不器用な先生 ep1
「ねぇ、先生。好きなようにしていいよ。」
夕暮れの教室。部活をやっている生徒たちの声が外から聞こえてくる閑散とした教室で、耳をくすぐるような甘たるい声がした。席に座っていた俺の正面には身を乗り出した名前も碌に知らない女生徒の姿があった。
「だからさ、ここだけの話にしてくれない。」
俺の方に腕を回し、股の間に足を差し込んで中学生の未発達な肢体を押し付けてくる。サラサラとした髪が鼻をくすぐり、シャンプーの匂いがした。校則違反のスカート丈から除く白い太ももがぐいっと迫ってくる。気の強そうな瞳には俺が映っている。
「先生ってかっこいいし、よく見ると結構好みかも。」
偶にいる自分に絶対の自信があるのか何をしても許されると思ってるガキ。ちょっと誘惑すれば自分の思い通りになると大人を舐めきった態度。こういうやつは関わらないに限る。
「随分と安いんだな」
俺は酷く冷めた目をしているだろう。肩を掴み、無理やり引きはがした。動揺した表情をしたそれに事務的に声をかける。がたっと音を立てて椅子から立ち上がる。
「反省文を書いてこい。あと、スカート短すぎだ」
こいつらはただの記号だ。記号相手に痛い目を見るなんて馬鹿らしい。
斎藤 和樹。27歳。
市立中学で体育教師として勤務。中学では学生の頃はサッカー部に所属していたが、集団行動に馴染めず、高校からは陸上をやり始める。
クラスの担任は受け持っていないが、生活指導を担当している。
漫画等の不要なものを学校に持ってくるやつ。スカートの短いやつ。補導された生徒への指導。
いろんなことをやってきた。反省する生徒もいたし、反抗する生徒もいた。でも、そんなことはどうでもよかった。こいつらはただの記号。中学という3年間、大きな問題も起こさず卒業さえしてくれればいい。
だから。
テストで女生徒がカンニングをしていたのを見つけても、同情する余地など微塵もない。
「で、どうしてカンニングなんかしたんだ?」
特に目立たない地味な娘。まだ幼さの残るその顔は化粧すらしたことがないのだろう。制服も校則通りだし、カンニングをするようには思えない大人しそうな印象。
肩にかかるかかからないかぐらいのショートヘアーの彼女を生徒指導室に呼び出し、形だけの事情聴取を行う。そして、反省文を書くように言いつけて終わるいつも通りの簡単な仕事だ。
そのはずなのに。
「...ッ」
ゾクリと背筋に嫌な汗が流れる。右手には柔らかな感触とほのかな温かさが伝わっていた。席に座っていたはずのそいつは、いつの間にか俺の対面で立ち上がっていた。
頬を赤らめたそいつはその顔を隠すように下を向いていた。少し長い前髪が重力に従い垂れ、表情をうかがうことはできない。
俺の手はセーラー服の上着の中へと続いていた。二人しかいないその部屋で、ドクンドクンというそいつの心臓の鼓動だけが響いていた。自分の意思に反して、体が震えた。
そんな俺の手をそいつはギュッと大事なものを握りしめるようにギュッと掴んで自分の胸に押し付けてきた。目の前のガキが何を考えてるかわからなくて、怖くなった。
反射的に勢いよく立ち上がった拍子にキャスター付きの椅子が壁にぶつかって、がたっとやけに大きな音を立てる。そいつの手を振り払って一歩後ずさった俺は酷く動揺していたのだろう。
「あ…。」
震える少女を置いて逃げるように生徒指導室を後にした。後ろ手で乱暴に閉めたドアが、無人の廊下にやけに大きく響いた。
翌朝。おはようと校門をくぐる生徒たちを職員室前の廊下から見ていた俺は、汚れ一つない白の上履きが視界の隅、俺の真横で停まったのに気付いた。
「あの...さ、斎藤先生。お、おはようございます」
小さい声だった。そして少し震えが混じっている。
「こ...これ。」
スッと差し出されたのは数枚の作文用紙。頭を下げ、体を震わせていたのは昨日のガキだった。完全に不意打ちを食らってしまった。
「は...反省文です。」
表情は分からない。だから、俺の動揺も悟られないだろう。相手はただのガキなのに、早く落ち着け。
「そうか...。一度俺のほうで目を通して、担任に渡しておく」
「あ、...はい。」
反省文を受け取った。少し丸いきれいな字で書かれた、それをちらりと一瞥し終わりのはずだった。
なのに、そいつはそこから動こうとしなかった。俯いていて、表情は未だ見えない。
「まだ、何かあるのか?」
その言葉を受け、そいつはぱっと顔をあげた。クリっとした大きな瞳が俺を見て、桜色の唇を動かす。
「あっ、あの...。き...。」
