六章 繋がる疑問
一
頭がクラクラする。過労、睡眠不足、ストレスなど理由は色々あるが、このクラクラはそれらには該当しない。体が揺れ、手すりを掴んでいないと立つのも困難な感じだ。
自分は、クーラーボックスの上に腰を下ろし、背を丸めた。
朝七時から釣り船に乗って、既に四時間も波に揺られている。海風は気持ち良いが、今日はいくぶん波が高いようだ。乗っているのが小船という事もあり、揺れが和らぐことなく体に伝わる。
釣りと聞いていたが、船釣りだとは思ってなかった。
「谷元君、具合悪いのかい?」
そう声を掛けてくれて、左側に川田社長が座った。
「自分は大丈夫ですが、教授はどうなんですか?」
「ダメだ。嘔吐を二度して、顔が青い」
左手を左右に動かして言った。
朝、船着場の待ち合わせ場所に向かうと、知らない人が立っていた。歳は、五十代半ばだろうか、知的な表情で温厚な雰囲気がある。第一印象は川田社長と対照的な人物に思えた。
朝の挨拶を交わし、頭を下げた。社長が、すぐに紹介をしてくれた。
この方は大学教授であられるらしい。どういう経緯で知り合われたのか疑問だが、話している口調から、かなりの親密さが感じられた。
自己紹介を済ませると、無難な話に終始した。社長は、さらに自分の紹介を付け加えてくれ、教授は笑顔で聞いていた。褒められているのか、叱られているのか分からないような補足説明だが、態度は好意的に受け取れる。
教授さんは、釣り好きらしく服装や装備から、重度の中毒者だと分かる。まぁ、薬物や酒に溺れるよりずっと健全だ。
「いや~。毎日仕事や研究が忙しくてね。一度、船釣りをやりたかったんだ」
そう言っていたのだが、楽しかったのは二時間足らずだった。それ以後、教授は気分が悪くなり、釣りどころではなくなってしまった。
釣り船の船長曰く、今日は多少波が荒いらしい。そして、自分の具合も悪くなり、胸のむかつきと頭の痺れを感じていた。嘔吐こそしていないが、このままではマズイ状況だった。
社長の判断で、帰ることを決定し、今帰っている途中なのだ。
自分は、船長にお詫びを言う為に立ち上がると、よろめきながら操舵室に向かった。
船長は、手慣れた動作で舵を操っている。
「船長さん。御手数お掛けしてすみませんでした」
船長は、野性的な笑顔を浮かべてくれ、渋い声で言う。
「よくあることですよ。御客さんの中には、船酔いされる方は結構いますから」
「そうですか」
「兄ちゃん。あんたも、具合はどうだい?」
「自分は、なんとか………」
言葉と共に笑顔を向けたが、反応は薄かった。余程、疲れ果てた笑顔だったのだろう。
「兄ちゃんも座ってなッ」
荒い口調だが、芯に優しさを感じる。
港が見えて来た。一早く、自分が片付けをする。川田社長は、教授を気遣っている。
港に接岸すると、教授と社長を先に下ろした。教授は、コンクリートの上にへたり込み深呼吸を繰り返している。
「社長、自分は荷物を持って行きますので、先に休んでてください」
そう言うと、川田社長は頼むとばかりに、右手を高く挙げて拝むように上下に振った。
自分は、岸と船を三往復すると、船長が咥え煙草の姿で話しかけて来た。
「お兄ちゃん働くね~」
「えぇ、お仕事のようなモノですから」
そう言って、四角いバックのようなモノを手に持つと、予想外の重さに体がよろめいた。
「コレ、重いですね。何が入っているんですかね?」
何気ないその問いに、船長さんが丁寧に教えてくれた。
「そりゃ、バッカンだ」
「バッカン?」
「撒餌が入ってるケースだ。そういや、お客さんたち酔っちゃったから、使えてないんだろう」
そう言われれば、その通りだ。バッカンを開けると、並々に撒餌が入っていた。ざっと見て、六キロはあるだろうか………。
船内で出したゴミは、持って帰るが、撒餌はどう処理するのか分からない。素直に聞くことにした。
「すみません。この餌は、どうすればいいのでしょうか?」
「小量なら海に撒けばいい。気になるなら、ウチで処理しようか?」
「是非、お願いします」
頭を下げてお願いした。荷物を運びながら、船長さんと並んで歩いている。職業病なのだろう、自然に会話をしてしまう。関係が少し温まり、船長が変わった話をしてくれた。
「たまに来るお客さんで、変なお客さんが一人いるんだよ。吉嶋さんっていうんだが、知ってるかい?」
「えぇ、お名前は」
自分はとりあえず相槌を打った。
「そのお客さんは、兄ちゃんより少し上かな。釣りに来てるんだろうが、まったくセンスがないんだよ」
「なぜですか?」
船長は、笑みを浮かべて言った。
「それが、撒餌ばかり撒いてるんだよ。撒餌を撒いた方が良いんだが、撒き過ぎは逆効果だ」
「そうなんですか?」
「そうさ。撒餌っていうのは、少量を小まめに撒くんだ。だが、その客はせっかちで、近くにも遠くにも多く撒くんだ」
「それを教えてあげたんですか?」
「当然だ。だが、気性だとか性格とかは変えられない。何度、言っても大量に撒いちまう。だから、魚がまったく獲れない。結局、撒餌が無くなって終わりだ。撒餌を海に投げ捨てている様なもんだ」
自分は返事に窮し、友人の話を持ち出した。
「知人が言っていたのですが、気の長い人間は釣りには向かないと。魚が釣れなくても、その場を動かない。短気なくらいが、良いポイントを発見出来ると聞きましたが、それは短過ぎですね。でも良く来られるんですか?」
「いや、それが、今回は十日前くらいか。その前は、一年前だったかな。数回、集中して来ていたよ。他の船にも乗っていて、同業者から同じ話をされるよ」
撒餌を撒くだけの男か………。残った撒餌を、ビニール袋に入れて船長さんに渡した。
「谷元くん」
川田社長に呼ばれた。
自分は船長さんに頭を下げて御礼を言った。
「本日は、ありがとうございました。またお願いします」
それから、大量の荷を担いで社長の元へ急いだ。既に、車が回されており、教授は後部座席に乗せられていた。
