一章 挨拶まわり
一
光が降り注いでいる。熱をもった強い光。灰色のコンクリートに照り返され、肌に強く突き刺さる。頬や首筋が、その熱でチリチリと焼けるように感じる。そこにねっとりとした汗がまとわりつき、不快感が増している。
九月下旬だというのに、まだ陽の光は弱まらない。湿気も強く、体にまとわりついてくる。
ワイシャツの背は、汗にびっしょりと濡れている。ネクタイを緩めようと手を首へ伸ばしたが、自分は頭を下げる側だと認識を新たにしてネクタイを整えた。近年、環境省が夏季にはクールビズというノーネクタイ・ノージャケットを奨励しているが、自分のような頭を下げる立場の人間向きではない。いくらデザイン的に優れていても、相手に与える印象は極力良くしたい。カジュアルに見える服装は好ましくないのだ。特に、この松谷市は、高齢者と子供で占められている。外部との交流が少ない為、人々の感性は保守的だ。
特に老人は、その傾向が強い。洒落た若さを主張するより、真面目さと堅実さこそが概ね好意的に受け取って頂けるのだ。
この市の総人口は、現在三万人を割っている。そのうち、六十歳以上の人口が一万一千人を超えているのだ。三割を超え五割に迫っている。それも、怖しい早さでである。
四方で蝉の鳴く音がする。それが尚暑さを感じさせた。
ハンカチで汗を拭うが、たいして意味はない。
あまりの暑さに、背筋が曲がりそうになるのを気力で伸ばした。
「谷元さん」
名前を呼ぶ年配の声。
自分は笑顔で振り向いた。
「谷元さん。久しぶりだねぇ」
老いた女性が腰の後ろで手をまわし山道から現れた。
「吉嶋さん。お久しぶりです」
深々と頭を下げ、再び視線を合わせた。笑顔を向ける吉嶋さんに、自分も微笑んだ。
「お体の具合は如何ですか?」
「まぁ、八十も過ぎれば、アチコチ悪いわねぇ。それでも、こうやって山に入れるからねえ」
吉嶋さんは、腰を二度叩いた。
「まだ、お若いということですね」
笑顔で言った。
「なぁにを、もう数年で迎えが来るでね。そんなことより、わしら年寄りのことよりも、孫が真面目に仕事してるから。それが、嬉しゅうてねぇ」
自分は聞く姿勢をとり、笑顔を向ける。すると、吉嶋さんは気持ち良く孫の話を始めた。
吉嶋トキさん。八十四歳。息子さんは、小暮市で焼肉店を二店舗営んでいる。孫の正登は、二十代頃はひどく遊び呆けていたらしいが、三十過ぎて親の家業を継ぎ、三十四歳で両親の焼肉店を助けるために精肉店を構えた。松谷市に店を構えたことで、正登さんは更に商売っ気が出てきたらしく、熱心に商売をしているそうだ。
店を構えて二年を過ぎたが、今では釣りだけが趣味だという。トキさんが、これであと嫁さえ来てくれれば、と口にした。
トキさんは、たくさん喋って満足そうな顔をすると、今度は自分を気遣ってくれる。
「谷元さんも早う結婚しないと」
「いや~。私は、まだまだ甲斐性がありませんから」
頭を掻いて誤魔化すと、トキさんはこう言ってくれた。
「あんただから、権田先生を応援するんだよ。じゃなきゃ、わたしらに政治なんて関係ないからね」
自分は余計な事は言わなかった。ただ頭を下げて御礼だけを口にした。
トキさんは、皺が目立つが太くしっかりした手で、腕を叩いて自宅へ向かって行った。
小さな後ろ姿が、小さくなるまで見送った。そして、振り返り世品港に向かって歩き出した。
松谷市西部に位置する世品町は、港町だが山が多く平地は少ない。経済的にも沈み方は激しく、過疎化は他よりも進んでいた。
静かで寂れた町。川に沿うように歩くと潮の匂いがした。やさしい匂い。瀬戸内の柔らかい潮風を体に受けた。
そして、少しだけ元気になる。足取りを速めると、小さな船着場を歩いていた。漁船が並び、わずかな波に船体を揺らせている。顔見知りの船長が船を洗っていた。
「お久しぶりです。井伊さん」
「おお!谷元君。久しいな」
自分は笑顔を向けながら、ご機嫌伺いに来ることが出来なかったことをお詫びした。船長は笑いながら許してくれた。
「どうなんだい?」
「何がですか?」
「なんですかって、今度の市議会選挙には出られそうかい?」
自分は苦笑いをすると、まだ勉強中なので、としか答えられなかった。
「ま、権田代議士の元なら色々学べるだろうから、頑張りなよ」
自分は頭を下げた。それから、数分間の雑談の後、井伊船長と別れた。携帯電話を開き、時刻を確認した。丁度良い具合に時間が過ぎていた。これなら、待ち合わせ時刻の十分前に到着する。これから会うのは、川田由次、この地区の有力者だ。かなりの土地を持ち、複数の会社を経営している。先祖から譲り受けた土地を基盤に商売を始めた。光栄土建を作り、その会社を母体に堅実な経営を心掛け、今では電気配線会社、牡蠣養殖、高級老人ホームなど、多岐に亘っていて、この地区に絶大な影響力を示している。
そんな川田氏の有名な話がある。
海洋土木では先駆者である大手ゼネコンの七海建設が、この地区の湾岸整備を請け負ったが、孫請けの企業が廃材の一部を川田社長の所有する土地へ遺棄した。社長は、その事に腹を立て、土地の使用許可を与えなかった。その為、七海建設の湾岸整備は遅々として進まなくなった。それは、現場付近に資材や各重機の置き場所を借りられず、毎日遠方まで置きに行かなければならなかった。
なかでも悩ませたのが、光栄土建の私有道路を通れなかったことだ。この地区は一次産業を主とする寂れた町だ。市の道路整備は生活道路のみで、大型車は通りにくい。そこで、光栄建設が私有地に道路を敷いた。その道路を使わせて貰えなかったために、狭い道の迂回ルートで運ばねばならなかった。
この事態解決を県議会議員の先生に依頼されたが、事態解決には至らず、うちに持ち込まれた。その時に、何度も足を運び、会話をし、誠意を尽くして接することで事態を解決できた。それ以前から縁はあったが、この時から可愛がられるようになった。
政治家を志したのは、大学生の頃だった。久々に実家に帰ると、愕然とする光景が待っていた。平成大不況の頃とはいえ、町が著しく衰退していたのだ。賑やかだった駅前は、シャッター街と化し、郊外の商業地からも中堅企業すら撤退し、完全に寂れ果てていた。不況とは言え、他の地区はここまでひどくなかった。そして、自分はその原因を調べ始めた。当時、市の行政はある一族に牛耳られ、市長の乱脈行政で血税を垂れ流していた。松谷工業流通団地の造成の失敗などは、調べれば調べるほど素人でもしない失敗であった。
