど顔を顰めて、美千代さんは低い声でうめいた。
「ほら、聞こえるでしょう、あの声!」
耳を澄ましても、猫の声なんて聞こえない。
だけど美千代さんは両手で耳を塞いで、大きく頭を振った。
「ああ、嫌だ嫌だ、ほんと、あの声!」
「美千代さん、美千代さん、声なんてしませんよ!」
「何言ってるの、聞こえるじゃない!」
美千代さんはいきなり立ち上がり、部屋の中をウロウロと歩き回った。
ぶつぶつと何事か呟いたり、時々立ち止まって耳を澄ませたり、今聞いている声の出どころを探そうとしている様子だった。
ひとしきり部屋の中を巡った後で、美千代さんはちゃぶ台の前に立った。
「ここよ、ここ」
何の躊躇いもなくちゃぶ台をひっくり返して、美千代さんは畳の上をバンバンと叩いた。
「ここ! 耳つけて聞いてみなさいよ」
ひっくり返したちゃぶ台から落ちた茶碗が転がり、茶請けの菓子が散らばったど真ん中……本当ならば膝をつくことさえ遠慮したい。
だけど、きゅうっと目を釣り上げて喚き散らす美千代さんに逆らうのも恐ろしい。
私は仕方なく四つん這いになって、畳に片耳を当てた。
「聞こえるでしょ、ほら! よく聞きなさいよ!」
そんなことを言われても、畳の下は全くの無音だ。
むしろ自分の体を流れる血がどくどくと音を立てているのが聞こえるんじゃないかというほどの、全くの無音。
「まさか! 聞こえないの!」
私は曖昧に笑いながら立ち上がった。
「びっくりして逃げちゃったんじゃないですかね」
美千代さんは口の端から泡を飛ばして絶叫した。
「そんなわけがないでしょ! 聞こえて……聞こえているのに! あなたもそうやってアタシをキチガイ扱いするのね!」
その剣幕に驚いて、私は二歩ほど後ろに下がった。
「あ、そういえば、聞こえます……ね……ダメですね、あたし最近、耳が遠くって」
波が引くように、美千代さんの顔から狂気が消えた。
「あらー、若いのにねえ、でもコンバインのエンジン音でやられちゃうらしいし、職業病なのよね」
「そうですそうです!」
私は美千代さんが正気である今のうちに、この家を出ようと考えた。
「猫の居場所は大体分かったので、探してみます。お茶、ごちそうさまでした」
美千代さんに返事も言わせず、私はその家を飛び出した。
美千代さんは私を追っては来なかった。
だから私は玄関を出たところで、適当に突っ掛けていたスニーカーを履き直した。
この時には私はすでに、猫は『いない』のだと結論を出していた。
コンバインで耳が悪くなっているなんて嘘だ。
私はいまだに蚊の飛ぶ音が聞こえるくらい耳がいい。
それなのに、畳の下からは何の声も聞こえなかった。
だけど美千代さんは、まるで耳障りな音が聞こえているのかの振る舞いを見せた。
いや、美千代さんの耳の中でだけ、確かに猫は鳴いていた……つまり幻聴。
私はすっかり白けた気分になって、スニーカーの紐をやたらと丁寧に結んでみた。
右の紐をクイと輪に作り、左の紐をくるりと回して、最後に蝶になった靴紐をキュッと引き締めようとした、その時、家の中から美千代さんの悲鳴が聞こえた。
「このっ! 猫っ! いつまで鳴いてんの!」
どうやら美千代さんは、いまだ幻の『猫』と戦っているらしい。
私は靴紐を硬く締めて立ち上がった。
これ以上、ここにいても仕方がない。
--『猫』はいなかった。
私は美千代さんの家を後にした。
その数日後……私は美千代さんの家を再び訪れた。
美千代さんの異常な様子を見てしまったあの日から、私の中にもやもやとした感情が生まれた。
それは、元気だったあの美千代さんが精神を病んでしまった悲しみだったり、すぐ隣に狂人が住んでいる恐怖だったり、感情が複雑に入り混ったものだった。
こうした複雑な感情に支配されている時、人はうまく思考をまとめることができない。
長く隣人として美千代さんと付き合ってきた私からすれば、どれほど狂っても美千代さんは美千代さんであり、まさかウチに殺意を向けることはないだろうと考えたり、そのすぐ次の瞬間には『猫』の声が聞こえると言って暴れた美千代さんの姿を思い出して、あの暴力性が私や私の家族に向けられるのではないかと怯えたり。
そのストレスのせいで、私は強い頭痛に悩まされていた。
だから、悩みの元である美千代さんの今の状態を確かめたくて、それでお裾分けを口実に隣家を訪れたのだ。
だけど、呼び鈴を押しても美千代さんは出てこなかった。
「美千代さーん、いないのー?」
明るく聞こえるようにわざと大きな声を出すけれど、家の中は静まりかえっている。
こうなると逆に美千代さんに何かあったんじゃないかと心配になる。
「美千代さ~ん」
呼びながら庭先をのぞき込むが、物干しに洗濯ものが一枚も出ていない。
美千代さんはマメしい性格で、天気がいいのに洗濯をしないなんてことはありえない。