社長の前に立つと、社長は車の背後に移動して囁くように言った。
「今日は、すまなかった」
「いえいえ、仕方ないですよ。それより、大丈夫ですか?」
「ああ、少し休めば問題ないだろう。今日は、もう帰らせる」
「はい。では、挨拶だけして言っていいでしょうか?」
「おお」
自分は、車のトランクに釣り道具を収めると教授に挨拶を交わした。教授は、船酔いを詫びてくれたが、体調に関してではどうしようもない。実は、自分も具合が悪かったのだと打ち明けた。
再び、川田社長に誘って頂いたお礼を伝え、車を見送った。
自分の車に乗り込むと、胸焼けと吐き気が襲ってきた。睡眠不足に、気疲れ、船酔いの上に肉体労働、睡魔と頭痛が襲ってきた。
事務所が気になったが、今日は仕事になりそうにない。こうなれば、全面的に二條君を頼らせて貰うしかなかった。
自分は、最後の気力を振り絞り、車を運転することにした。酔っていると云っても、アルコールではない。注意力が幾分落ちているだろうから、ゆっくりを帰ることを心掛けることにした。
窓を開け、冷たい空気を顔に浴び、肺に吸い込む。これだけでも睡魔は消え、爽快感が加わる。
自宅の前に到着し、玄関を開けると大量の郵便物が転がっていた。全部で四つ。書き殴った様な同じ文字。四法院からだった。
触った感覚から、これらが本だという事はわかる。宅配便を使えば良いものを、何で定型外郵便なんだ………。
「あっ!」
そう言えば、メールで急いで送ってくれと書いた気がする。そして、数秒思案して、こうなる理由に行き着いた。
なるほど、宅配便だと不在通知になるから、一日でも早く手に渡るように、速達にしたんだろう。現金が余計に掛かるのに、随分配慮をしてくれたもんだ。
本を室内に持って入ると、封も開けることなく積み上げた。四法院の配慮は感じいったが、今は何より睡眠が必要だった。服を脱ぎ、顔を洗い、ベッドに倒れ込んだ。
「悪い。二、三時間だけ仮眠を取らせてくれ」
誰も居ない室内で、東京にいる四法院に呟いて、携帯電話の目覚まし機能はオンにする。
瞼を閉じると外の喧噪が聞こえて来た。まだ、昼間と云う事もあり、小学生が騒いでいる声だ。しかし、それは自分の睡眠を邪魔する要因にはなりえなかった。
二
携帯電話の目覚まし機能ではなく、強烈な尿意で目が覚めた。急いでトイレに駆け込み用を足した。手を洗い、椅子に座った。目の前に四法院から送られた郵便物が積まれている。
一つ一つ開封して前に置いた。医学書に、狂牛病の専門書など、切り口も厚さも様々だった。
まず狂牛病と書かれた本を手に取った。
本には、BSEについての成り立ちから記されていた。
ことの始まりは、十七世紀中頃まで遡る。産業革命が生み出してくれる富の恩恵で、人口は増加の一途をたどっていた。それは人類の繁栄を意味していたと同時に、食糧難を生み出した。フランスにおけるパン騒動など、食糧供給と政情不安は密接な関係があった。特にイギリスでは肉の不足は深刻だった。この当時、労働者にはスープに羊肉の切れ端が入っていれば良い方で、大きな肉の塊などめったにありつけなかった。
それはイギリスの家畜は形が悪く、痩せていて骨が太いからだと気付いた商人がいた。
商人は、この状況を自身の手で変えることにした。
彼は、理想の羊を考えた。それは、頭が小さく、首が短く、足が細くて、胴体と尻が大きい。それこそが理想の羊だった。彼は家畜の改良という行為を知っていた。自分の理想とする羊の体型と性質を基とすることから始めたのだ。骨の細く、肥りやすい羊を選び、交配させていった。そして、大型化への改良を急ぐあまり、禁断の手法まで多用していった。近親交配と呼ばれる手法である。理想に近づいた雄羊が生まれると、その子孫と何度も何度も交配させ、遺伝関与率が九五パーセントになるまで高めたのだ。
多くの農夫は、その手法に嫌悪感を覚えた。近親交配は遺伝的欠陥を引き出すと知っていたからだ。
商人は、そんな意見など気にも留めなかった。彼の有する羊は、樽のような胴体に四本の脚を生やしているかのようだったのだ。その成果に、周囲の人も口を閉じざるをえなかった。そして、高価な種付け料を取り、肉の価格も高く維持しようとしたが、思惑通りにはいかなかった。このお手軽な近代的な品種改良は、数千人という人を彼の後に続かせた。そしてイギリス全土から、ヨーロッパ全土、南北アメリカへと広がりを見せた。
彼と追随した者たちの功績で、労働者階級の生活も改善された。そして、その後も羊毛・気候への適応力などの性質向上に品種改良という名の近親交配が繰り返された。
十七世紀後半にヨーロッパ全土で奇妙な病気が発生し、多くの羊が、その奇妙な病に倒れていた。病に罹った羊は、顕著な特徴を示していた。それは『こする』の意味、『スクレイプ』から『スクレイピー』と呼ばれていた。羊という生き物は、おとなしくて好奇心に乏しく、面白味のない動物だとされていた。それが、このスクレイピーに罹ると性格が一変するらしい。攻撃的でひどく神経質になり、正常な羊には見られない行動を取る。そして、狂ったように体を掻き始めるのだ。足や口で届かない場所は、体を物に擦りつけ、背中と尾の付け根を杭や壁など何にでも擦りつけ、血まみれになっても止めようとしないのだ。
かゆみの原因は、脳の変質に起因しているので、どれほど体を掻いたところで治りはしない。そして、病に罹った羊が死ぬ頃には、体の部位の皮がめくれ、かさぶたに覆われ、見るも無残な状況になっている。
十八世紀初頭。スクレイピーは、ヨーロッパの羊肉・羊毛業を壊滅させかねないほど拡大していた。人々は、この病を解明できると思っていた。だが、諸説上がったが、結局解明はされなかった。
結局、スクレイピーに終止符を打ったのは、市場原理だった。オーストラリアが羊産業に乗り出すと、低コストのオーストラリア羊にヨーロッパの羊産業は崩壊させられた。スクレイピーは、消えることはなかったが、羊の奇病として小さな問題にされてしまったのだ。
