二章 選挙区奔走
一
「はぁ~」
背伸びと共に、大きな欠伸をした。スーツを着ている為、体の筋繊維の所々が伸びきらない。
「眠そうですね」
二條君が、紙コップに入れたコーヒーを差し出した。
「そりゃ眠いさ。睡眠時間が四時間で、早朝五時から老人会の体操に参加したんだ。仲間に加わるには四十年早かったよ」
首を廻して肩の血流を良くすると、コーヒーを受け取りる。液面に息を吹きかけ、数口咽喉へ流した。
「これは苦いな」
「眠そうでしたので。でも、美味しいでしょ。この豆、高いんですよ」
そう言われ、もう一口啜った。確かに苦味が強い。しかし、その奥に妙に深みのある味わいが口に広がった。
「代理出席するスポーツ振興会のパーティーまでまだ時間があります。仮眠でも取りますか?」
「いや、出かける時間までデータ入力をしないと」
「そうですか。ではこちらを」
二條君はそう言うと、膨大な書類を目の前に積んだ。
「寝呆けて、入力ミスしないで下さいね」
冷たく言い放つ二條君に自分は頷く事しか出来なかった。
これほど睡眠不足なのには訳がある。四時二十分まで寝るつもりだったが、四時前にメールの着信音で起こされた。
この時間では二度寝をする時間は無いし、寝たとしても早く起きないといけないという意識では、気が休まらない。何より遅刻だけは避けねばらない。
送り主は判っている。だが、一応、緊急の事態を考慮して、暗闇の中で携帯を手に取った。目を擦り、目ヤニを取るとメールを開いた。
「やはり………」
秘書をやり始めて、多くの人と知り合った。中には非常識な陳情や軽犯罪などをやってくれなどと持ち込んでくる輩がいるが、こんな非常識な時間に、非常識なメールをする知り合いは一人しかいない。送信者の欄には四法院の名があった。
四法院とは、中学の同級生である。当時はそんなに仲良くなかったが、地元で再会した。あの頃、自分はフリーターで、四法院は無職だった。それでも、話してみれば、お互いに様々なこと考えていることが判った。それから、毎夜天下国家について語り合った。財政、経済、福祉、教育、外交に加え、国際情勢についても夜が明けるまで語り合った。四法院が親からガメてきたダダ酒と、自分が買ってきた安い肴を持ち寄るのが常だった。
無職とフリーターでも、お互いに膨大な量の書籍を読んできている。それは、話せばすぐに判った。何より幸運だったのは、この荒んだ暮らしを送っている状態で志を失わないで済んだことだ。フリーターという状態は、社会から精神的にかなり追い込まれる。扱われ方も酷いものだ。不満や怒りが渦巻いていたが、お互いの不遇を慰め合うような関係など作らなかった。話す事は、これからの計画と展望、国の行く末と地方行政の在り方だ。四法院との多岐に亘る議論は、脳に汗を掻くほどの頭の回転を必要とした。お互いに金も地位も無い、有るのは夢と情熱しかなかった。
今考えれば、幸運だったと思う。お互い生きて来た道が違う、それを共有することで多角的に物事を見ることができた。それは、今でも参考になるものだった。
パソコン画面を見ながら、数字を入力していると二條君が後ろに立った。
「何だい?」
「日野さんが見えられています」
「あのオバちゃんか………」
「はい、先生を呼んでいますが」
「いい、どうせ世間話だ。自分が対応するよ」
そう言い席をたつと応接セットへ向かった。そこに向かうとソファーに身を沈め、茶菓子を頬張っている肥満体型の中年女性が偉そうに座っていた。
「あら、谷元さん」
「日野さん、今日はどうされましたか?」
自分は可能な限りの笑顔を向けた。こう言うときにこそ、普段の作り笑いの技術が役に立つ。
「それが、不思議な事がよく起こるのよ」
手首を直角にパタパタさせながら、井戸端会議の雰囲気を醸し出した。
心のヒダに様々な感情が引っ掛かりながらも興味を持って聞く態度を見せる。
「どう不思議なんですか?」
「それがね。荷花町の志木さんの息子さん。知ってる?」
「すみません。存じません」
「旦那さんは、造船関係の方なんだけどね」
「ええ」
話が長くなりそうだ、こんなことなら寝るべきだったと後悔していた。後悔先に立たずとはよく言ったものだ。
「そこは、両親とお祖父さん、あと息子が二人いるの」
一通り、その一家の余計な説明がかなり続き、ウンザリするも根気強く訊き続けた。十分程、どう考えても不要な情報を聞いて本題に入った。
自分は、緑茶を入れて貰い音をたてて啜ると、一息吐いて聞いた。
「不思議な出来事って何が起こったんですか」
「それがね、その長男が突然いなくなったんですよ」
「いなくなった?」
そう聞き返すと同時に、昨日の出来事が思い浮かんだ。
「ええ、二ヶ月前の休日に、釣りに出かけたらしいんです。それっきり、行方がわからないそうです」
「その御子息の歳は、いくつなんですか?」
「三十五歳くらいだったかしらね~」
日野さんは首を傾げながら答えた。
「御結婚はされているんですか?」
「確か、独身だったかね。そう独身。弟さんは、結婚が早かったから」
今度は頷きながら答えた。
「不思議と言うからには、失踪理由は無いんですか?」
日野さんは笑い声を上げた。
「失踪理由ならありますよ」
「は?」
目を細めた。
「理由は借金だそうです。家族の知らない借金があって、知人を始め消費者金融数社からも数百万円の負債があったそうです」
日野のおばさんは、自分の情報を誇示するような言い方だ。
「すみません。それのどこが不思議な出来事なんですか?」
家族に知られるとマズイ借金が、明るみに出る前に今度は自分の姿を暗ましただけの話なのだ。
これのどこに不思議的要素があるのか訊いてみた。
「これだけだと思ったの?いや~ね~。これからよ」
「要約して、さっさと話せよ」
心の中で毒吐いた。人間の出来た自分は、笑顔で話を進めるよう促す。
「では、どう不思議なんですか?続けてください」
「それでね、今度は港町の吉冨さんなんだけど」
吉冨さんとは、居酒屋『吉冨』のことだろう。店は松谷港の近くにある。行ったことはないが、そこそこ繁盛していると聞く。
そこまで考えて、口を開いた。
「ちょっと待って下さい。話が変わりましたけど」
口を挿むと、日野さんは眉を寄せた。
「変わってないわよ。いいから聞きなさい」
仕方がないので、細かい事は流すことにした。
「で、吉冨さん宅の奥さんなんだけど、朝起きたら姿がなかったのよ」
今度は夫婦喧嘩ですか、と言おうとしたがここは堪えた。
「で、理由は何ですか?」
真剣な表情の日野さんは一転して笑みを浮かべた。
「それがね。吉冨の旦那さん、奥さんに家庭の財布からお店の経理まで、全てを任せていたんですって。それで、朝になったら、家の貯金も、お店の運転資金も、全部持って姿を消してたらしいんですって。あと、最近では相田さんの娘さんがいなくなったらしいのよ」
もう相田さんの情報を得ているのか、おばさんの情報網もなかなかどうして侮れない。そう思うも、静かに言葉を発した。
「それで、どこが不思議なんですか?」
「わからない?」
「まったく」
この三者の共通点と言えば、失踪したという一点だけだが、同じ失踪でもそれぞれ全く違うのだ。それは、黒字でも不況型と好況型の差の様なもので、黒字だからと言って同じ対処療法は取れないのと同じだ。
日野さんは、鈍い自分に胸を張って答えを教えてくれた。
「なんでこんな簡単な事がわからないのかしら。どれも皆、失踪してるでしょ」
自分は頭を掻いて生返事をするだけだった。まるで鬼の首を取ったかのように、自らが行き着いた結論の説明を長々とする人物に失踪の差を教えるのは無理だ。
自分は、なるべく早く御帰り頂くことにした。
それから二十分を少しばかり過ぎたころ、二條君が割って入ってきた。
「失礼致します。谷元さん、お電話です」