まさか具合でも悪くしているんじゃないかと、私は不安になった。
「ちょっと、美千代さん、美千代さん!」
庭に面した雨戸は全部閉まっている。
それでも中から漏れ聞こえる音はあるはずだ。
私はアルミ製の雨戸に耳を押し当てた。
――うあ~ん、うああ~ん
確かに聞こえた。
最初は赤ん坊の泣き声かと思った。
薄っぺらいアルミの網戸を通して、ねっとりと染み出すような鳴き声。
――うあ~ん、うああ~ん
『猫』の声だ。
発情期特有の、甘くしゃがれた鳴き声。
誓ってもいい、私は畳に耳を押し付けたあの時、猫の声なんか聞かなかった。
だけど今聞こえているこれが、あのとき美千代さんが言っていた『猫』の声なのだと直感した。
声は、どうやら家の中を歩き回っているらしく、遠くなったり近くなったりしながら間断なく聞こえる。
私は怖くなって雨戸から離れようとした。
その時、私の背後で野太い声がした。
「何をしている」
振り向いてみると、美千代さんの旦那さんが立っていた。
「聞いたのか、あれを」
この旦那さんはおしゃべりな美千代さんとは対照的に寡黙な人で、挨拶以外に声を出すのを聞いたことがない。
愛想がないというわけじゃなくって、スーパーで行き会った時など必ず挨拶をしてくれるし、畑仕事中の最中に会えば自家用に植えた野菜をもぎっておすそ分けしてくれる。
そういう時はいつも笑顔だし、ようするに単に無口なだけ。
その無口な旦那さんがしっかりとした声で話すのを、少し不思議な気持ちで私は聞いていた。
旦那さんは腰に下げていた手ぬぐいを抜いて、禿げ上がった頭をつるりと拭いた。
「聞いたのか?」
「あ、『猫』?」
「違う、あれは美千代だ」
「どういうことですか、美千代さんは猫が入って来たって言っていたけど」
「違うんだ、美千代なんだ」
旦那さんは無口ゆえに、今の状況を詳しく語る言葉を持ってないようすだった。
ただ、ひときわしっかりした声で言った。
「猫はいない」
旦那さんはそれだけを言うと、私に背を向けて家の中に入って行ってしまった。
よその家の庭先にいつまでも立っているわけにはいかなくって、私は仕方なく美千代さんの家から離れた。
胸の中のモヤモヤした気持ちは消えるどころかますます大きくなって、息苦しいくらいだった。
それからしばらくして、美千代さんの家は空き家になった。
美千代さんと旦那さんがどこかへ引っ越していったのだ。
行先は知らない。
そして私は、誰もいなくなった美千代さんの家で、あるものを見つけた。
それは古い納屋の陰にひっそりと置いてあった。
土地がいっぱいある農家にはありがちなことだが、敷地内には新しく立派な納屋がすでに立っていて、その古い木造の納屋は朽ち落ちるに任せて捨て置かれているものだった。
その日、私の家の猫が脱走して、私はこの迷子の猫を探していた。
けっきょく美千代さんの家の朽ち落ちた納屋の近くでその子を見つけたのだけれど、これを抱き上げようと腰をかがめた私は、背中にひやっとしたものを感じて振り向いた。
納屋の陰、深く茂った草の間に石肌が見えた。
がさがさと草をかき分けてみるとそれは、漬物石くらいの大きさの、なんの変哲もないものだった。
これが普通に置かれていたら、古い納屋で使った漬物石をここに捨て置いたものだと思っただろう。
しかしそれは縦に置かれていた。
つまり、ただ石を投げだしたのではなく、高さが出るように座りの悪い石の側面を土に半分埋めて、『墓標に似た形に』なるように、誰かが立てたということだ。
間違いなくこれは『墓』なのだと、私は直感した。
ふと、耳に『猫』の声が聞こえた。
――うあ~ん、うああ~ん
ウチの子とは違う、しゃがれたこえ。
私は足元にいた自分の猫を抱き上げると、後も見ずに一目散に逃げだした。
耳の奥にねっとりとした声がまだ残っているような気がした。
もしも旦那さんがいれば、あそこに『猫』の墓があるいきさつを聞くこともできたかもしれない。
そしてそれは案外ありきたりな、例えば行き倒れの猫を憐れんでそこに埋めた程度の、なんの恨みもない話なのかもしれない。
美千代さんもすっかり元気になって、笑いながらその話をしてくれるかもしれない。
私はそれが聞きたくて美千代さんの引っ越し先を調べたけれど、しかし、美千代さんと旦那さんの行き先を知る者は誰もいなかった。
とあるウワサでは夫婦そろって他県に住む息子さんのところに行ったという話もあったし、また、美千代さんが隣県にある精神科に入れられたのだという話もある。
いずれにしてもウワサの域をすぎない。
空き家になったその家の前を通るとき、私は息を止めて『猫』の鳴き声を探す。
耳の奥まで染み込むように、たっぷりと恨みを込めたみたいな、しゃがれて粘ついたあの声を。
その声が聞こえないことを確かめて、それから一気に門の前を走り抜ける。
……いまでも。