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五章 病への糸口

     一


 四法院の別宅を出て、車で二條君を家まで送っていた。時刻は深夜一時を回っている。街には人の姿はなく、道路にも走る車は見えない。十字路の信号が虚しく点灯している。

 二條君はぐったりして助手席に座っていた。シートを倒し、左腕を額に置いて疲労を表していた。

 二條君も車で来ていたが、その車は四法院家の駐車場へ置かせて貰った。


「谷元さん………。あの人、何なんです?これまで出会ってきた人の中で、どのカテゴリーにも入らないんですけど………。何なんですか、あの人。とにかく、疲れました」

「着いたら起こすから、寝ればいい」

「寝はしませんけど、黙ってます」


 余程疲れたのか、二條君は深呼吸を繰り返している。彼女の知らせで、完全になんらかの病が広まっている事が確認できた。

 自分は、四法院との会話内容を思い出していた。四法院の二條君への接し方が愉快だった。両者は、お互いの性格を知らない。二條君は圧倒されっぱなしで、四法院は彼女の心の地雷を恐れずに踏み込んでいる。四法院の押し引きの思考と会話の方向性、引き出したい言葉など手に取るように解る。二條君に関しても、良く分からない人物にどう接していいのか分からず、無難な態度に終始している。無難な対応も、四法院の不規則な言動に振り回されているという状況だ。二人の性格を知っている自分には、両者の思惑とそ相違と空回りぶりが愉快で仕方なかった。

 自分は、苦笑いと失笑を持って、なるべく介入しないで楽しんでいた。二人の初々しさは興味深かったが、それ以上に狂牛病の話は興味深かった。

 今、追っている病の手掛かりになりそうだ。メディアを賑わせている病気を初めに疑わなかったのは迂闊だった。同じ病気に罹っても症状は様々だという。あと、親子間での感染は見られないと云うのも当て嵌まる。それらのことが心に引っ掛かった。もしBSEであれば、事態は一気に解決する。だが、日本で大規模の感染が確認されたことになる。それは世界的な事態に進展しかねない問題でもあった。

どうであれ、明日、病院へ確認しに行った方が良さそうだ。

 縁石を歩いていた猫が、ふいに道路に飛び出した。猫の目がライトに反射して異様に光った。


「くそ!」


 ハンドルを右に切り、対向車線に大きくずれる。左右に体が振れ、車は停車した。なんとか猫を回避できた。道路を渡ろうとした猫は、危険を察知して引き返していた。

 まったく、田舎だから対向車線に走行中の車が無かったが、これが昼間なら避けられない。あの猫も、自分の車を狙う様に駆け出さなくてもいいようなものだ。


「どうしたんですか?」


 二條君が驚いた顔をして聞いてきた。


「猫が飛び出してきてね。轢かずにすんだが、危なかったよ」


 落ち着いた口調で説明した。二條君はすぐに理解したようだ。


「そうですか」


 その言葉を聞いて、自分は再び車を二條君の家へ向けて走らせた。二條君のマンションの前に到着する。

 二條君を下ろす時、余計な配慮かもと思いつつ聞いた。


「朝、足が無いだろう迎えに来た方がいいかい?」

「大丈夫です。タクシーを使います。それに、ここから歩いても四十分程なので」


 ここからだとそれほどの距離は無い。だが、女性の靴と足では余計に時間がかかってしまうのだろう。四十分歩くのは、かなりのモノだろうが無理強いも出来ない。

 親から仕送りを貰っているのかどうかは分からないが、秘書の給与だけではこんな処に住める訳はない。それを考慮すれば、一日くらいタクシーという手段もありなのだろう。

 二條君がマンション入り口に入るまで、車内から姿を見届けると車を発進させた。

 自宅に到着すると、熱いシャワーを浴びてすぐにベッドに入った。脳と心に適度な疲労を感じ、睡魔にまどろむ様に落ちて行った。

 眠りが浅くなる感じ、外の音が妙に気になって目が覚めた。三十分ほど眠ったような感覚、窓から差し込む光の明るさに時計を見た。午前八時を五分程過ぎている。

 携帯電話で時間を確認したが、我が目を疑った。もう、五時間以上経っていたのだ。体の感覚では一時間も寝た感覚は無い。うたた寝程度の体の軽さしか疲労が取れていない。携帯電話を疑って、テレビ画面を点けたが、朝のニュース番組が中盤に差し掛かっていた。

 どうやら目覚めて見た時刻は、悪夢ではなかったようだ。

 まったく熟睡感覚は無かったが、出勤の時間になっている以上、準備して行くしかない。足取りも重く、洗面台へ向かうと冷たい水で顔を洗い、歯を磨き、眠気を吹き飛ばした。それから、スーツを着て、すぐに家を出た。

