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四章 友。東方より来たる

     一


 空気が澄んでいた。午前中に、先生が事務所に来ることになっているから、いつもよりも少しだけ早く起きた。結局、昨夜は二條君と手島さんのことについては話せていない。

 テレビでニュース番組を流しながら、コーヒーを口に運ぶ。一人では、朝食もこんなものだ。初音が居る時とは雲泥の差だ。

 ニュース番組では、五十代半ばの野心溢れるニュースキャスターが庶民の味方のフリをしている。口にしているのは消費税反対。所得税を増やして庶民に優しい税制を敷くべきだと繰り返している。数億円を稼ぐフリーのキャスターの本心としては異なる意見だろうが、庶民の味方という設定を維持すればこそ、カネになるのだ。

 気になるニュースの特集で、家畜の病気を紹介していた。鳥インフルエンザ、口蹄病、狂牛病、流行性脳炎など、特集していた。これらは、鶏、豚、牛、馬など日本では非常に身近な家畜であり、主要畜産業だ。特に、鳥インフルエンザと狂牛病は、長い映像を差し込んで説明していた。

 それは、日本国内で狂牛病の牛が発見され、米国からの輸入問題で月齢制限が持ち上がる度に、メディアで取り上げられている。

 自分自身、畜産業界に詳しい訳ではない。食糧自給率は、もっと上げるべきだと思っているが、そのこと一つとっても困難な問題が山積している。無難なことを言えば、国民の生命を守るならば、安易な規制緩和をするべきではない。テレビの左上に表示されてある現在時刻を見て、部屋を出た。

 事務所に到着すると、二條君も普段より早く来ていた。


「おはよう」

「おはようございます」


 荷物を置くと、これまで集めた情報を整理しようとメモや紙切れなどを取り出した。


「谷元さん。先生が来る前に、お話聞かせてくれませんか?」

「何の話だい?」

「とぼけないでください。先生が来られるまで、時間がないんですから」


 二條君は、凝とこちらを見ている。自分は向き直り、昨日の出来事を話し始めた。茂山さんの娘さんのこと、担当医からの説明などを聞かせた。しかし、二條君の反応は無い。


「手島さんは、どうだったんですか?」


 聞かれ、改めて手島さんのお宅で聞いた話をした。


「お母さんと二十分ほど話が出来た」

「二十分ですか?それにしては遅かったですね」

「実りのある話が二十分ということだ。残りの一時間十分は母親の愚痴だ」

「それで、何が判ったんですか?」


 自分は、話された通りに口にした。

 記憶は、手島家内に逆行した。手島さんは、息子さんの不調に気付いた時から遡り、現在に至るまでの経緯を話してくれた。


「和成の異変は、頭痛から始まりました。初めは風邪だと思い、市販の頭痛薬を飲ませ寝かせました。ですが、翌日になっても頭痛は取れませんでした。だから、私は、息子を掛かり付けの御医者様へ連れて行ったんです。息子は倦怠感を訴え、食事を摂ることすら億劫な様子でした。医院では病名を教えてくれず、ただ安静にと言われました。それから半月、きちんと安静にしていましたが、今度は手足の痛みを訴えたんです。それで、大きい病院へ連れて行きました。専門医が沢山いる総合病院へ。そこで、うつ病と診断されたんです」

「うつ病とは、心の病ではないのでしょうか?心の病なのに、肉体的な痛みが伴うものなのでしょうか?」


 浮かんだ疑問を何も考えず続けて口にした。すると、お母さんは普通に答えてくれた。


「精神科の先生の仰ったことなんですが、精神的に不安定になると身体にも異常が感じられると説明を受けました。頭痛、腹痛、下痢、咽喉の痛み、嘔吐など多種多様です。それこそコレという症状というのは無いようです」