絶妙なタイミングだった。
「すみません。仕事がありますので、この辺で失礼させていただきます。また、何かありましたら聞かせて下さい」
そう言って、事務所から送り出した。
のそのそと歩く後ろ姿を見送ると、一息吐いて二條君に礼を言った。
「ありがとう助かったよ。それにしても、これ以上ないタイミングで声を掛けてくれた」
自分の感謝を無視するように、二條君は電話の方へ振り向き出るように促した。
「誰から」
訊くと、彼女は受話器の子機を取り、差し出した。
「高野さんからです」
無表情で渡す彼女に、自分は笑顔で受け取った。
「ありがとう」
彼女を下がらせて、電話に出た。
「お電話代わりました」
《谷元君、警察は相田明乃さんの捜索を決定したよ》
「ありがとうございます」
《言っておくが、松谷警察署が独自に決定したことだ》
決して、政治家の介入で方針を変えたわけではないということを言っている。
「ええ、承知しています。そして、感謝もしています」
《一部署員の言動についてだが………》
「こちら側は、捜索願を受理してくだされば、特に問題点は無いと考えております。それと、感謝としてくだらない情報を、他にも失踪者がいます。それぞれ理由は違いますが」
《そうか》
失踪に関する件について、警察の不祥事だと騒ぎ立てる人間に相田さんの情報が役に立つ。警察は忙しく、民事不介入の姿勢を強調できる。だが、今回の事件は慎重に審査した結果、事件性が無いとは断言できない。時間こそかかったが、警察の面目は十分に保たれ、誠実さも見てとれなくもない。その意図を理解してくれたようだ。
「高野さん。また何か分かり次第お願いします」
相手からの返事は無かったが、そんなものは必要なかった。自分は慇懃に礼を言って電話を切った。
「昨日の件ですよね。どうなったんですか?」
二條君が聞いきた。
「捜索願が受理されて、捜してくれることが決まったよ」
「よかったですね」
彼女の口調は冷静だったが、喜びは込められていた。キツイ性格をしているが、外見から受ける印象とは違い優しい所があるのだ。それが伝わりにくいのは、彼女にとって不幸であった。
「二條君。悪いが、相田さんに事情を説明しておいてくれないか」
「わかりました」
二條君は、端正な顔で微笑みを向けてくれた。
「二條君、自分はパーティーへそろそろ向かうよ。それと、直帰するから何かあればメールで教えてくれ」
そう言って、荷をまとめて事務所を出た。
二
椅子に座り、床を見ていた。ホテルのラウンジは、赤いフカフカの絨毯が床一面に敷かれ、高級感を醸し出している。一流ホテルだけあって、内装は豪華で古風だが、一部現代的で全体として品良く仕上がっている。
パーティーが終わり、自分の役目は終わった。極度に寝不足の状態で、出席者に気を使わなければならないのは著しく体力を消耗した。
スポーツ振興会だけあって、プロやアマの選手だけでなく、後援者や出資者などの有力者が多く参加していた。今日は、選挙期間以上に頭を下げたかもしれないな。
人目を避け、そんなことを獏然と考えていた。
「やぁ、谷元君」
声に反応して、即座に背筋を正した。
「お疲れのようだね」
声を掛けてくれたのは、県立秋津病院の外科の主任部長だった。身長は百六十センチ後半、恰幅は良くお腹が七福人の布袋さまのように突き出している。表情も柔和で人当たりが良い。
「上村先生、お久しぶりです」
席を立って、深く頭を下げた。
上村先生は県立病院の外科部長でありながら、消化器の専門医だ。特に癌治療には定評がある。権田先生の支援者の中にも、上村先生の診察を受けて早期に発見し、適切な治療で一命を取り留めた方を数人知っている。消化器以外にも幅広く知識があるようで、気さくに話を聞くため、患者たちからの評判は良い。
「今日は権田先生の代理かい?」
「はい。公務が多忙で、私では役者不足ですが参加しました。先生、今日は、どうしてこちらへ?」
「付き合いでね。断りきれなかったのさ」
上村先生は、太鼓腹を叩いておどけた。自分もついつい笑顔になった。
「ところで、谷元君。顔色が優れないな、ちゃんと休養を取らなきゃだめだぞ」
医師の口調だったが、上村先生の生活を知っているので素直に聞き入れられない。仕事量も食事量も多く、不摂生の代表にあげられる暮らしをしている人なのだ。
「先生も、その言葉を自身に当てはめて下さい」
自分は溜息を吐いて、さらりと言い返した。
「私は、患者には摂生した生活を求めるが、自分がするのは得意じゃない」
「それでいいんですか?医者の不養生って言われますよ」
胸を張っていう上村先生に、笑顔で言った。
「いいさ。妻には十分な蓄えは残してあるし、息子も結婚して独立したしな」
「まだ、お孫さんの顔を見てないじゃないですか」
自分の言葉に、上村先生は笑みを浮かべた。
「そうだな。孫くらい可愛がりたいな。同級生や同期の人間から、孫は理屈じゃなく可愛いぞ、と聞くからね」
「そうですよ」
自分も笑みを作り答えると、横から若い男が駆け寄ってきた。
「上村先生。ちょっと、こちらへよろしいでしょうか?」
「ああ、構わんよ」
上村先生は、微笑みを絶やすことなく招かれるまま歩きだした。二、三メートル歩き、振り返り言われた。
「谷元君。このあと食事でもどうだい?」
「ええ、喜んで」
頭を下げて見送った。
自分は、再び椅子に座ると深く息を吸い込んだ。体が重く、頭がぼーとする。今日は、もう難しい話は出来そうにない。携帯電話を取り出し、メールが届いてないか確認する。
メールも電話も着ていない。
ふと、初音の事を思い出した。電話で謝っておきたいが、途中で誰かに話しかけられると電話を切らなきゃいけない。それはそれで関係をさらに悪化させかねないと思い、メールで伝えることにした。
件名にゴメンと書き込んだ。そして、本文に素直に気持ちを文章に変えた。仕事で疲れていたとはいえ、あんな態度をとったこと。余裕が無かったとはいえ、謝れず引き止めることも出来なかったこと、文の段落、句読点に気をつけて、何度も読み返した。出来るだけ読み易い文体で、勘違いを起こさせない言葉使いで、文字の配列から受ける印象に注意を払い。有力者に送る御礼状くらい気を使った。
最後に、今度の日曜日は休日になったと書き添えて、『どこへ行きたい?』と付け加えた。
深呼吸をして、送信ボタンを押した。画面に送信中と表示され、パーセントが上がっていく、三〇、六〇、一〇〇。『送信完了』の表示が出た。
「これでよし」
返信がなければ夜に電話しよう、と考えていた。
携帯をじっと見ている。すぐに返事が来る訳がない。初音にも初音の都合があり、こっちの要求通りになどいかないのだ。世の中とは、そう云うモノに出来ている。
「谷元君じゃないか」
「笹本さん」
笹本さんから下卑た笑みを向けられた。その笑みが気味悪く、不快さしか感じない。正直、この人は好きになれない。
顔は痩せこけているが、体は太く、手脚は細い。典型的な年老いてからの肥り方だ。だが、不快なのは体型ではない。この人物の心根なのだ。
自分は、権田先生の秘書になる前はフリーターだった。世は平成不況の真っ只中、国立大卒でも『これは』という職はなかった。政治家への夢は捨て切れず、思案の末、地元に帰った。どんな政治家になるにも選挙をしなければならない。そうなれば、地元民に支持を訴えるしかないのだ。だからと言って、具体策は無く、地元の政治家は古株揃いで、そこに割り込めるコネなんてなかった。数ヶ月、フラフラすればすぐに手持ちの金が無くなった。仕方なくバイトを始めた。近くのファミレスの店員だ。どうせ腰かけだから職は何でも良かった。仕事は真面目にしていた。だが、なぜか店長は気に入らなかったようだ。よく店長から謂れなき罵声を受けた。十九歳の女の子が、その理由を教えてくれた。
