七章 真相
一
危機に対処する為、各部所の責任者が集まり、情報の共有をした。それは非常に有益であったが、肝心な感染源が判明していない以上は、打つ手は限られる。基本方針は全関係各所が流通と検疫体制を調べ、感染ルートを探る。あと、医療機関に通達し、感染者を見つけ次第、生活と行動から一次感染の推察をするしかなく、どうしても場当たり的な対処になってしまう。
時間は深夜に近づいているが、各人が連携について話し合っている。
それでも、この光景を見れば、この席を設けた事は大きい。
自分は時計を確認する、田野さんに近づき話しかけた。
「田野さん。遅くまですみませんでした。後は、自分が残りますので、お帰り下さい。緊急事態とはいえ申し訳ありませんした。そして、助かりました」
そう言って、自分は頭を下げた。
田野さんも長時間の労働でかなり疲れの色が見えている。
「では、帰らせていただきます」
「御主人には、心苦しい事を強いてしまいました」
また、自分は頭を下げた。
「いいんですよ。どのような事が起こっているかは存じませんが、市民の為なんでしょう」
「ありがとうございます」
お礼を伝えると、田野さんは帰宅の準備を始めた。
「ところで田野さん、二條君から連絡はありましたか?」
「いいえ、電話は来訪された方、数人にしか掛かっていません」
「そうですか。本日は、ありがとうございます」
時間が時間だけにタクシーを呼んで、田野さんを見送った。
夜も深けると吹く風がひどく冷たい。自分は右手で後頭部を掻いた。携帯電話を手にし、二條君の携帯と自宅に掛けるが、未だに繋がらない。
仕方なく自分は、本日出席した方に連絡をとることにした。
本日の席を仕切った幹事さんにである。
《はい》
「夜分、恐れ入ります。私、権田事務所の谷元と申します。本日、うちの二條が伺ったと思うのですが………」
自分が、全てを言い終わる前に、先方から返事がくる。
《あ~、権田事務所の………。欠席されるなら、連絡くらい欲しかったですな。何か、急用でもあったんでしょうか?》
一瞬、言っている意味が良く解らなかった。
「あの二條は伺っていないのでしょうか?」
《ええ。来ていませんよ》
「それは申し訳ありませんでした。後日、お詫びに伺わせて頂きますので、この度は本当に失礼致しました」
少しだけ冷気を含んだ夜の風が、強く吹いた。
電話を切ると深く息を吐いた。事務所の外に数分間立って居ただけだが、手先が冷えている。やはり何かあったのだ。二條君は若いが責任感は強い。仕事を勝手に放棄することなどあり得ない。体調の不調であれ、急用であれ、必ず断りを入れる筈だ。そうでなければ、何らかのもめごとに巻き込まれたのかも知れない。連絡すら取れない状況となれば………。
妙な胸騒ぎを覚えると、事務所内に入り、先生の元へ向かった。
室内では、まだ話し合いは続いている。
自分は権田先生の後ろへ回った。
「先生、よろしいでしょうか?」
「なんだ?」
先生は席を立ち、室外に出た。聞かれて困る話ではないが、部外者に聞かせる話でもない。
自身の椅子に座り、先生は聞いた。
「何が起こった?」
「二條君なんですが、行方が分かりません」
「どういう事だ?今日は、食事会に行っている筈ではないのか?」
先生の目が細くなった。
「それが、先程、食事会の幹事さんへ連絡を取ったのですが、二條君は伺ってないそうです」
「自宅や実家は?」
「自宅には電話しましたが、実家はまだです。ですが、仕事に向かう途中に、連絡もなく実家に行くなどあり得ません」
「そうだな。あの子は、責任感が強い。二條君は何かトラブルを抱えていたのかい?」
「いえ」
「では、この事務所、もしくは私に対して、何か言ってきた者は?」
「ありません」
政治家である以上、様々な事に介入する羽目になる。それゆえ、公正をもって決断したことでも、利権を奪われる者や不利益を被った者の恨みの対象になる。多くの市民の為にしたことだが、少数の犠牲者を出すこともある。それは、正義や民主主義の問題ですらなく、感情的なものなのだ。
先生の言われる通り、確かに、その可能性もあるが、自分は別の事が脳裏に浮かんだのだ。その事を先生は察知したようだ。
「何か思い当たるのか?」
「実は、報告の必要はないと思っていたのですが、行方不明になった娘さんを心配する両親が来まして、警察に捜索願を受理させて欲しいとお願いされたんです」
「それでどうしたんだ」
「先生の名前を出すことなく、付き添っただけで受理されました」
「そうか。その件の進展はあったのか?」
「海岸の国道沿いで、キャッシュカードが発見されたそうです。口座に多額の現金が残されていたことから、失踪ではなく殺人の疑いを持って捜査しているそうです」
「そうか」
先生の返事は重かった。
「どうしましょうか?」
重苦しい雰囲気に満たされた事務所内だったが、この一角はさらに重い。先生も自分も、胸中から不安が湧き出してきた。
先生は、眉間に皺を寄せている。
「先生、すぐに警察を総動員すべきです」
自分は、落ち着いた口調で言った。当前の発言だと思ったからだ。部下が生命の危機に瀕している。その事態を知り、手を打たない人間など思考能力が無いに等しい。だが、先生は思案顔だった。
「どうしたのでしょうか?」
自分は聞くと、先生は口を開いた。
「谷元、二條君の件はお前に任せる」
「先生が動かれるのと、自分が行動するのとでは影響力が違います。緊急事態なら尚の事です」
こんな事を先生に言っても仕方ない。先生はその様な事など理解されている。それでも尚動かないなら、その理由は知っておくべきだろう。
意志の強い視線を向け、権田先生は言った。
「私は、代議士だ。現在、感染症の拡大を防止する指揮を執らねばならない。二條君は、女性だが私の部下だ。市民の安全と部下の生命を秤にかけ、部下を優先することなど出来ない。私は、政治家として、より広く、より戦略的に動くのが使命だ。今は、プリオン病の封じ込めこそが優先される」