自分が次の章を読もうとした時、携帯電話が鳴り響いた。本を机に伏せる様に置くと、携帯電話を手に取った。
「はい」
《谷元君、相田さんの件だがね。進展しそうだよ》
「本当ですか?」
《あぁ。娘の明乃と関係のある男が四、五人浮かんだんだよ。そして、アリバイも確認されていない。それを辿れば時間の問題だ》
戸惑いながら、肝心な事を訊く。
「あの………。遺体は発見されたんでしょうか?」
《それがね。まだ見つかってないんだよ》
「殺害されたのは確定なのでしょうか?」
僅かの沈黙の後に返事かきた。
《言いにくいが、被疑者が三、四人浮かんだ。誰か一人でも姿を消していれば生きている可能性はあるだろうが………》
「そうですよね。女性だけが居ないなら、既に………」
《だが、遺体が見つからないと、あくまで失踪事件だ》
自分は肝心なことを訊く。
「なにか、関係を関連付ける証拠はあるんでしょうか?」
《まだ無い。だが、今は被疑者をひとりひとり洗うしかない。入念な捜査をすれば、それで聴取がとれる。そうなれば、自供させるよ》
聞いてて、多少、強引さを感じた。警察は、未だ自供だよりなのだろうが、口座に現金を残している事から、金銭目的ではない。そうなれば、目的は性的なことなのだろうか。容疑者宅を家宅捜査して、物証が出てくれば立件も出来るだろうが、彼女の私物だけでは弱い。犯人が肉体関係を認めれば尚更だ。
「さすがに被疑者は、教えては頂けませんよね?」
その問い掛けに、高野さんは鼻で笑った。自分は、ばつの悪そうな雰囲気を醸しだしていると、高野さんが話題を変えた。
《そう言えば、前に言ってたろう。ここに来た新興宗教》
「どうなりました?」
《まったく関係ないと思うぞ》
「そうですか」
自分は答えて、お詫びと礼を言った。そして、高野さんは、以上だと言わんばかりに、電話を切った。
松谷署が本腰を入れたお陰で、失踪事件は解決に向かっているようだ。だが、広がりつつある病が何なのか一向に見えていない。
狂牛病の可能性は薄い。しかし、色々な病を引き起こし、それらの症状が近いという事が引っ掛かった。
途中で読むのを中断していた本を、自分は手に取り直して読み始めた。
一九一〇年代、ドイツ人医師ハンス・クロイツフェルトは、二十三歳の精神疾患に罹った患者に出会った。当初、クロイツフェルトはペラグラではないかと疑った。痴呆の症状があり、皮膚が赤かったからだ。
ペラグラは、トウモロコシを主食とする地域でよくみられる。アルコール中毒症の患者、栄養不良の人は、発病の確率が高くなる。また、ハートナップ病の人はペラグラを発病する。
この病は、ナイアシン不足に加え、日の光に当たることで発症する。まず光線過敏症が生じ、顔に赤い発疹が現れる。その後、消化器が侵され、吐き気、嘔吐、便秘、下痢、口内炎などが症状として出る。病が進行すると、疲労、不眠、無感情を経て、脳不全による錯乱、幻覚、記憶障害などが起こり、死に至る病だ。
だが、ペラグラはヨーロッパでは撲滅させられていた。
クロイツフェルトは患者の経過を観た。患者は、やがて歩行できなくなり、体の震えが始まった。何かに憑かれたように金切り声を上げ、意味のない事を言い始めた。そして笑い出す症状を示す。最後は、熱に浮かされ、昏睡状態に陥ったあと、亡くなった。
他の医師たちは、この病は人間の複雑怪奇な心的なモノと考えていた。しかし、クロイツフェルトは違っていた。医師としての卓抜した論理と徹底した記録、そして亡くなった患者の脳を薄切りにして解剖した。クロイツフェルトは病気を解明するまでいかなかったが、自身の観察記録を残し、第一次世界大戦後に発表した。
その十年後、ドイツの神経科医アルフォンス・マリア・ヤコブの目に留まる。ヤコブは、自分とクロイツフェルトは同じ病気を研究していると知ると、この病を再検証し、『クロイツフェルト・ヤコブ病』と名づけた。
両者の功績で、この病の解明についての方向性が示され、他の研究者によって脳の損傷、アストロサイトや斑点、不活性化してもつれたタンパク質がたくさんみられた。
そして、これらの特徴は、別の地域で報告された流行病に似通っていた。その地域とは、地球を半周したパプア・ニューギニア高地で流行した病である。
この病は、原住民に『クールー』と呼ばれていた。クールーとは地の言葉で、身震いや震えを意味する語である。原住民によると、この病は魔術によるものだと主張していた。
当然、魔術など医師たちが信用する訳はない。
その病の原因は、外来者であれば誰でも判る事であった。この部族は死者の追悼儀式で遺体を食べていたのだ。その食人行為こそが、病の元であることは明らかであった。
その証拠に、クールーの症例は特定地区でみられた。そして、クールーについての説明が続いて、当時、スクレイピーとクールーは、遅発性のウィルスではないかと結論着けていた。
一九六五年頃は、病の黒幕はウィルスだと信じられていた。その理由は、単に大きさであり、細孔フィルターを用いた実験で実証した。ウィルス並みの大きさしか通さない極微細な因子であれば、病原体は通過し感染性がある筈だと。そして、スクレイピーの病原体は、細孔フィルターを通過し、実験体に感染したのだ。
様々な実験は、スクレイピー因子が如何に強力であるが示すことになる。
有毒な防腐剤であるホルムアルデヒド溶液に浸しても破壊されず、凍結、融解を繰り返しても意味は無く、感染組織を摘出し数分煮立てても耐え抜く。さらに、高熱処理では摂氏六〇〇度の加熱をしても感染性を失わなかった。追試で、殺菌効果のある紫外線を核酸が破壊される程に浴びせたが何の効果も無かったと記されている。
自分は、この記述に恐怖を感じた。もし本当ならば、その病原体は調理初期時に混入すれば、どう調理しても感染することになる。熱湯消毒など意味がないのだ。
溜息を吐いて、先を進んだ。