危機感を覚えた自分は、地方行政を真剣に学び始めた。コネも金もない自分は、一年のフリーター歴と半年の無職歴を経て、権田代議士の私設秘書として雇われた。
勤め始めたのは五年前。権田聖衆議院議員の事務所は、駅から徒歩十分の場所にある。初日の事はよく覚えている。学生時代に買ったスーツを着て、多少緊張して事務所に入った。そして、挨拶をすませて事務所内と選挙区の説明を受けると、この日は帰宅した。
帰宅する前に地図帳を買い、選挙区を拡大した地図を作った。それと、後援会組織の幹部と町内会ごとに数名の名を列挙し、徹底的に覚え込んだ。翌日から事務所の先輩に付き添い仕事を覚える。人名は普段から交流を持つことで顔と名前を一致させるしかない。
事務所の秘書は、永田町の秘書とは役割がまったく違う。選挙の際には前線部隊であり、票の取りまとめなどの後方支援も課せられる。
とにかく、毎日歩いた。後援者の家、支持者の家、顔見知り程度の家、知らない家、対立候補の支援者の家まで徹底して歩いた。生まれ育った地区をうんざりするほどの時間をかけて歩いた。
それでも時間は足りない。受け持っている世帯数は一万を超えている。秘書になりもっともすることは、政治を語ることでも政策を訴えるでもなく、お辞儀をすることだ。頭は常に相手よりも低く、相手の背が低ければさらに低く、それでも低ければ膝を折ってでも低くせねばならない。
お辞儀は基本中の基本。どんな職業でもそうだが、基本ができない奴は、どんな仕事をやらしても役に立たない。
営業マンの経験は一度もないが、営業マンの辛さは身に沁みてわかる。営業マンは商品を売るが、秘書は自分を売り、最終的に先生を評価していただく。そして、話せるようになると食事をし、会合や宴席に呼ばれれば酒を飲み、当然そこでも頭も下げる。
足を使うのは苦じゃない。頭も下げるのも苦ではない。だが、酒を飲むとなれば話は変わる。自分は決して酒が嫌いな方ではない。いや酒は好きなほうだ。だが、ビールだと一ダース。日本酒であれば一升が限界だ。だが、百人近い支援者の会合で一人が一杯の返杯をすれば、それは殺されかねない分量だ。それでも、笑顔で注がれる酒を断ることなどできるわけもない。その量たるや、歌舞伎町のホストが酔い潰れる量の比ではないのだ。
年末年始の忘年会と新年会は地獄の二ヶ月だ。こうして、今年は数千人と会った。話をした人間は五百人を優に超える。
堤防が延長されたみたいにキッチリと舗装された道を歩き、夏の陽ざしに照らされている海を眺める。大型船の行き交う光景と、遠方の海水浴場で泳いでいる姿が見えた。もう何年海に行ってないだろう。ふとそんな事を考えた。
山へ向かう道に入ると大きなプレハブのような建物が見えてきた。ここが光栄建設の川田さんの事務所だ。事務所の空き地に、高価な重機やトラックがいくつも並んでいる。それに似つかわしくない程に質素な事務所だった。
一代で財を成すには、節約と投資の意味を知っていないといけないのだろう。
インターホンはない。アルミ製のドアを叩く前に声を張った。
「ごめんください。川田社長、権田事務所の谷元です」
窓から中を覗くと誰もいなかった。
「ごめんください」
繰り返し、声を張った。奥から、秘書の方が現れた。六十代半ばで細身の女性だ。
「お待たせ致しました」
こまめに頭を下げる秘書の方へ、それ以上に深く頭を下げる。
「社長さまは、いらっしゃいますでしょうか?」
同時に、事務所内を見渡した。内装も置かれている備品も豪華ではない。だが、機能的な配置がされ、カレンダーには仕事の予定がびっしりと書き込まれている。なによりも掃除が行き届いていて、古い事務所だが雑な感じすら受けない。
片隅の応接用のソファーに座らされると、番茶が出てきた。
「ありがとうございます」
ただ頭を下げた。女性は、間を持たせるためにテレビの電源を入れた。地元のテレビ局のワイドショーニュースが映し出されている。全国放送の華やかさには遠く及ばないが、地域色と個性を打ち出している。
「最近、物騒になりましたよね」
そう声を掛けられた。テレビで報道されていたのは地域の祭りだったはずだが、どこから話が繋がっているのかと考えるが、無意味な行為だとわかる。
「知り合いの方から聞いたんですが、霜野町の女性が行方不明なんですって」
なるほど、ここに繋がるのかとわかった。推察するに、知人とこの話をしていたのだろう。テレビでは報道されていないが、この地域では話題に上っているのだろう。
体の向きを変え、正面を向くと、雑談にしては重たい話だが、二人しかいない空間で避けるわけにもいかなかった。
「それで、どのような事件なのですか?」
「いやいや、谷元君。待たせたな」
話を進めようとした時、川田社長が奥から現れた。齢七十になる社長は、身長は低く、細身の体だ。顔は浅黒く、深い皺が刻まれている。自身が率先して、額に汗して生きてきた証だと判る。自分は頭を下げて挨拶をすると、話は止むをえず中断した。女性も話を止め、社長のお茶を入れ始めた。
「社長。お忙しい中、貴重なお時間を割いて頂き、ありがとうございます」
改めて丁寧に感謝を口にした。
「なに、たいしたことじゃない」
社長は笑顔で言ってくれて、本題に入って行った。
老境に入った御仁だが、本当に有能な方で陰りは見えない。すごく話が早く、的を射ている。
予定していた時間よりも、かなり時間を節約出来そうだ。
二
日が傾いていた。事務所前の駐車場に車を停めると、知らない車が来客用の駐車スペースに止まっていた。
(陳情だろうか)
服装を整えて、事務所の扉を開けた。
「谷元さん。遅かったですね」
出迎えてくれたのは、後輩の二條加奈であった。彼女の年齢は二十五歳。旧家のお嬢様で、都内の女子大を卒業し、大手広告代理店に勤務するも我の強さで退社。今度は、親のコネで、去年の暮にここへの勤務が決まった。親の思惑としては、結婚までの腰掛らしい。お嬢様大学を出して、代議士の秘書の経験があれば、箔が付くと考えたのだろう。そんな親の考えをよそに、娘は好き勝手に振舞っている。