 庭先から砂利の擦れる音がした。外に呆けた表情の和成君が、フラフラした足取りで歩いていた。いきなり座り込み、天を仰いでいる。寒いのか肩や腕が小刻みに震えている。

 母親は立ち上がり、ガラス戸を開けた。


「寒いでしょ。具合悪くなるから部屋に入りなさい」


 病人を労わる優しい口調だ。和成君は、声が聞こえないらしく反応は無い。

 その後、うつ病の説明や子供の体調の話、暮らしぶりの変化など会話は多岐に渡った。夫婦の話題にもなったが、結婚していない自分にはイマイチピンとこなかった。

 色々溜まっていたようで、ただひたすら聞き役に徹した。

 息子さんが室内で、自分の顔を見て微笑みを向けていた。その表情は、とてもうつ病には思えなかった。

 説明を聞き終えた二條君は、考え込む仕草をした。報告も終わり、仕事を始めようとしたら、二條君は感想を言った。


「双方の親の話。医師の説明。不可解な点は無いように思えます」

「そうだな。医師の説明は説得力がある。しかし、それにしても、十代の若者が罹る病にしては、いろいろと不可解じゃないか?」

「確かに珍しいのでしょうが、無い事はないとおしゃっていますし」


 二條君は天井を見るように、考えながら言った。彼女の言葉を聞き、自分の言葉を勘違いしている事に気が付いた。


「違うよ。私が言いたいのは、その珍しい若い患者が、なぜこの地区に固まってるんだい?」


 説明され、二條君はその重大な事を認識したようだ。


「あと、砂原さんに小坂さん………」


 二條君は、血の気が引くような表情で呟いた。


「それに、おそらく円藤さんもだ」

「もっとも、各人が奇異な病であるとは限らない。だが、一人は狐憑き扱いとアルコール依存症だ」

「でも、小坂さんの息子さんは下戸だと………」

「そうなれば………」


 二條君は、右手を胸に手を当てた。


「どうかした?」

「すみません。焦って、胸に痛みが………」

「大丈夫かい?」

「はい。ちょっとだけ、最悪の事態を考えてしまって………」


 二條君にも、やっと事の深刻さが理解できたらしい。


「私も協力します。何をすればいいんですか?」


 二條君の目は真剣そのものだった。


「まずは、事務所の仕事をやってくれ。それは義務だ」


 自分が言うと、二條君は不服そうな顔を向けた。そして、続けた。


「時間があれば、小坂さんと砂原さんの息子さんの情報を集めてくれ」

「わかりました」


 二條君に、八時に空港へ友人を迎えに行く旨を伝えると了解してくれた。


「おはよう」


 玄関が開き、落ち着いているが勢いのある挨拶が聞こえた。先生が来られたのだ。

 椅子を離れ、すぐさま出迎える。


「先生、おはようございます」

「おはようございます」


 自分の挨拶に、二條君も続いた。いつもの先生は、挨拶には笑顔をむけてくれる。だが、笑顔はない。


「谷元、ちょっと」


 呼ばれ、先生の前に立った。


「小暮の事務所で報告を受けたんだが」

「はい」


 先生の自宅は小暮市にある。主に小暮選挙区が人口の面から見ても主戦場なのだが、先生の票は松谷市が基盤になっている。ここを落とせば、どのみち敗戦は決まりなのだ。

 小暮事務所でも私設秘書がいる。仕切っている人は、門脇さん。年齢は五十代になっただろうか。小暮市役所の元職員で、どういう経緯か分からないが、随分な高待遇で雇われている。半年前まで、六十代で優秀かつ尊敬できる方が在籍していたのだが、体調の悪化で辞められた。門脇さんは、前任者の足元にも及ばない。

 だからこそ、松谷選挙区だけを見ていた自分だが、小暮選挙区の一部まで受け持たねばならなくなった。門脇さんは役人特有の横柄な態度が抜けず、頭を下げれない上に、強い者にしか媚びない。それ故、選挙区の支持者からの評判は悪い。

 最近は、自分の足まで引っ張るようになり、また良からぬ事でも吹き込んだのだろう。


「最近、担当区域以外で姿をよく見かけると聞いている。越権だと言われかねないぞ。正当な理由があるのだろう、聞こう」


 先生は、自分の性格を理解した上で言ってくれている。それが判っただけでも充分な配慮だった。

 自分は思案する。正確なことは、まだ何も分かっていない。すべてが予想と推察であり、説得力はない。感じられるのは、不可解な状況だということだけである。それでも、先生の名を使い情報を収集している以上は、報告するのが筋だろう。


「よく分からない状況なので、十分な説明ができませんが」


 そう前置きして、行方不明になった娘さんの出来事から、これまでの経緯を簡潔に話した。

 先生は、相槌すらすることなく、ただ自分の説明を聞いていた。数度、後方から二條君の戸惑いの気配が感じられた。心配してくれているのだろう。

 説明が終わると先生は机に肘を着き、指を組んだ。


「警察に関しては、それでいい。だが、本当に病が広がっているのか?」


 自分は沈黙で答えるしかなかった。

 その態度を受け、先生は言った。


「うつ病、アルツハイマー病、アルコール中毒症、どれも伝染の危険はない。そもそも、我々は医師ではない」

「はい。しかし、これは予想ですが、様々な病を誘発する物質がどこかにあり、それが体内に入り、もしくは感染しているのかも知れません」

「石綿のようなモノ、ということか?」

「はい。ですが、感染はしても伝染の可能性がない、とは言い切れません」


 その台詞に、先生は眉間に皺を寄せた。


「谷元。動くなら、慎重にな。要らぬ不安を駆り立てることは得策じゃない」

「了解致しました」

「門脇には、私から言っておく」

「お願いいたします」


 そう言って、自分は頭を深く下げた。先生から、済し崩し的に許可を得られた。これで、小暮地区にも大手を振って行ける。今日は、先生も予定がない。自分の仕事に専念して、四法院を迎えに行く前に、近くの病院へ聞き込みに行こうと考えていた。


     二


 アクセルを踏んでいた。闇を削る様に、ヘッドライトは視界の一部を照らしている。軽乗用車かつ急斜面の坂道ということもあり、思う以上に速度は出ていない。

 車内にAMラジオを流していたが、エンジンの唸り声に掻き消されている。車のデジタル時計を見る。


「やばいなぁ………」


 四法院のメールでは、飛行機の到着時間は十分後だ。ここから十分以上はかかる。友人といえども、遅刻をすれば自己嫌悪してしまう。もう、職業病なのだろう。

 下り坂を滑るように下りる。そして、立体高架橋の下を右に大きく曲がり、舗装された道路に出ると空港が見えてきた。道路には車は無く、さらにアクセルを踏む。両脇に立てられた反射板がライトに照らされ、後に流れていった。