「ですが………」
「感染源が分からぬ上に、食糧の安全性や流通に影響が出れば、経済や金融問題にも発展する。それは止めねばならん」
先生の言には一理ある。だが、なぜだろうか切り捨てられたような感じになった。
自分が落胆の顔を浮かべると、先生は言葉を付け加えた。
「二條君の件は、お前に一任する。感染症拡大は私が責任を持って動く。二條君を助けてやってくれ」
そう言って、秘書の自分に頭を下げた。
「先生、止めてください。先生のお気持ちはわかりました」
「谷元、早く行け。人員は、小暮事務所から呼ぶ」
そう言って、先生自ら受話器を取った。
「では、離れます」
先生を勘違いしていた事を思い知らされた。自分は動けない。だから、自分に一任して自由に動けるように、この件から外したのだ。
自分は、椅子に掛けていたスーツの上着を着ると車へと向かった。
右ポケットに、小銭が数枚入っていて、上着の一部を不規則に揺らしている。
車に乗り込むと、流れる様な所作で発進させた。
田舎の町だから、周囲には電気の点いている建物は無い。うちの事務所だけが煌々と明かりを点けている。街灯は夜道を照らしているが、夜空に輝く月と星々も道だけでなく、街を淡く浮かばせている。
自分は、急かす様にアクセルを踏んだ。そんなに長い距離じゃないのも解っている。だが、数秒の違いが結果を天地ほど変えることになる事を知っている。
警察署の明かりが視界に入ったが、気分は落ち着く事は無かった。
二
警察署には煌々と明かりが灯っていた。署の正面玄関へ到着すると、足早に所内へ入った。
夜十一時を回っていて、一階フロアーには明かりこそ点いているが人の姿は無かった。警務課、地域課、会計課ということもあり、深夜に人は見えなかった。無人と云う事はないだろうから、たまたま人がいないのだろうか。ともかく、自分は生活安全課と刑事課のある二階へ急いだ。
二階へ上がると、数人の署員が居て、会話をしていたり、書き物をしていたりしていた。
深夜の訪問者に、署員たちの視線が集まった。見知った顔があり、声を掛けてくれた。
「これは谷元さん。こんな遅くにどうしました?」
「夜分遅くに、すみません。急用でして………」
「何でしょうか?」
自分はひと呼吸して、話し始めた。
「うちの二條が行方不明で、探して欲しいんです」
冷静さを失っていないが、急かす様な口調で伝えた。
「どういう事でしょうか?お話を聞かせて頂けますか?」
中年の署員が丁寧な対応としてくれるが、あまりに切迫感がない。
仕方なく、二條君の本日の予定と現在の状況を説明する。冷静に話をすれば、歯痒さが増した。それは、二條君が予定の食事会に出席せず、まだ帰宅していないという事に過ぎない。それは、何てことのない状況なのだ。当然、二條君の性格を考慮した上での訴えであるのだが、それがまったく伝わらない。
中年の署員さんが、机に肘を着いて諭される。
「谷元さん。今日の今日ですから、一日待たれてはどうですか?彼女も帰り難いのかも知れません。翌日になってから」
「それでは遅いんです」
会話を切って、強く言った。
二條君とは仕事上の付き合いで、期間では一年未満だ。だが、その間に不真面目な態度や不謹慎な発言など無い。融通が利かない程の責任感と使命感に、幾度となく肝を冷やされた経験があるが、そんな女性が、自身の責務を放り出すなど、考えることすら困難だ。
それをいくら説明しても、目の前の署員さんには伝わらない。彼女に関しては、放置すればするほど悪化こそすれ、好転することなどあり得ないのだ。それが何故理解できないのかが、自分には理解できない。
中年署員が、若手署員にお茶を出させて言った。
「明日まで待ちましょう。そして、早朝に人員を出しますから」
堂々巡りだ。仕方なく、話の分かる人を呼んで貰う事にした。
「では、高野さんを呼んで頂けませんか?」
署員たちの顔色が変わった。
「高野さんは、捜査で疲れていて………」
「連絡だけでも取れませんか?」
そう言うと、渋い表情を向けた時、自分は携帯電話を取り出した。無言の圧力だが、二條君救出の為には方法論など言ってられなかった。
署員の方は、電話を手にとって高野さんに連絡を取ってくれた。二言、三言、言葉を交わし、自分に受話器を差し出してくれた。
「どうぞ、高野さんです」
「ありがとうございます」
自分はお礼を言って、受話器を受け取った。
「谷元です」
《谷元君、どうした?》
「実は、うちの秘書の二條が行方知れずなんです」
《それは………》
高野さんはピンと来たようだ。
「えぇ、今回の事件と関係があるかも知れません」
《わかった。これから向かおう。しばらく待ってもらえるか》
「わかりました。お待ちしています」
そして、最後にこう付け加えた。
「急いで下さい」
《えぇ、飛ばして行きますわ》
そう言葉が返ってきた。
高野さんには、少しだけ緊迫感が伝わった。微量の安堵感が生まれたが、それで安心など出来ない。
自分は椅子に座り、十分を数分過ぎた時に高野さんが現れた。
「どうも、どうも、待たせたね」
紺のスーツに、茶系のネクタイを着けて高野さんが現れた。夜勤の署員に挨拶をされ、高野さんは手を上げ応えた。自分も立ち上がって頭を下げた。
「夜分、お呼び立てして申し訳ありません」
「いやいや、それが仕事なんでね。では、話をお聞きしましょう。部屋、借りるよ」
そして、個室に案内された。
「さて、聞かせて頂けますか?」
高野さんは、ゆっくりとした口調で尋ねてきた。自分は、さっき署員に語ったことと同じ事を話す。高野さんは無言で聞いてる。話し終わると、高野さんが腕を組んで思案顔をしていた。
「行方がわからないだけで、証拠がないねぇ………」