そんなじゃじゃ馬を宛がわれたのが自分だった。入った当初は強烈だった。まるで社会をわかっていない。学生時代の優秀さが誇りになっているのだろう。頭は下げない、無意味な反論を口にする。日に、何度も頭を抱える事態が起こったが、だからと言って、クビにすることもできない。何と言っても、父親は、旧家で経営者だ。四千票は持っているのだ。だからこそ、自分も根気よく教えるしかなかった。お嬢様も不本意だったろうが、付き合わされる自分の方が不本意であり悲惨だった。本音を言えば、父親に溺愛されているのだから、親の会社で働けば良いものを、父親は社会経験を積ませたいらしい。他人の釜の飯を食わないと一人前になんてならないが持論のおっさんなのだ。
ま、ここの事務所も現在は人材不足だ。先輩秘書は次々と諸事情で辞めていき、今では自分がこの事務所を切り盛りしている。したがって、ここは事務員一人に秘書二人の小支部だ。だからと言って、選挙戦でココの固定票を切り崩されれば落選する。ここは先生の一番の票田なのだ。その為にも、使えないモノも、使えるようにしなければ自分の仕事が増えるだけで、人材の枯渇は落選をも意味する。だからこそ、自分はちゃんと仕事を教えた。その甲斐があって、今では自分が不在の間くらいは任せられるようになった。
そんな彼女が作り笑顔で迎えてくれた。外見だけを評するならば、典型的な美人だ。華と品を兼ね備えている。メイクはナチュラルで、服装には品があり、肩まで伸ばした髪の手入れも行き届いている。外見だけなら申し分ない女性だ。
二條くんが、整った顔を驚くほど近づけ囁いた。
「来客です。陳情だと思いますが、責任者にお会いするまで内容は話せないと仰っています」
彼女から柔らかな香水の香りが僅かに匂った。
男としてはドキッとしたが先輩として振舞う。
「二條君、香水はダメだと言っただろう。香りは好き嫌いが分かれるんだ。いいね」
二條は、小さくため息を吐くと頷いた。
「ご苦労さま、私が対応する」
お茶のお代わりを用意するように伝えると、応接用空間へ向かった。
来客の姿が目に入った。男女一人、夫婦だろうか、年齢は四、五十代というところだろう。目に生気は無く、伏し目がちに疲れ切った表情で座っていた。
「お待たせ致しました。この事務所の谷元でございます」
頭を深く下げると、夫婦も急ぎ立ち上がり、頭を下げた。
「あの権田先生は?」
「権田先生は、公務中なのでこちらには来ることができません。代わりに、私が要件をお伺いいたします」
名刺を差し出した。
基本的な事だが、初対面で先生に合わせることはできない。話はまず秘書が伺うことになっている。
「これは。では、私も」
男性が胸ポケットを探り、名刺を出した。交換すると名刺には、隣の六山市の工場名の下に相田光治と書かれていた。
「相田さん、どうぞお座りください」
腰を下ろすと、さっそく本題に入った。
「二條の方からお聞きしましたが、責任者でなければ話せないと云うことで、私が代わりにご用件をお聞きいたします」
なるべくしっかりとした印象を与えたと思うが、相手の心まではわからない。
来客は、お互いに視線を合わせると少し迷う様子を見せが、男性が向き直り手を組んで話し始めた。
「実は、娘が帰ってこないんです」
やはり夫婦だった。予想が当たったが、言葉の意図が理解できない。
「は?」
言葉にはしなかったが、心で聞き返す。一瞬、何を言っているのか考えた。質問を矢継ぎ早にしたかったが、話を最後まで聞くことにした。
「どういうことでしょうか?」
後ろに控えていた二條君が訊いた。自分は事務所の天井を仰ぎそうになった。親子関係に口を挿むことは、恋愛に口出しすることと同じくらい危険だ。ことは理屈じゃない、感情が支配する。にもかかわらず、感情の地雷域に彼女は無防備にも踏み込んだのだ。対処としては最悪だ。
奥さんが、もう一度言った。
「娘の明乃が、一週間前から帰ってないんです」
「家出ででしょうか?」
極力棘のないように聞いた。本当は、警察には行かれましたか、と訊きそうになった。だが、それではあまりに冷たい対応に感じられるのでやめた。それに、会話は自分がするべきだった。二條君させるわけにはあまりに危険だった。
「いいえ。家出の理由は思いつきません」
「警察には届出を出されたのですか?」
「それが………」
夫婦は口籠った。
「言いにくいこともあるでしょうが、秘密は守ります。何でも言ってください」
二條が身を乗り出し、再び口を挟んだ。
自分は、強い視線で『黙ってろ』と伝えると、彼女は隣にすわると背筋を伸ばした。
「届出を出したのですが、受理されませんでした」
答えたのは父親だったが、ここで初めてこの場に来た理由がわかった。
「警察が受理されないということは、娘さんは成人されているのですか?」
「はい。娘は二十一歳になりました」
なるほど警察としては、成人女性の上に事件性が薄いため、なるべく大ごとにはしたくないのだろう。ここまで事情がわかれば、この夫婦の考えている事は容易に想像がついた。要は、警察に捜索願を受理させればいいのだろう。
「大体、御用件はわかりました。詳しく事情を説明していただきますが、よろしいでしょうか?」
旦那さんが頷き、できるだけ詳細に話し始めた。
娘さんの名前は、明乃。隣の六山市でアパレル関係の販売をしている。一週間前の火曜の夜、家に帰宅するはずが、翌日の昼間になっても娘は帰ってこなかった。
いなくなったタイミングも彼女の状況も悪かった。まず、水曜日が彼女の休日であったために家族以外は気に留めなかった。彼女には特定の男性がいたので、休日に彼氏とどこかへ出かけたのだろうと思われたのだ。だが、彼氏に連絡を取るとそんな約束はしておらず、ひどく無愛想な対応をされたらしい。理由を聞き出すと、二日前に彼女の浮気が発覚して不仲だったらしい。浮気と言っても、別の男と食事へ行っただけのことらしいが、両親に行方を聞かれた時に、彼氏はその男と行ったんだろうと答えた。
両親も娘の恋愛事情をこれ以上暴きたくなく、休日が終わるまで帰りを待つことにした。そして休日も終わり、出勤日になっても娘さんは帰ってこなかった。
事態の深刻さを認識したのは母親だった。
母親の主張によればだが、
「明乃は、嘘をついて外出した事はあるが、無断外泊をすることはないんです」
と力説してくれた。
そんな両親にも、色々と思い、感じることもあるが、本題はソコではないので、触れることは避けた。
夫婦は娘と連絡が取れなくなり、三日間は様子見を兼ねて知人や友人の伝を辿っていくだけだったが、五日目にして全友人を当たったが、行方が掴めないと云う事態になり、警察に届ける決心がついたらしい。
夫婦揃って警察へ行ったが、警察は成人していることもあり捜索願を受理してくれなかった。二度、警察署に足を運んでもつれない態度だったという。事実上の門前払いだ。