 空港の到着出口から十メートルほど離れた場所に止めた。

 飛行機の到着時間を既に七分過ぎている。

 周囲を見回してみたが、到着口から大勢の人が出てくる様子はない。前回の経験を踏まえるなら、多くの搭乗客でごった返している筈だ。航空機が遅れているのだろうか。どのみち連絡が出来ない以上、待つしかない。

 自分は、携帯電話をフロントテーブルに置いた。シートを倒して目を閉じ、両腕を突き上げ、背を伸ばした。


「疲れた」


 今日の書類整理は早く終わる予定だった。だが、先生への御機嫌伺いや面会を求める人が現れ、仕切るハメになった。結局、病院への聞き込みにも行けず仕舞いで、達成感のない疲労に包まれていた。目を閉じていると眠ってしまいそうだ。何気に、夜の静寂が心地よいのだ。まどろみかけた時、携帯電話が自分の頬を叩くように着信音を鳴らした。

 腹筋を使い上半身を起こし、携帯を取った。時計を見ると、到着時間を十四分過ぎている。四法院がやっと到着したようだ。


「はい」

《谷元君かね》


 高野さんの声だ。予想が外れ、眠気が飛んだ。姿勢を正した。


「高野さん。進展がありましたか?」

《相田さんの足取りなんだがね。娘さんは電車通勤と聞いていたが、その日は帰りの際には駅を利用していない》

「どういうことでしょう?」

《普段とは違う行動を取ったという事は、何かしらの理由があるということだ》

「そうですね。素人予想ですが、人に会う、必要なモノを得る、などが主でしょうか………」


 そこまで口にして、浮気相手の存在を思い出した。

 高野さんも、自分の思考がその存在に行き着いたことと判ったのか、話を先に進めた。


《六山警察署の協力を得て聞き込みをした結果、国道二号線方面へ向かったという事までは分っている》

「それで、どうなるのでしょう?」

《とりあえず、男を追う事になる。これからは、拉致、監禁を想定して、本格的な捜査になるよ》

「そうですか。よろしくお願いします。相田さんへ連絡は?」

《責任者がやっているだろう》


 高野さんの用件は終わったらしく、切る雰囲気になった。


「あ、高野さん。余計な情報なんですが、他にも失踪されている方が数人いるようです。今回と関係があるとは思えませんし、事件性も疑わしいですが、耳にいれておいてください」


 そう言って、日野さんの噂話などを口にした。喋りながら、自分自身でも信憑性は感じられない。それでも、情報はあった方がいいように思えた。

 高野さんは相槌もなく聞いている。

 自分は連絡をくださった事に礼を述べると、高野さんは、おうおうと返事をして電話を切った。

 なぜか急に肩に重さを感じ、少しだけ声を上げ、体を横たえた。


「あッ~」


 車内からは漏れない程度の声量だ。同時に、手と足を伸ばし、一気に力を抜いた。

 行方不明事件、不可解な病。関係が無いように思うが、関連付けるならば、どの様な展開が考えられるか妄想してみた。

 病に罹り、どこかに移動中に発病する。森の中とか、海とかで病になれば遺体が見つかりにくい。ここまで考えただけで、あまりに陳腐かつ御都合主義の推理に呆れてしまった。

 四法院に会ったら、話してみようかと思った。人格的にも、道徳的にも著しく基本的なコトが欠落しているが、想像力と偏った知識の量は膨大に有している奴だ。そんな人間が、どのように思考を進めていくか興味があった。

 ふと、どれほど時間が経過しているかが気になり、時計を見た。既に到着予定時間から四十五分も遅れている。


「いったい、どうなっているんだ」


 声を出していた。後を振り返り、出口を見たが全く動きは無い。倒したシートを起こし、ラジオを点けた。

 最近、流行りの男性歌手の曲が流れて来た。地元の中高生がよく歌っている曲だ。自分にはウルサイだけで、下品な曲にしか聞こえないが、それは年齢の所為なのだろうか。少し耳を傾けていたが、堪えかねて電源を切った。

 また車の周囲に静寂が訪れた。街灯を眩しく感じながら、遠くを見ていた。

 車体を叩く音。左側から聞こえた。


「おーい!待たせたな」


 くぐもった声の先、窓の外に四法院の顔があった。時間を確認すると、五十分の遅れだった。

 四法院はドアを開けて、少ない手荷物を抱えて助手席へ座った。


「エライ目にあった。さぁ、行こうか」


 四法院は、シートに身を沈めるように座ると、落ち着き払った口調で言った。


「おい、ちょっと待て。その前に言う事があるだろう」

「何だい?」


 そう答える四法院は、少し考え、胸を張り、言った。


「御苦労!」

「違う!」


 そう言われ、四法院は腕を組み再び考えた。


「大儀であった。あと、飯ならコンビニでいい」

「違うだろ!なんで分からないんだ!遅れて、すまないだろう」


 四法院は、きょとんとした顔をして、笑みを浮かべ反論した。


「いやいや、遅れたのは航空会社だ。そのとばっちりを受けたんだ。俺の所為じゃない」


 腕を組んだ四法院は、胸を張って断言した。


「それでも」

「待て、聞け。遅れた理由だが、それは出発直前だった。機長が放送で、エンジン部分から液体が漏れてるって言うんだ。それで点検が入って、この時間になったんだ。え、これは俺の責任か?どう考えても航空会社だろう」