皆と同じ反応だ。しかし、自分には今回の行方不明事件との関係があるとしか思えなかった。つい十五日程前に起こったことと、今回の出来事が無関係だと考える方がどうかしている。
自分は、高野さんに素直に心内を打ち開ける。
「高野さん。行方不明事件の捜査状況を教えて下さい」
高野さんは、渋い顔をして口を歪めると、膝に手を突っ張るように椅子に座った。
「はぁ~」
声に出して溜息を吐き、首を回した。
「先生に恨みがあるのか、もしくは、別に二條君を狙ったのかも知れません。どちらにしろ、自分の持っている情報と照合すれば、更なる手掛かりがあるかも知れません」
「わかった。だが、名前は伏せさせて貰うがイイかね?」
「はい」
即答だった。警察としては、そう言わざるを得ないのだろう。しかし、高野さんは自分の情報量を信じて言ってくれたと思っている。
四年もの間、松谷市を誰よりも歩き、人に会ってきた。松谷市の人口が約三万人、最近では年間一万戸の家を訪問目標に掲げている。さすがに市民全員の情報はないが、ある程度の人物なら記憶に入っている。名前を伏せられても、数点の適合情報があれば名前は推理できる。
高野さんは、一人ごとでも呟くように話し始めた。
「捜索願を受理した三日後、本格的な捜査を始めました。失踪者を調べると、彼女は不特定多数の男性と肉体関係があったようです。秘めた関係とでも言うんですか、恋人関係だけでも、社内の男性、取引先の既婚者、学生時代からの男と結構な数です。その上、ナンパっていうんですかな、道で声を掛けられると付いて行ってたらしいんですよ。もう病気ですな、依存症と云うんでしたかな?」
自分は無言で聞いていた。
「ま、そんなこんなで、彼女の揉め事の種は、男関係しかないと思ってね。これなら、彼女の失踪当日を調べて、その時に動ける男に当たりをつけた方が早いと考えたんですよ。数十人で調べ上げたら、その日に行動が自由になる人物が五人で、そのうち二人は目撃情報が確認された。で、残ったのが三人って訳だ」
「で、その三人の説明をお願いします」
自分は話を進めた。
「A氏、二十代後半。既婚者。大手化学会社勤務。男の言うことには、肉体の関係だけで、一年半の付き合いらしい。最近、女の方から妊娠を打ち明けられ、中絶費用と手切金を求められていたらしい。金額的には六〇万とそれほど高額ではない。当日、取引先を回っていて、それから直帰したと言うことらしいが、帰宅時刻は夜九時。本人は海岸沿いの公園に車を止めて、仮眠をとっていたらしい。それが真実かどうかは確認できていない」
「明乃さんは、妊娠されていたんですか?」
「確認できていないが、おそらく嘘だろう。親や友人に聞いても、そんな事実は知らないと言うばかりだ。産婦人科へ行った形跡もない」
そうですか、と答えると聞く姿勢を作って次の容疑者に移った。
「B氏、三十代半ば。独身。肉店経営している。彼女とは、その日、初めて会ったらしい。彼女の方から気さくに話しかけて来たそうだ。どうやら、車で送って貰うのが目当てだったらしく、十キロ程乗せたと言っている。現に、市内で降ろす光景を買い物帰りの住人に目撃されている」
「それだけなら、容疑者にならないんじゃないですか?」
「だが、彼女の通話記録に、その人の携帯番号が記録に残っていた。送っただけなら携帯番号は聞かないだろう」
「では、通話した時間は?」
「通話ではなく、発信記録だ。彼女からの。時間的には夜七時頃だ」
「で、なんと?」
「すぐに電話が掛かってきて切れたそうだ」
「折り返し、掛けなかったんですかね?」
「その時は、忙しくて掛けなかったそうだ」
「そうですか」
自分は頷いた。
「最後が、C氏で、四十代前半。潜水士だそうだ。既婚者、彼女とはサイトで出会ったらしい。恋愛関係などではなく、後腐れの無いように金を払っていた、と言っている。月に二、三回、相手をして貰っていたということだ。一回四万円で、小暮市のホテルまで行って会っていたらしい。彼女とは、翌日早朝に会う事になっていたらしいが、来なかったようだ」
自分は、自分の情報と照合する。Aの人物はわからないが、BとCはおそらく合っているだろう。
そして高野さんは、三者には殺害して遺体を処理する時間がないと付け加えた。A氏は、殺害出来たとしてもすぐに自宅へ引き返さなければいけないし、B氏は仕事と休日には船釣りに行ったぐらいであり、C氏はその後に別の女性と会っている。遺体を隠すにしろ、処理して運ぶにしても、大量に持ち運ぶ必要がある。
「そうそう、一応、妊娠の件で産婦人科だけでなく、全ての病院を当ってみたが、彼女の名前は見当たらなく、変わった事、偽名や自費払いもなかった」
田舎だからこそ、都会のように多種多様な人間がそうそう来ない。だいたい保険を使い身元を明かすか、保険料が払えない人間は他の方法を使っている。病院側もよく知っていて、如何にも怪しい飛び込みで全額自費など忘れることなんてまずない。
「そうそう、変というか、不思議というか………」
高野さんは、頭を激しく掻いて言葉を止めた。
「なんなんですか?」
「いや、色々な医院や病院に行ったんだが、半年前から不調を訴える人間が増えたらしい。全体的に高齢化してるから仕方ないんだが、病院側が言うには来院数が増加したそうだ。それも、特定の地区が………いや、関係ないな」
高野さんはそう言って、話を止めた。
自分はその言葉に引っ掛かった。
「何でしょうか?詳しくお願いします」
自分は背筋を正して聞いた。
「いや、地区の人間が良く来るということらしい。なんでも、風邪の初期症状で熱は無いが、倦怠感と食欲減退だそうだ」
自分は、背筋に寒気が走った。それは、プリオンの初期症状に思えた。そして、高野さんが病院の先生の発言を口にした。
「病院の先生の言う事では、風邪なら感染に地域差は出ない筈なのに、なぜ雁段地区の人が多いのだろうと」