「なんてことを」
二條君が呆れた口調で感想を口にした。
夫婦は、ほぼ同時に頭を下げ言った。
「お願いします。警察を動かして下さい」
そして、旦那さんの手元から茶封筒が差し出され、机の上に置かれた。そして、奥さんが声を絞り呟いた。
「政治家へお願いする場合には、こうするべきだと聞いております。受理されれば、改めて御礼をさせて頂きますので………」
吹き出しそうになったが、何とか堪えることができた。世間一般のイメージなのか、ドラマの影響なのか、政治家を動かすには金銭が必要という、間違った、いや、偏った先入観がある。これも政治家の汚職イメージのなせることなのだろう。
自分は、置かれた封筒を非礼にならない様にやさしく押し返した。
「このような物は必要ありませんよ。お収め下さい。この件は、警察の怠慢なので、治安は政治の領分でもあります」
「では、お願いを聞いて下さるわけですね」
夫婦の顔が明るくなった。
「当然です。先生も地域住民の方の生活を考えていますよ。ちなみに言っておきますが、捜索願を受理させる事は出来ますが、我々には指揮権もなく、捜査にも介入できません」
「十分です。捜索願が受理させれるだけでもありがたいです。本当に、ありがとうございます」
旦那さんが言うと、奥さんは既に立ち上がろうとしていた。愚問だが、一応尋ねることにした。
「捜索願の届け出に必要なモノはありますか?」
「ええ、大丈夫です」
夫婦の目には強さが宿っていた。
「では、行きましょう」
二條君が、淑やかに言った。一同に立ち上がり、二台の車に向かった。
三
空に赤みが射していた。フロントウィンドウから入ってくる光が眩しい。右手でサンバイザーを下ろし、光を遮った。
助手席には二條君が不機嫌そうに脚を組んで座っている。彼女が不機嫌になる出来事が、この短時間にあったとは思えない。
「いったい何が気に入らないんだ?」
彼女は、頬杖をついて外を眺めている。こちらに顔を向けることなく、ガラスに向かって呟いた。
「警察の対応、ヒドイですね」
「そうだね」
「でも、あの親も親ですよ。話を聞く限りでは、娘さんは真面目とは言えないでしょう」
その口ぶりは呆れていた。自分は、少しだが両親の援護をする。代議士の秘書は、二人とも非常識だとは自身で認めたくなかったからでもある。
「いいかい。家庭環境や親子関係は、各家庭それぞれだよ。それに、君だって大学生の頃、彼氏がいただろう?嘘を吐いて外泊くらいしただろうし、親に言えないこともあるだろう。自分だって、大学の飲み会で未成年なのに先輩から無理やり酒を飲まされたこともある。君だってあるだろう」
「それは、ありますけど………」
「羽目を外したい時期ってのもあるだろう。あの時期は、何を言っても無駄だよ。痛い思いをしないとわからないんだよ。少しの痛みで解るのか、瀕死にならないと解らないのか、それには個人差がある。少なくとも、あの両親は娘さんを探している。愛情がある証拠だよ。探さない親より遥かにね」
二條君は、この言葉に対して反応を示さなかった。
赤信号に車が止められた。指先でハンドルを軽く叩く。エンジン音だけが車内に響いている。一、二秒の沈黙の後、彼女が口を開いた。
「良心的ですね。それとも、模範的な振る舞いですか?」
「素直な意見だ。模範的な行動なんて必要とする場面じゃないだろ」
信号が青に変わり、アクセルをそっと踏んだ。
「お金を返したのも、素直な行為ですか?」
不機嫌な理由はアレだったのか。やっと判った。だが、同時に疑問も浮かんだ。
「お金を返したのが、なんで気に入らないんだ?」
二條君は、フッと呆れたように息を吐くと説明を始めた。
「政治活動をするにはお金が必要なんですよ」
「知ってるよ。正確に言うなら、あらゆる活動に資金は必要だ。政治活動でも、慈善活動でもね」
「そんな一般論を言っているわけではないんです。政界で存在感を示すには集金能力が必要条件です。五年もやっててわからないんですか?」
あたかも常識であると云わんばかりの表情で言った。その発言と態度に、笑いがこぼれた。
「カネと言っても、あの封筒にいくら入っているって言うんだい。厚さからみて、せいぜい十万円。そのカネを受け取れば、あまりに大きなモノを失うよ」
「何です?」
「あの両親の政治家への想い。権田先生の名声と支持者たちの信頼。何より、子を思う親の気持ちを金で引き受けたとなれば、議員だの政治信条だのの前に人間性を疑われる。そうなれば、どんな手段を取ろうとも繕えないからね」
さらなる反論を待ったが、二條君の口は動かなかった。別に、やり込めたかった訳じゃない。できるだけ優しい口調で伝えたかっただけだ。それでも、彼女の表情は、車に乗り込んだ時よりも不機嫌そうだった。
緩やかなカーブを曲がると駅が見えてきた。小さな駅だ。列車のダイヤは一時間に一本もない。その側に立派な警察署が建っていた。以前は、本川沿いにあったが、こちらに移ってきた。
駅にはまったく人気がなく、野良猫が足の肉球を開き、毛の手入れをしている。
松谷警察署の前に車を着ける。夫婦の車も後ろに止まった。急いで降りると、夫婦は駆け足で向かい署の玄関を押し開けた。
「さ、早く。二階です」
父親が急かした。後について行くと、両親は階段を早足で登り、二階へ向かった。
天井から釣り下げられたプレートには生活安全課と記されていた。
生活安全課の部屋の扉は開放され、夫婦が会釈をして一歩入った。自分たちも続いて入室した。生活安全課の室内には、感じの悪い男がガニ股で椅子に座っていた。
自分は、警察関係者には詳しい方だが見覚えはない。
「すみません」
腰かけている男は、チラッとこっちを見て立ちあがった。年齢は三十代後半、制服は着ていないが白のワイシャツにネクタイで無難な格好だが、右手で後頭部を掻きながら口を開いた。
「相田さん、また来られたんですか?人数が増えたって変わりませんよ」
ひどい物言いだったが、両親は話を先に進めた。
「娘が、まだ帰ってこないんです。既に、一週間を過ぎました。何かのトラブルに巻き込まれているのかも知れません」
奥さんの切実な言葉に旦那さんは頷き同意した。それでも、警察の対応は冷たかった。
「奥さん。前にも説明しましたが、警察は事件にならないと動けません、と何度も申し上げているじゃないですか」
旦那さんが話に割って入った。