「それでも、待たせたのは事実だろう。謝るのが筋だ」

「だって。いくら優秀な俺でも、航空会社の整備不良までは予見できないぞ。機内だったしな。お前に連絡も出来ない。お手上げじゃないか」

「だから、謝れば済むじゃないか」

「俺の所為じゃないのにか?」

「そうだ」


 自分の言葉に、四法院は納得しない。早く謝れば済む話なのだが、四法院はさらに反論する。


「だったら、お前が航空会社に電話して謝って貰えよ」

「それを言うなら、四法院が自分に謝って、その件で航空会社から謝罪を受けてくればいい」


 四法院は、何か思考を巡らせているようだが、論理的には詰んでいる。どこかに抜け穴がないが探しているのだろうが、残された道は精々、否定、提案、却下の堂々巡りに陥らせるしかない。

 一秒ほどの沈黙の後、四法院が悔しさ満面に詫びを口にした。


「お、お待たせて、申し訳ありません、でした………」


 奥歯を噛みしめ、苦虫を噛み潰した様な顔と声だ。これが精一杯の抵抗なのだろう。しかし、詰んだことがわかると直ぐに諦めたのは流石だった。と、いうよりも自分も試されていたのかも知れない。ま、こんな態度や対応をすることなど四法院以外にはない。久々に不快さや楽しさ、会話のキレなど様々なモノを一度に感じた。


「じゃ、行くか!」


 自分は、ギアをドライブに入れて、アクセルを浅目に踏んだ。

 四法院はシートに凭れ、寛いでいる。その四法院が予定を聞いてきた。


「寄って行くんだろ?」

「ああ」

「だったら、コンビニに寄ってくれ。本心は、美味いものを食いたいが、今日は疲れた。諦めよう」


 言うと、夜の流れる風景を眺めている。

 自分は、四法院の別宅へ車を向けた。


     三


 和を基調とした大きめの家だ。玄関扉は黒く、普通よりも大きめだ。四法院が玄関を開けると、生活感の無い空気が押し寄せ肌に触れた。暗闇に溶け込むように四法院が先行して、電気を点けようとする。四法院も久々なのか、スイッチの位置を手探りで探しているような音が聞こえてくる。

 暖かめな色の光が玄関と廊下を照らすと、間抜けな格好の四法院が立っていた。


「さ、入ってくれ」


 自分は、コンビニで買ってきた数々の品を両手に提げ、家へ上がった。

 三年ぶりに来た四法院家の別宅は、三年前と変わらず生活するのに、必要最低限のモノしか存在しなかった。具体的に言えば、リビングに六人掛けの重厚な机。テレビ、エアコン、キッチンには調理器具と数種の皿。冷蔵庫に、電子レンジ。意外なところでは、空気清浄機が各部屋にある。

 この一軒家は、四法院家がレンタル用として利用している。経緯は紆余曲折あったようだが、地方富裕層の人々には重宝がられている。従って、四法院の実家は別の場所にあるのだが、帰郷の際にはここに宿泊している。冷蔵庫には食べ物は無いが、飲み物はビール、日本酒、果実酒、お茶やジュースなどが揃っていた。

 二階のリビングへ入ると、机の上に買ってきたモノを置いた。


「何飲む?」


 四法院が冷蔵庫を開けて聞いた。


「ビール、と云いたいところだが、お茶にしておくよ」


 自分は、頭を掻いて答えた。


「いいのか?運転なら俺がするぞ」

「お前も帰ったばかりで疲れてるだろう。今日は我慢するさ」

「そうか」


 四法院は、五百ミリリットルのウーロン茶を二本手にし、向かい合って座った。買ってきた品々を机に広げた。空腹の四法院には牛肉の炒め物におでん各種。自分には乾き物やサザエの缶詰を封切って置いた。