一九七二年、医学部を出てまもないスタンリー・プルジナーが登場する。
プルジナーは野心的で、政治的には周到で、学問領域ではどこまでも注意深かった。彼はまず、先人の研究者が使った『スローウィルス』という言葉を否定した。ウィルスとは、感染性病原体の総称として使用されていたが、現代で『ウィルス』とは核となるDNAやRNAをタンパク質が包み込んだモノのみを指す。
スクレイピーやクールーやクロイトフェルト・ヤコブ病などは『伝達性ウィルス性海綿状脳症』という名称で呼ばれていた。プルジナーはその呼び名も気に入らなかった。感染症のすべてが伝達性ではないし、ウィルス性ではない可能性もある。また、脳に海綿状の組織が必ず見つかる訳ではなかった。彼は、自分が追い詰めつつある病の名を熟考した末に命名したのだ。その名は、『プリオン』である。
プルジナーは、この奇病はプリオン・タンパク質の突然変異を原因としていると位置付けた。簡単に説明すれば、DNAに一ヶ所のコードの誤りがあり、通常とは異なる折りたたみ方のタンパク質となる。このタンパク質が健康な個体に接触すると異常な構造をとらせるというものだった。古い医師や学者たちはタンパク質が病を起こすという論に懐疑的だった。病と云うのは、ウィルスやその他、核酸を持つ何らかの物が細胞に入り込んでいる可能性こそを疑った。核酸のみが、病気の系統に情報をコードできるのだ。仮に病の因子が、プリオン・タンパク質だとすると、タンパク自体には核酸は存在しないのだ。補足するなら、もともとタンパク質は人体に存在し、そして限りなく摂取するのだ。なにより、それが正しいなら、病気の数だけタンパク質の異型が存在しなければならない。
スタンレー・プルジナーが画期的な論文を発表し、様々な実験に加え、多くの科学者が感染性および遺伝性の神経変性疾患にはある種のタンパク質が関係あると認識するようになった。
そして、時期的には狂牛病が世に広がりを見せ始めた。話は四法院の説明に繋がった。
書籍三冊をざっと目を通すのに、六時間経過していた。時刻は深夜を回っている。もう寝ておきたいが、あと一冊残っている。
どうしても読んでおきたかった。キッチンへ向かい、濃いコーヒーを作ると腹へ流し込んだ。苦味とコクが咽喉を喜ばせ、気を静めたように思えた。
室内だけでなく、外も慎としていた。わずかに空腹感を覚えたが、この時間帯に食事を摂ろうとは思わない。最後の本を手に取ると自身に気合いを入れた。
「よし、頑張るぞ」
そう言って本のページを捲った。
三
強烈な寒さを感じ、目が覚めた。頬が痛い。顔の下に、プリオン病の本が開いて敷かれていた。どうやら睡魔に負けて、机で寝てしまったようだ。
外から明るい光が注いでいた。鳥の囀りも聞こえてくる。
はっとした。目覚まし時計をかけていないことを思い出し、血の気が引く思いで慌てて時計を見る。
(八時二〇分)
良かった。遅刻の時刻ではなかった。だが、ゆっくりもしてられない。四法院への礼のメールに一連のファイルを添付した。事件の資料で、意見を聞きたかった。
資料を読み返し、BSEについての情報を得ると、やはり症状は似通っている。だが、国内牛の管理状態を知るとBSEの可能性はない。そうなると、やはり輸入牛肉の可能性が出てくる。それとも、別の感染ルートだろうか。輸入牛を疑うには、決定的な証拠が足りない。四法院も同じ結論に行き着くか気になった。できるだけ早めに感想をくれ、と付け加えた。
机で寝た所為か、疲れがとれていないばかりか、体の部位が所々重く、足が張っている。
考え得る最善の状況としては、病の感染ルートを掴んで明るみに出し、適切な対処をすることだ。だが、そのルートが未だに見えてこない。
自分は失笑した。まだ、プリオン病と決まった訳ではないのだ。まず、この病がプリオンだと証明する必要がある。茂山、手島、両氏に頼んで協力してもらうしかないのだが、問題は診察をお願いする医師だった。プリオンだったとして、しばらくの間は秘密にして貰う必要がある。病を確定させて感染ルートを探らねば、まったく意味がない。不用意に発表してしまうとルートが隠される可能性もあるのだ。
これ以上、感染者を増やさない事は大事だが、将来に亘っての食の安全を確保することも重要だった。医師は医師の責任があるだろうが、代議士は代議士の責任があり、大局的に国民の暮らしと安全に責任があるのだ。
自分は脳裏で、医師のデータと顔を浮かべていた。数人の顔が浮かび、一人の顔が離れなかった。秋津病院の外科医上村医師だった。
今考えると、上村先生は何か知っている節がある。円藤さんの息子さんが引っ越したのも、病気だという。その症状が気になり、情報を欲しがっていたくらいだ。それはプリオンの可能性を疑っていたからではないか、と思えた。
時計を見ると、時間が差し迫っていた。自分は、身支度を整え、出勤の準備を済ませ、飛び出す様に家を出た。
事務所に入ると、二條君はまだ来ていなかった。彼女の来るのを待ちながら、上村先生に連絡を取る。診察中なのだろう。携帯電話は、すぐに留守番電話サービスに繋がった。
時間がないので、用件を吹き込むことにした。
「谷元です。円藤さんと同症状の人を連れていきます。診察を内々にてお願い致します」
メールで、留守番電話を聞いてくれるように伝えた。次は、手島、茂山両氏へ電話を掛ける。神経科の専門医を紹介したいので、都合が付きませんか、とお願いした。
茂山さんは、娘さんが入院していることもあり難しいと言われた。説明を聞くと、娘さんは立ちあがることすらできないらしい。そうであれば、正式な手続きを取らないと診察は難しそうだ。その理由から茂山さんには断られたが、手島さんの和成君は診察を了承してくれた。
「おはようございます」
二條君が現れた。今日は、艶やかな黒髪がさらに良く手入れされて見える。
「遅れて申し訳ありません。早朝の祝詞会に出席していました」
「あぁ。あれか、今日だったのか」