「ソツのない態度と若い女の子と話で盛り上がっているのが許せないらしいですよ」
勤務してひと月過ぎた頃だった。深夜に四法院が来店した。学生の時以来の再会だった。四法院は、二種盛りハンバーグを注文すると、ドリンクバーでウーロン茶を大量に飲んでいる。
店に客はいない。それでも調理場には、若いバイトがいる。告げ口の得意な、店長好みの奴だ。接客と見せかけて話をした。四法院もそこは良く理解していて、タチの悪い客のように横柄に振舞っていた。四法院の性格を知っているからいいようなモノだが、これが客だったら警察を呼んでいる。それほど、真に迫った演技、いや、結構本気で嫌がらせを楽しんでいるのかも知れない。
近況を話す時間的余裕はないが、お互いに苦境にいることは判った。そして、会計時に連絡先を交換した。それから四法院家の別宅で再会した。ほぼ毎夜、四法院家の別宅で酒を御馳走になった。行けばビールの大瓶二本、もしくは発泡酒三缶など飲みながら語りあった。お互いの思ってることを口にすると、様々な考えが整理され洗練されていく。いま思えば、この時間は、両者にとって貴重な時間だったと思う。
自分は、地元で生きる決意を固め、四法院は地元を捨てる覚悟をした。その覚悟が、三ヶ月後に行われる市議会議員選挙への出馬へ繋がった。
公示前に四法院に打ち明けた。四法院は反対も賛成もすることなく、ただ面白がっているようだ。その笑みを見れば容易に判る。
沈黙が場を支配したが、室内はどこか陽気さに満ちている。四法院が言葉を発した。
「楽しそうだな」
それが感想みたいだ。随分、ズレた感想だと思ったが口にしなかった。
「で、選挙運動を手伝って欲しいんだ」
「勿論だ」
返事にズレを感じたが、理解はしているのだろう。
「それで、核になる支援者はいるのか?」
そう言って、四法院は冷えた無糖紅茶を口に含んだ。
「あるよ。自分は、これまでバイトだけをしていたんじゃない。地区の行事や催しには必ず参加してきた。それに菩提寺の住職さんが支援を約束してくれた」
「宗教か………」
自分もそこは気になった。政教分離、政治が宗教に介入することを禁じている。また、宗教が特定政党に介入することも禁じている。だが、正直贅沢は言えない。一つの寺が、檀家に呼びかけたところで、票数はたかが知れている。それでも、これである程度の足場はあるのだ。ビールの入ったグラスの表面を見た。白い泡が縁に溜まり、中央の液面から微小の泡が浮き出しては弾けている。
「頼みがあるんだが」
ふと、グラスに付いている水滴を指先でなぞった。
「なんだ?」
「後援会長になってくれ」
四法院は笑い声を上げた。
「あのなぁ、俺、無職だぞ。正に、社会からは無色透明。いなくてもいいどうでもいい存在。お前も大して変わらないからわかるだろ?」
「ああ、そんなことわかってるさ。だからこそ、若さと清廉さを前面に押しだせるだろ」
「その論理、わからなくもないが、自殺行為じゃないか?ま、金の無い若者の戦い方としては自転車で選挙区を回る。だが、それでは勝てないぞ………」
「その辺は考えてある」
そう言ってみたが、選挙なんて他力本願以外のなにものでもない。自身の努力だけでは、票は湧き出ないのだ。
四法院がわずかな沈黙の後、返事をした。
「後援会長の件。受けられないな」
「理由、聞かせてくれるんだろ?」
「無職の俺に言ってくれたことはすごく嬉しかった。それは、これまで多く語り合ったからこそ行き着いたのだろうが、やはり無職の俺がその地位に就けば、他者から見ればもっとマシな知り合いはいなかったのかと思われるだろう。そうなれば、敗戦が決定してしまうだろ。そうなるのは、本位じゃない」
自分は何も言わなかった。
「個人的には、二人で自転車を並べて選挙活動してる光景は面白いが、俺は人に頭を下げるのは苦手だ。お前の票を減らしかねない」
自分は笑った。四法院の家は商人家系だ。利には敏く、感情には流されない。だからこそ最低限の安心ができるのだ。
「そんな事はないだろう。お前、なんだかんだ言っても、大嫌いな奴でもちゃんと振る舞うだろう」
「いや、お前がクソ女と結婚すれば、相手の女に無難な態度は取れないさ」
「そうは考えているだろうが、それでも、お前は笑顔で接するよ」
そして、自分は四法院の辞退を受け入れた。
すぐに代わりの後援会長は見つかった。四十代の地域活動をしている小規模の会社社長だ。
結果から言えば、選挙は落選した。当選ラインは六百五十票、五百六票しか取れなかった。かなり善戦したが、負ければ意味はない。それでも学ぶことは多くあった。人の温かさと残酷さだ。
特に笹本氏からは、くだらない嫌がらせを受けた。同じ地区に住んでいるにもかかわらず、悪意を露骨なまでに表わした。小人物というのは、学生の頃から解っていたが、これほどとは思わなかった。言葉を交わせば、反論の為の反論をし、近所には自分の悪口を言いふらす。落選した時の喜びようといったら、嬉しさを隠しきれないほどニヤけた面だった。
自分は、落選の可能性は考えていた。選挙とは、地盤、看板、鞄が必要と言われている。地盤とは集票能力であり、強固な後援会や支持組織。看板とは知名度や肩書。鞄は、財力である。当時、二十七歳の自分には何ひとつない。
だが、この選挙のお陰で袋小路から脱出する為の人脈が出来た。様々な人から声を掛けて頂き、衆議院議員権田聖先生への選挙区担当の私設秘書の道が開いたのだ。
先生は自分の志を汲んで下さり、『自立出来るように動いて構わない』と言ってくれた。
それから、松谷市は自分が担当し、さらなる人脈形成に勤しんだ。権田先生の思い切った配慮のお陰で、いまではかなりの人脈とそれに伴う信頼を得られた。
その変貌ぶりに、笹本さんは敵対するよりも媚び諂う方に方針を転換した。それからは、会えば虫唾が走るような美辞麗句を並べ、知らない人間に自分が育てたかのような事を言っているらしい。
こんな人間が市役所の総務課長なのだ。人材の枯渇にも程がある。
気味の悪い微笑みを浮かべる笹本さんは、なれなれしく話しかけてくる。
「谷元君。今度、うちの知人の集まりがあるんだが来ないか?君も知っておくに越したことのない人物が何人かいるんだ」
聞いて呆れる。あなたの魂胆は分っている。自分を呼び出すことで、他人に良い格好がしたいのと、ちっぽけな自尊心を満たしたいだけなのだ。そもそも以前、知識人の集まりに頼み込んで来ていたが、どう振舞っていいかが解らず煙草ばかり吸っていた。それだけならまだしも、煙草の灰皿に料理の皿を使っていた。目の前に灰皿が用意されてあるのにも関わらずである。しかも、そのお店は彼の知人の店である。そのあまりの常識の無さに驚かされた。
彼の思考回路から行動に移り、その果ての結論に至るまで御粗末なものだ。だからという訳ではないが、力のある者はいない。また、有力者に相手にもされていない。
「どうだね?」
偉そうな口調で答えを聞く。まったく行く意味も益もない。
「直ぐに返事はできません。帰って予定を確認しますので」
丁寧に頭を下げた。こういう小物が、些細なことを根に持つのだ。いや、小物だからこそ根に持つのだが、頭さえ下げれば関わらなくていい。
「そうか。返事は、早めにくれよ」
笹本氏は、意味無く胸を張った。
「谷元君」
遠くから呼び声が聞こえた。見ると上村先生が体を揺らし現れた。
「谷元君。お待たせしたね」
上品に言う上村先生に、自分は『気遣いありがとうございます』と答えただけだった。
上村先生は、笑みを浮かべて言った。
「谷元君、付き合ってくれ。私のこの美しい体型を維持するには、食事の摂取が必要だ」
上村先生は、出っ張った腹を二度叩いた。
自分は笑い声を上げた。上村先生は、知性だけでなく一級のユーモアセンスもある。いささか自虐的だが、確実に場を明るく出来る方法だ。