「では、再会を祝して」

「乾杯だな」


 ペットボトルを軽く持ち上げ、上品に乾杯した。ウーロン茶を口に含むと、淡い苦味が口に広がり、咽喉を潤し、体を冷やしてくれた。

 四法院はリモコンを手に取り、テレビを点けた。自分の発言を聞かれない為の配慮なのだろう。いや、お互いに聞かれてはマズイ話のためだろう。

 自分は、彼が大学病院に勤務していることを思い出し、近況を聞いた。


「四法院。最近、どうだい?」

「ダメだな。あっちの女は、金か顔が無いと引掛からないな」

「何の話をしているんだ?」


 自分は、ため息を吐いた。その光景で、何を聞きたかったのか悟ったらしく、近況を教えてくれた。


「ま、仕事内容にしては、カネは悪くない。色々と不満はあるが、富裕層になるまでの辛抱だからな」

「不満ってなんだ?」

「毎日、女の本能を見せつけられてるよ」


 四法院がこう言うときは、男絡みの女の行動だ。大体どんな光景が繰り広げられているか理解できた。


「そう言うお前は、どうなんだ?いつ市議会議員選挙に打って出るんだ?」


 来年、市議選があるのを知っているようだ。


「カネのない俺が、百万足らずでいいなら出してやるぞ」


 四法院は、牛スジを和からしに少量押し付けると口に入れた。煮込みが足りないのか、何度も奥歯で噛んでいる。

 妙に協力的で好意的な四法院に、自分は言葉を濁して答えた。


「今は動けないな。代わりの人間もいないし、二、三問題を解決しないと………」


 そう言って四法院を見ると、テレビに映っているお色気キャスターに意識を奪われていた。


「話くらい聞けよ」


 自分がささやかに抗議をすると、画面映像が切り替わった。すると、朝から放送している狂牛病の話題になった。米国の映像で、狂牛病に罹ったへたれ牛の姿が流れている。足元がおぼつかない牛が、地面にその巨体を叩き付けている。別の映像では、屠畜場(とちくじょう)まで歩けない牛をフォークリフトで突き刺し、または、押し飛ばすように運んでいた。その光景は、あまりに残虐で、残酷であった。日常的に牛肉も豚肉も鶏も食べている。素直に、肉の美味さも認めよう。だが、フォークリフトの鉄の爪で、歩けない牛を突き飛ばす光景は、感情的に抵抗を感じた。

 過去の新聞で得た情報を思い出した。二〇〇一年、千葉県で狂牛病に感染疑いのある乳牛が見つかった。その牛は、焼却処分されずに飼料用の肉骨粉にされていた。後日、その飼料は適切に処分されたが、それは日本の食肉業に深刻な課題を突きつけた。

 その後の役所の対応に関しては、理解している。自分は、テレビの報道に妙な感じを覚えた。危機意識を煽り、牛の症状は伝えるが、病気の伝染経路や詳細な説明は無い。


「四法院。狂牛病について何か知っているか?」


 何気なく訊いてみた。四法院は、箸で牛肉を摘まみ、口へ運んだ。狂牛病のニュース映像を観ても、食欲は失われていないようだ。

 牛肉を飲み込んだ四法院は、記憶を手繰り寄せるように話し始めた。


「確か、始まりはイギリス南部だと記憶している。で、」

(知ってるのか………)


 自分は驚いた。本当に何気なく訊いたつもりだったが、四法院は知識を思い出そうと目を閉じ、哲学者のように口を開いたのだ。

 自分は、黙って聞くことにした。


「もともと牛は、大人しく静かな生き物だ。それが、狂牛病に罹ると驚くほど凶暴で攻撃的になるらしい。元は、羊のスクレイピーという病気らしいが、俺にはよくわからない」

「続けてくれ」

「その後、イギリスでは続々と(マッド)(カウ)の症例報告が上がってきたようだ。ちなみに、感染が多く確認されたのが乳牛であり、ホルスタイン種だ。もっとも、この品種が乳牛の九割を占めていたから、驚くには値しないがね。で、あれやこれやと調べた結果、英国全土に散らばり、同時多発的に発生していることから、感染源は一つではない事がわかった。すなわち、突然変異的に発生し、そこから放射状に感染拡大していないということだ。さらに個体から個体へ、親から子へと伝染する証拠が見つからなかったらしい。そして、注目すべきことは、すべての症例が初発症例のようで、共通の感染源が広範囲に分散したときの典型であったんだと」

「なるほど」


 自分は頷き、理解を示した。ここまでは問題ない。そして、話を先へと促した。

 四法院は飲み物で口を潤し、再び話し始める。


「で、発病したすべての牛に共通したのが、与える飼料が同じで、それが原因だとわかった」

「以外に、ひねりは無かったな」


 素朴な感想だった。


「ま、ひねりは無かったが、事態は深刻だった」

「ほう」

「その飼料は、牛、羊、犬、猫の死体を原料に作られた物だったんだ」

「なるほど。だから、肉骨粉なんだな。その飼料を牛に与えるってことは、共食いさせたという訳か………」


 自分はイギリス政府の政策に愕然とした。


「問題は、それだけじゃない。本来、草食動物である牛が、強制的に肉食で飼育されたんだ。異常が起きても不思議じゃないだろ?」

「確かに。だから、豪州産は安全だということなのか」


 四法院は頷いた。

 米国を含め、肉骨粉は各国で使用されている。オーストラリアは、主に牧草で飼育している為、狂牛病が発生していないのだろう。当然、厳格な検疫体制を敷いているのも要因だろうが………。

 四法院が補足説明で、肉骨粉を食わせると異常なまでに成長速度が早いと教えてくれた。それと肉骨粉は、食べられない部位も異常死した動物も加えられ使用されていることを教えてくれた。

 約三〇年前の事とはいえ、あまりに酷い倫理観だと思う。

 自分は、お茶を口に含み飲み込んだ。四法院は、残りの牛肉の炒め物を口に詰め込んだ。


「この惣菜、美味いな」


 四法院は、狂牛病の心配はしていないようだ。

 自分は、四法院に簡単な用語を聞く。


「ちなみに、BSEって何の略だ?」

「横文字は憶えてないが、Bovine  Spongiform  E………、牛のスポンジ脳症、脳症の単語が出ないけが、日本語では牛海綿状脳症だ。文字通り、脳へ異常をきたすらしい。だから、穏やかな牛が攻撃的になったり、暴れ出したりする」