 清々しい空気が体に触れるが、体の中はモヤモヤとしていて、爽快感はまったく無い。

 事務所に到着すると、事務の田野さんが来ていた。挨拶を済ませると、事務所の奥に二條君の姿を確認した。


「おはよう」

「おはようございます」


 二條君から爽やかな顔を向けられた。自分と違い、彼女は調子が良さそうだ。


「二條君。自分は、九時半から出る。あとは頼むよ」

「わかりました」

「先生は?」

「たしか本日は、海上自衛隊の護衛艦などの視察などが入っています」

「そうだった。事務所で、何かあったら連絡してくれ」


 言うと、無言で二條君は頷いた。

 自分は、携帯電話で手島さんのお宅へ電話を掛ける。奥さんが出られ、なんとか会う約束を取り付けた。会う時間は午前十一時頃になった。

 それまで雑用と、BSE症状を学ぼうと考えていた。雑用と支援者回りなどの予定を立てていると、茂山さんから電話が掛かってきた。


「はい。谷元です」

《早くからすまないね》

「いえ」


 自分が要件を聞く前に、茂山さんが話を進めた。


《昨日、電話を待っていたんだが、待ち切れれずに掛けてしまった。娘の医師と、どんな話をしたのかね?》


 忙しさにかまけて、茂山さんに報告を忘れていた。親の心理と許可を出した立場からすれば当然だ。


「すみませんでした」

《いや、こっちも忙しいのが解っていて電話をしたんだ。今、問題ないかい?》

「はい」


 自分は即答した。


《なにか判ったかね?》

「いえ、医師の説明に不審な所は見つかりませんでした。ですが、別の角度から様々な病気を引き起こすモノの可能性があります。その様な事態が起こっているのかも知れません」

《いやに、ぼやかしている表現が多用されているな》

「すみません。やっと、病に罹った人以外に調べる対象が出来ましたので………」

《何だい?》

「申し訳ありません。まだ何とも言えません。推察の域を出ないので」

《そうか、判ったら教えてくれるのか?》

「はい。そこで茂山さん、こちらから聞いてばかりで心苦しいのですが………」

《なんだい?》

「娘さんが、具合が悪くなった過程を出来るだけ詳細に聞きたいのですが」

《ん~。前にも、疲れたという言葉をよく口にしていた。食欲がなく、不眠のようだった。自分が知ってるのはこんなものだ》

「そうですか………」


 自分の落胆した声色に、茂山さんが気を遣ってくれた。


《妻に確認しよう。自分よりも多く知ってるだろうから》

「ありがとうございます」

《ある程度わかったら、教えて貰うぞ》

「はい。承知しました」


 そう言って、電話を切った。自分は、頭を掻くと椅子に背を反らせた。数秒、静止してすっきりするほど背筋を伸ばした。

 目の前に雑務がある事は分っていたが、どの病が広がりつつあるのか気になって仕方なかった。机に手を着くと勢い良く立ち上がった。

 本屋に行って、狂牛病の本を買って少しでも症状を確認することに決めた。近所に、大小含めて三店舗の本屋がある。一つが大型店。二つが個人商店だ。

 大型店から行くのが常道だろう。

 自分は雑用も二條君に押し付け、本屋に向かう事にした。

その為に、二條君を探したが、どこかに出かけているのか居ない。仕方なく、田野さんの元へ行って伝言を頼んだ。


「田野さん。二條君に机の残りの仕事を置いておいたので、申し訳ないが済ませておいてほしいと伝えて下さい」

「これから、どこかへ行かれるんですか?」

「本屋に寄って、手島さんのお宅へ向かおうと思っているんだけど」


 田野さんは、さして興味もなさそうに聞いている。


「わかりました」


 田野さんは手元にある各人の予定表に何か書き込んでいる。

 あとは任せたとばかりに、自分は事務所を後にした。


     二


 眼前に手島家の立派な門が見えている。もっと早く来るつもりだったが、十一時の五分前だ。もう少し早めに到着する予定だったが、本屋で予想以上に時間を割くことになった。

 大きな書店に行ったが、狂牛病に関する本は置かれてなかった。田舎の大きい書店といったところでたかが知れている。販売面積こそ広めにとってあるが、それでも置かれている本は無難に売れそうな本ばかりだ。それは仕方ない事だとはいっても、自分的には悲しいことだ。やはり大きな都市と過疎の地域では、まざまざとした差がある。仕方のない事だが、知識や学問の情報量の差は長期的な意味では致命的になりかねない。

 数年前の話だ。市民や教育者たちで、図書館の充実を訴え、市役所にお願いしたことがあった。だが、助役や市議たちは、市民たちに向かいこう言った。


「低所得者が多かった一昔前なら兎も角、中産階級の増えた現在、本と云うものは借りるものではく、買うものなんです。市、が介入する意味を見出せません」


 こう言い切ったのだ。

 結局、その話も流れ、図書館を充実させるという意見自体が市民から消えた。それに代わるように、市議の言葉のみが市民の反感を買って残ることになる。

 市の財政を知る自分は、その言葉の裏の意味を知っている。酷い赤字体質の市役所には、もうそのような事に予算を割く余力は無く、医療や町整備をするので精一杯だ。このままいけば、あと五、六年で財政再建団体に指定されてしまう。早急に財政改革をしなければ待っているのは不便な暮らしだ。

 財政再建団体に指定されれば、各保険料の支払の増加。例えば、家の前の道路が陥没しても、すぐに修理が出来ない。役所内に関しては、鉛筆一本、用紙一枚に至るまで、国の許可が必要となる。そうなれば、住民サービスの低下は著しく、さらなる住民数の低下に繋がりかねない。

 問題があるのは、この市だけではないが、自分が認識してしまった以上はなんとか回避させたいと思うのが地元民と云うものだ。自分に力が無いのが悔しい。せめてもの救いは、まだここには幾分の猶予があることだ。問題を解決するには、問題を詳細に知ることが出来るまでの立場が必要で、解決するには反対する勢力を抑え込む力が必要だ。考えれば考えるほど心が逸り、自身に苛立つ。それでも、今は先生の下で学ぶことが最短の道と信じて、知識と経験、何より人脈を形成していくしかない。