祝詞会とは、神社に参内して地域社会の親睦を深める会だ。宗教的な要素は無く、地域活動を主にしている。その会の主要メンバーは顔の広い方々が多く、関係を良好に維持することは二條君に任せていた。むさ苦しい男の自分が行くよりも、二條君が行った方が良いだろうと云うのは建前で、彼女も顔を売る必要があったのだ。
二條君は手荷物を自分の机に置き、コートを脱いで細い体にタイトな上着が上品でもあり、淡く色気も感じさせた。正に絶妙な服装であった。
前に立たれると、彼女の細さと胸の張りが強調される。直視することも出来ないから、視線を逸らした。
「谷元さん。本日、浅野さんの主催する集まりに呼ばれました。食事会のようですので、夕方から出ます」
「わかった。自分は、それまでには帰るから、事務所に居てくれ」
「何かすることはありますか?」
事件のことを間接的に聞いているのだろう。自分は、関連の資料と情報ファイルの入ったUSBメモリーを渡した。
「ここの情報を誰の目にも判るように、整理してくれ。場合によっては、関係各所に配布することになるかも知れない。その辺りを意識して頼む」
「わかりました」
「あと、その資料は、絶対に外部に持ち出さないでくれ」
二條君は頷いた。そして、自分のPCを立ち上げると、すぐに作業を始めた。
「あとは、頼む」
と言うと、出る間際に彼女の声が聞こえた。
「自分なりに整理しておきますが、確認はお願いします。谷元さんのPCへ送っておきますので」
手を挙げ、応えると駆け足で事務所を出た。車に乗り込むと、携帯電話が鳴った。
表示を見ると、上村先生からだ。
「はい」
《谷元君。いつ来れそうかな?》
「これからでもよろしいでしょうか?」
《わかった。言っておくから、外来受付で名前を言ってくれ》
「かしこまりました」
返事をして、電話を切った。そして、車を手島宅へ向かわせた。
病院へ到着したのは、午前十一時前だった。手島家へ向かって、母子を乗せ、何事もなく到着した。車の中で、強直性の震えがあったが、母親が言うには良く起こることらしい。
秋津病院の受付は物凄い人の数で、見たところの割合はお年寄りが七割程だろうか。自分は、外来受付へ向かい、名前を出して上村医師を呼んでいただいた。
看護師にすぐさま診察室に案内されると、室内には既に上村先生と二名の医師が待機していた。
手島夫人が前に出ると頭を下げた。
「この度は、ありがとうございます。息子の和成………」
上村先生は、いやいや、と云いながら手を上げ、口上を止めた。ゆっくりと感謝の言を聞いている時間は無いのだろう。
「お母さん。これから精密検査を行います。臨床検査。特殊検査など計六種類です。その結果、治療法を決定いたします」
柔和な表情で説明する上村先生に、親として重要なことを訊いた。
「息子は治るのでしょうか?」
「検査の結果が出るまで、何ともお答えできません」
そう答えると、お母さんを帰らせようとしたが、待つと云い張り聞かなかった。
上村医師は、すぐに部下たちに指示して準備をさせた。和成君は車椅子に乗せられ、看護師と医師に付き添われ移動していく。上村医師もゆっくりと後を付いて行った。
自分は上村先生と並走して話をする。
「先生。検査内容と結果を知りたいんですが………」
訊くと、先生は早口で話し始めた。
「臨床検査では、髄液検査、脳波検査、尿検査、MRI、プリオンタンパク遺伝子検索をする。異常プリオンタンパクの検出をWestern blot法で検出する。詳しく言えば、電気泳動によってゲル中に分離した蛋白質をニトロセルロース、PVDFなどのメンブレンに転写した後、目的とする蛋白質を抗体を用いて検出する方法だ。要は、一般的に使われている手法だ」
「申し訳ありません。聞き慣れない医療用語ばかりですぐには理解できません。あとで、検査の名称などを記した用紙など頂けますでしょうか?」
「わかった。すぐに研修医にでもまとめさせる」
「それと、この検査でどのような結果になったとしても、事態を把握できるまで極秘扱いでお願いいたします」
「言うに及ばず」
そう言ってくれると、検査が始まった。
自分は、検査を見ている。素人でも検査内容は、特定の病に対して行われているものだとわかる。脳、脊髄などが中心で、血液の精密検査などしていないのだ。血液型や他の合併症の可能性は疑っているかもしれないが、それでもプリオン検出を主としているのは明らかだ。
全ての検査を終了して、上村先生が目の前に現れた。
「谷元君」
「はい。どうでしたか?」
「まだ、全ての結果が出てはいないんだがね。間違いないよ。陽性反応が出た」
「ではやはり、プリオン病ですか?」
小声で囁くと、先生は頷いた。
「検査結果は教えて頂けないのでしょうか?先生に報告して、各所への提出するデータが必要なので」
「こちらから提出しても構わないが?」
「いえ、まだ感染ルートがまったく解らないので………」
自分は、とりあえず出来上がった書類だけをもって、事務所に変えることにした。
「谷元君。私は、母親に色々と訊くが、構わないだろう?」
「はい。あの………、和成君は、………助かるのでしょうか?」
その問いに、首を横に振った後に説明を始めた。
「プリオンの治療法はまだ確立されていない。動物実験では抗真菌剤、抗癌剤、アミロイド蛋白結合色素が感染動物の生存期間を延長したり、発症を遅らせたりしたとの報告はある。しかし、これらの薬剤はいずれも毒性が強い。だが、それら薬物もプリオン病に対しての有効性は確認されなかった」
余命の宣告だった。どれほど延命治療ができるのか分からないが、不死の病では経過を観察して、医学の進展につなげるのが最良の策になるだろう。
自分は、改めて上村先生に頭を下げて病院を後にした。頭の中で、次の手を考えている。取りあえず、権田先生に報告する必要がある。プリオンと判明した限りは、これ以上秘密裏には動けない。少なくとも、先生の承諾が必要だった。