「なるほど。で、危険部位は、脳や骨髄と報道されているんだな」


 マスコミが輸入牛肉で騒いでいた映像を思い返した。


「そう言うことだ。もっとも、BSE感染牛肉を人に食べさせてデータを採ってない以上、信憑性は疑わしいがね」

「信頼していないのに、牛を食べるのか?」

「食べるよ。だって、貧困層だもん。それじゃ、次はBSEが人に感染した時だ」


 笑顔で四法院は言った。

 家の外からチャルメラの曲が聞こえてきた。


「丁度、温かいモノを食べたかったんだ。食うか?」


 立ち上がり、駆け出ようとして聞いた。


「いや、自分は遠慮するよ」


 自分は、手を室内出口へ向けて、行って来たらと示した。


     四


「待たせたね」


 四法院が小さめのプラスチック容器を手に現れた。室内にとんこつラーメンの匂いが充満する。


「強烈な匂いだな」

「豚骨をこれでもかってくらい、よく煮込めてたよ。他にも、醤油と味噌があったが、とんこつラーメンだけ百円高かった」

「だから、その分だけ美味いと?」

「お前、俺がそんな単純な人間だと思ってるのか?」

「思ってるが、それだけじゃないとも思ってるさ」


 四法院は割り箸を割ると、チャーシューを汁の中に沈めた。それから台所へ向かい胡椒を取りに行きながら言った。


「なら許す」


 四法院が胡椒をリズミカルにかけ、麺を摘まみ上下させると一口吸い上げた。

 ラーメンを食ってる四法院の姿は、実に美味そうで食欲を刺激される。

 屋台のラーメンを、二、三口食べ感想を言った。


「汁は美味いが、麺がグズグズだな。屋台だから多くは求めないが、もう少し味に深みが欲しいな」

「それは、マズイって意味かい?」


 自分が聞くと、四法院は真顔で答えた。


「いや、屋台だと、この程度のものだろう」


 四法院の判定は辛く、自分には美味く感じられる物も普通だと言う。だったら、お前の美味いものってなんだよ、と言いたくなるが、四法院の評価で九十点のつけ麺を食べたが、本当に美味しかった。だが、それがなぜ九十点なのかは理解できない。

 四法院がテレビに意識を取られ観ている。スポーツ番組で、スポーツも出来ないスポーツ解説者がサッカーを語っている。監督経験者がいるにもかかわらず、暴言に近いセリフは四法院を苦笑いさせていた。


「くだらないな」


 そう言って、四法院はリモコンを手に取り、テレビ画面を切った。テレビの音が止み、メールの着信音が鳴った。携帯を開くと二條君からだった。


【今、どちらにいらっしゃるんですか?】


 この一文だった。強力なコネで採られた部下とはいえ、上司に対してのメールではない。用件が気になり、電話を掛けることにした。

 四法院は、器の底に残った汁を飲み干していた。


「すまん。電話かけてくる」


 そう断ると、四法院は曖昧な返事をした。

 そして、席を外し、廊下に出た。階段の降り口で電話を掛けると、すぐに彼女は出た。


「何かあったか?」

《さきほど、例の情報を集めていたのですが、興味深い事が分かりました》

「何だい?」


 普段クールな二條君が興奮気味に言ってくれるのを、冷静な口調で対応する。


《ここではちょっと。これから会えませんか?》

「いいよ。友人の別宅にいる。来てくれ」

《友人のお宅ですか?》

「ああ、余計な詮索は不要だよ。ここは秘密が守れる場所だ」

《わかりました》


 自分は、この家の大まかな住所に、近くの建物、家の外観などを説明した。二條君も松谷市内は詳しい。これで十分だと思うが、念のため迷ったら電話をと付け加えた。

 リビングに戻ると、四法院は椅子にずり落ちそうな体勢で座っていた。適度に崩した姿勢は楽だろうが、ここまで崩すとかえって辛いのではないかと思える。

 四法院と視線を合わせると、彼は姿勢を正し、口を開いた。


「さぁ、続きを話そう」

「え~と、狂牛病に人間が罹ると、どうなるんだっけ?」


 自分もそう言って、椅子に座ると聞く姿勢をとった。四法院は、講師のような口調で話し始めた。


「ちなみに、狂牛病が人間に感染すれば、クロイツフェルト=ヤコブ病と名を変える。ちなみに、クロイツフェルトもヤコブも学者の名前だ」

「変えている意味があるのかい?」

「何もないよ。人間は同じ病気でも特別な名が必要なんじゃないか?ま、俺も学者じゃないからな、ちゃんと違う点があって違う名にしているのかも知れないがね」

「で、症状は?」


 四法院は眉をひそめた。


「症状は非常に多彩だ」


 曖昧な表現を使いたがらない四法院が、獏然とした言葉と説明を使った。それだけ、本当に多彩な症状なのだろう。


「ざっとだが、多発性硬化症、痙攣性疾患などに加え、精神にも影響が出るそうだ。それ故、複雑な病像にならしい。ま、基本はクロイツフェルトやヤコブ両氏が言うには、中年または老年に発症する病で、遅進性らしい。運動機能の低下、感覚障害。脚の痛みや脱力感。終には、歩行が困難になるらしい」


