かすがいのオルゴール
覚めたあとも先程までの結わえながら舟を編んでいたその余韻は残っている。
結わえた穂先のほつれがチクチクとまだひじの少海を刺してきて、そこから遡るように再びの形が現れだす。
舟というより形は筏だった。しかし、呼び名は舟でよい。均一に細長く割った板を寄せ集め組んでいく。鉋掛けはされてるが節目の多いそれらの板には察しはつく。社長の沢尻さんに、親指とひとさし指をギュッと「これくらい」の厚みを指示して張ってもらったときの床板だ。建て替える前の古屋に、前の家主が使っていた床をアンコのままに張った床板である。
「節目は多くていいから、とにかく無垢材で」と、棟梁でもある沢尻さんに強く頼んだのは覚えていた。
それを一枚一枚をアンコの床板から剝がし、積み上げ、形の良いものから順々に組み上げていく。新しい家を建てるための解体作業と同じに見えるが、そうではない。天井を落とし壁を斫るのは、この家に建て替える前の解体作業そのものなのだが、アンコにした床板だけは舟を編むためのヨシを刈りように、目利きが要求される。
さすが沢尻さんはこうしたときのことを考えて、新旧の床板同士に接着剤は使わずにいてくれていた。剝がした板の裏側は、敷いた時の鉋がけした肌合いのままだ。夜逃げ同然に逃げた社長でなく、棟梁の沢尻さんの顔が浮かんだ。
20年ぶりに資材に戻った杉板は、海に浮かべ波をぶつけても安心できるものばかりで、斫ったモルタルや天井の合板を集め、固めた、産廃エリアに放り投げるものは少なかった。
不可思議なのは、段取りも作業もわたしひとりが行っているのに、それを指図しているもののはっきりした意図を感じることだ。感じてはいるが、いつものように、向こう側に立っていること以外何も見えてはこない。
舟を組むのに釘や木ねじなどの穴を空ける真似はしない。かといって、ほぞを拵える技量は、こんなときにも持ち合わせてはいない。だから、少しアールを帯びた透明の四角いプラスチックケースをかすがいのように橋渡してやると、中に入っていた歯車が仕込まれたオルゴールのに入った音を響かせて寸法にあったところまでくっつけ、曲げていってくれる。何十と同じ仕掛けのアールがかった四角いものを取り付けたら、見事な舟のしなりが出来上がった。
むかしの時計屋に見られた店中の柱時計が一斉に十二時を鳴らす光景と同じで、そのうるささに辟易はしても不協の亀裂があたまを襲わない。オルゴールの高鳴りは出港のファンファーレを奏でる。
こうして大海を航し再びこの家に戻してくれたのは、すべてひとつも海に陥ることなく杉板を締め続けていたアールがかった四角いもののおかげである。
こんなにも身近に現れ、航海の間中ずっと寄り添ってくれているものなのに、歯車の入った四角いものは透明のケースに包まれているのだから、近づけばその判明を教えてくれるはずなのに、近づけぬでいる。
ほかは、こうして、板の節の目のひとつひとつまで目を瞑ってもスケッチできるほど近づけているのに。
ー やはり、これらは、すべて、あのオルゴールの破片であろうか
むかし、おもちゃ箱と称して大きな段ボール箱に入れっぱなしにしていたものの中に似たようなものがあった。段ボール箱はいつも傾いでいたから、オルゴールはいつも傾いで同じ音を繰り返していた。真鍮の金属の板に大小の歯車が縫い付けられていたのは覚えているが、それが入っていた木箱は覚えてない。
もともと意匠の整った木箱に入っていたのだろうか。きちんと製品化されたオルゴールのような、ひと前に出してもいい形などそもそも育んでいたのだろうか。
ー ゼンマイと歯車で、十数秒の三小節を延々と繰り返す
なぜ、剝き出しだったのか。
なぜ、傾いだおもちゃ箱の段ボール箱に沈められっぱなしだったのか。
背中をかがめ、つんのめるように段ボール箱をまさぐる掌だけが、わたしのような気がする。
覚めたあとも掌だけが、むこう側に置き去りにされているようだった。