笹本氏が、自分に視線を送ってきた。力のある医師との繋がりが欲しいのだろう。
自分は気を利かせ、視線に気づかないフリをして先を急がせた。
「では、参りましょう」
並んで歩きだした自分たちに、笹本さんは声を掛けられないようだ。所詮、コイツはお膳立てをしてやらねば何もできないのだ。まったく、どこまでも小役人だ。
上村先生は、ホテルの広い廊下を歩きながら背筋を伸ばした。
「そうだ。頼みたい事があるんだがね」
「私に出来ることでしたら」
そう答えると、自分は正面玄関でボーイにタクシーを呼んでもらった。
三
体が重い。特に脚は痺れたような感覚だ。意識はあるが、どこか体の感覚が遠い。
メロディーが遠くで鳴っている。お気に入りのラフマニノフのピアノ協奏曲第二番だ。音が近づいてくる。いや、迫ってくると表現した方が適切に思える。
迫りくる音が、次第に大きくなり、大好きな曲だが不快に感じ始めた。耳元まで迫って、鼓膜に電子音が突き刺さる。
休んでいる筋肉に力を入れるように命令するが、腕も瞼も重い。携帯電話が緑と赤の光を点灯させながら、電子音を流していた。
体を捻って、手を伸ばした。携帯を掴むが手に力が入らない。折り畳まれた隙間に指をねじ込み開いた。
「はい」
出来るだけ清々しい声を出したつもりだったが、ひどく嗄れていた。
《おやすみのところ悪かったね》
商工会議所の副会頭、佐々根さんだ。自分は、即座に姿勢を正した。声の感じから判断して、嫌味などの類ではなさそうだ。時計を瞬時に確認する。八時前だ。自分には早朝だが、文句も言える筈もない。深呼吸をして言葉を発した。
「いえ、お気遣いありがとうございます」
少しだけマシな声になった。
《谷元君。悪いんだけどね。信頼できる土建屋を紹介してほしいんだが………》
「それは、かまいませんが」
こう答えたが、普段心地良いまでに豪快な佐々根さんだが、なぜか歯切れは悪い。
《では後日、席を用意して貰って構わないかい?》
「はい。承りました。日時が決まり次第ご連絡します」
《すまんな》
「では、失礼致します」
そう言って電話を切った。
寝起きということもあり、頭はまだ回ってない。その頭で考えても、佐々根さんの交友関係なら土建屋の一つや二つのツテはある筈だ。それを使わないということは、使えない理由があるのだろう。それと、何故、自分に紹介を求めて来たかを考える。すると、狙いが見えた気がした。
「なるほど。光栄建設の川田社長という訳か」
それにしても、佐々根さんも手の込んだ事をする。早朝に連絡してくるところを考慮すると自分の思考も読まれてのことなのだろう。それにしても、職業柄、よく頼みごとをされる。もちろん、選挙運動で頼みごともする。だが平常な数日間に、これほど立て続けというのは稀である。
自分は昨晩の事を思い出していた。上村先生と懐石料理を食しながら、頼まれごとをされたのだ。
純和風の店内の四人用の個室を借り、向かい合って食事をしたが、先生がおもむろに切り出した。
「悪いんだがね。谷元君、ちょっと患者さんの様子を調べて貰えないか?」
「どういうことでしょう?」
「ちょっと気になってね」
説明をしたがらない上村先生に、自分は沈黙を持って説明をするように促した。先生は、気まずそうに箸で鮑の蒸し焼きを摘まみ、素早く口に放り込んだ。数回口を動かし、飲み込むと今度は説明の為に口を動かし始めた。
「実は、気になる患者がいてね。週に一度、ひと月ほど通院、治療したが、病状が回復しなかったらしく、いまは来ていない」
「それで、私はその患者を連れ戻せば良いのでしょうか?」
「その必要はない」
「ではなぜ?」
「ただ、症状が少し気になってね。それだけの理由では駄目かね?」
「いいえ。しかし、先生が直接行かれた方が良ろしいのではないでしょうか?」
「私が行きたいところだが、担当医でもなければ、学会の準備で時間もない。別に詳しい経過は必要ない。それとなく、谷元君が得られるくらいの情報で十分だから」
そう言って、病院の白封筒を机上に置いて言葉を続けた。
「これは、少ないが手間賃だ。受け取ってくれないか」
この封筒を受け取るべきか、受け取らざるべきか、そのことだけを悩んだ。それほど大した用件とも思えない。地位のある人間が、大金ではなく少額の金銭を差し出したのだ。突き返すのは失礼というものだ。
自分は、頭を下げて受け取った。
昨夜の出来事を思い返していると、再び睡魔が襲ってくる。さすがに寝ている時間はない。洗面所へ行き、冷水で顔を洗った。むくんだ肌が引き締まって行く感覚、それで眠気が完全に消えた。
冷蔵庫からペットボトルを取り出して口に含んだ。中身はなんでもない水道水だが、この地域の水は極上の軟水で口当たりが良く、わずかな甘味を感じる。コンビニなんかで売っている外国の水、どこぞの名水より、比べるべくもなく美味いのだ。
メールの着信音。見てみると、初音からだった。
【休日、楽しみにしてるね】
この一行だが、それで充分だった。この時間にメールを送って来たのにも意味がある。自分が起きる時間であり、このメールにはモーニングコールの意味も含まれている。
自分は、さっさと着替えて事務所に向かう事にしたのだった。
午前中に、昨日出来なかった雑務を終わらせ、光栄建設と連絡を取った。対応してくれたのは秘書の方だったが、折り返し連絡をくれることになっている。
昼になり、大手コンビニ店でむすびを二個買い、口に押し込み、ウーロン茶で胃へ流し込んだ。すぐに上村先生の為に動くことにした。時間をかけ過ぎる事でもない。住所を聞けば、ちょうどご近所に選挙活動を手伝っていただいた大野さん宅がある。顔を出す時期でもあり、余計な手間が省けて良かった。
出かける準備をしていると、両手でファイルを抱えた二條君が前に立ち塞がった。
「どちらへ?」
「加佐早地区の大野さんに御挨拶してくるよ」
「お帰りはいつ頃になりそうですか?」
「会話次第でどうなるか分からないけど、二時間ほどかな」
「結構、時間がかかりますね」
他にも立ち寄る家があることは伏せた。自分自身、詳細なことはわからない。そんな状況で突っ込まれた質問を受ければ失笑されかねない。それでも引き受けたのは、上村先生の人柄を知っているからこそである。
適当にその場を濁して、加佐早に向かった。加佐早は、秋津病院のある秋津町の西へ位置している。加佐早駅は無人駅であり、南に瀬戸内海、北に山間に住宅が点在している。
古びた国道が通っているが、行き来している車は多くない。
国道一八五号線から脇道に入った。しばらく、登り坂が続き、山の中腹に先生が言っていた家があった。典型的な日本家屋だが、町からかなり外れていることもあり、かなりの広さはある。自分は玄関の前に車を止めた。玄関に表札が掲げられている。名は円藤。ここだ。
玄関の表札の下にある呼び鈴を押した。返ってくるのは、静寂だけだった。もう一度、呼び鈴を押した。それでも結果は変わらなかった。
「不在か」
その家を後にして、大野さんの家へ向かった。
母屋から出て来たのは奥さんだった。奥さんは笑顔で迎えてくれた。
「谷元さん。お久しぶりだね」
「御無沙汰しております」
大野夫人は、骨にわずかな肉が付いているような細身で、痩せ過ぎといえる体型だ。体型の維持には成功しているが、顔には深い皺と弛みは如何ともしがたかったようだ。
「今日は、どういった用件で?」
「大した用でなく申し訳ないのですが、いかがお過ごしかと思いまして」
「変わらんよ。不況で、会社は景気が悪いがね。先生のお陰で、何とか食べていける感じよね」
溜息を吐くように言った。
「そうですか」
この言葉しか言えなかった。
「でも、まだうちは権田先生のお陰でやっていけてるが、他は本当に苦しそうですだ。あ、どうぞ中へ入って下さい。お茶でも入れますので」