 自分は、その説明に思い当たる光景が思い出された。


「しかし、妙な知識は持ってるよな」

「ま、基礎的かつ断片だけをだがね………。説明を聞いてて判るだろうが、虫食いのような穴だらけの知識だ。褒められるモノじゃない」


 四法院は、自身にがっかりするように言った。そして、こう付け加えた。


「実は、半年以上前だがBSEについて少しだが学んだんだ。もっと覚えていると思ったが、予想を上回る忘れっぷりが歯痒いよ」

「そうか?、フリーターがこんな知識を有していることに驚くがな」

「今の俺には、雑学に過ぎないがね。もっと詳しく知りたいなら、きちんと調べる事をお勧めするよ。俺の説明だとあまりに不十分で適当すぎる」


 頭を掻きながら四法院は言った。


「わかった」


 四法院の講義が終わり、自分は一息吐いた。慣れない医学用語に加え、振り幅の大きい話に付いて行くのは、思いがけず体力と集中力の消費が激しかった。


「顔を洗いに行ってくるわ」


 四法院はそう言ったが、その台詞とは異なる行動をとる。席を立ち、手荷物を奥の部屋に運んだ。この家は部屋が七部屋ある。いつも、一番日当たりのいい部屋で寝ている。

 自分は、四法院の説明を振りかえっていた。様々な症状を引き起こすが、病名はBSEか………。そんな事を考えていた。


(二條君、遅いな………)


 携帯電話で時間を見た。あの電話から、十分程経過している。そろそろ着いても良い頃だと思った時、呼び鈴の音が家の中に響いた。


「やっと来たか」


 心の中で呟いた。出迎えようと席を立つと、二條君の悲鳴が聞こえた。

 リビングを駆け出て、階段を駆け下りる。階段が残り四段になった時、玄関が見えた。

 自分は愕然とした。全裸の四法院が、タオル一枚を腰に巻き二條君の腰に手を廻していた。


「あの、ちょっと、谷元さんを………」


 意表を突かれたのか、度肝を抜かれたのか、彼女の攻撃性が発揮されず防戦一方になっている。四法院は、左手を彼女の腰に廻し、右手で手を握っている。


「あ、中にいるよ。さ、入って、歓迎するよ」


 四法院は、整った声で低く囁くように言った。


「え、ちょっと………、あの………」


 二條君は、あわあわしている。後退りする二條君を、四法院はさり気なく引き留めている。


「おい!何をやってんだ」


 自分は四法院の腕を持って、二條君から引き離した。


「遅かったね。待ってたよ」


 自分の顔を見て、二條君は安堵の顔を向けた。


「な、中に居ただろ?だから、入ってって言ったのに」


 四法院は、優しく笑顔で言った。その台詞に、自分は呆れて言った。


「あのなぁ、誰でもタオル一枚の男が室内へどうぞ、と云って、ハイそうですかと付いてくる女性がいるか!」

「失礼な!俺は貴様と違って紳士だ」

「腰にタオル一枚のみ巻いた紳士がどこにいるんだよ!」

「目の前に居るじゃないか。ささっ、どうぞこちらへ」


 そう言って四法院は、二條君の手を取り、上げようとした。


「案内より、先に服を着ろ!」


 四法院の背中を押して、室内へ押し込めた。ブツブツ呟いている四法院に、自分はちゃんとした服装をしたら出て来い、と命令すると二條君の元へ向かった。行くと、二條君は呼吸を整えていた。