「事件にしてくれといっているんじゃありません。娘を探してほしいだけです。その為に、捜索願の届出に来ました」
生活安全課の職員は、露骨に面倒な顔を向けた。両親は、娘の写真と娘の情報を書き記した書類、印鑑や父親の運転免許証などを出した。
「わかりました」
男が言うと、自分の目を気にしたのか、不承不承だが捜索願だけは受け取るようだ。
これで用件は済んだかと思ったが、母親が声を荒げた。
「お願いします。娘を探して下さい。何か起こってからでは遅いんです」
母親として当然の発言だった。同じように、父親も頭を下げた。
その態度に、署員は大きくため息を吐いた。
「あのねぇ、あんたの娘は成人してるんですよ。以前、事情を聴いたところでは、休日前に行方が分からなくなって、彼氏以外にも男性がいるようですしねぇ。成人女性が自らの意志で帰る意思がないとしか解釈できないじゃないですか」
「それでも、娘の性格を考えると」
「お母さん。警察が捜査をするには事件性が必要なんです。不特定多数の男性相手に、売春婦みたいなことをするのは止めるように言うんですな。最近、こんな田舎にも薬物が広がってますからな。売春も薬物も犯罪なんでよ」
あまりに酷い言い草に、自分が前に出ようとした。だが、父親が自分を制した。
「では、売春でも薬でも何でもいいです。捜査をして娘を探して下さい」
「ちょっと、旦那さん」
警官のあまりに馬鹿にした言葉に、他人と云えども二條君は耐えきれなかったのか前へ出ようとした。父親の台詞に驚いたのだろうが、自分が彼女の腕を強く握って制した。
二條君が口を挿むとややこしい事になりかねない。それを避けるためにも、自分が代わりに前へ出た。
「あんたは?」
「すみません。付き添いを頼まれた者です」
「で、何ですかな?」
厄介者を見るような目つきで自分を見る。ま、現に厄介者であることには変わりない。
「私は、谷元と申します。こちらの両人に付き添いとして頼まれまして………」
身分は隠した。警察に対して、むやみやたらに代議士という名をチラつかせるのは好まない。先ずは市民として、公的機関を要請するべきだと思っている。公職に就く者は、もっと市民に対し真摯に接するべきだと常々思っているからだ。
「………警察がお忙しいのは存じています。ですが、両親の必死の捜索にもかかわらず、明乃さんの行方も、失踪理由も、わずかな足取りすら掴めません」
「失踪するとは、そういうことですよ」
「それはそうですが、事件の可能性も否定できません。ですから、警察にその日の足取りだけでも調べていただきたいのです」
「ですから、警察は事件でなければ動けないと言っているでしょう。可能性では駄目なんですよ。ご理解いただけますでしょうか?まったく未成年であればともかく、娘さんは成人なんすよ」
「それでも、今回は………」
「あのねぇ、この日本で年間どれくらいの人間が姿を消してると思ってるんだ。十万人以上だ。貴方の言い分では、それら総てを探せと云う事になる。そんな事をすれば、警察の機能は停止してしまうんですよ。あなたも、いい歳なんだから解るでしょう」
署員は皮肉をまぶした口調だ。それでも、動いてくれれば文句はない。だから少しでも言い分を伝える。
「なにも、特別捜査本部を設置してくれと言っているんじゃありませんよ。警察の名で、娘さんを探して欲しいと言っているだけです。それに、さっきから何なんですか、その態度は親の気持ちがわからないんですか」
可能な限り冷静な口調だったが、最後は口調を抑えられなかった。
その声に、階段を上がっていた署員が、室内を覗き込んできた。覗いた署員と目が合った。その方は知り合いだった。名は、高野さん。松谷署勤続二十三年のベテランだ。
高野さんが、焦った様に割って入ってきた。
「君、何かあったのか?」
「あ、高野さん。いや、コイツが」
「この方たちが、どうされたのかね?」
高野さんが、咄嗟に言い直した。
「娘さんが行方不明で、届出を出されたんですが、捜査までしてほしいと………」
自分たち一同は頷いた。そして、署員がこれまでの経緯を説明した。聞きながら何度も頷き、高野さんが言った。
「なるほど、分かりました。捜査の件は、すぐに署長と相談の上で返事をさせていただきます」
そう言って、話を強制終了させられた。高野さんは、両親へ親身に接すると、話す事が無くなり玄関へ見送られた。
外に出ると、日は沈んでいて、当りは暗くなっていた。街灯が辺りをぼんやりと照らし、独特な田舎感を出していた。
署の入口で、両親から何度も頭を下げられた。
「ありがとうございます。お陰さまで、娘の足取りが掴めるかも知れません」
そう何度もお礼を繰り返した。
車の前まで送ると、夫婦は再三頭を深々と下げた。こちらも頭を下げると父親が言った。
「お礼は、後日お伺いした時に改めて致します」
そう言い終えると、乗り込み、車を発進させた。車内で、再び頭を下げるのが見えた。その車体を見送ると、高野さんが自分の腕を軽くつついて呼んだ。
「すまん。アイツは、今年、異動で来たんだ。大都市の所轄から来たから、まだ田舎の警察というのがわかってなくてなぁ」
言わんとすることは分かっていた。だが敢えて、自分は生返事を返した。すると、高野さんは顎髭を親指の爪で掻く仕草をすると端的に言った。
「権田先生に、この事は内密にしてくれ。アイツには、儂がキツく言っておく」
自分たちは、乗ってきた車へ移動しながら話し始める。
「わかりました。では、捜索の件ですが、方針が決定次第連絡をいただけませんか?」
自分が車のキーを差し出し、助手席側へ向かうと、二條君が素早く鍵を受け取り、運転席へ向かった。二條君はさっさと車に乗り込むと、キーを差し込みエンジンを回した。
「事務所か?それとも、お前の携帯にか?」
高野さんが聞いた。
「事務所で大丈夫です。お願いします」
「わかった」
自分は、高野さんに深く頭を下げると、事務所の車に乗り込んだ。
「行ってくれ」
二條君は返事をすることなく、ヘッドライトを点け、アクセルを踏んで答えた。
高野さんに目礼して、その場を後にした。
四
車内は暗く、各計器だけがやわらかい光を放っている。二條君は、黙したままハンドルを回した。大きな通りではなく、一方通行の道へ入った。駅前のアーケードを抜ける事にしたらしい。
商店の大量の光りが眩しい。商店街の通路は蛇行していて、所々に大きな石や植樹などがしてあり、景観を意識した造りになっている。