「お気持ちだけで十分です。それより、円藤さんのお宅に行ったのですが、不在でした。円藤さんに関して御存知の事を教えて頂けませんか?」
「円藤さんですか………」
大野さんは口ごもるように呟き、後を続ける。
「あそこは………ねぇ」
「知っていることがあったら教えて欲しいんです」
そう言って、自分は相手が話す状態になるまでまった。そして、噂も含まれているんですが、と前置きして話し始めた。
「円藤さんのお宅は、数年前まで一般家庭と同じだったかね。おかしくなり始めたのは、息子さんの異常行動が切掛けで。十八歳の息子さんが病気にかかったそうだよ」
「病気?」
病の事は上村先生から聞いていたが、知らないふりをした。余計なひと言で、引き出せる情報を狭めたくない。
「えぇ、異常は身体能力の低下という形で表れたそうで。手足の震えから始まり、記憶障害。病院に行っても、よく解らなかったそうだよ」
「それで、どうしたんですか?」
「よく知らんが、もっと大きな病院に行かせると言っとったかね。確か、旦那さんが大阪で単身赴任していたので、旦那さんの所へ行ったんじゃないかね」
「それで?あの家は」
「あの家は、奥さんの実父が暮らしておるよ。昼間は畑じゃないかね?」
「連絡は取られているんですか?」
「いえ、そこまでの付き合いはないよ。奥さん、気難しい方でしたしね」
「そうですか。ありがとうございました」
大野さんが言うことには、どうやら教育ママらしく昔から絡み辛かったようだ。息子は気弱な子で、お母さんの人形のようになっていたことしか記憶に残って無いらしい。
自分は、慇懃に頭を下げて、その場を後にした。
正直、これで役目を果たせたのか疑問だったが、本人も家族も居ないのなら、それも仕方なかった。
念の為、引っ越し先を調べておくことにした。
四
「おかえりなさい。早かったですね」
二條君が、無愛想な顔で迎えてくれた。他の事務の方は既に帰っていた。
上村先生から受けた調べ物を済ませ、先生の携帯電話に報告しておいた。移転先を調べると関西のある地区になっていた。理由は息子さんの病気だと言うが、その病名を知っている方はいなかった。
「もう、みんな帰したのかい?」
「はい」
「君も仕事が終わり次第帰宅してくれ。後は、自分が引き受ける」
「わかりました」
二條君は、髪を掻き上げて答えた。これと言って悪いことなどしていないのだが、沈黙に耐えきれず口を開いた。
「留守の間、何かあったかい?」
「煩いのが来ましたよ」
本当に煩わしそうな口調で、二條くんは言った。
「ああ、日野さんか」
「二十分ほど話して行きましたけど、あまりに取り留めのない話に付き合うことは、五分でも苦痛です」
「どんな話をしたんだい?」
「前日と同じですよ。また行方不明者のことです」
二條君の辟易とした顔に、聞く気のない姿が容易に思い浮かび、吹き出してしまった。その場の光景は愉快だが、彼女の今後の為を思えば楽しんでばかりもいられない。似合わないと思いつつも、ついつい苦言を呈してしまった。
「君は、美しい女性だが、内面は知的で好戦的な男だな。もう少し女性的になれとは言わないが、ある程度の協調性は必要だよ」
可能な限り優しい口調で言ったが、返って来たのはキツイ視線だった。だが、選挙の前線で戦っているなら、彼女に改善は必要だ。まして、相手が高齢者が多い。人生訓からくる偏見や保守的な人々多い。
マズイ雰囲気にしてしまったが、タイミング良く携帯電話が振動してくれ、逃げ道が開いた。渡りに舟とばかりに急いで電話に出た。
「はい」
二條君は、パソコン画面に向き直りため息を吐いた。
《谷元君かい?私だが》
高野さんの声。普段の落ち着いた渋い声だ。
「何かわかりましたか?」
《ああ、生活安全課が調べたところによると、両親の言った通りで間違いなさそうだ》
「そうですか。それで、事件性はありそうですか?」
《正直、まだ分からないな。成人女性が男と消えることは良くあるからね。未婚、既婚を問わずにね。別に、男と限定することもなかったかな》
「そうですね。ですが、私も少し調べてみます」
《何か、心当たりでもあるのかね?》
「いえいえ、下らない噂話を教えてくれる人がいるんですよ」
《どんな噂かね?》
「他にも、行方を暗ましている人間がいるという噂です」
《噂でなく、現にいるだろうな》
「ですが、松谷市内で同様の失踪が複数あり、それが犯罪あれば………大変なコトになりますよ………警察署が」
最後の言葉は言わなかった。言わなくても高野さんなら理解できている筈だから。
高野さんから返ってくる言葉はない。こちらが気になるのか、二條君が視線を向けている。仕方なく自分から切り出した。
「高野さん。自分で良ければ協力致します。こちらでも情報を集めますので、何か分かり次第連絡致しますので」
《わかった》
それだけ言って、高野さんは電話を切った。
いまは、これで十分だ。自分は、まだ何も情報を掴んでいない。姿勢だけ、協力する姿勢だけでも見せておくべきだ。それに、この件で動いても怪しまれない上に、何らかの情報を得られればかなり使えるのだ。
自分は、深く息を吐いて電話をポケットに入れた。
「あの谷元さん」
二條君が立ち上がり、強い視線を向ける。自分は、その視線を冷ややかに見ると、目を背けて呼びかけに答えた。
「何だい?」
「行方不明者の件ですか?」
「そうだけど」
「警察は動いたんですよね。で、見つかったんですか?」
「まだらしい。今のところ、両親の発言の裏が取れたそうだよ」
「警察は何をやっているんですか」
苛立つような口調だ。
「捜査はしてくれているよ」
自分は諭すように言ったが、聞いている様子はない。
「もう一度、署に出向いた方が良いのではないでしょうか?」
「その必要はないよ。警察はよくやってくれている。これ以上は、関係を悪化させるだけさ。何より、随時、こちらに連絡をくれる約束をしてくれた」
二條君は、何が気に入らないのか、苦い顔をしている。
それから自分は、もっとも言いたい事を口にした。
「だから、担当の仕事を優先してくれ」
「はい。分かりました」
言葉だけなら従順だが、不貞腐れた返事だった。
自分は、机上に広がった書類の束と少量の私物を鞄に入れ、周囲を素早く片付け言った。
「二條君。くれぐれも誤った認識をしないように」
そして、自分は事務所の戸締りを指示して、先に事務所を後にした。事務所の前に止めている車に乗り込み発進させながら、二條君の事を考える。
釘は刺しておいた。普段、二條君は規則に厳しく、それ以上に自身を律している。親は英才教育を施したのだろう。その成果は十分に表れている。そして、正義感も道徳なども持っている。学生であり、我が子供であれば実に誇らしいだろう。だが、社会人としてはあまりに不出来だ。彼女には決定的な成長要素が欠けているのだ。挫折という成長要素が。
彼女にも苦労はあっただろうが、親には資産と社会的地位があり、父親は娘を溺愛している。彼女の能力は優秀であったが、己の力には限界がある。努力や熱意、誠意や評価などではどうにもならないことがあり、それが様々な不条理さを理解させるのだ。そんな失意や絶望から再び立ち上がることで、人格に幅と深み、他者の心理を読み、その悪意を防ぐ知恵になり、何よりも耐える能力を得られるのだ。しかし、彼女の父親は、苦悩している彼女の姿を見れば耐えきれず救ってしまう。娘に関しては狭量なのだろう。
この手の親は厄介であると同時に、子供にとって不幸だ。子供の時は楽が出来るが、成長し親が力を失う頃には、親の能力の半分も自身の能力は培われてないのだ。