 自分は頭を振った。今は財政も重要だが、いま差し迫っているのは原因不明の病だ。事態解決の為にも、この場所にいる。

 深呼吸をして、手島宅に入って行った。呼び鈴を押すと奥様が着物姿で待っていた。

 ここ一週間で三回も訪問している。明らかに訪ね過ぎなのだが、手島、茂山、両氏にしか接することでしか、突破の糸口は無い。

 笑みもなく座っている奥様に、自分は御礼と詫びを伝え、目的を口にした。


「本日は、和成君と会わせて頂きたくて来たんです」

「先日も、和成の病状についてお聞きになりましたが………」

「はい。実は、和成君と似た症状の子供さんがいるのですが、その人は別の病名と診断されたそうです」


 奥さんは、きょとんとした顔をした。


「どういう事でしょう?」

「端的に言えば、どちらかの診断が疑わしいのです。たとえ双方共に診断が合っていても、なぜ似た症状なのか気になりまして」


 その言葉に、奥さんは一気に興味を引かれたようだ。


「で、和成は、どうなるのでしょう?」

「今の段階で、どうとは言えませんが、先方は弱り果てているようです」


 奥さまは、同調するように頷かれた。


「それで、その方はどのような症状なのですか?」

「まず、倦怠感を口にし始めたそうです。それから不眠。そして、物忘れがひどくなり、人格が変わったようになったそうです」

「同じです………。和成の症状と同じです。その方は、どういう診断を受けたんですか?」

「アルツハイマー病です」

「アルツハイマー病ですか………。うつ病ではなく」


 自分は頷き、尋ねた。


「参考までに、診察を受けた病院と医師を教えて欲しいんです」

「病院は、小暮の師民病院です。先生は、賀冬先生です」

「ありがとうございます。それと、お願いなんですが、和成君に会ってもよろしいでしょうか?」

「それは、構いませんが………」


 奥様に許可を貰うと、和成君の部屋へ案内された。

 室内はよく整理され、掃除が行き届いていた。気になる所と云えば、異様に物が少ない点くらいだ。

 和成君は、部屋の中の隅でベッドに凭れかかるように座っていた。


「こんにちは、和成くん」


 和成君は、自分の言葉に反応することなく、空を見て微笑んでいる。手が小刻みに震えていて、正直、とてもうつ病には見えない。


「和成君」


 強く呼びかけると、和成君はこっちを向いた。認識したのか、立ち上がろうとしたが、足取りがおぼつかなく、壁に軽く体を打ち、床に腰を着けた。


「和成」


 奥さんが心配した様に呼びかけ、自分も傍まで行った。

 和成君が自分の手を握ったが、握力が弱い。筋力が低下しているのだろう。うつ病は、身体機能は低下しない筈だが、室内で過ごすうちに筋肉が衰えたのだろうか。


「大丈夫かい?」


 壁に凭れかけさせて、話をしようとするが返事は無い。目的は、和成君を病院へ連れて行ければと考えていた。だが、この状態で和成君を病院へ無理やり連れていく訳にもいかない。病院だから良いだろうと思ったのだが、見た目には微妙な安定に思えた。彼の体調が悪化すれば責任の取りようもない。

 場を変えた自分は、奥様に告げた。


「ありがとうございます。自分は、これから病院へ行って説明をお聞きします」


 頭を下げて、失礼しようとした。


「待ってください。私も行きます」


 息子のことが気になるのだろう。その口調は力強かった。


「それはちょっと」

「なぜでしょうか?」


 渋る自分に、突き刺さりそうな鋭い視線を浴びせた。その眼光と口調に押される様に、理由を話した。


「理由は和成君です。彼の体調は崩れてはいませんが、決して良くはありません。そして、置いて行く訳にもいきません。傍に居てあげた方が良いと思うのですが………」


 そう伝えると、悩んだ表情を浮かべた。


「そうですね。でも、心配は無用です。お手伝いさんもいらっしゃいますし、二、三時間なら問題ありません」


 こう言い切られれば、もう何も言えなかった。説明を受けるのも保護者がいる方がいいのは確かで、自分は承諾した。

 すぐに出発するのかと思ったが、出発の準備をするので車で待っていて下さいと言われた。だが、二十分も待つはめになるとは思わなかった。既婚者と云えども、女性の外出には時間がかかることを学ばせて頂いた。

 玄関先の車に、手島夫人は着物に会う小物とバックを持って現れた。自分の見た目には、まったく先程と違いが判らないが、そこには触れず乗り込むのを待った。

 夫人は、ドアを開けると後部座席に乗り込み、言った。


「では、行ってください」


 屹とした声で言った。

 自分は意表をつかれた。これまで、大体の方は助手席に座った。それは、様々な問題やこだわり、個人的な見解があるだろうが、迷うことなく後部座席に乗る人は、大きな会社の重役や経営者、高官、政治家などの地位が伴っている人間たちだ。だが、主婦で乗りこまれる場合は、意外に少ない。この一点を見る限りでも、手島家は余程裕福なのだろう。自分など、タクシーやお抱えドライバーの代わりなのだろう。