自分は、最悪の事柄が複数連結し、冬の海に投げ込まれたような悪寒というよりも、戦慄がはしっていた。
「高野さん!その患者さんたちの名前、少しでも記憶されていますか?」
唐突な自分の反応に、高野さんは驚いた顔を向け、静かに言った。
「………あぁ、聞いた事は全てメモしている」
そう言って、懐から手帳を取り出した。自分は、室外に出ると、壁に張られた市内の地図を剥ぎ取ってきた。その時、近くのデスク上に色鮮やかな画鋲の入ったケースが置かれているのを発見した。腕が勝手に伸び、誰のか分からないが無断で借りることにした。
室内に戻り、高野さんの前に地図を広げ、画鋲を摘まんだ。
「どうぞ言って下さい。この地区は、よく知っています。苗字だけで十分です」
そう言うと、高野さんは名前を上げ始めた。
三
「以上ですか?」
自分が訊くと、高野さんは肯定の言葉を口にした。
目の前に、雁段地区を中心に放射状にダルマ画鋲が十数個ほど刺さっている。
「やはり………」
「何が、やはりなんだ?」
高野さんが訝しそうな視線を向けていた。
「犯人が、B氏だとわかりましたよ」
「どういうことですかな?」
高野さんは、説明を求めてきた。
「説明は、犯人宅へ向かう途中にします。今は、二條君の救出が先です」
そう言うと、室内を出る。高野さんも後に続くと、署内に居る人に叫んだ。
「すまんが、三、四人付いて来てくれるか?」
その声に、若いのが三人と中年の方一人が反応してくれた。刑事課なのか、生活安全課なのか分からないが、警察署員であれば良く文句はなかった。
「谷元君、儂の車で行こう」
そう言うと、先に歩きだした。
薄焦げた色の車が、いかにも高野さんらしい。自分は後部座席に乗せられ、助手席には若い署員、運転席には高野さんが座った。
別の警察車両に、残りの三人が乗り込んだ。
高野さんは、キーを差し込み、エンジンを掛けると、口を開いた。
「さて、説明をして貰おうかね」
バックミラー越しに、高野さんの目が鋭く輝いた。自分は、二人の後姿に話しかけた。
「今回の失踪事件ですが、別の事件と連動していたんです」
「事件?」
「はい。まだ正確には、騒動で止まっているのですが。現時点では関係者しか知らないことです。時機に公にされます。それは、半月ほど前からBSE、狂牛病に似た症状が市内で目撃されたんです」
「ほう」
「手を尽くして調査した所、それはこの松谷市の一部にしか見られないことがわかりました。国内の肉処理施設を調べても不審な点はなく、感染源が未だに判明していません」
「まったく、事態が見えませんが、今回の失踪事件との関係性はあるんですか?」
若い署員が言った。
高野さんは静かに聞いている。
「あります。BSEを調べていくうちに、それは異常タンパク質による感染性のプリオン病だとわかりました。先ほど高野さんから話をお聞きしまして、失踪事件と感染病が繋がりました」
そう前置きして、一呼吸置き、心の中で留めていた言葉を声にして吐き出した。
「クールー」
「は?」
高野さんが聞き返す。
「クールーです。BSEだと思われた病気は、クールーだったんです」
言葉にした自分の気分は最悪に重かったが、二人はこの言葉を聞くのは初めてらしく事の重大さが分かっていない。それも仕方ないことではあるので、説明を続ける。
「クールと云うのは、狂牛病やスクレイピーなどのプリオン病の一種で、ニューギニアで見られた病です。それは死者の肉を食べることで、弔うという儀式的な食人行為です」
『食人』という、その言葉に高野さんも、連れの署員も絶句していた。
自分は心の中で呟いた。
(今考えれば、なんでもっと早く解らなかったんだ。和成君は、典型的なクールーの症状だった。頭痛と手足の痛みに、歩行が困難になり、体が震え出す。顔の筋肉が痙攣するから笑ったように見えることから、笑死病と言われている。正に特徴があまりに符合していた)
自分は改めて聞いた。
「高野さん。相田さんは、既に殺害されてると考えておられるんですよね」
「あぁ、そうだ」
「しかも、それぞれの容疑者が死体を遺棄した形跡も時間もないんですよね?」
「では、死体が出てこない理由は………」
高野さんが、そこまで言うと、それ以上は誰も言葉に出さなかった。
「高野さん。これからは、自分の推理というよりも、知識と得た情報からの想像ですが……」
「話してくれ」
自分は頷き、脳裏で整理しきれず話し始めた。
「B氏は、相田明乃さんと出会ったのは、B氏の言う通りだとして、携帯電話の番号を聞いたというのは、会う意思があったのでしょう。そして、一度別れ、数時間後に待ち合わせした。人目のつかない場所で待ち合わせると、家へ連れて行ったんでしょう」
自分は深く息を吸って、続きを話し始めた。
「室内に入り、殺害。いつかは分かりませんが、遺体をバラして処理したと思われます。B氏の住居は精肉店の二階です。設備は一般家庭よりも整っています」
「だが、死体をバラバラにする工具を購入した形跡はない」
「その件については、後程説明します。そして、肉は販売して証拠を消し、骨は砕いて破棄したと思われます」
「ちょっと待て、いくら同じ肉でも、牛肉とはあまりにかけ離れているだろう。ブツで売ろうが、薄くスライスしようが、味の違いで誰かが解るだろう」
「ブツ切りや薄切りのような単品でなら、食にこだわりの無い自分でも判ると思います。ですが、加工品ならどうでしょう?」
「加工?焼くとか薫製か?」
「単品の加工ではなく、ハンバーグなどの混ぜ物です。それも、牛脂や豚肉、玉葱や繋ぎや調味料等が入ります。そうなれば、もうわからないと思います」
「なるほどな」
高野さんは、ひどく苦い口調でだった。
「高野さん!」
若い署員が、叫びに近い声を上げた。
「そうだな」
高野さんは何か思い当たったのか、自分の言う事に異論を唱えなかった。