こと彼女に関しては、あらゆる面で恵まれ過ぎた。学識があり、常識もわきまえている。異性に対してはあの美貌だ。チヤホヤされているだろう。同性に関しては苛められもしただろうが、個人の優秀さで補えている。社会的な不条理はあの親が除き、精々体験した挫折とは、前職場のような大企業には適応できなかったというくらいだ。それでも、社会的に見れば、代議士秘書の肩書なら申し分ない。もっとも、本人からすれば不満だろうし、挫折風味の失敗を味わっているだろうが、自分から言わせればまだまだ甘い。苦労が足りないから、自分の内面にばかり気を取られ、人を冷静に見れてない、計れてない。結果、余計な正義感や倫理に振り回されてしまうんだ。
この仕事に限らないが、人格を見て判断するのは基本だ。秘書という仕事であれば尚のことだ。彼女にはもっと成長して貰わなければならない。問題は、この職場にいる以上、彼女に挫折してもらう訳にはいかない。彼女の致命的な失態が権田先生の失脚に繋がりかねないのだ。
とりあえず、今は日々の雑務を確実にやり終えてくれる事がありがたいのだ。自分が、今回の件で動く為にも。
今夜は宴席も会合も寄合もない。久々にゆっくり出来そうだ。夜になれば、街に明かりが灯されているが、人の姿はほとんど見ない。地方は不況の煽りを受け、首都圏が活気を取り戻しても地方の苦しさは和らぐことはない。再び、米国で起こった金融危機の煽りで、地方は回復することなく痛打を加えられそうだ。
地方の人間はマネーゲームに興じることなく、朴訥に真面目に営業努力、経営努力をして何とか生き延びている。にも関わらず、皺寄せを受けるのはそんな人間なのだ。考えるだけで歯痒い思いが込み上げてくる。この現状を打開するためにも、地方行政の重要性が増しているが、財政もなく、有効な策も無い。もっとも有効な策があったとしても、自身の利権を奪う政策には議員たちが賛成する筈もない。
権田先生もこの窮状は認識していても、代議士が地方政治にまで露骨に介入できる訳もない。先生は、優秀だが国会議員では中堅なのだ。派閥の領袖などの大物であれば、地方などは意図も簡単に御せるが、現状では難しい。
隣の座席に置いている携帯電話が鳴った。車を道路脇に停車させて、電話を手に取った。
初音の名が表示されている。丁度良かった。
「はい」
返事に少しだけ嬉しさが籠った。
《いま話せるかな?》
「ああ。今日は、もう仕事が終わったんだ。御要望なら、これから会いに行くよ」
《私もその方が嬉しいけど、今日は飲み会があって無理なの。だから、休日、楽しみにしとくね》
「何をしたいか決まったか?」
《汗を掻きたいわ》
その声を聞いて、彼女の裸体を思い浮かべたが、そう言う意味ではない事は分っている。既に、ひと月会えていないのだ。女の体も恋しくなるのも無理はない。
自分は、彼女の性格を察して答えた。
「久々にテニスか。それもいいな」
《なんだ。つまんない。もっと勘違いするかと思った》
嬉々としたじゃれる様な声が電話から車内に漏れた。自分は、微笑んで言った。
「最近、オバサン化したんじゃないか?」
《ヒドいわね~。英雄だって、お腹が弛んできてるでしょ》
「その肉を休日のテニスで削ぎ取るよ」
《そう。息切れして座り込むことだけはしないでね》
こんな他愛もない話を明るく喋る事が楽しい。ここ最近忙しく、心に余裕もなかった。彼女を構う暇すらなかった。
初音とこんな風に話していると、大学の頃を思い出して懐かしかった。
五
一軒の民家が建っている。築五十年は優に超えているだろうか、古く外観から哀愁を感じる。しかし、この家を建てた大工の高潔さが表れているように気高い。この屋敷から感じるものは、現代の居住性と商売っ気を適度に妥協させたものなどではない。徹底した居住者への利便性と心の平穏さだ。
自分もこんな家に住んでみたいと思うが、もうこんな邸宅を構えるのは難しいだろう。資金面でも、宮大工のような大工を探すことも容易ではない。
自分は車の傍に立ち、屋敷を眺めていたが、玄関に向かって歩き出した。駐車場所から玄関まで少し歩くほど距離がある。
この屋敷に来たのは、考えがあってのことだ。各地区の有力支持者は、ごく限られた地域限定だがかなりの情報を持っている。そんな支持者宅を回り、頭を下げて情報を集めて行くしかない。この家は、名士である手島家である。
昨日のこともあり、事務所に出れば二條君が先に来ていた。驚かされたのは、雑用、雑務が既に終わっていた。従順になったという訳ではなく、反発による意地の行為だろう。動機などなんでもいい。差し当たり彼女が事務所を切り盛りできれば、これまでより大局的にも緻密にも動けるのだ。
門が見えて来た。大きくはないが、正真正銘の閾を跨ぎ玄関へ向かった。玄関まで白い敷石が敷かれ日本的な美が表わされている。
「いらっしゃいませ。どちらさまでしょう?」
玄関の引き戸に辿り着く前に、横から柔らかくも疲れた声を掛けられた。ゆっくり振り向き、相手を確認すると、深く頭を下げた。
声を掛けてくれたのは中年に差し掛かった女性だ。育ちが良いのか、お金に不自由してないのか、とても上品な雰囲気を漂わせている。長い髪も肌も良く手入れされており、体型も細く、賞賛すべき美しさだ。
奥様は、眉をひそめて小さな口を動かした。
「申し訳ありません。何処かでお会いしたことがあるように思うのですが、思い出せません」
自分は、恐縮して頭を下げた。
「申し遅れました。私は、権田事務所の谷元と申します」
慇懃な口調で名刺を差し出した。
「そうでしたか、権田先生の」
得心したような顔をしてくれた。その表情は、現状を十分に理解させた。
「後援会長の松居さんが、連絡を入れてくれている筈でしたが………」
「すみません。私、先程まで家を空けておりまして」
なるほど。初歩的な手違いだが、非礼は非礼。詫びておくべきだと感じた。
「連絡もなく急にお訪ねして、申し訳ありませんでした」
「いいえ。連絡が取れなかったのは、私も携帯電話を置いて出た所為でもあります。亭主は不在ですが、どうぞお上がり下さい」
そう言って、奥様は屋敷内へと案内してくれた。
玄関に一歩入ると溜息を吐きそうになった。正面に家紋入りの衝立障子が置かれ、右側には生け花。左側には大きな水槽が置かれ、中には不細工な金魚が泳いでいる。衝立障子も生け花も上品だが、こんな不細工な金魚が何故置かれているか疑問だ。この不細工さが高価だと言われればそう感じなくもない。
スリッパを出されて、頭を下げてお借りした。玄関から数歩程の応接室に案内されると海外の一級品らしきソファーに腰を下ろした。
すぐにコーヒーが出され、自分は恐縮するしかなかった。素晴らしく香しい匂いが濃茶色の液面から発せられている。
「今回は、どのような御用件でいらっしゃったのですか?」
「実は、相田さんの娘さんが行方不明になりまして、手島さんなら何らかの情報が得られるかも知れないと思い訪ねてきた次第です」
「相田さんですか?」
「はい」
奥さんは、少し考えるような素振りをしたが、『思い当たる事は何もありません』と答え、こう続けた。
「一応、主人にも聞いてみます」
奥さんが言い終わる前に、廊下から大きな音がした。階段から人が滑り落ちるような音だ。自分が反応するよりも、何倍も早く奥さんが立ち上がり、歩きだしていた。
「すみません。失礼します」
いかにも、来るなという口調だったが。階段から落ちた人が怪我をしていれば、自分も手を貸した方がいいのは明らかだ。
「手を貸します」
自分は、そう言って後に続いた。廊下に出て付いてゆくと、男の子が階段から転げ落ちていた。
「和成、大丈夫?」
口調の感じから、どうやら御息子のようだ。年齢は、十七歳くらいに見える。若いのに、どことなく活気が感じられない。
息子さんは、動くことなく滑り落ちた格好のままだ。彼の顔を見ると、呆けているように思えた。
「どこか痛むのかい?」
自分が問いかけるも、反応は無かった。見たところ出血も骨折も無さそうだ、打撲による内出血が気になり、自分は確認を兼ねて尋ねた。