 シートベルトを着用したのを確認して、ゆっくりと車を走らせた。

 こわばった様な顔の夫人は、前方の一点を見つめている。緊張を和らげるべく音楽でも流そうかと思ったが、そんな雰囲気ですらないので、沈黙のまま運転に専念した。

 既に、陽は高く空に昇っている。


     三


 病院に到着したのは 出発から五十分後。医師に会えたのは、それから三十分後のことだ。

 医師は四十代前半だろうか、がっちりした体形で寝ぐせがついた髪で現れた。


「手島さんお待たせ致しました。本日は、和成君は見えていないようですが」


 賀冬医師は柔和な表情だが、自分の思う医師のイメージの枠内で、尊大な態度に裏打ちされた穏和さだ。

 ま、医師は腕だと思っているので、自分には態度などは関係ない。

 手島夫人が、賀冬医師と話し始めた。


「賀冬先生。本日は、息子の事についてお聞きしたい事がありまして」

「なんでしょう?」


 医師は胸を張り、笑顔で答えた。


「和成は、本当にうつ病なのでしょうか?」

「ええ、初めに診察した通り、息子さんはうつ病です。初期症状は、気持ちが滅入って、人付き合いがおっくうになり、家から出るのを嫌い、夜は眠れず、昼間は体が怠く、やる気が起きない。なにより、体調不良の原因が分からず、ますます憂鬱になってくる。これらは、典型的なうつの症状です」

「体重も減っていて、最近では目に見えて体力が落ちているようです」

「一般にうつ病では、食欲は減退します。稀に、食欲が増加することがありますが、甘いものなど特定の食べ物ばかりを欲しがる例もあります。食欲減退の場合は、一か月に四、五キロも体重が減少してしまうこともあります」


 医師の堂々とした説明に、夫人も納得するしかなかったようだ。


「申し訳ありません。私も質問をしていいでしょうか?」


 自分が口を差し挟むと、賀冬医師はこちら強い視線で見た。


「何ですか?」


 夫人と同行している為か、身分を聞かれなかった。自分は一から聞くことにした。


「和成くんは、精神疾患と云うことなのでしょうか?」

「今のところそう判断しています」

「神経疾患の疑いは無いのでしょうか?」


 精神疾患と神経疾患は症状こそ似ているが、原因が全く違うことを四法院から教わった。

 医師は、その問いにすぐに答えた。


「当然、神経疾患の一連の検査を数日にわたり行いました。脳波検査、脊髄穿刺、血液検査などです。いくつかの検査で異常が見つかりましたが、特定の病気に結びつく特異な所見はありませんでした。脊髄液にも感染の兆候はなく、健常者と同様に清明でしたよ。ところでお母さん、発熱はありましたか?」


 夫人は、少し悩んで答えた。


「いえ、ありません」

「ウィルスや菌等に感染すれば必ず発熱します。現状、判っている事は、感染の兆候は無いということだけです」

「足取りのふらつきや体の震えは何なのでしょうか?」

「体力や筋力が衰えれば、足腰も弱くなります。適度に運動をさせて下さい。震えなどは、精神からくるものだと思われます」


 その説明は、釈然としないモノを感じたが、反論する知識も論理も持っていない。とりあえずは、納得したフリをするしかなさそうだ。

 自分は、症状で気になる点を聞いてみた。


「和成くんは、空を見つめて微笑んでいるんですが?うつ病だと気が滅入っているというイメージがありますけど」

「勿論、うつ病の典型例に、喜びや興味の喪失が挙げられます。外見上は元気になったように思えても、本人の心の中では過去の記憶にいまだ囚われている場合が多く、周りの人間が目を離した隙に自殺に走るケースがあります」


 その説明を聞いて、手島夫人は目を見開いた。


「そうなんですか………。でしたら、早く帰らないと………」


 そう言って、鞄を握り締めた。


「とにかく、うつ病というのは、例え症状が改善されても、服薬を続けることが大事です。この病は、再発率が高く、三回以上再発した場合は、一生付き合っていく覚悟が必要です。本人の意思と、家族の支え、周囲の理解が必要なのです」