自分がその反応を気にしていると、高野さんが教えてくれた。
「実はな。そう言われると、あの肉屋は失踪の翌日から安売りを始めたんだ。ハンバーグやソーゼージなど半額で売っていた。周囲を聞き込みした時、肉の味が薄いという感想があったが、安いから仕方ないと言っていた」
自分は、両手を膝の上で握ると先に進めた。
「以上のように、肉の部分は処理できます。ですが、処理に困るのは、骨や内臓、腱などの部分です。そして、偶然なんですが、処理法に関しての情報を聞いていたんです」
「どういう事だ?」
「付き合いで、釣りに同行したんです。その時に、容疑者が魚を釣るよりも、撒餌ばかりを撒いていたというんです」
二人の目が光った。
「そうです。それが、砕いた骨と内臓に魚肉を混ぜた物だとしたら」
「なるほど………」
高野さんが呟いた。
自分は、目的地も近くなったこともあり、B氏という名を伏せた状態での会話を止めることを伝えた。その事に高野さんは反応を示さなかったが、暗黙の了承を受けたと解釈したことにした。
犯人の名前は、吉嶋正登。三六歳である。もともと市の人間ではないが、数年前に引っ越して店を始めたのだ。
高野さんが独り言を呟くように、自分に聞いてくる。
「あれから半月だ。遺体は完全に消えていると思うか?」
「わかりません。人間を食肉としてみた時、結構な量が取れると思います。いくら不特定多数の人間に売り捌いたとして、牛、豚、鶏などと混ぜれば目方が増えるでしょう。そうなれば、二週間で全てを売るのはどうなんでしょう?可能なものなんでしょうか?自分は、あの店の肉の販売量をしりませんが、難しいのではないのかと思います」
「そうか」
納得したように瞼を数度上下させた。
「状況証拠で決定的な物証はありません。ですが、うちの二條が捕えられていれば、突破口にはなります。遺体になって、肉片を回収してからでは遅いんです」
自分は冷静だが、有無を言わせぬ口調で伝えた。高野さんたちは、当然だと言わんばかりの顔を向けてくれた。
「後回した話はなんだったんだ?」
「そうでした。忘れていました」
自分がそう言うと、高野さんは十字路を左折する。体が右にゆっくりと振られ、話し始める。
「プリオン病という病気は、危険部位、脳や脊髄を経口投与してもすぐに発病しません。少なくとも、接種から二年から三年はかかります」
その言葉が、何を意味しているかは十分理解したようだ。
「とにかく、急いで下さい」
自分は急かした。二條君がさらわれ、既に五時間になる。流れた時間が重く圧し掛かる。何度も頭の中で想像する。二條君の振舞いようにもよるが、時間的には絶望的だ。それでも、諦めるという選択肢も翌朝に延ばすという決定もなかった。
目的地が見えてきた。小さなお店で、看板が掲げられている。一階が店舗で、二階が居住空間なのだろう。
店舗の向かいの道路脇に停めると、三人同時に下りた。後に付いていている車も止まる。
深夜ということもあり、辺りはしんと静まり返っている。車の扉を閉じる音が、アスファルトに反射するように響き、耳にうるさかった。
四
自分が住居入口へ向かおうとすると、高野さんに肩を掴まれ止められた。
「待つんだ」
自分は振り返り訊いた。
「何ですか?」
「まだ、物証がない。令状もない。任意で引っ張らないといかない」
「はい」
「我々が事情を聴く。君は、車内で待っているんだ」
「いえ、自分も行きます」
「そう言わず、遠慮して貰おう。ここからは警察の領分だ」
そう言うと、自分の肩を二度、軽く叩いた。
「いえ。やはり自分も行きます。人数は多い方がいいでしょう。邪魔はしませんので、お願いします」
自分は頑なに主張し、頭を下げた。
高野さんから、離れていてくれ、と言われ認めてくれた。
高野さんの指示で、店側入口に二名。住居用の玄関に高野さんの含めた二名。逃走防止の為に裏にも一名が位置取りをした。
自分は、高野さんから三歩ほど離れて付いていた。外付けの階段で、二階の玄関へ上がって行く。
格子の付いた引き戸の玄関に立ち、高野さんが呼び鈴を押した。
室内に電子音が響いている。それは、玄関先からでも聞こえた。
室内からの反応はない。
もう一度、呼び鈴を押す。やはり、反応は無く、返ってくるのは静寂だけである。
「吉嶋さん!ヨシジマサン」
高野さんが、戸を軽く叩いた。戸にはめられたガラスが甘いらしく、ガラスの擦れる音と金属の軋む音がする。
「吉嶋さん。悪いんですが入りますよ。よろしいですか?」
今度は、戸を激しく叩いた。
その言葉が脅しだという事は判った。警察が、自分の推測だけで令状もなく踏み込むことは無いだろう。しかも、逼迫した状況でなければ、思いきった行動など取れない。
二、三秒の静けさの後に、室内から物音がした。玄関に明かりが灯ると、ガラスに人影が写った。
一同に緊張が走る。
「どちらさまですか?」
戸越しのくぐもった声が聞こえた。戸を隔てて、高野さんが話しかける。
「夜分、失礼致します。吉嶋さんにお聞きしたい事がありまして、少しよろしいでしょうか?」
高野さんは、警官とは思えないほど丁寧な口調だった。まるで、一流の営業マンのような印象を与えている。
「今、何時だと思ってるんですか?時間を考えて下さい」
「ええ。まったく、おっしゃる通りなんですが、こちらもお仕事で、仕方なくなので、ご協力をお願いできませんか?」
繰り返すと、男の態度が変わった。
「帰ってくれ、忙しいんだ。あんた、いったいどこの誰だ!警察呼ぶぞ!」
「それは良かった。警察にはお会いしてくれるんですね。実は、私どもは、松谷署のものなんですよ。と、言う訳でしてね、ご迷惑お掛けしますね」
そう言うと、戸越しの吉嶋は無言になった。
数瞬の間が開くと、吉嶋が口を開いた。
「何の御用かわかりませんが、警察署が私に用があるなら、明日の午前中に署の方へお伺いします。今日は、まだやることがあるので………」