この駅前商店街は、明るく照明を灯しているが、現在は見事なシャッター街だ。十年前から存続している店は、わずか四割。それに新規の店が数店加わっているだけだ。
人通りは全く無く、これでどうやって営業出来ているのか非常に不思議に思う。大学に行く前も不況だったが、今よりはずっと賑わっていた。それが、帰ってくると店がかなり無くなっていた。無くなった店舗は、どんな店だったかすら思い出せない。そこに気付けば、無くなって当たり前だと思ったが、廃業が次々と連鎖すれば地域経済には大きな痛手になる。
商工会議所の人間と話すこともあるのだが、画期的かつ即効性のある振興策などはなさそうだ。地味で効果が出るには時間がかかるが、着実な手を打つしかなさそうだ。
シートに深く腰かけ、窓を流れていく寂れた商店をぼんやりと眺めていた。
「酷かったですね」
「何がだい?」
「何がって………、警察のあの態度です」
二條君が無表情に言った。
「違うよ」
「何が違うんですか?」
そう言って、意外そうな顔を向けた。
「警察が悪いんじゃないさ。あの署員のモラルと意識の問題だよ」
「では、署員の管理、監督責任はないんですか?」
「だから、高野さんが割って入ってきて、話をつけてくれたんだろう」
「あれは、谷元さんを知っていたからじゃないですか」
「それでも、突っ撥ねようと思えば出来たさ」
車が停車した。アーケード出口の信号に引っ掛かったのだ。
「だったら言わせて貰います。最も不快だったのは、娘さんが売春婦や麻薬中毒者のように言われて、なんで言い返さなかったんですか!」
「言い返そうと思ったさ」
冷静だと思ったが、自分で思う以上に口調は強かった。その強い口調に引かれるように、二條君は声を荒げた。
「だったら何で!?」
自分は拳を握り締めた。
「父親が娘の名誉と引き換えに、警察を動かそうとしたんだ。娘の安全の為に、それが判って話を逸らせる訳にはいかないだろ」
「そうだったんですか………」
二條君は、正面を向いてアクセルを踏んだ。左折のウィンカーを点滅させた。
まだ結婚もしていない自分だが、両親の気持ちは思いやって余りある。さぞ悔しかっただろうが、それでも娘の身を優先させたんだ。親というのは、こう云うものなのだろう。
二條君は端正な顔で安全運転に徹している。
「二條君。すまないが、『地引網』へ行ってくれないか。白瀬さん主催の名士の親睦会だ」
二條君からの返事はない。だが、ハンドルを切り、進む方向を変えた。
まったく、二條君は素直じゃないな。そんなに肩肘を張って生きるのは疲れるだろうに、もう少し自然体で人に接すれば随分楽になるだろう、と思わずにはいられない。
「二條君も来るかい?」
何気なく誘ったが、返事は解っていた。
「遠慮します」
「そうか。折角、新鮮な魚が食べられるのになぁ」
地引網とは、瀬戸内の魚介を食べさせてくれる店だ。地元に暮らしていても、地のモノを口にする機会は意外に少ない。大量生産、大量消費はこんな田舎でも生活の根幹になっている。地の物は、意外と地域では重宝されない。そんな中でも、あのお店は地魚を食べられる貴重な店なのだ。
松谷市郊外の港町にその店はある。駅前にも家庭的で美味い店はある。だが、大人数でとなると、場所は限られる。
五、六分程走っただろうか、海岸沿いの道を東に向かうと店が見えてきた。既に、店の前と脇の駐車場には車やバイクが多く止まっていた。
二條君は器用に車を操り、玄関の手前で止めた。
「迎えは必要ですか?」
「いや、誰かに送ってもらうよ。ありがとう」
ドアを開けてすっと降り、胸一杯に息を吸い込んだ。かすかな潮の香りがする。息を吐くと同時に、身を引きしめる。本日最後の仕事は酒を飲むこと、それだけだった。
二條君は車を切り返し、来た道を戻っていく。
自動ドアの前に立ち、背筋を伸ばして入って行った。
「白瀬さんに招かれて参りました」
アルバイトだろうか、若い店員は無愛想に『三階の広間です』と答えた。
「ありがとう」
店舗隅の階段を駆け上がると、広間の襖は明けっぱなしで、既に親睦会という名の酒宴はかなり盛り上がっていた。
「おお、谷元君。来たか」
出迎えてくれたのは、幹事の白瀬さんだった。齢六十になろうかという年齢だが、外見はまだまだ若く五十代前半に見える。三年前まで信用金庫の支店長として辣腕を揮っていた。だが、親族の不動産会社が経営危機に陥ると、信金を辞めて副社長として再建に携わった。紆余曲折あったが、今では黒字経営になっている。そして、今でも経営基盤の安定を図り、各業界の有力者との人脈構築に余念はない。
白瀬さんは知的な笑顔を向けて、席を案内してくれる。
「谷元君が来てくれたぞ」
見知った顔が大半だったが、知らない数人の為に大声で紹介してくれた。
「遅くなって申し訳ありません」
自分は、頭を下げて用意されていた席に座った。机上には、鮪、鯛、烏賊など定番の刺身から、地の小鰯、蛸、焼き穴子なども並んでいた。小鉢には、太刀魚にポン酢がかかっていた。正に、海の幸尽くしという感じで、机を埋めるように皿やグラスで埋められていた。
「ささぁ谷元君、まずは一杯」
白瀬さんは横に座り、ビール瓶を手に待ち構えている。
自分は素早くグラスを手にした。先を越されたと反省した。正直、自分が酒の酌をしなければならないが、ここで『いやいや私が………』的なやり取りは場の空気を悪くするだけなので、謙虚に受けることにした。
「すみません。私がお酌をしなければいけないのに」
頭を下げて、両手でグラスを差し出した。品の良い注ぎ方だ。こんなわずかな動作にも品は表れるのだと感心してしまう。白瀬さんは笑顔で、自分の発言を意に介さないでこう言ってくれた。
「いやいや、私は若い人が好きなんだよ。若さ故の熱さも、浅さも、危うさも込みでね」
自分は、なみなみに酒を注がれたグラスに口をつけた。やはり酒は美味い。口にしたビールは、乾いた喉と疲れた体に沁み込んでくる。グラスの半分ほどを飲むと机上に置かれている日本酒とぐいのみを取り、ぐいのみを白瀬さんに渡した。
「白瀬さんは、ビールよりも日本酒でしたよね。どうぞ」
酒を注ぐと、白瀬さんは瞬時に飲み干した。
「谷元君。ナニ隅っこで正座してるんだ」
声を掛けてくれたのは、古寺さんだった。自分の左後ろにドカリと腰を下ろすと、手にしているグラスを飲み干した。
すぐにビールを手に、空になったグラスへ注いだ。古寺さんは、注がれるビールに視線を向けながら口を開いた。
「権田先生は来ないのか?」