 その台詞に、手島さんは何度も頷いた。そして、医師に頭を下げて言った。


「先生、ありがとうございます。明後日、和成を連れてきますのでよろしくお願いします」

「ええ、お待ちしております」

「谷元さん。私は、息子が心配ですので帰ります」

「そうですか。私は、もう少しだけ先生にお聞きしたい事があります」


 私が帰るから、送って頂けますかと言われているに等しい言い方だった。だが、自分は自分の使命がある。だからこそ、やんわりと断った。

 意図を解ってくれたのか、手島夫人は頷くような視線を向けた。


「では、ここで。私はタクシーで帰りますので」

「本日は、ありがとうございます」


 自分は頭を深々と下げると、奥様も浅く会釈をした。夫人の退室を見送り、先生に向き直った。賀冬医師は、まだ何かあるのかと云わんばかりの表情をしている。


「谷元さんとおっしゃいました?私も、十分後に所用がありますので」

「わかりました。では、手短に」


 賀冬医師は眉を指先で掻くと、浅く息を吐いた。自分は、少し前に出て先生の耳だけに聞こえるような小声で訊いた。


「私は医学には素人です。そう前置きさせていただいて口にするのですが、狂牛病という事はありませんか?」


 自分の質問を聞いて、賀冬医師は眉間に皺を作った。そして、わずかな間の後に笑い声を上げた。


「谷元さん。貴方は非常に想像力が豊かでいらっしゃる」


 自分は、無表情にその言葉を受け止めた。

 賀冬医師は、薄い笑みを浮かべながら意見を言ってくれた。


「狂牛病ですか………。その可能性はありません」

「なぜでしょうか?」

「狂牛病。BSEに罹るには、BSEに罹った牛を食べないといけないんですよ」

「そうですね」

「では、BSEに罹った牛は、どういう経路で人の口に入るのですか?」


 そこだ。自分もそこが気にはなっている。可能性としては二つ、海外からの輸入牛肉と国内で飼育された牛である。

 身近で起こっていることから、地元の牧場が怪しい。だが、自分の有している情報は、選挙区内に限られている。輸入牛肉なら、全国的に発病者が出ている筈だ。その情報を得るには、代議士としての権限を使用する必要がある。だが、現状では役所を大々的に動かせない。


「地元でその肉が流通しているのかも知れません」

「まさか、ありえないでしょう。国内の牛肉は検疫体制が整っているでしょう。そのような牛がいれば、保健所が騒いでいるでしょう」

「そうかも知れませんが………」


 言葉を濁し、様々な思考を巡らせる。その様子を見て、賀冬医師は自分の思考の遥か上をいく事を口にした。


「麻薬や無認可の医薬であれば、密輸をして高額な利益を得られるでしょう。ですが、これは牛肉です。秘密裏に輸入しても利益はありませんよ。ハハハ」


 馬鹿にするように言った。

 さすがに密輸という発想にはならなかったが、国内の業者が牛の廃棄を躊躇(ためら)い、僅かな損失を嫌って流通させた疑いは拭いきれない。

 賀冬医師は胸を張り言う。


「感染元が無いのに、どうすれば人間に感染するんですか?性交渉もないのに、妊娠することなんてないでしょう」


 わかりやすい例えだが、それとは話が違う。


「先生、感染源が判ってないからといって、無いとは言えないんではないですか?」


 冷静な口調で言ったが、先生はこう言葉を返してきた。


「今、メディアで話題になっているBSEですが、これまで国内での感染者は発見されていませんよ」


 賀冬医師は、これ以上会話をしても無意味だと判断したのか、手前に置かれているファイルを閉じて帰りを促した。


「谷元さん。貴方の心配は、病院に関するモノではありません。保健所や厚労省、牛のことなら農水省などの領分です。よろしいですかな?」


 賀冬医師は、立ち上がり、ファイルを抱えた。


「本日は、ありがとうございました」


 自分は、お礼を口にして深々と頭を下げ、急いで退室した。

 病院内は、繁盛しているようで、待合室は老人と子供で賑わっている。町の景気は冷え込んでも、病院は不況知らずだ。病院の活気と、地域経済の活性化を同一に論じることなど出来ないが、どうすれば経済循環が巧くいくのか考えていた。

 駐車場に出ると、まだ日は高く昇っていた。

 今からでも、保健所や食肉衛生検査所へ向かう事が出来るかも知れない。松谷市には保健出張所しか無く、主な機能は北部に隣接している()嘉島(がしま)市が有している。

 食肉関係の検査は、食肉衛生検査所で行われるのは知っているが、それが何処にあるかは記憶に無い。

 携帯電話で二條君に連絡をとる。


《はい》

「二條君。悪いんだけど、食肉衛生検査所の場所を教えてくれないか?」

《食肉衛生検査所ですか?ちょっと、待って下さいね》

「あぁ」


 電話越しだが、二條君が慌ただしく動く音が聞こえる。紙を捲っているのだろうか、紙の擦れる音と折れ変わる音が聞こえる。


「二條君?ネットで、検索してみたらどうだ?」


 そう言うと、椅子に座る時の軋み音が聞こえた。数十秒後、二條君の明瞭な声を聞く。


《言います》

「どうぞ」


 自分は、携帯電話のレコーダー機能を入れた。彼女の凛とした声が吹き込まれる。忘れても大丈夫なようにとの配慮だったが、場所を聞いてその配慮は徒労だと判った。施設の場所は、ここから二時間以上かかる場所だった。現在、午後二時を回っている。これから向かっても役所だから勤務時間は終了しているだろう。

 比嘉島市の保健所に向かう事にした。


     四


 比嘉島市は、人口十八万人の都市である。山を切り開いて作られた市であることから、歴史は浅い。空港と国立大学の移転が切っ掛けとなり、本格的な都市整備が始まった。

 空港、大学、新幹線、それに複数の国道に高速道路など、交通の網に利があったことと開ける土地が多くあったことから、企業誘致にも力を入れた。その甲斐あって、高度な産業が多く集まった。自動車関連企業、携帯電話機の製造、半導体メーカー、電力発電企業など大企業だけでも十五社にのぼる。

 ここ三十年、近隣の市町村を吸収合併するように拡大してきた比嘉島市だが、今年になって右肩上がりの人口増加が止まった。それは。世界恐慌を思わせる不況が、この地にも余波を伝えたようだ。