「谷元さん。あの人、何なんですか?」

「何なんですか?と聞かれてもな………友人だが、一風変わった」


 言いにくい言葉を口にした。


「谷元さん、あんな友人がいるんですか?」


 人格を疑う程の勢いだった。自分は、適当に誤魔化すしかなかった。取りあえず、リビングに案内して、自分の右隣りの椅子に座らせた。

 自分は、飲み物を出して落ち着かせた。二條君はお茶を啜った。


「谷元さん。ここは?」

「ここは、四法院家の別宅だ」

「四法院家?宗教法人ですか?」

「ははっ、違うよ。四法院家は商人家系だ。で、あいつは、現在、不肖の息子という所だな」

「不肖………。でしょうね………」

「なにか勘違いしているが、あいつはあいつの考えがあるからな。今は、と云う事だ」

「先程の経験でしか判断できませんが、私には、あの方の将来がまったく見い出せませんが………」


 それを言われると、自分も立ち眩みがするようだった。

 階段を駆け上がる音がして、ドアが勢い良く開いた。


「待たせたね」


 軽くおしゃれをした四法院が現れ、定位置には座らず、二條君の隣へ座った。


「おい、席は向かいだろう」

「気にするな」

「気にするわ」

「お前は、イチイチ細かいことを気にする男だな~。そんな事だと、役人に使われるぞ」

「使われている身分の人間に言われたくない」

「表現が間違っているな。使わせてるんだ」

「現実を認めたくないのか?」

「五年後には、結果が出るよ」


 今回は、四法院も負けてなかった。しかし、お互いに毒吐けるのは楽しかった。


「あのぅ………」


 二條君が、申し訳なさげに話を遮った。だが、発言したのは四法院だ。


「そうだ。この美人を紹介してくれ」


 そう言われ、紹介しない訳にもいかない。自分は二條君に視線を送った。その合図を受け、二條君は自己紹介をした。四法院の視線は、彼女に固定されている。

 簡単な自己紹介が終わり、四法院は笑みを浮かべている。


「二條加奈さんか。まさか、谷元の下に、こんな美しく優秀な女性が居るとは………」


 四法院は、刺すような視線で自分を見た。何で話さなかったんだよ、と云わんとしている事は理解できた。自分がその視線を軽く受け流すと、彼は二條君の手を取った。


「加奈さん。明日の御予定は?」

「仕事です。回る所が、複数あります」


 間すら貰えず振られた四法院だが、心的ダメージは受けていないように見えた。その証拠に、台詞はこう続いた。


「おしいな。俺は明後日の早朝には東京へ帰るから、明日ダメなら半年後だな」


 打たれ強いのか、懲りないのかは分からないが、諦めない姿勢は学びたいものだ。

 自分は、煙草とライターを出し、机の上に置いた。


「吸っていいかい?」


 自分は煙草を吸う許可を四法院に求めた。それは、四法院が煙草を嫌いな事を知っているからだ。友と云えども、その配慮は必要だった。

 四法院は非常に嫌な顔を向けて言った。


「ダメだ」

「なんで?」

「お前、俺がタバコを死ぬほど嫌いだって知ってるだろ?」

「知ってるさ」

「だったら我慢しろ。そもそも、何で吸うようになったんだ?五年前は、吸ってなかったじゃないか」

「それが、政界にいれば付き合いだの、なんだのとあるんだよ」


 喫煙所などで党内有力者と会話をする場合や、愛煙家の支援者などと関係形成には煙草が手っ取り早いのだ。もちろん嫌煙家の方の前では吸わないが、結局、そんなこんなで自分も喫煙者になっていた。


「まったく、煙草なんて、百害あって一利無しだと言うのに」

「一利あるから吸う事になったんだよ。小量の百害と引き換えに、莫大な一利を得るんだ。価値はあるさ」

「それは、喫煙者になるきっかけだろ?今、吸うのは害しかないぞ」

「構わないよ」


 自分は、そう答えると煙草を一本取り出して咥えた。これ以上口論する気もなかったからだ。


「ダメだって言ってるだろ」


 それでも、ライターを持つと、四法院は不快な表情を前面に出して、妥協を口にした。


「わかった。そこまで吸いたいなら、ちょっと待て!」


 四法院はすべての窓を開け、他の部屋へ行って、空気清浄機を三台持ってきた。延長コードでタコ足配線をすると、自分を挟むように二台と正面に一台。かなりの近距離に配置した。


「できれば、あと二台欲しかったが、この家にはもう無い」


 これでもかと云わんばかりの対応だった。これが別の人間からの対応であれば心からの反省と、心の底から湧きあがる不快感に支配されるだろうが、四法院からでは至極当然過ぎて何も感じない。

 空気清浄機を作動させると、四法院から喫煙の許可が出た。一連の流れを見ていた二條君は言葉を失っている。


「加奈さん。谷元に用があったんじゃないのかい?」


 自分を無視する四法院が、二條君を気に掛けた。その言葉を聞いて、二條君は本来の目的を思い出したようだ。


「そうです。谷元さん。例の件ですが………」


 二條君が、四法院の存在を気にしている。自分は気に掛ける必要はないと視線で伝えた。彼女は、少し悩んだ瞳を向けたが人物名を出さなければ、部外者にはまったく理解できないだろうと考えたらしく、名は伏せるように説明してくれた。

 伏せないといけない語彙に、伏せ過ぎては理解ができなくなる境を見極めながら口に乗せていく。思い出しながら、整理しながら、伏せながら、境を探りながら、構成を考えながらで、説明はたどたどしかった。それでも、彼女の説明で十分に理解できた。

 要は、砂原さんと小坂さんの息子さんに関してのことだった。二人の病気については、病名こそは違うが、共通する症状があることを教えられた。小坂さんの息子さんは、もう運動機能が殆どなく、嚥下(えんか)の動作すら出来なくなっていると云う事だ。


「嚥下?」

「唾を飲み下す事だよ」


 四法院が説明してくれた。四法院の説明では、嚥下出来なければ、相当筋肉が衰えている状態らしく、こうなれば(じょく)(そう)が生じやすくなると付け加えた。


「専門用語を使うな」

「床ずれの事だよ」


 それだけ言って、あとは会話に入ってこなかった。自分は二條君の報告を聞きながら、脳裏に人物と光景など状況を思い浮かべていた。

 目の前に座っている四法院は、暗号のような説明を気に掛けることもなく、二條君の整った顔を眺めて楽しんでいる。そもそも、四法院は余計な事に首を突っ込まない。基本、自身の利益にならなければ動かない。もしくは、余程に親しい人間に頼まれるかだ。それが解っているから話させたんだ。

だが、四法院は話には関心を示さなかったが、二條君には高い関心を示していて、さり気ない気遣いと熱意に曝されている。

 強気な二條君が、四法院には防戦を強いられている光景が愉快で少しこのままにしておくことにした。

 窓の外を見ると、漆黒の闇が窓に張り付いていた。



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