「吉嶋さん。とりあえず、お顔を見せて頂けませんか?話を二、三、伺ったらすぐに帰りますので」
相変わらず物言いは柔らかかったが、最後の語尾だけ強めに言った。それは、軽く脅しているように聞き取れる。
効果はあったようで、僅かだが戸は開かれた。吉嶋は、三十センチほど開かれた隙間から顔だけを出した。
整った顔をしているが、目の光が陰っている。体格的には筋肉質だが、体育会系の匂いがしない。それが自分の感想だった。玄関の黄色電球が、ぼんやりと狭い範囲を照らしている。廊下から奥の室内はまったく照明を点けている様子はなく、まったく家の中は見えていない。ちなみに玄関を見ても、女物の靴など置かれて無かった。当然と言えば当然だ。
高野さんは警察手帳を提示して謝意を伝えた。
「夜分、すみませんね」
「なんですか?」
吉嶋は目を細め、あからさまに不快なようだ。
「実は、お訊きしたい事とは、二條加奈さんの事なんです。御存知ですか?」
「いえ」
「本日、その二條さんが行方不明になりまして………」
「はぁ」
「それでですね、署の方に吉嶋さんと二條さんが一緒に居たという情報が寄せられましてね。それで、ご意見をお聞きしたく思いまして」
「すみませんが、二條さんという方は知りません」
完全にシラを切り通すつもりのようだ。
「そうですか。ちなみに、吉嶋さんは一人暮らしなんですか?」
「そうですが、なにか?」
「いえいえ、ちょっと気になりましてね」
相手は話を切りに掛かっている。こちらには捜索令状もない。強引に押し切ることなど出来そうにない。
強引でも何でもいい。とにかく二條君を助けることさえ出来ればよいのだ。先生の事を考えて、警察を悪者には出来ない以上、方法は一つしか思い付かなかった。
自分は強い口調で言った。
「お巡りさん。自分は見たんです。この人が女の人を連れて入るところを」
高野さんと連れの方が、自分の発言に目を見開いた。高野さんが何か言うよりも、吉嶋が口を開いた。
「あんた、何を言ってんだ!私は、今日は夕方から頼まれたお客さんに配達をしてたんだ。何を根拠に言ってるんだ」
強引でも何でも、自分は中を改めるべきだと決心していた。状況証拠ではあるが、極限まで黒なのだ。人の命がかかって無ければ、慎重に調べる。だが、今を逃せば二條君の命は無い。
自分は、職を辞す決意を固めた。彼が無実であれば、自分の独断と虚報に警察が動いたことにして、権田先生には前日に職を辞していたという事にすれば、どこにも迷惑は掛からない。だからこそ、強硬に主張することにした。
目撃なんてしていない。だが、ここを押し切るには目撃者になるしかなかった。
「いえ、間違いありません。二十代半ばで、髪が長く、色白で、ちょっと品のある感じの女性が一緒でした」
二條君の特徴を並べ立てた。それは、いかにも目撃者ですという雰囲気を醸し出すものだった。
自分の発言が適格だったのか、吉嶋の顔が多少だが強張った。
自分も高野さんも、その変化を見逃さなかった。
「そう言っているんですよ」
自分を見ていた高野さんが、吉嶋を見返した。
高野さんは、自分の行動に乗る気のようだ。
「いや、気のせいではないですか?」
そう言って、吉嶋は目を逸らした。その一瞬、自分はポケットに手を入れ、十円玉をドアの隙間から廊下奥へ投げ込んだ。十円玉は闇に融けると宅内へ飛び込んだ。硬貨は、屋内の奥の壁と金属に当たり人為的な音を奏でる。
「何ですか!?」
自分はワザとらしく声を出すと、吉嶋は振り返り言った。
「何でもありません。何かが落ちたのでしょう」
高野さんが奥を覗き込む仕草をすると、吉嶋は戸を閉めようとした。その行動で、疑惑が確信に変わった。
玄関から、照明のスイッチを確認する。
「あの音は、どう考えても人為的なモノです。すみません」
そう断ると、吉嶋を突き飛ばし、家へ入った。同時に、照明のスイッチに手を伸ばし、廊下の奥側にも明かりを点した。
「お前!何をしている!」
自分は、吉嶋の手を振り払い、駆け足で各部屋のドアを開けて行く。
「二條君!」
叫ぶが、返事は無い。
「おい!出て行け!」
吉嶋が羽交締めをしてきたのを、高野さんが捕まえた。
「ちょっと暴力は良くないです。我々が連れて来ますので、ここで待ってて下さい」
「おい、ナニ勝手に入ってんだ!この手、放せよ!」
後方で、そんなやり取りが聞こえた。自分は気にしないで、木戸を引き開けた。脱衣所だった。脱衣所は暗いが、奥の浴室に照明が点いていて。浴室からの明かりが、脱衣所に射していた。その光が、脱衣所に置かれた電動ノコギリなどの工具を照らしている。
その光景を見て、自分は胸が締め付けられた。
急かされるように、浴室の入り口に立った。
自分は絶句した。
浴室は二.五畳ほどだろうか、その床に二條君が全裸で寝かされていたのだ。
髪は乱れ、胸や腰の肌の色は白く、口から少量の血が流れていた。
自分は倒れている二條君にすぐさま駆け寄り、呼吸を確認し、手触れ体温を確認する。
「良かった。生きている」
すぐに、彼女の体を確認する。傷があれば、すぐさま処置をする必要があるからだ。顔や腹には数度殴られた跡があるが、五体満足だ。刺されたあとも、切られた形跡もなく、彼女の肌は美しいままだ。股間から微量の出血をしていた。性的な暴行を受けたのかと思い、性器を見ると、その表面は傷ついていなかった。膣口から固まりの混じった血液であることから、どうやら生理のようだ。
ひとまず、目視での酷い外傷は確認できない。殴られた場所に内出血を起こしていて不安は消えないが、病院へ連れていくことにした。
自分は、着ている上着を脱いで、二條君の体に掛けた。
「高野さん!居ました!」
叫び伝えた。
「二條君、二條君」
呼び掛けるが、反応は無い。そして、二條君を抱えあげた。生意気で可愛気のない奴だが、抱えると驚くほど細く、また軽かった。