 市の中心部に入ったが、去年よりも明らかに街の雰囲気が違っていた。

 松谷市とは比べるべくもなく活気はあるのだが、購入済みという商品を抱えている人の姿が無かった。やはり消費者は正直だ。

 よく整備された道路を使い、賑やかな街中を通って行く。

 二車線の道路を左に曲がると、左右に大きな建物が見えて来た。左に曲がり、広い駐車場の一角に車を止めた。

 比嘉島保健所は、比嘉島市役所の正面にあり、県の合同庁舎の二階に置かれている。

 車を置き、合同庁舎へ入って行った。

 ワックスが厚く掛けられた床を踏み、階段を使い二階へ駆け上がった。何の変哲もない役所だ。

 受付にいる女性職員に話しかけた。


「お聞きしたいのですが、よろしいでしょうか」

「なんでしょう?」


 三十代後半だろうか、長い間繰り返してきたと思われる笑顔を慣れた感じで向けてくれた。


「食品衛生に関することをお聞きしたいのですが、担当者様にお会いすることは可能でしょうか?」

「しばらくお待ち下さい」


 そう言うと、内線で連絡を取ってくれた。


「只今問い合わせましたところ、担当者がおりましたので御案内いたします」


 受付の女性は、太めのウエストを捻じって歩き出した。

 案内されたのは個室ではなく、フロアー隅に置かれたソファーだった。そのソファーに座らされると、凡庸そうな中年の男性所員が現れた。


「どうも、ご質問のある方ですか?」


 柔和な笑顔を向けて、小刻みに頭を下げている。

 薄暗いこの一角に並んで座ると、先ずはお礼を口にした。


「急に押しかけたのに、ありがとうございます」

「お礼を言われる事ではありません。お仕事ですから」


 また小刻みに頭を下げると、質問内容を訊いてきた。


「あの、御用件はなんでしょう?」


 体の向きを多少こちらに向けて言った。

 自分も体を少し向け、遠慮がちに話し始めた。


「住人の数人が、体調の悪さを訴えまして」

「えぇ」

「病院でも原因が分からず、保健所へ訪ねようと思いまして」

「ちなみに、罹られた病気は何なんでしょう?」

「各人ばらばらでして、うつ病、アルツハイマー病、アルコール中毒症、精神分裂症などです」

「本当に、それぞれがバラバラですね。共通点と云えば、精神科の病気ですか………」

「はい」


 所員の口調は変わらぬモノであったが、病院での体験が馬鹿にされたような錯覚に陥らせる。

 所員は、少し考える仕草をした後、鋭い推理を口にした。


「なるほど。特定の病気が発生すれば、対人保健の関係者を呼んだのでしょう。しかし、病が統一されていない。だから、何かが病気を引き起こしていると考えられ、食品衛生の担当者を呼ばれたんですね」


 笑顔の所員は、一見呆けた表情に思えるが、表情の柔和さと正反対で、頭が切れる。


「ええ、食品で何か問題のあったモノはありませんでしたか?」

「そうですね。寒くなって、インフルエンザの予防接種を薦めていますが、食品関連では問題は起こっていません。そのような健康被害があれば、保健所内で秘密にする理由がありませんし、………」


 言われればその通りだ。とんでもない不祥事と絡んでいて、隠蔽以外に方法がないとすれば解らないでもない。だが、そんなことを言えば、国の根幹を揺るがす事柄だろう。そんな事態が、片田舎では起こりようがない。

 所員の説明は続いている。


「食中毒を始め、汚染された食物も出回っていません」


 自分は、多少演技をして、話題を狂牛病に変えた。


「そうですか………。そう言えば、いまテレビで狂牛病が話題に上っていますが、国内の管理はどうなっているんでしょうか?」

「狂牛病ですか。輸入牛肉の検疫体制は、私には詳しく解りませんが、国内の牛には万全の体制を敷いています」


 そう、所員は胸を張った。


「万全といいますと?」

「国産牛に関しては、『牛の個体識別のための情報の管理及び伝達に関する特別措置法』が制定されました。この法は、通称・牛肉トレーサビリティ法と呼ばれています」


 名称は聞いた事があった。自分は思い出すよりも、話を聞くことに集中した。


「牛肉トレーサビリティ法というのは、国産牛については出生、処理、加工、小売り販売で店頭に並ぶまで、履歴を十桁の個体識別番号で管理して、全取引データを記録しています」

「それは、全ての牛の全ての種類の肉にですか?」

「ええ、破棄する部位以外です。あ、小間切れ肉や挽肉など一部例外はあります。しかし、国内は全頭検査を義務付けられていますので、検査を通過した肉です。問題はありません」

「そうですね………」


 そう胸を張る所員さんに、ぼくは頷くしかなかった。そして、数秒場を離れ、机の上からファイルを持って来ると牛肉トレーサビリティ法の詳しい説明を始めた。


「詳細に言えば、十項目からなっています。一,個体識別番号、二,出生または輸入の年月日、三,雄雌の別、四,母牛の個体識別番号、五,飼養施設の所在地、六,飼養施設における飼養開始および終了の年月日、七,と殺・死亡または輸入の年月日、八,輸入された牛について輸入先の国名、九,屠畜場の名称および所在地、十,輸出された牛についての輸出先の国名です。これ程に厳重な検疫体制下では、悪意を持ってしても混入自体、至難なことですよ」


 自分は頭を掻いて、具体的な対策を聞いた。

 所員は、手元の資料を捲り、たどたどしく説明を始めた。


「まず、全ての牛の耳に十桁の個体識別番号が印字された耳標が付けられています。そして加工する時、屠畜場に運ばれます」

「そこから詳しくお願いできますか?」


 自分は、めんどくさがられるの承知でお願いした。


「屠畜場に運ばれた牛は、まずは生体検査を受けます。ここでBSEが疑わしい牛は、経過観察を実施され家畜保健衛生所へ連絡されます。健康牛は屠殺され、解体に回されます。ここで特定危険部位が除去され、焼却処分されます。それ以外は、スクリーニング検査されて、陰性であれば出荷されます」