「立ち上がれるかい?」
自分の言葉は宙に漂う様に場に流れたが、和成君には届いていないらしく反応はない。そして、わずかな間を空けて、笑みを作った。
「和成、立ってみなさい」
母親が優しい口調と共に手を引っ張り、立たせようとする。息子は立とうとするが、よろめいて壁に肩を凭れかかるように、再度座ってしまった。
「病院へ………」
どことなく不安が過り、助言をした。だが、母親は冷静だった
「その必要はありません。いつもの事なんです」
自分は、すぐに『いつものこと?』と聞き返したかったが、御子息をこのままの状態にして話をするという訳にもいかず、彼の脇を抱えて一階の仏間へ移動させ、日の当たる窓際へ座らせた。
「病院に連れて行った方が良いかと思うのですが」
小声で、奥さんに提案した。
それから、すぐに襖を隔てた隣の和室に移動し、向かい合うように畳に座ると奥さんは話し出した。
「病院には行ったんです。十ヶ月前から、急に学校の成績が落ちました。初めは、この原因は、遊びに夢中になってるのだとばかり思っていました。外出することなく、自室に引きこもってばかりでした。そして、学校の宿題はやらず、風呂も入らず、汚れた服も着替えようとしない。何もせず、ただボーっとすることが多くなり、塾でもノートに書き込むことすらなくなりました。几帳面で綺麗好きだった性格が、嘘のようでした。私は、具合でも悪いのかと思い、町の内科医院へ連れて行きましたが、熱もなく、特に異常は見られませんでしたが、明らかに息子は変でした」
「そして、総合病院へ連れて行かれたんですね」
「はい。すると、お医者様からうつ病だと診断されました」
「うつ?」
自分は、病名だけを聞き返した。
「はい。うつ病だそうです」
「私は、医師ではありません。医学に詳しくもありません。ですが、見たところ高校生ですよね。そんな若くして、鬱病になるものなのでしょうか?」
素朴な疑問を正直に口にした。
「御医者様の説明では、十代の少年にはよく見られることだそうです。多感で情緒不安定な時期ですので、医学的には珍しいことではないそうです」
「治療は投薬治療ですか?」
知ってる知識をそれとなく口にすると、母親は頷いた。
「はい。抗うつ剤を呑ませているんですが、半年以上経った今でも、症状は一向に良くならないんです。それどころか、食欲は減退するばかりで、どんどん痩せていって」
目を潤ませながら話す母親を見ると、これ以上は何も聞けなかった。それでも、母親は話し続ける。
「私が悪かったのでしょうか?教育に力を入れ過ぎて、肝心の息子自身を見ていなかったから………」
目に涙を溜め、自分を責めていた。
これでは、とても行方不明者の情報を得るどころではない。どんな家庭にも問題があるが、家族の健康は生活の根幹を揺るがず問題だ。気休めの言葉もなかった。
自分は、突然の訪問を詫びて、帰る旨を伝えた。和成君に挨拶をしようと、隣の仏間へ移動し、声をかけた。
「和成君、邪魔したね。落ちて、打ちつけた所は痛くないかい?」
そう尋ねたが、和成君は空虚に微笑むだけで、言葉すら発することはなかった。
「和成、お返事は?」
母親が言ったが、微笑みを浮かべるだけだった。
「いいんですよ。奥さん。御主人へよろしくお伝え下さい」
深々と頭を下げて、玄関へ向かって歩き出した。見送りに来てくれている奥さんに、息子さんの傍に付いてあげて下さい、と口にしたが玄関まではと見送ってくださった。
慇懃な態度で豪邸を後にする。やはり人は色々あると再確認した。自分が、資金の無さで苦労し、それ以上に人脈の無さで苦労している。金もコネもある人間は、別の事で苦労するのだろう。
車に乗り込み時間を確認した。まだ約束の時間まで余裕がある。ゆっくりと車を走らせると、先に軽い食事を取ろうと考えた。
駅前の行きつけの食堂に入り、天婦羅うどんを注文した。ここの料理は全体的に完成度が高い。料理に詳しくはないが、ここの品は当たり前の事を当たり前にする。それが、ありきたりの食材でも最上の味を生み出しているのだろう。下拵えを丁寧にやり、手間を惜しまず、作り置きなんてせず、出来たてを出す。それだけなのだが、それを当たり前のようにやるのは、予想以上に難しいことだ。長く続けているなら尚のことである。
揚げたての天婦羅が、汁の水分と反応して、パチパチと小刻みに音を立てている。その音が、更に食欲を刺激した。海老天の衣に汁を含ませ、ふやけた海老天を箸で優しく摘まみ上げるが、途中で衣が剥がれて大きな海老が姿を出した。
「谷元君。調子はどうだい。うまい具合にやれてるかい?」
店主のおやじさんが、笑顔で小皿を自分の前に置いてくれた。小皿には、肉と野菜の炒め物が入っていた。
「ありがとうございます」
そう言って、店主へ笑顔を向けた。おやじさんも笑って、自身の禿げあがった頭を軽く叩いた。
「秘書も大変だろ。自分より先生だからなぁ」
「どの仕事だって変わりませんよ。特に修業中は」
「そりゃそうだ」
おやじさんは、一本取られたとばかりに笑い声を上げた。
ここの店主とは中学生の頃から馴染みだった。口も堅く、商工会議所の役員も務めている。新鮮な情報は商人が一番持っている。これは断言してもいい。新鮮で役立つ情報を得ていなければ、商いなど出来ないのだ。食堂だって、ただ美味しい物を売るだけでは成り立たないのだ。もっとも、美味くないと話にならないが。
自分は例の行方不明の話をしようと、話を切り出そうとしたその時、携帯電話から受信音が鳴った。店主に片手をあげて頭を下げると、すぐに電話に出た。
おやじさんは、気を利かせて会話の聞き取れない場所へ移動してくれた。
電話の声は、これから向かう家の主、茂山義郎氏であった。用件は端的に伝えられた。予想外に早く帰れたんだが、時間を早められないだろうか、と。
「わかりました。これからすぐ向かいます。二十分程かかると思います」
そう伝えて、一言添えて電話を切った。まだ半分も食べていない天婦羅うどんをもったいないと思いつつも、残すしかないという選択が残念だった。せめてもう一口でもと、うどんを数本口に入れ、そして昆布と鰹の合わせ出汁から作られている汁を啜った。口のなかで旨味と魚の香りが広がり、深い味わいが沁み込むようだ。
「美味い!」
それだけで十分だろう。口に残る味の余韻が心から名残惜しいが、水を飲んでさっぱりさせた。
「おやじさん。お金、ここに置いておきます」
出前が入ったらしく、おやじさんは調理場で玉葱を薄く切っている。包丁を持つ手を止め、顔だけ向けて声を掛けてくれた。
「そうか。忙しいんだな。良いことだ」
「すみません。残してしまって………」
「ああ、いい、いい。また来なよ」
全てを察してくれたのか、頭を下げた。机の上に伏せられた伝票の上に、代金の六百円を置いて店を出た。
六
茂山宅に到着したのは、食堂を出て十八分後の事だった。この地区は茂山さんが顔役だ。茂山さんは地方銀行の三島銀行に勤め、地元の次長にまでなったが、出世競争は先が見えていると早期退職後、カラオケ店を始め、ある程度成功させていた。これも銀行で得た金融知識と近隣住民の信頼、何より茂山氏本人の商才に因るところが大きい。小さな町だからこそ莫大な利益は出ないが、慎ましやかに暮らしていくには十分なのだろう。ノルマや無能な上司が居ない分、気楽で心労が無いから健康状態が良いと聞いている。
茂山宅は台王地区の端にあり、古びた二階建ての民家である。自分は車を止めて、家の前に流れている小川に掛かる小さな木製の橋を渡り、玄関前に立った。
この家には、呼び鈴など無い。その為、玄関先から呼び掛けた。
「茂山さん」
「おお、入ってくれ」