「二條君、大丈夫か?」
名前を呼んだが、やはり意識は戻らない。
「高野さん!至急、車を!病院へ運びます。連絡、お願いします」
玄関へ向かうと、吉嶋は二名の警官に取り抑えられていた。自分は見向きもせず、ぐったりした二條君を運んでいる。
「こちらへ!」
若い警察官が、車を廻してくれ、その後部座席に乗った。
警官が近くの救急病院へ向かいますと言うと、サイレンを鳴らし走り出した。
自分は、二條君に膝枕をして、乱れた髪を整えていた。
二條君の顔は驚くほど青白くなっていて、生気の薄さを表しているようだった。
もう犯人の事などどうでも良かった。ただ、二條君の呼吸が弱くなっていくのが気になった。整った顔が腫れ、口の中も数ヶ所切っている。
「二條君。遅くなってすまない………」
彼女の手を握り、詫びていた。
そんな彼女の手の甲を見ると赤く腫れていた。
五
翌々日の夕方、病院に向かった。二條君との面会を許されたからだ。
最初に警察からの事情聴取を受け、時間を置いて向かった。
柄にもなく花なんて買ってみた。淡いピンクのチューリップで、子供っぽかっただろうか。だが、店頭には菊やコスモスやシクラメンなどが置かれていたが、それらの花は病院には似合い過ぎて嫌だった。それなら馬鹿にされても、病院に不釣り合いなほど明るく幼稚なチューリップの方がイイと思った。
時季外れの花だった為か、なかなかの金額だったが。他の花を買う気にはなれなかった。店員さんが、可愛らしくリボンで飾った花束にしてくれた。照れながら選ぶ自分に、細やかな配慮をしてくれたのだろう。
その花束を雑に持って、病院の廊下を歩き、二條君に宛がわれている個室の前に立った。
扉は開かれていたので、壁をノックした。
二條君は、こちらを見ると姿勢を正し、座り直した。
「谷元さん、どうしたんですか?何かあったんですか?」
二條君の随分な言葉で迎えられた。
病室に来る前に先生に挨拶をして話を聞いた。精密検査の結果で、身体的な異常は無いと言われた。それは良い知らせだったが。心の傷は、誰にもわからない。
二條君は笑顔を向けてくれるが、まだ顔の腫れはひいてなく、見るからに痛々しい。
自分もなるべく普段通りに接する事にした。
「どうしたって、君の様子を見に来たんだよ。これ、お見舞いの花」
自分は、可愛らしく束にされたチューリップを差し出した。
何が面白いのか、二條君は笑い出した。
「どうしたんですか?谷元さんには似合わないですね」
そう言って、花束を受け取ると、チューリップを見て微笑んでいた。二條君はチューリップを見たまま、呟いた。
「聞きました。助けてくれてありがとうございます」
花束を抱えた二條君が、頭を深く下げた。
「すまなかった。もう少し早く気付いていれば………」
自分も頭を下げた。
「そんな事ないです。捕らわれて、殴られても、助けが来ると思ってました。だから、必死に抵抗したんです。あの日の事は、警察の方にも話したんですが」
そう言って、自分にも簡潔に説明してくれた。自分は、無理に話さなくても構わない、と言ったのだが、彼女は話し始めた。
経緯を要訳すれば、国道が工事中で、その迂回ルートが通行止めだったらしい。だから、さらに迂回しようと脇の小道を行った。すると、そこは吉嶋の車で塞がれていて、助けを求められたらしい。時間的に余裕もあったことから、二條君は自分の車の後部座席に乗せた。その瞬間、首筋に痛みを感じて気を失ったらしい。
「気が付いた時は、どこかの部屋でした。手足を縛られて、猿ぐつわをはめられた状態でした。何度も解こうとしたんですが、どうしようもなくて声も上げられませんでした。それから二時間ほどでしょうか、そこにあの男が現れたんです」
自分は、静かに聞いていた。病院内は、看護師が忙しなく働く音と患者の雑談が聞こえてくるだけだ。
二條君は、核心部分を話し始めた。
「男と向かい合うと、はじめのうちは詫びる様な口調で話しかけてきました。なんとか時間を稼ごうと一時間ほど話しました。でも結局は、ヤリたいだけだとわかりました。そして、金を払うと言ったりもしてたのですが、やんわりと断りました。そしたら、服を脱がそうとしてきて、懸命に抵抗しました。すると、殴ってきて………。それでも抵抗しました。どうしても、こんな人物に屈するのが嫌だったんです。殴られながら、考えていました。もう食事会は終わってる。私と連絡が取れなければ、谷元さんの耳に入り、必ず気付いてくれると」
自分は、その信頼に応えられたのか、応えられなかったのか判断はつかないが、とりあえず無言で頭を掻いて誤魔化した。
二條君は微笑んで言った。
「その通りになりました。考えていた時間より、少し遅れましたけど」
「ごめん」
自分が言うと、二條君は「ありがとうございます」と繰り返した。
「御両人さん。失礼しますよ」
入口で太い声がして振り返ると、高野さんが立っていた。
「谷元君。ちょっと、いいかね?」
そう言われ立とうとしたら、二條君が声を上げた。
「待って!事件のことなら、私も聞きます。聞かせて下さい」
二條君を見て、自分は高野さんに頭を下げた。
「わかりました。では、こちらで」
そう言って、病室入口の扉を閉じた。
「どうですか?」
自分は獏然と事件と、高野さんの調子を聞いた。
高野さんは手帳を取り出すと、指を舐める仕草をしてからページを捲り、話し始めた。
「吉嶋は、全てを話しましたよ。やはり、二年半前にも同様の事件を起こしていたよ。大筋は、谷元君の推理通りだ。ミンチの加工肉から人肉成分が検出された」
驚く二條君に、自分は大雑把に説明した。そして、不可解な病と今回の行方不明事件が繋がったことに声を失って驚いた。
高野さんの説明では、殺害された人数は三人。処理法は、肉を加工して売り、手脚の骨は砕いて業者ゴミとして、牛や豚の骨と混ぜて破棄していた。頭骸骨は砕いて、魚肉と混ぜて海へ撒いたという事だ。脳や脊髄は、加工肉に使ったと証言している事から、その部位を摂取した人間がプリオン病になったということだろう。