「申し訳ありません。先生は、急な用で来られません。役者不足ですが、私が代理として参りました」
箸を手に取り、太刀魚を口に運んだ。ポン酢と紅葉おろしが絶妙に魚の風味を引き立てている。刺身の皿に、薄い肌に淡いピンクが加わったような切り身が目に入る。まるでキハダマグロのような見た目だが、肉の筋線がはっきりと見える。
「これは何の魚なんですか?見ないですね」
「それは、ワニだよ」
白瀬さんが答えてくれた。
「ワニですか?」
「ワニっていうのは、サメのことだよ」
自分は、思いだした。そう言えばこの地区では鮫の事をワニと言うんだった。鮫の切り身を刺身醤油に生姜を付けて口に含む。弾力があり、もっちりとした触感。淡白でクセのない味だ。もっと強烈な味を想像していたが、以外とイケる味だ。
「美味いですね」
次は、小鰯に手を伸ばした。小鰯の刺身は、子供のころから慣れ親しんだ一品だ。新鮮な小鰯は、鯛や鮪以上に味わい深く、上品な甘みも感じる。これだけは、地元でないと食べられない。郷土の先人が、この絶品料理を後世に伝えたことに感謝してしまう。なぜ、他県で食べられないのか不思議でしかたない。
「谷元君、十ヶ月後の市議選には出るのか?」
聞いたのは古寺さんだった。
「いいえ。今のところ考えてはいません」
「どうした?先ずは、市議から始めないと政治家にはなれないだろう」
「そうだぞ。権田先生だって、子飼いの市議会議員がいれば選挙戦が楽になるだろう」
白瀬さんの意見に古寺さんが同意した。
「様々な理由で、今回は間に合いません。気にしていただき、ありがとうございます」
「そうか。ま、力が必要な時は言ってくれ」
白瀬さんが言ってくれた。古寺さんも、つまらなそうな顔で頷いた。
自分は、会話に行き詰まりを感じて、一時避難の為に、ビール瓶を手にした。
「皆さんに挨拶してきます。少しの間、失礼致します」
「おお、行って来い。顔は売っておけ」
「俺達だけに気を使う訳にはいかないしな」
両人に、頭を下げて席を立った。これからが勝負だ。ざっと、人数は十五人。酌をするのは簡単だが、怖ろしいのは返杯だ。ビールグラスを小さいのに変えても大瓶四、五本はいくだろうな。日本酒なら二合の御銚子約三本分。腹を括って、年長者の輪に飛び込んだ。
「御無沙汰しております。権田先生の秘書をしております谷元と申します」
頭を下げ、空いた杯にビールを注ぐ。自己紹介と同時に名刺を差し出し、再び頭を下げる。
可能な限り、会話の盛り上げに徹して杯を呷る。顔を覚えて頂いて、少しでも好印象で帰っていただく。それが本日の最大の目的なのだ。ある程度溶け込むと次に進む。
こうして、この場の全員に頭を下げ、酒を酌み交わし、言葉を交わした。
頭がクラクラしている。三回目のトイレに立つと携帯電話で時間を確認した。かれこれ二時間が経過していた。
老齢の客人が、一足早く帰り始めた。
自分はと云えば、アルコールで半身浴をしているような感覚だ。理性で、意識こそしっかりしているが、足の感覚は分離しかかっている。気力を振り絞り、立ちあがって店の出口まで付き添う。頭を下げ見送った。
白瀬さんや古寺さんも後ろに立っていた。
「自分も、もう失礼致します」
振り返り言った。
「そうか、タクシーでも呼ぼう」
「いや、儂も帰る。送って行こう」
「古寺さん、それだと飲酒運転じゃないですか」
頭の回転率が落ちていてもそれくらいはわかる。古寺さんは、豪快に笑い声を上げた。
「自分で運転なんかしないさ。息子が迎えに来てくれるんだ。遠慮はいらん。乗ってけ」
そう説明され、頭を下げてお願いしますと答えた。再び、会場に戻り皆さんに頭を下げる。やっと仕事が終わる。その感覚しかなかった。
店の壁に凭れかかり、水を頂いて口にしていた。
「谷元君、迎えが来たぞ」
白瀬さんの上品な声が聞こえた。
「ありがとうございます」
頭を下げて車に乗り込んだ。古寺さんの息子さんが乗ってきた車は、ワゴンタイプだった。後部座席に座った瞬間、良いシートだとわかる。酔っていても、車内装備に相当な金が掛かっていることは理解できた。眠りに堕ちそうになるのを必死に気力で支えていた。
窓を開けると、夜の海風が頬を撫でる。冷気を含んだ海風が、火照った体に心地良さを与えてくれた。
五
アパートの扉の鍵を開けた。一人暮らし用の部屋で、六畳のフローリングと十帖のリビング、それにバスとトイレがあり、家賃が四万円。新築ではないが、一人で暮らすには充分過ぎるほど広く、また快適でもあった。そうは言っても、正直、快適な空間には仕上がってない。仕事に忙殺され、部屋の居心地の良さまでには気を廻せていない。現に、この部屋には寝に帰ってくるだけで、大半は事務所にいる。月に一度程の休日はあるが、部屋でゴロゴロできる身分ではない。自分の時間であっても、支援者の為や、地域活動に使うことが殆どだ。
リビングの小さなソファーに倒れ込んだ。家に着いた安心からか、体の感覚がぼんやりと離れるようだった。このまま眠ってしまいたかったが、シャワーは浴びたかった。酒と食べ物と煙草の宴会の席の独特な臭い、どうしても洗い流したかった。まだ、眠気に勝てる意思の強さはある。腕に力を込めて立とうとした時、インターホンが鳴った。その音が、少しだけ力を抜けさせた。
自分は、ソファーに身を沈めるように座り、天井を見上げて言った。
「どうぞ。開いてますよ」
ドアが開く、そこには初音が立っていた。手にビニール袋が提げ、食材らしきものが入っていた。
久遠初音。自分の彼女だ。付き合い始めて、八ヶ月になるが、デートは数える程しか出来ていない。
「やあ、久しぶり」
声にしたつもりだったが、疲労で言語は不明瞭だったらしい。初音は聞かなかったように笑みを向けた。
「また飲んできたの?」
「仕事だよ」
優しく訊かれたが、責められているような口調に、即座に真実を口にした。
初音は上着を脱いで冷蔵庫を開けると、買ってきた食品を詰め込み始めた。
「今日は何の用なんだ?」
風呂に入るために、服を脱ぎながら聞いた。トランクス一枚になり、浴室に入ろうとした時、初音の動作が停止していた。
「どうした?」
初音は冷蔵庫から目を離すことなく呟いた。
「用事がないと来ちゃいけないの?」
「別にそんな事はないよ」
「でも、そう言ったでしょ?」
溜息を吐きそうなったが、ここはなんとか堪えることに成功した。そして、言葉を訂正する。
「用事があるなら先に聞く、という意味だったんだが。誤解を招く言い方だった。悪かった」