「陽性であれば、どうなるんですか?」

「陽性であれば、厚生労働省をはじめ、関係者、各所に連絡され、協議会の召集、特別班の設置などが行われます。検体は、国立感染症研究所、北海道大学などに送られ、確認検査を再度受けます。それでも、陽性反応が出れば、専門家会議で確定診断を三度行われ、BSEの陽性が確定して、公表されます」

「三度の検査を経て、発表されるんですね。その間に、出荷はされないのでしょうか?」

「それはありません。陽性反応が出れば、該当牛の枝肉等の隔離保管が義務付けられます。それは、陰性反応が確定するまで市場には出回りません」

「それを全頭やっているんですよね………」

「はい。全頭検査ですから」


 改めて、政府の凄さを思い知った。


「去年の県の検査頭数はいくつあったんでしょうか?」


 所員さんは手元の資料を捲り、目を細めて読み上げた。


「え~っとですね。検査頭数は、セン、一七九八頭ですね。その総てが陰性です。安心されましたか?」

「はい」


 それは、疑いようのない確実なデータだった。選挙区に広がっているのは、別の病であり、狂牛病の可能性は完全に潰れた。それでも疑うならば、輸入牛肉の流通を疑わないといけない。そうなれば、大々的に省庁を動かさないと調べるのは不可能だ。

 自分は、懇切丁寧に説明をして下さった所員さんに、最大限の賛辞と謝意を深い一礼で表すとフロアーを後にした。

 階段を下りるだけなのだが、足取りが重い。都市の役所だけあって、多くの市民が行き交っている。

 玄関を出ても、まだ駐車場に沢山の車が止まり、今も車が入ってきている。時計を確認すると、あと十五分で役所も閉じるのだが、我が市とは違い関係ないようだ。

 それにしても、保健所での説明は完璧で、食品衛生検査所に行っても意味は無さそうだ。狂牛病の可能性はほとんど潰れた事は、胸を撫で下ろすほどホッとしたと同時に、原因不明の病の糸口が無くなり頭痛を覚えるようだった。

 車に乗り込むと、声が漏れる程の溜め息をした。シートを倒し、握った拳の側面でおでこを擦る。


「いったい、どういう事態なのだろう………」

 独り言を呟いた。

 様々な思考を巡らせるが、散分してしまいまとまらない。とりあえず、帰って別の可能性を探すしかない。

 シートを戻し、キーを差し込むとエンジンを掛けた。シートベルトを装着して、周囲を見渡し、アクセルを踏んだ。


     五


 えも言えない脱力感に支配されたまま事務所に帰った。椅子に腰掛け、無言のまま背凭れに身を任せた。

 天井で、白色蛍光灯が柔らかくも明るい光を放っている。

 目の前に湯呑が置かれた。白い手を辿るように視線を上げていくと、二條君の無表情な顔があった。


「どうぞ」


 一呼吸の間が空き、お礼を口にする。


「ありがとう」

「急に、元気がなくなりましたね。どうしたんですか?」


 自分は、運んで来てくれた湯呑を両手で持つ。手の平から高熱が伝わってくる。熱さを避けるように、口の部分や台座の縁に指を当てて持ち直した。二度、息を吹きかけると湯気が激しく散っていく。