そして、二條君をさらって、お金で和姦に持ち込もうしたが、拒否され、強姦しようとしたが、頑強な抵抗にあって、殴る蹴るの暴行を加える。だが、それでも大人しくならず反撃にあい、スタンガンで何度も衝撃を与えて気を失わせた。
二條君の服を切り破った後、犯そうとしたが従順さの無い女には立たず、性欲は削がれ、殺意しか浮かばなかったと言ったそうだ。結局、口封じと証拠隠滅を急ぐために、風呂場に置き解体作業に入ったらしい。普段は首を折り、殺して解体するらしいが、これほどムカついた事は無いと言っていて、生きたまま手足を切るつもりだったらしい。
そして、我々が到着したという訳だ。
「危なかったんですね………」
自分は呟いた。
「とにかく、まだまだ前回の事件など、訊き出してないからな。今はそんなところだ」
「そうですか………」
高野さんは、御協力感謝いたします、と云って退室した。
ふっと、二條君が呟いた。
「私は、運が良かったんですね」
その言葉に、自分は相田さんと二條君の違いを考えた。
「確かに、運の差はあると思う。だが、二條君は信頼を得ていた。仕事を真面目に確実に処理し、人との関係を強く形成していた。うちの事務所に来て、一度でも責任を放棄することをせず、不具合が発生すればすぐ報告した。その行動と結果が、先生をはじめ自分たちに揺るぎない信頼を与えたんだ。一度でも、無断で私用を優先させていれば、動くのを翌朝まで待っていたと思う。それをさせなかったのは君の力で、運を掴んだのは、日々の行動であり、これまでの評価だ」
相田さんの娘さんを悪く言う気は無いが、両親の愛情があっても休日明けまで待ったんだ。それは、待つだけの前例を残したと云う事でもある。その点では、二條君はまったく迷わせなかった。
自分が熱く語ると、二條君は照れるようにはにかんだ。
「谷元さんが、私を少しばかり信頼してくれている事がよくわかりました。でも、裸を見せるほどではないですよ。変な事しなかったでしょうね?」
「あ~。左内腿の付け根に、小さなホクロが三つ並んでたのを見たくらいかな」
「最低ですね。言っときますけど、それセクハラですよ!」
「おいおい、勘弁してくれよ。記憶は消去しとくから」
「当然です」
二條君にそう言われたが、自分は二條君の形の良い胸とくびれた腰を思い出した。しかし、あの光景には肝が冷やされた。
「念のために、明日も休んでいい。体調を万全に整えて出て来てくれ。権田先生もそう言ってくれている」
「大丈夫です、明日から出れます。ところで、事務所はどうなんですか?」
「小暮から援軍が来てくれているよ。だから、少し休んでろ。先生は、感染の封じ込めの指揮を執っているから来れないが、心配していたぞ」
「わかりました。週明けにします」
彼女の頭を撫でて、布団に押し込んだ。
「帰るから、もう寝ろ!これは業務命令だ。いいな」
顔を赤らめた二條君は、こくんと頷いた。
携帯電話の音が鳴る。二條君に視線を向け、自分は室内を急いで退室した。廊下の携帯電話の通話を許された場所まで走り、電話に出た。
「はい」
《俺だ!》
四法院の声だ。いつになく焦った様な口調だ。
「なんだ?」
《なんだ?じゃない!いいか、資料送ってくれただろう》
「ああ」
《これは、とんでもない事件だぞ!》
「あぁ~」
《あ~、じゃないだろ!あれだけの資料では確証はないが、クールーの可能性があるぞ》
自分は、なぜその結論に行き着いたか気になったが、今は聞くのを止めておいた。現在は、事態の収拾が最重要だ。
「四法院。全部終わったよ。終わったんだよ。解決だ」
その言うと、四法院は僅かな沈黙の後に、一言だけ返事がきた。
《そうか………》
「ああ、大変だったが解決したよ」
流石、変人だなと思い、電話を切った。自分は、病院を後にして、車に乗ると普段より少し騒がしい街を走りだした。
永続・幸福・絶対の智という宗教団体が幟を掲げ、説法のような事をしている。
初めは疑った自分だが、この手の新興宗教は飯のタネが有る処に出没するのだろう。原因不明の病が流行りだした初期段階に、この場所に来ているのだ。プリオン病の治療法は無いが、精神的な救いを求めるのも一つの手段ではあるのかも知れない。自分は、この種の団体の情報力に恐怖を感じた。
末法と救いを説きながら、その情報戦のたくましいことだ。
昼頃、初音から来ていた。夜にまた食事を作ってくれると言ってくれている。だが、条件に迎えと買い物の荷物持ちをすることを付け加えていた。
自分は、お迎えに上がります、とメールを送り、お姫様を迎えに行くことにした。あのトマト煮の味が口の中で思い出された。
その後、警察はこの事件を明るみに出したが、食人と病との関係は伏せたまま、猟奇殺人事件として発表した。県も厚労省もプリオンの海綿状脳症も事態の収束宣言をした。
上層部の決定に、自分がどうこう言える訳もない。
この事件に関するすべてが、自分の心になんともやりきれない思いだけを残した。
<この作品についての注意点>
この作品を書く上で、2003年の米国におけるBSEの発生と騒ぎを当時の法律を参考に書いております。現在、農林水産省と厚生労働省が法改正を度々しておりまして、この作品当時の様に厳格になっておりません。
法改正された趣旨と狂牛病対策を緩くした理由を要約しさらに簡単に説明しますと。
10年経過して、大した問題になっていないんだから、もうザル検査でも良くね?
面倒くさいし、アメリカ様がうるさいし、ここらへんで厳格法律尊厳ポーズも充分でしょということらしいです。
そういう訳でして、ここで書いております食の安全を守る日本は過去のものとなっております。
その辺の程をご理解お願い致します。