運転しながら、対応策を組み立てていた。先ずは先生への説明が先だった。携帯電話を取り出し、先生へ連絡を取る。携帯電話に掛けても出られない。留守番電話にメッセージを残し、小暮事務所にも電話を掛けた。どんなに遅くても、松谷事務所へ来てくれるように伝えた。
淡い夕闇の中を車で突き抜けていた。
四
「二條君」
事務所のドアを開けて叫んだ。二條君の姿も返事も無い。
事務所には田野さんが椅子に座って、お茶菓子を食べていた。
「二條さんは、もう食事会に行かれましたよ」
時計を確認すると、確かにもう出発していないといけない時刻だった。
「田野さん。帰宅時間なんですが、今日は残業してくれませんか?」
顔が強張っていたのか、声が強制的だったのか、田野さんは押し切られるように返事をした。
「すみません。急ぎの書類作成があるんです。電話やお客様の対応はお任せ致します」
そう言うと、自分のパソコンの前に座った。
キーボードの上にメモが置かれている。
【書類のチェックお願いします 二條加奈】
品のある可愛らしい字だ。文字にも彼女の意志の強さが表れている。
メモを隅に除けると、パソコンを立ち上げた。デスクトップの中央にアイコンが置かれている。クリックして開くと見事にまとめられた報告書と資料が出て来た。
事の始まりから、各人の証言など、時系列順に書き込まれ、誰の目にも理解しやすく、また想像しやすく図解なども載せている。何よりも、書き込まれていた構成や文章が論理的だ。
読みながら、誤字脱字がないか確認していく。
「素晴らしい」
感動が感想になり、言葉となって口から漏れた。誤字脱字は一頁に一ヶ所という所だ。変換ミスや脱字だが、このくらいのミスは誰でもある。
修正をしていきながら、本日、手にした情報を書き加えていく。検査結果からプリオン病の証拠を載せていった。この資料を載せるだけで、明らかに重みが違う。これまでは、その不安が見られると云うものだったが、こうなれば危機管理を問われるものになっていた。茂山さんの検査結果もあれば良かったが、状況的にはどうしようもない。後日になれば、検査もできるだろうが、今は感染ルートの解明が急務だ。
自分は、資料と報告書を作成しながら、役所を動かせるだけのモノに仕上げていく。
机上に置いている携帯電話がなった。
「はい。谷元です」
《あ~。高野だがね》
「どうも、何か進展がありましたか?」
《三名に絞られたよ………》
「それで、遺留品や遺体はまだ出てこないんですか?」
《それが、まったくでな………》
「もしかして、物証がないから三名から絞り込めないんですか?」
《あとは引っ張って矛盾点だのなんだので、自白させればいい。それだけのモノは揃っているんだ》
肯定こそはしないが、逃がさないまでもこれからが時間がかかるのだろう。
「そうですか。ちなみに、逮捕、勾留はいつになりそうですか?」
《そうだな。一週間以内にはケリが着く》
「わかりました。教えて頂きありがとうございました」
そう言うと、高野さんは無言で電話を切った。自分は携帯電話を閉じ、脇に除けると資料の作成を続けた。
既に、事務所に帰ってから二時間以上経過している。田野さんが気を使ってくれ、お茶を二度も運んでくれていた。資料が完成し、プリントアウトしていると事務所正面に黒塗りの車が止まった。
「谷元、何かあったのか?」
紺のスーツを着た先生が、扉を勢い良く開けて言った。
自分は、すぐさま出迎えた。
「先生、緊急事態です」
権田先生は自分の机に向かい、手を払うと説明に必要なモノを準備しろと指示された。
自分は、印刷された資料と報告書を手に先生の元に向かった。四十枚からなる書類を手前に置いた。先生は、それを手に取って視線を落としている。
自分は気にせず話し始める。
「選挙区内で、プリオン病が発生しています」
「プリオン病………。どこかで聞いた事があるな」
自分は驚いた。プリオンという単語は、今回初めて知った言葉だ。本を読んで学んだことから、この単語を知っている人間は、医療関係者か四法院のような変人くらいだ。先生も知識人として知っているらしい。
「感染症らしいのですが、身近なところでは狂牛病と言えば良いのでしょうか」
「そうだったな。プリオンと云うのは、狂牛病の発生時に友人の医師に聞いた記憶がある」
自分は先に話を進めた。
「前回、選挙区内で異常な病が発生しているのではないか、と報告しました」
「聞いている。石綿のようなモノではないかと云う事だったな」
「はい。手島和成君に精密検査を受けて貰ったところ、異常タンパク質が発見されました」
「その検査は、正確なのか?」
先生は、注意深く丁寧に訊き返す。
「髄液から陽性反応が出て、脳波、MRIなどを見ても異常が確認できるそうです」
そして、資料に名前を伏せて載せた画像と数値を示した。
先生は資料から目を離し、自分の目を見て言った。
「選挙区で狂牛病が発生しているという事か?国内牛か?輸入牛肉か?」
「私もそう思い、まず国内の牛を調べました。保健所に行き、確認したのですが、国内牛での感染は見られません」
「では、輸入牛肉か?」
「かも知れません。調べようにも、輸入牛肉の検疫体制を調べるには先生のお力無しでは不可能です」
先生は、指先で机を叩いて考えている。自分はさらに補足説明を加える。
「輸入牛肉でもないかも知れません」
「どういう事だ?」
「調べて行くと判ったのですが、可能性は牛だけではなく、羊や豚なども可能性はあります」
「感染ルートが分からないだけでなく、絞り込めてもないということだな」
「残念ですが………。それでも、国内の畜産業ではないと思われます」
先生は、深呼吸をした。
「検疫の確認には時間がかかりそうだ。それに、大々的にやれば、風評被害が避けられない。経済的な被害も計り知れない」
「はい」
「だからと云って、政治家には国民の生命と財産を守る責任がある。まして選挙区民だ」
