山頂の急転・3
『アリラン』は、あまり日本人に馴染みのない言語とメロディーで構成されているのだが、小学校から高校に至るまで、大体の学校はアリランを授業に組み入れている。朝鮮民謡だから、アジアンミュージックを知るのには数少ないチャンスだと考えられているのだったが、生徒の方は、いまいち気乗りのしないカタカナの歌詞に退屈を感じていた。
そのアリランを歌いながら、祐はずっと考えていた。昨年の部活動の記憶はないが、今年度の初めから身についていたノート作りのノウハウの事を考えると、やはり昨年度も交換ノート部に居たのは間違いない。問題なのは、その直接証拠たる祐の記憶とノートの所在が、不明であるという点だ。ここに祐は大いに疑問を持ったのだが、それがさっきの隆志の言葉で確信に変わった。
一つの可能性として、美樹が全てを話してくれるかも知れないという事がある。去年恐らく祐と一緒に交換ノート部に居たのであろう美樹は、事情を知っている筈だった。だが、だからと言って、今その事を頭から追いやるのは、どだい無理な話だ。祐は更に、思考を深めていく。
自分はあるいは、記憶障害でも患っていたのだろうか。それを周りの皆は知っていて、気を遣ってくれているだけなのではないだろうか。祐は次に、そう考えた。そして、それを否定する論証が、今の状況では出る筈がない事にも気付いた。少なくとも全ての事項は、それで説明が付いてしまう。
……。しかし、逆に、記憶障害を裏付ける確かな証拠もやはり見つかりはしない。少なくとも確実な結論を見出すのは、今のままの祐には難しいようだった。
アリランの演奏が終わると、まさにヒステリックな音楽の先生らしい髪をボサボサにした通称『ショパン』先生は、その流れを継いで『Top of the World』の演奏に入った。アリランに比べてこちらは現代曲であり、英語に関してのみ外国語教育を受けている祐達にとっては、瞬時にとは言わないまでもその歌詞の意味は何とか読み取れる。だから、生徒らはどちらかと言えば、アリランよりもTop of the Worldの方に力を入れて歌っていた。
そのTop of the Worldが終わると、ショパン先生は生徒達に着席を命じた。授業の残り時間ももう少ししかないから、何の合図もないが恐らくはもう何もしないのだろう。小さい電子キーボードをフルに駆使する様子は、まさに現代の小ショパンを感じさせるが、ショパン先生は先生には不向きだというのが生徒の大方の意見だった。あまりに内向的すぎるのは、やはり教師向きではない。
そんな不自由な空き時間に、祐は携帯を出す準備をしていた。今日は美樹と二人、交換ノート部部室で昼食を食べようという算段だった。
「では、以上」
無口なショパン先生がそう言ったと同時に、授業の終了を告げるチャイムが鳴った。祐は右ポケットに入れていた携帯電話を取り出すと、便利なワンタッチ通話ボタンの二番を押した。
『もしもし? 祐くん、どうしたの?』
「今日さ、部室で一緒に食べようぜ」
『ラジャー、だよ~』
月に二,三度はこうして誘っているので、美樹の方に訝しく思っている色はない。電話はほんの数秒で済み、祐はかばんを肩に掛けて立ち上がった。
「…………」
立ち上がりざまに見た隆志の背中は、いつもと変わりなかった。
今日の学校中の話題は、優れない祐の表情で持ち切りだ。稀にある、お昼休みに入ってすぐに教室から出てくるパターンの祐はいつでも、美樹と二人で昼食をとる事で頭がいっぱいになって、いつもにも増して幸せな表情をしている。それが、今日の祐は隆志との一件で頭がいっぱいなので、わくわくしたにやけ顔から程遠い真顔をしているので、廊下で祐とすれ違った生徒達は口々に、美樹と祐の不仲説を持ち上げては、わいわいと噂をしていた。
そんな声も耳に入らない祐は、真っ直ぐ階段を二階へ下りて、渡り廊下をずんずんと渡った。今日も良い天気だから、北館はうっすらと明るかったが、一番奥の部室にはまだ灯りは点っていないようだった。
今日交換するノートは、数学と現代文だ。祐はとりあえず部屋へと入って電灯を点け、五つ並んだ内の一番左の机へかばんを置き、その椅子へと腰掛け、かばんから二種類のノートを取り出した。交換ノート部の規則によって修正する事はもう出来ないが、見直す事は一応出来る。完璧にしているつもりではあったが、やはり不安は拭えなかった。このタイミングで致命的な誤字に気付いたりすると、修正したくても修正できないむず痒さに悶える破目に陥るのだが、祐がこの習慣を変えようと思った事はなかった。それは、言い訳が出来るからとか隠れて修正しているからとかいった理由ではなく、ただ何となく、ノートに対して失礼な気がすると言う理由からだった。
現代文のノート、数学のノートと順番に確かめたが、どちらにも誤字やミスは見られなかった。満足できる仕上がりだ。
「祐くん、早いよ~」
そんな祐に声を掛けたのは、軋んだ戸をその非力で強引に押し開けながら、中へと入ろうとしている美樹だった。すかさず手を貸しに立ち上がりつつ、祐はああ、と返事をする。
「っしょ、と。ふう。やっぱり、私には重たいなあ」
「何なんだろうな、ここ。今度直して貰おう」
「そうだね~。うんっ」
重い戸をまた二人で戻して、それぞれ椅子へと座る。ノートをいったんかばんへと戻して、祐は弁当を取り出した。美樹も同じ様な動作をするが、かばんから出すのはコンビニの惣菜パンである。美樹の両親が共働きで、朝に時間がないのが原因だった。
「……でさ、美樹。ちょっと話したい事があるんだ」
「むむ、何でしょう~?」
「実はさ」
と、祐は、夏休み以降の隆志の挙動のおかしさと、今日の隆志との一件の事の次第を話した。自分で話しているのに、まるで初めて聞いたような、そんな非現実感を感じる。だがもちろん、祐はそんな事には構わず、話し続けた。
聞き終えた美樹は、いつものほわんとした空気はそのままに、二度三度と頷いて見せた。
「私も、一年生の頃の部活動の事、よく覚えてないよ」
「そっか。なんか、変だろ。それってさ」
「うん。……一つだけ、一つだけなんだけど、変だなあって思う事はあるんだ」
お弁当の蓋は、そのままである。隣の美樹も同様に、パンの包装をはがそうと伸ばされかけていた手は、そのまま机に下りてそこで落ち着いていた。
「机。机、どうして五つも並んでるのかなって。それで、どうして私達は、入り口から遠い二つに座ってるのかなって」
……。祐は、頭を抱えそうになった。それはまた新たに浮上した、確かに考慮されるべき事項の一つだった。部室には乱雑に置かれた机が大量にあるのに、何故五つだけが整然と横並びにさせられていたのだろうか。そして自分達はどうして、それが当たり前のように感じていたのだろうか。
「……訊きにいこう、美樹」
「ふえ。どこへ?」
「隆志の所へ」
祐は、蓋を開けてもいないお弁当箱をそのままかばんにしまうと、美樹を促しながら自分は立ち上がった。