何かを言おうとしているが、その言葉は喉の奥に消えて行った。ガキは何をしたいのか分からない。モジモジとしているその姿に苛立ちを覚えた。
「なんだ、早く言え。」
自然と口調が厳しいものになる。びくりと体を震わせたそいつは、ただでさえ小さい体を縮こまらせた。
「うわっ、斎藤じゃん。」
「ちょースカートやばいわ。たぶん。」
俺の姿を見た別の女生徒のひそひそ声が聞こえた。普段から素行の悪いガキだ。そそくさと脇を通り抜けようとする二人の女生徒。
「そこのお前たち、挨拶は?」
「おはようございまーす。」
「おはよう。」
「...ます。」
一人の女生徒は俺を見て挨拶をしたが、もう一人はぼそっとだけ言い、隠れるようにこの場を後にしようとしている。
「おい、お前。反省文はどうした。」
「ばれてら...。」
「今日中に提出しなかったら親に報告するからな」
「無理無理。延長、執行猶予を要求したいんですけどー。」
ぶんぶんと右手を振って、拒否の態度を示すそいつを冷めた瞳で見下ろす。
「黙れ、期限は十分だったはずだ。放課後までに提出するように。」
校則よりも短いスカートが目に付いた。反省の色なしか。
「それと、なんだそのスカート丈は。この前、直すように言ったはずだ。昼休みに指導室まで来るように。以上だ。」
「なんで私だけ。他の子もやってんじゃん。ねぇ、聞いてるの?」
女生徒は突っかかてくるが構う必要なんてない。もうすぐ一限目が始まるから、職員室に戻らせてもらう。
「あ、あの。」
ギャーギャーとうるさい喧騒の中、先ほどまで沈黙していたそいつの声ははっきりと聞こえてきた。
「き、昨日は...すみません。」
冷や汗が出てきた。こんなガキどもに振り回されてどうする。昨日は事故にでもあったと思えばいい。災難だった。たったそれだけのことだろう。
「...。」
特に返答することなく、職員室の中に入った。
昼休み。指導室に来た先ほどの生徒へ軽く指導をし、職員室へと戻ってきた。
テスト明けのため、採点に追われるこの時期は休憩時間だというのに俺も含め、周りの教師も赤ペンを走らせていた。
「失礼します。」
ガラガラと職員室のドアが開いた。そこには、朝、カンニングの反省文を持ってきた女生徒がいた。そいつは、俺の席に迷うことなく来ていた。
「あ、あの...さ、斎藤先生。は、反省文...だ、大丈夫でしたでしょうか...。」
ただでさえ弱弱しいその声は最後のほうには尻すぼみになっていた。
「あぁ、あれで大丈夫だ。まだ担任には渡してないけどな。」
「そうですか...。」
俺の回答を受け、なぜかしゅんとなるそいつの行動が分からなかった。この子、苦手だ。
「もう行っていいぞ。何かあったら呼びに行く。」
「...はい。」
しかし、そいつは動こうとはしなかった。しーんとした間が空き、居心地の悪さが襲ってくる。
「何だ。まだ何かあるのか?」
俺の言葉にびくりと顔をあげたそいつと目が合う。かぁっと、そいつの頬が真っ赤に染まるのは、あっと言う間のことだった。
「あ、あの...あの...っす、すみませんでした。」
くるりと踵を返し、逃げるように職員室内を走り抜ける後姿を見た拍子、風で舞い上がったスカートから、白い布がチラリと見えた。声をかける間もなく、職員室から飛び出されてしまう。
「あれれ、今のうちのクラスの生徒ですか?何かありました?」
へらへらとした顔で先ほどの生徒と入れ違いに入ってきたのは、2年生の担任だ。まだ2年目で若い好青年といった印象の男。先生、生徒の両方から人気のある先生だ。手にはコーヒーカップを持っており、湯気が出ている。
「えー、カンニングですか。そんなことしてまで点数稼ぐようなタイプじゃないんですけどね。」
普段も優秀で特に問題も起こしたことのない真面目な生徒、それがその女生徒への担任の印象だった。
「そうなんですか。一応、反省文は書かせましたが。」
「えー、たかがカンニングでそこまで。」
「担任のあんたがそんなんでどうするんですか。」
「...すいません。」
真面目な生徒。口をそろえて他の先生方もそいつをそう評した。真面目な生徒が急にスカート丈を短くしたり、カンニングしたり、あまつさえ...胸を...。
ぐしゃりと反省文を掴む手に力が入った。2年1組、青柳ゆずか。作文容姿の端に控えめに書かれたその文字で初めてそいつの名前を知った。
「反省文です。お渡しします。」
担任へと反省文を渡す。めんどくさそうにそれを受け取られるが知るか。もう俺には関係のないことだ。これで全部終わり。また平穏な日常に戻れる...
「あの、先生。」
そいつ、青柳ゆずかと再会するのはその日の放課後、平穏な日常は来なかった。