その言葉に、自分は遠慮なく玄関を開けて入って行った。古びた廊下は、歩く度にギシギシと音を立てる。二条城や知恩院の床は、外部侵入者や暗殺者の侵入を知らせる為に鴬張りという構造で作られているらしいが、この家は老朽化以外のなにものでもないだろう。
この家には数回来た事がある。毎回、床の間のある座敷へ通された。くだらない事でも数をこなせば習慣になる。だから、今回もその座敷へ向かっている。
やはり、茂山さんは、その部屋にいた。卓などなく、六畳の室内に二枚の座布団が置かれているだけだ。その一枚に、胡坐をかいて座っている。
「すまないね」
「こちらこそ、お時間を作って戴き、感謝しております」
置かれた座布団の上に正座をして、四十五度の角度に頭を下げた。茂山さんは右手を横に振りながら、構わないさ、と砕けた口調で言ってくれた。そして、こう付け足した。
「さ、本題に入ろうか。出来れば、今日も娘の元に行ってやりたいんだ」
「娘さんに何かあったんでしょうか?」
「体調が悪くてね………」
「風邪とかですか?」
茂山さんは困ったような顔を向け、ゆっくりと言った。
「秘密という事でもないんだが、公言は控えてくれるか」
「勿論です」
「娘が急に、疲れたという言葉を口にし始めた。大学生の若い女が、多用する言葉でないな、とよく言っていたんだが、勉学とサークル活動の疲れだとばかり思ってた。休めばすぐに良くなると考えていた。そして、睡眠は取れているのか、と聞くと不眠の症状があると言っていたから寝れてなかったのだろう。見るに見かねて、妻に病院へ連れて行かせた。そこで、若年性アルツハイマー病と診断されたよ」
茂山さんの口調には、哀しみが込められていた。
その経緯の説明に、自分は疑問が生じた。
「つかぬ事をお伺いいたしますが、大学生の娘さんは、確か十九歳だったと」
「そうだ。今度、二十歳になる」
「十九歳で、アルツハイマー病なのですか?」
十九歳であれば、脳が衰えるにはあまりに早過ぎる。医師の誤診でないかと思い口にした言葉だった。
「アルツハイマー病の診断の際に、一般的に使用される検査ではっきりと結果が出た。初期症状だと言うが、今では娘の記憶能力の低下は目を背けたくなるほどだった。今でも投薬治療を続けているが、あの勝ち気だが優しく聡明な子が………入院生活をしているのは、あまりに残酷だ」
「これから、娘さんの元へ向かわれるのですか?」
「ああ。父親として、長く接してやりたい」
そう言われ、自分の用件を単刀直入に切り出した。
「相田さんの娘さん。明乃さんの件でお伺い致しました」
茂山さんは首を傾げた。
「はて、相田さん、相田さん。あ、アノ御仁か」
「何か思い当たることでもありますか?」
自分が静かに尋ねた。
「いや、たいしたことではないんだ。あの方は、他者との接触を避ける人という認識だったのでな」
銀行で多くの人を見てきて、多くの世話役もしてきた人間が言うと重みがある。
「茂山さんがおっしゃるなら相当なのでしょうね」
茂山さんは太い腕を組み、思いだすように言った。
「で、どうしたのかな?」
「過日、娘さんの行方が判らなくなったと相談を受けまして」
「警察は?」
「現在、松谷警察署の生活安全課が動いてくれています。ですが、動員人数など限られていますので、関わった以上は情報だけでも集めようかと」
「そうか、私も親だ。子が行方知れずになれば、不安に押し潰される思いだろうな」
我が身に置き換え、考えたからこその言葉だろう。自分は、額を畳に着けそうになるほど深く下げ、お礼を言った。
「では、よろしくお願いします」
再び、頭を下げ、時間を割いてくれたことに礼を言って、茂山宅を後にした。
事務所に到着したのは、日が沈みかけた頃だった。
事務所へ入ると、二條君を始め事務の田野さんも居て仕事をしていた。二條君と目が合ったが、無視された。先輩であり、上司である自分に対して、その態度はどうかと思うが、仕事さえやってくれれば自分に対してどういう態度を取ろうが構わない。最低でも有権者にさえ、品行方正な振る舞いをしてくれれば良かった。
「お帰りなさい。早かったですね」
二條君の代わりに、事務の田野さんが親しみやすい笑顔を作り、言ってくれた。
「ご苦労様です。何もありませんでしたか?」
不在の時に、何か起きれば即座に対応するのも責任者の役目である。事務の田野さんは、自分が帰って来たので、もう仕事はないとばかりに帰り仕度をしている。
「二條君。君はどうだい?」
声を掛けたが、返事をすることなく立ち上がり、こちらへ向かって来た。
「たいしたことではありませんが、知っておいて頂きたい事があります」
「何だい?」
「玉利地区の小坂さんの息子さん。具合が悪く、入院しているそうです」
小坂さんは、セメント・コンクリートに関する会社の重役だ。この会社との接点はない。あるとしても、どこかの会場で名刺交換をする程度である。詳しくは知らないが、知事や県議などの地方行政との結び付きが強いようだ。自分も、一度、会場で小坂さんを見かけたことを思い出した。外見的には、狡猾そうな印象を受けた。良くも悪くも政治的なのだろう。あの風貌からは、仕事や経済などを思い浮かぶが、家庭という言葉はとても連想できない。改めて、息子がいたんだなと思った。
田野さんが、こちらに視線を向けて頭を下げた。会話を遮らないようにという配慮だろう。自分は田野さんの後姿を見送った。
「で、病名はなんだい?」
「アルコール依存症と統合失調症の精神疾患だそうです」
自分は、腕を組んで二條君に問いかけた。
「小坂さんの息子さんって、まだ若かったと思うけど、いくつだい?」
「二十四歳です」
表情こそ変えていない二條君だが、目には不思議さが籠っている。その事に自分は気付いた。
「で、何がそんなに腑に落ちないんだ?」
二條君は困惑を表情に浮かべ、その理由を言った。
「私、小坂さんの息子さんとお会いしたことがあるんです。七ヶ月前の知事の政治資金パーティーで。その時、息子さんはお酒を飲んでいらっしゃいませんでした。アルコール依存症になるほどなら、飲んでないとおかしくないですか?」
「その時だけ、酒を口にしてないからと言ってアルコール依存症ではないとは言い切れないだろう」
「もう一点あります。その会場で、ある県議がビールを勧めたんです。それも断って、その議員さんが、こう溢していたんです。『出世するなら、酒くらい飲めるようにならなきゃだめだぞ』と」
「それが理由だと?」
改めて聞き返したが、二條君は肯定する返事をした。
自分は後頭部を掻いて、両手で顔を擦った。確かに疑問は残るが、小坂家とこちらは接点が無い。選挙で票は入れてくれているのだろうが、関係がない以上は、介入はおろか、見舞いすら出来ないのだ。何より、小坂家よりも他の後援者や選挙区民全体の利益に動くべきだ。
「わかった。記憶しておくよ」
それから二條君は、雑務の報告を終えると、帰りますと言い、そそくさと鞄を手にした。
「二條君」
呼び止めると、二條君は美しくも怜悧な顔を向けた。
「何でしょう?」
「明日は、休みだからよろしく頼む。何かあったら遠慮なく連絡してくれ」
「わかっています」
二條君は、冷たく答えた。
まったく、こいつは………、と思ったが、既に仕事でないと考えれば仕方ないのだろう。
「お疲れさま」
そう言って、別れた。
明日は、初音と久々に会う日だ。早く帰って寝た方がいいだろう。ここ最近、ろくに会えていないんだ。関係の修復と改善に向けて、睡眠不足でぐだぐだの会話になればまた喧嘩になりかねない。そろそろ初音の為にも結論を出さないといけない。彼女も二十八歳なのだ。自分のような人間と結婚するなら覚悟が必要だ。それを確認したかった。
彼女が政治家の妻になる気がないなら早いうちに別れた方がいい。三十歳になってからでは遅い。いや、少し違う。早いに越した事はないだろう。
自分は、事務所の片付けを始め、窓から暗くなった街を見た。