 爺臭く茶を啜って一息吐くと、茶を置き、机に突っ伏した。

 自分の姿を見て、二條君は腰に手を当て言った。


「返事はどうしたんですか?」

「わかってた事だけど、人生ってうまくいかないものだな………」

「何が、うまくいかないんですか?事件のことですか?」

「全てだよ。政治、経済、金融、教育など問題が山積みだ。解決に全身全霊で取り組んで、時間も努力も熱意も、総て注いでも、様々な利害と要因に絡まれてどうにもならない」

「なにを言ってるんですか。そんなことより、食品衛生検査所へは向かわれたんですか?」

「いや、時間がなくて、結局、行っていない」

「でしたら、どちらへ行かれたんですか?」

「保健所さ」

「なぜ保健所なんですか?」


 自分は、周囲に人がいないのを確認して、過去の情報から導き出した推理を披露した。

 二條君は、無言だが頷きながら聞いてくれ、顔が明るくなっていく。そして、保健所に行き狂牛病の件を知ると、それは妄想に近い推理だと思い知らされたことも明かした。

 その途端、二條君の笑みが消えた。


「そうですか………」


 呟いた二条君は、顎に手を当てて考えている。数秒、思考をした後、こう続けた。


「でも、輸入牛であれば、まだ可能性は残されているんじゃないんでしょうか?」


 なかなか鋭い。そして、落胆した理由を説明すると、納得してくれた。


「そうですね。これ以上は、私たちでは調べられませんね。では、先生に………」

「それは、まだ早い。確証があるならともかく、推察だけで大々的には動けない。何より国内の畜産業にも打撃を与えかねない」

「そうですね。違った場合、風評被害が拡大する恐れと、同時に先生の信用もなくなってしまいますしね」

「可能性は捨てては無いが、ゼロに近い。それに固執するなら、別を当った方が良いと思う」

「はい」


 二條君もすぐに同意した。

 この件についての話が終わり、不在時に何か起こったかを尋ねると、高野さんから連絡があったと聞かされた。

 保健所内では、集中するべく携帯電話を切っていた。その時に掛かってきたのかも知れない。


「わかった。ありがとう。あと、お茶、美味しかったよ」


 そう言って、お互い仕事に戻ろうと間接的に伝えると、彼女は自分の飲んだ湯呑を手に取り片付けてくれた。

 机の上に鞄を置き、中から資料とメモの用意をして

 自分は、受話器を取ると高野さんに連絡した。一度のコールで電話に出た。


《はい!》

「谷元です。高野さんですか?」

《オォ》

「お電話を下さったようで、不在で申し訳ありませんでした。御用件の方はなんでしょう?」

《ああ、その事なんだが………。ちょっと待ってくれ、場所を移動する》


 そう言って、高野さんが走るような息遣いと服の擦れるが聞こえる。駆け足で、二十歩というところだろうか。


《話すぞ………》


 少し躊躇う様に話し始めた。


「はい」


 ボールペンを手にして、受話器を耳に強く押し当てた。


《相田さん失踪を調べていたところ、彼女の銀行のキャッシュカードが届けられた。国道沿いの道路脇に落ちていたそうだ》


 自分は嫌な想像が脳裏を過った。出来るだけこの意図が何を指すのか、最大限にぼやかして感想を口にした。


「失踪ではないということですね」

《そういうことだ》


 当然だろう。本人の意思による失踪であれば、キャッシュカードなどを破棄する筈もない。自分はその考えを否定した。自身の存在を消す『完全失踪』ならば現金を引き出して口座を捨てる可能性はあるかも知れないのだ。そう考えれば、残高があれば事態は悪い方向に転がってしまう。

 覚悟を決め、質問をした。


「で、口座に現金は入っていたんですか?」

《ああ、かなりの金額がね………。》


 自分は、天井を仰ぎ見た。こうなれば可能性は二つしかない。どこかに拉致監禁されているか、殺されているかだ。


「御両親には、伝えているんですか?」

《ああ、伝えてある。既に捜査本部が設置された》


 それを聞いて、最悪のシナリオを考えて動いているのだと分かる。


「ところで、浮気相手はどうなっているんでしょう?」

《携帯電話の履歴からかなりの数の男性が上がっているよ。今、ひとりひとり、関係とアリバイなどで潰していっている状態だ》


 話を聞く限り、完全に殺人捜査をしている。自分は、心が重くなっていくのを自覚した。


「ちなみに、どれほど上がっているんでしょうか?」

《あれは相当な人物だぞ。ざっとみても、十名以上だな》


 自分は言葉を失った。その自分に、高野さんは呟くように考えを口にした。


《ま、この事件は、一概に個人の犯行とも思えないがね………》

「どういうことでしょうか?」

《もう、言うがね。警察としては、これは殺しだと思っているんだよ》

「はい」

《殺しで最も難しいのは、死体の始末だ》

「はい」

《松谷市は、海と山に囲まれていて、人口も少ないが遺体の処理となれば難しい。運ぶなら切断しなければならない。バラバラにするには様々な工具がいる。そんな工具を一度に買えば、すぐに足が着くだろう。大まかに六つに分けたとして、海に遺棄しても分かるだろう。一番可能性が高いのは山に埋めることだな。そうなれば、ちょっと厄介だが、人を辿れば遺体に行き着くだろう。だが………》

「だが?」

《組織的な犯行であれば、遺体の処理法が複数浮かび、遺体の在り処も広範囲に散る可能性がある》


 高野さんが、眉間に皺を作っている顔が浮かんできた

 自分は、一つだけ知っている奇妙な偶然を口にした。


「高野さん。関係ないと思いますが、一年前に新興宗教団体がこの町に来ています。その団体が来てから、妙な失踪と変な病気が目につきます」

《新興宗教?》

「高野さん。偶然の可能性が高いです。ですが、こんな田舎に何故来たのか気になりませんか?都市部で信者獲得が頭打ちなら理解できますが、ここの地区は、特に保守的で閉鎖的ですよ」

《ん~。ま、その理由は、お前が知りたいのだろう?》

「えぇ」


 自分は照れるように答えた。

 高野さんは、ついでに調べておくよ、と云ってくれて電話を切った。

 相田さんの娘さんが死んでいる。病気の件と云い、失踪の件と云い、事態は最悪の方向に転がっているように思えた。


「いや、まだ死んだと決まった訳ではない。遺体が発見されるまでは希望を持つように両親に言うべきだろう」


 最悪、遺体が発見された時の事について考えを巡らせた。死亡していた場合は、殺害された時期が問題になる。四日目より前であれば、両親が訴えた頃には既にこの世になく。訴えを退けた警察に罪はない。どうしようもなかった事になる。しかし、四日目以降に殺害されていれば、警察が市民を見捨てた結果と言われても仕方がない。

 幸い、自分たちは即日に対応しているから問題にはならないだろう。それでも、どうしようもなく気分は悪くなっていた。

 席を立とうとした時、メールの受信音が鳴った。メールを開くと、川田社長からの船釣りの誘いだった。社長からのお誘いを断ることは致しませんとばかりに、承諾の返事を送った。

 明日の予定を考慮して、自分は夜までに、病気の広がりに関してまとめた資料を捲り、再考することにした。




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