「いかが致しましょう?」
静止して、指示を待った。
権田先生は、机を叩き、意志の漲った声で言った。
「まずは、選挙区民の生命を守ることを優先する。知事、松谷市長、小暮市市長、農林水産省室長、厚生労働省室長、食品衛生検査所所長、保健所所長など関係者たちにここへ足を運んで貰おう。この事務所を緊急の前線本部にする」
とりあえず、県内の出来事と仮定して動く方針にしたようだ。対策を拡大するなら、知事や農林水産省の長から国へ報告するのがよいだろう。選挙区の代表としては手腕をいかんなく発揮できるが、県や他地域への権限など無いのだ。
自分は、田野さんにお願いして、報告用の資料をコピー用紙で四〇部作成するのを手伝って貰い、自分は関係各所へ電話を掛けた。
距離に違いがあるので、足並みを合わせる意味から待ち合わせ時間は九〇分後に設定した。
その間、自分は地図の用意や、市役所や事態への対応策のシュミレーションなど作成していた。万が一、役所や各部署などが、この資料を疑い動かない場合も想定できるので、権田先生の名前で、事態の報告を知らせ各所へ提出した証拠も残るように準備を整える。
先生は、自分の渡した資料を入念に目を通し、感染の拡大を防ごうとしている。
それらの事をするのに、自分と田野さんでは人手が決定的に不足していた。
時計を見ると時刻は九時半を回っている。二條君もそろそろ帰って来る頃だろう。お酒を飲んでいれば難しいが、これまで二條君は食事会や酒宴の席では飲んでいない。疲れていることなど容易に推察できるが、彼女の能力が必要だった。
自分は、二條君に連絡を取るべく、着信履歴からか彼女の番号を選んで通話ボタンを押した。
呼び出し音が繰り返される。二十コールはしただろうか、そして留守番電話に繋がった。
「二條君、悪いがすぐに帰ってきてくれないか。君が居ないと仕事が進まない」
電話を切った後 口の端で笑った。これだけ聞けば、まるで妻に逃げられた夫の言葉のようだ。おじさんたちに捉まって、身動きがとれないのだろうか。強引な方もいるが、二條君が苦笑するほどの人はいない筈だ。
新しい資料を加え、田野さんが書類の綴じ方について尋ねて来た。自分は、丁寧に対応して田野さんへ委任した。
関係各者様には連絡がつき、知事もすぐに駆け付けると言ってくれた。参加人数は十二人になった。対応を考えるあまり、肝心な人物を呼ぶのを忘れていた。上村医師である。詳細に説明をするなら、上村先生に診察医師と参加していただく必要がある。
そして自分は、上村先生に連絡を取った。
五
続々と人が集まり、事務所が賑やかになってきた。初めに事務所に到着したのは、松谷市長であった。知事も八十分後には到着した。
先生も準備が整っていて、資料の情報はすべて頭に入っているようだ。
落ち着き払っている先生に比べ、自分はまったく落ち着けなかった。この集まりの所為ではない、二條君が来ないからだ。メッセージを入れて一時間以上になる。どれほど遅くなっても、二十分前にはこちらへ到着していて不思議じゃない。遅くなるなら連絡があってしかるべきだろう。何より、彼女はそう言う気遣いの出来る女性である。
ともかく、現れたら説教だと考えていた。
狭い事務所に、各責任者とその関係者で一八名に増えていた。時計では、既に十時半を回っていた。
来訪者の方々に席に着いて頂き、最後の出席者が到着してしまった。
「皆さん、お集まりでしたか、遅くなりました」
農水省の室長代理が現れて、全員の顔が揃った。
「谷元、はじめよう」
先生に言われ、自分は二條君のことが気になり、少し間を開けて答えた。
「はい」
事務所内で会議室さながらに円を描くように座っている。室内に先生が入ると、皆の視線が集まった。先生が上座に座ると頭を下げた。
知事は、呼び付けられたことが気に入らないのだろう。やり手の印象を与える顔が仏頂面に変わっている。
「権田センセイ。火急の御用件と云う事ですが、どのような緊急を要する事態が起こったのでしょうか?翌日では間に合わないホドの案件なのですかな?」
知事の顔は、小々の問題ではこの無礼を許さぬ、と云った口調だ。
先生が御足労頂いたことを感謝の言葉を伝え、それから出席者の顔を見渡して先生は話し始めた。
「皆さま。お忙しいさ中に急にお呼び立てにも関わらず、お出で頂きありがとうございます」
一呼吸置いて、話を続ける。
「本日、松谷市でプリオン病の発生を確認しました」
室内がざわついた。ざわつくと言っても、言葉の意味を理解しているのは、保健所所長と食品衛生所所長だけである。他は、どういう事か付き添いの人間に確認しているような感じだ。
小暮市長が口を開いた。
「権田先生。プリオン病と云うのはどのような病気ですかな?」
「簡単に申し上げれば狂牛病です。狂牛病に感染した牛や羊の脳や脊髄を食べることで感染します」
「では、狂牛病が発生したのですかな?」
小暮市市長は、食品衛生所所長を見た。その問いに、食品衛生所所長が答える。
「いえ、県内所管区域の牛、豚、鶏の処理施設二十一ヶ所で、そのような報告は上がっておりません」
食品衛生所所長は、断言するように言った。
「まずは、本当に狂牛病かどうか、きちんと機関で調べるのが得策でしょう。田舎の医師ではなく、相応の方に観て貰うべきでしょう」
農水省の役人が発言した。まるで、茶番だと言わんばかりの態度だった。その態度に、診察した上村医師が正当さを伝えた。
「私が診察致しました。プリオン病の疑いがあったので、プリオンの検査をしたのです。その結果陽性と判断しました。再検査は必要でしょうが、初期対応は必要です」
田舎の医師である上村先生が相手の失言を受け流した。
「先生は、秋津病院でしたな。県立病院とはいえ、あの田舎には脳外科はないでしょう」
いかにも右斜め上を崇める役人らしい口調だった。
その言い合いを止める為に、権田先生が自分に視線を送り指示した。
「谷元、資料を」
「はい」
