てのひら
「てのひらをよく眺めてご覧。大きなシワがあり、さらに小さなシワがある。歪で何の規則性もないように見える。さらに青緑の血管が張り巡らされている。肌色や赤やピンクにも見える。もっともっと間近で眺めてみる。おでこと鼻先がくっつくくらい近づけると視界は暗くなる。それはただの闇ではない。闇という言葉で片付けてしまうにはあまりにも奥深い深さがある。」
ある町の病院。
前夜から降り積もっていた雪が数センチ。
ひらひら降る雪は舞い踊る。
風は強くはないが、道行く人は、コートの襟を立てて、あるいはマフラーを巻いていた。
歩いている姿は皆どことなくぎこちなく見えた。
バスの乗降扉が開き小さな少女が降りてくる。
小さな歩幅で病院の自動扉が開く。
見覚えのある看護師に明るく声をかける。
「こんにちは」
「こんにちは、Mちゃん。おじいちゃんの、お見舞いにきたのね。一緒に行こうか?」
少女は首を振る。
何度も通っているので目隠しをしたって、おじいちゃんの病室へ一人で行ける。
少女はありがとうという風にお辞儀をして、エレベーターのボタンを押す。
しばらくして開いた扉に素早く乗り込み、三階で降りる。
すれ違った看護師にまた挨拶して、306号室の2番の部屋に入る。
ベッドに座るおじいちゃんは少しだけ透明感がある。
「おじいちゃん、Mだよ」
周りの人を気遣って少し小声で声をかける。
反応がない。
「おじいちゃん、Mだよ」
三度目におじいちゃんは気がつく。
まるで宝物を見つけたような驚きと喜びの表情でMを見つめる。
4人部屋の病室の窓。
近くの路線を通る列車の音が遠ざかると、暫くの沈黙が二人の間におりる。
少女はふと思い出して鞄から背表紙のない古い文庫本を渡す。
チャールズ・ディケンズの「クリスマス・キャロル」だ。
おじいちゃんは「ありがとう」といってその本を大事に受け取る。
「この前の謎のことずっと考えていたけど、結局わからなかったの」
「てのひら、の謎かな?」
「そう。」
「視界に物体を近づけ過ぎると光の反射が遮蔽されて物体が見えなくなる。それはある意味においては正解なんだ。だけど、それだけじゃない、私たちは見たいものだけを見て、見たくないものは見ない。ピントを合わせると背景がボケる。背景に目をやると眼前のもののピントがボケる。見るには『 見る』という漢字と『 視る』という漢字と『 観る』という漢字がある。視覚情報だけで物体を見ている訳ではない。
てのひらとてのひらを合わせると祈ることが出来る。
てのひらとてのひらで紙を破くことも出来る。
てのひらとてのひらを繋げると温もりが伝わる。
てのひらで、頬を打つと痛みを与える。
てのひらの歪な線はそれを知らない。
そして、私たちは愚かにも自身のてのひらについて何も知らない。
見ても分からないし動かしても分からない。不思議なものなんだ。てのひらというのは。それなのに、人は私はこうだからとか、俺はこうだからと、自身のてのひらのことすら知らないで博識ぶっている。
Mちゃんは、算数の勉強をすることも国語の勉強をすることも、社会の勉強もすることも大事だ。
だけどね、自身のてのひらのことも、ときには考えてみることだよ。そこには無数の問いかけがあり、そこには無数の謎がある。わかるかな?」
「でも、私おじいちゃんのてのひら好きだな。たくさん撫でてくれるし、シワだらけで少しかたいけど、おじいちゃんのてのひらを、眺めていると謎のことなんてどうでもよくなっちゃう。私が生きた何倍もおじいちゃんのてのひらはたくさんのものに触れてきたはず。」
「Mちゃん。戦時中、私は病気だったから戦場に行かなくてよかった。同級生の多くと握手を交わした。そして、多くの若い命は散っていった。生き残った私に与えられたのは罪の意識だ。このてのひらには無数の悔し涙が染み込んでいる。それだけじゃない、もちろん無数のやさしいてのひらの重ねもあった。いや、もうこの話はよそう。てのひらは無数の謎と共に無数の問いも提示している。いったい私たちはどこからやってきてどこへいくのだろう。そんなかんたんな問いにも十全には答えられらい。難問だな。」
おじいちゃんは暫く躊躇してから少女のてのひらにてのひらを載せた。
「私は近くあちら側の人間になる。このてのひらの感触をよく覚えているんだよ。Mちゃんは、これから先色んなことがある。楽しいこともあれば辛いこともある。でもね、こうして誰かと重ねたてのひらの温もりは消えたりはしない。辛い時、苦しい時、このてのひらの温もりを忘れないでね」
少女は言葉に詰まった。
何かが遠くで落下して砕ける音が聞こえたような気がした。
しかし、何も落下した訳ではない。
あまり長居して、おじいちゃんを消耗させたくなかったので、少女は「もう帰るね」といって病院を後にした。
リビングでテレビを見ている時に母の携帯がなった。
母の態度は急に硬直し少女の方をちらりと覗き見た。
電話を切ったあと「話があるの」といって腰を落として視線を合わせて語った。
「おじいちゃんが亡くなったの。Mちゃんがお見舞いから帰ってから暫くは元気だったんだけど、ついさっき容態が悪くなって亡くなったの。辛いと思うけど私は行かなくちゃならないから、一人でお留守番できる?」
「うん」
母は急いで家を出た。
少女は呆然として庭に出た。
まだ少し雪が降っていた。
両のてのひらでそれを優しく包むように。
溶けていく雪の冷たさは心地よかった。
「このてのひらの温もりを忘れないでね」
破顔一笑するおじいちゃん。
「おじいちゃん。私忘れたりしないよ。ちゃんとちゃんとこの温もりのこと大切にするから。」
少女の髪やセーターにうっすらと雪が積もる。
「そうか、サンタさんがおじいちゃんを連れてったんだ」