素直に、気遣いが足りなかったことを詫びた。だが、初音の不快さは完全に拭えていないようだ。
「そんな言い方じゃなかった。迷惑だったんでしょ」
ヒステリックとまではなかったが、初音の口調は強いものだった。
「考え過ぎだよ。自分も、今日は疲れて、家に着いた安心感もあって、言葉が乱暴になったが、こんな言い合いをしたい訳じゃない」
自分は頭を掻いた。体を動かすと煙草、酒、食べ物などの宴会特有の付着した臭いがする。正直、早く風呂に入って寝たい。翌日も朝五時に長寿会の御老人たちとラジオ体操をする予定が入っている。御老人には良いだろうが、睡眠不足の肉体には辛い運動だ。だが、日々の関係こそが選挙の時にモノを云うのだ。
既に日付が変わっているから睡眠時間はいくらも無い。多くても四時間を切ろうとしている。ここで初音を追い返す訳にいかないのだが、時間に追われているのも確かだった。
「ごめん。とりあえず、シャワーを浴びた後、ゆっくり話そう」
正直な気持ちだった。それでも、疲労の極にあっても貴重な時間を割く誠意を見せた。だからこそ、先に体の不快さを拭いたかった。最大限の譲歩だったのだが、彼女は不満を顔に表した。
「そう。邪魔して悪かったわ。私が来た時は、いつもお酒を飲んでるし、疲れた顔をしてる。迷惑だったわね」
初音の言が神経を逆撫でした。口調こそあきらめに近いものだったが、責める意図があることは、わかりやすいほど判り易かった。
「明日も早いんだ。その為にも、シャワーを浴びるから、待っててくれ」
「いいえ。ゆっくり休んで。私、帰るから。おやすみなさい」
髪を掻きあげて、上着を手に抱えて玄関で靴を履くと振り返ることなく出て行った。
一瞬、後を追おうとして右足が出た。しかし、それ以上は体が言う事をきかなかった。自分は、トランクスを脱ぎ、浴室に入ると溜まっていた夜の冷気で小刻みに肩が震えた。
蛇口を捻ると勢い良く温水が出る。温度は、多少熱めで、強い水流は肌を程好く刺激する。
頭と体を洗いながら、今日の出来事を考える。
支援者の社長と会い、会合席に出席した。一番の出来事は、行方不明者の捜索願を依頼されたことだ。こんなこと初めてだった。両親の説明では、事件だと確定するのは難しい。それでも、事件性が無いとは断言できない。ふと思い出したのは、二條君の言ったことだった。確かに両親にも問題はある。だが、それは我々が動くこととは無関係であることに変わりはない。
体を洗い、勢い良く泡を流した。それと同時に、薄皮のように纏わり付いたベトベト感が、綺麗に無くなった。実に爽快な気分になった。
バスタオルを頭から被り、乱暴に髪を拭いた。それから、流れる様な仕草で体を拭くと腰にバスタオルを巻いて浴室を出た。
体が温まった為か、少しアルコールが抜けた為か、少しだけ頭が回る。馬鹿な妄想だが、ひょっとすると初音がまだ居るかも知れない、と室内を見渡したが、やはり帰ったようだ。
自分は、下着を着てソファーに横たわり、天井を見上げた。蛍光灯の白い光が眩しく、腕で目を覆い、光を遮った。
体が睡眠を欲している。筋肉が弛んでいくのが判った。
初音との出会いは、慈善活動のイベントだった。主催者は、この地区の県議会議員・松峰国男であった。松峰氏は慈善活動とは対極に位置する人物だが、それゆえ様々な力はあった。なにしろ旧家であり、郷土の名士であり、資金も影響力も充分に有しているのだ。力のある人物の主催だからこそ、様々な人間が狩り出された。正確には、多くの中小企業や市役所の役人たちが少しでも印象を良くしたいと人を送り込んでいた。その中の一社から送られたのが初音だった。自分も選挙区内で行われるイベントということもあり、慈善活動普及に協力した。そこで、同じ仕事についた。それは、ゴミの仕分けと交通整理だった。季節が真夏と云うこともあって、炎天下での誘導作業とゴミの処理は、このイベントの趣旨に賛同する人間を持ってしても避けられていた。
自分の脳裏に、秘書として雇われる時に教わったことが響いた。
【汗は自分で流すもの、手柄は人にあげるもの】
今回、自分の役目は、他人の嫌がる作業をすることだ。炎天下での誘導作業はもちろん、ものの数時間で腐臭を放つ生ゴミの片づけは誰も来ないと思っていた。そこに初音が手伝いに来てくれた。酷い作業だったが、彼女の御蔭で随分作業が早く終わった。何よりも、何気ない彼女との会話が気を紛らわせた。
食事休憩の時に話をして、自然に連絡先の交換をした。イベントが無事終わり、住んでる場所が、隣の市であったことから車で送って行った。そして、次の休日に会う約束も取り付けることができた。
今と同様、なかなか会う事が出来なかったが、メールや電話で埋め合わせた。それが、一年前に上司が辞めて、仕事量が倍以上に増えた。それから、会うことはおろか、電話やメールすらできなくなった。小まめに一、二行のメールであれば出来なくもないが、そんなメールでは手抜きの印象しか与えられなかった。本心から月に一度くらいは会いたかったが、そんな時間は作れなかった。
自分の正直な感想を言えば、秘書では幸せになれないだろう。それはまるで、明治時代の身売りのように重労働で薄給だ。それは、全秘書がどれかのKに含まれていることを指している。Kとは、結婚が出来ない。肝臓を壊す。家族の不理解の三カテゴリーだ。現状では自分は、とても結婚できそうにない。先輩やベテランの秘書の方々も、独身か結婚していても家庭内には不協和音が流れているらしい。
この仕事は、恋人を失えば有能になっている。家庭が壊れれば議員同様、もしくはそれ以上の権力を握っている、と教えられた。それと、もう一つある。賢い女を選ぶことだと。可能ならば、地元の女を選べと教えられた。政治家になるならば、と付け加えられた。
初音の顔が浮かんだ。良い子なのは判っている。だが、政治家の妻としては、いささか役者不足でもある。専業主婦にするなら申し分ない。そんなことは分っていた。
室内の蛍光灯が眩しい。重い体を起こし、室内の照明を消すとベッドに倒れ込んだ。
(今は役者不足でも、初音も成長する。自分も新人秘書の頃は手際が悪かった)
ベッドの心地良さに、抗い難い睡魔が襲ってきた。自分はその睡魔に身を委ねる。全身に痺れの様な快感が流れた。意識が体からゆっくりと離れていくが、思考は続けた。
初音には、夕方に電話をしよう。
そこまで考えると、脳が停止して落ちて行った。