自分は、大量のお手製の書類を各人に渡していった。
松谷市長が訊く。
「素朴な疑問だが、食べる時に牛肉は加熱処理されているだろう?それでも感染するのかね?」
その問いに保健所所長が答える。
「プリオン因子は、摂氏六〇〇度の加熱をしても感染が見られたんです。油で揚げても感染します。完全に感染力を無くすなら、肉を炭化させるほど焼かなければなりません。それでは、お口に合わないでしょう」
市長は頭を掻いた。
先生は、全ての人に行き渡るのを見て、再び話し始めた。
「今、お渡しした資料は、我々が独自に調査したものです。選挙区内で、不可解な病人が現れたのが切っ掛けですが、調べるうちに類似の共通点が見られます。そして、本日、ここに居られる上村医師に検査をして頂いたところ、プリオン病だと判明いたしました」
上村医師は頷いた。
「感染者名は、塗り潰されていますが、海外帰りの人間ではないんですかな?」
言ったのは、農林水産省の役人だ。彼の思考はよく読める。国産牛でも輸入牛でも、農水省が関わっていれば責任問題に発展する。それを全力で回避したいのだろう。
「その可能性はありません」
「なぜですかな?」
「病人の年齢は、十七歳の少年です。この地で生まれ、海外には出ていません」
場がざわついた。未成年という言葉は、各人に不十分な対応をすれば、マスコミを騒がせる事態になりかねないと思っているのだろう。
「この資料には感染ルートが書かれていないが、判明しているのですかな?」
知事がお茶を一口飲んで聞いた。
「いえ、そこまでは把握できていませんが、県内の牛ではない事は分っています」
その答えに松谷市長が呟いた。
「感染者は一名ですか………。それは不幸中の幸いでしたな………」
その言葉を、自分が柔らかく否定した。
「それが、同じ病と疑われる住民が、あと二名居ます。それと、引っ越した人間が一名」
「感染が拡大しているのか………」
保健所所長が呟いた。
「感染力は、どの程度なのですか?」
松谷市長が聞いた。その問いに、保健所所長が答える。
「感染性プリオン病は、ヒトからヒトへ、また動物からヒトへの感染が考えられる症例の蓄積によって、感染ルートに関することの大半が明らかとなっています。また、動物実験によって、実際的に感染ルートと発病の関係が明らかとなっていますよ。まず、誤解のないように以下の点を強調しておきます。一、プリオン病は、空気感染しません。二、プリオン病は、通常の夫婦生活で感染しない。現在までの疫学調査によって、その感染経路は存在しないことがわかっています。血液感染も確認されていませんが、避けるべきでしょう。血液よりも、もっとも注意するのは脊髄液です」
自分は驚いた。保健所の所長とは、なぜこんなに医学知識があるのかと思ったが、すぐにその理由を思い出した。保健所の所長になるのは、医師でなければ就けない。規定では、技術吏員であれば、所長になれるのだが、地域保健法施行令第四条第二項の規定により、医師でない技術吏員をもって保健所の所長に充てる場合においては、『当該保健所に医師を置かなければならない』とされていることから、保健所には医師が必要不可欠であるとなっている。また、現在のところ、医師ではない者が保健所長に就いている例は皆無であることから、事実上、保健所長は医師と限定されているのだ。
「その説明によると、感染力は強くは無い訳ですな?」
知事が聞いた。その問いには、上村医師が答える。
「感染力は爆発的ではありませんが、治療法は現在確立されていません。対症療法が主体で、抗マラリア薬及び抗精神薬にプリオン蛋白増殖抑制作用が見つかっていますが、治療薬としては未だ使えません。病に罹れば、対処療法すらままなりません」
上村先生の言葉に保健所長も同意した。
「何という事だ………。国は何をしているんだ!」
知事は机を叩き、厚生労働省役人や農水省役人を睨んだ。
「現在の状況から、我が省の責任とも思えません」
正当な発言なのだろうが口調から役人に不快感が向けられた。
権田先生は、この場に流れる空気を戒めた。
「今は、責任問題を問うている場合ではありません。国民を守ることこそが、なによりも優先されます」
「ま、そうだが………」
知事が呟いた。
権田先生が宣言するように言う。
「これ以上の感染拡大は是が非でも避けねばなりません。その為に皆様のお力をお借りしたい」
そう言って、権田先生は頭を下げた。こうなれば、先生に押し切られるしかない状況だ。本心が何処にあろうと、公人と社会責任を負う職業の人間であれば反論も異論も唱えようもない。
この瞬間、先生が指揮権を握ったことを意味した。自分は、これで場を終わらせるのかと思ったが、先生はさらに手を打った。
「知事には、県内における指揮権がありますので、事態の掌握と感染防止の手を打って頂きたい。保健所長、厚生労働省に報告と各病院に通知を出して下さい」
二人は了承した。
「上村先生、病院内における感染はありませんか?たとえば手術器具からの感染とか?」
「現代の大病院は、プリオン対策が布かれています。完全に処理するには焼却することが最も安全です。しかし、手術器具は高価です。一度の使用で、全て破棄するのは現実的ではありません。そこで、不完全ながら有効な滅菌方があります」
「不完全とは、どのぐらいですか?」
「感染性を〇.一パーセント以下にできます。オートクレーブ滅菌処理と云うもので、一三二度で一時間以上熱処理する方法です。他には、水酸化ナトリウム処理、一Nの水酸化ナトリウムで二時間処理などです」
「わかりました。その辺は、専門家にお任せ致します」
先生は、的確な指示と強力な求心力で感染拡大を防ぐのに有効な手を次々と打って行っている。自尊心の強い知事も知識と情報が無い以上、権田先生に任せるしかないのだろう。
事態は、先生主導で流れている。これならば、この危機をなんとか出来るかもしれない。そんな気になっていた。