山頂の急転・2
三時間目開始のチャイムが鳴っても、隆志は帰ってこなかった。
ともかく気にしていてもどうにもならないので、祐は物理のノートへと心を移した。物理の先生は影が薄く、髪も薄いので『影髪』と呼ばれているのだが、今日は教壇で躓いたので、生徒全員がその存在に気付く事ができた。
さて、物理は、ノートを取るにあたっては少し異質な科目である。計算式と文章が共存している点もそうだが、何よりも問題文にせよ解説文にせよ、イラストというか図が登場する点が他の科目とは一線を画している。ノートの七十パーセントは図で埋まるから、図の美しさがそのままノートの美しさになるのだ。振り子運動や投射運動など、運動とエネルギーの分野を学ぶ今は曲線を書く事が多いので、祐は常にコンパスとコンパス受けを持参していた。コンパス受けとは、コンパスの針でノートに穴が空かないようにクッションを敷く為のツール一式の事で、交換ノート部必携と言っても過言ではないほどの超重要器具である。これがないと、コンパスが使えなくなり、円も描けなくなってしまう。ノートに穴を空けるなどはもっての外である。
図さえ綺麗に書く事が出来れば、物理のノートはほぼ完成したと言って良い。『力学的エネルギーの保存法則』など、登場する定理やその説明は長ったらしい事が多いが、逆に言えばそれだけノートを幅広く使えるので、全体の仕上がりは基本的には綺麗に見えるのだ。物理は現代文に次いで、ノート作りをし易い教科だった。
定規とコンパス、それにコンパス受けを駆使して作図を進めていく。祐は、もちろん平均からすれば字もずっと綺麗な方だったが、それよりももっと作図が得意だった。矢印をスタイリッシュに書く点では、恐らく他のどの生徒よりも優れている。そう祐は自信を持っていた。
「この、ええ……物体Aは、a地点では運動エネルギーが0で、b地点では位置エネルギーが0になる訳だ。要するに、a地点での位置エネルギーからb地点での運動エネルギーを引いた物が、この問題において摩擦で失われた力学的エネルギーである」
ただ、物理の授業で問題があるとすれば、影髪先生の説明がいつでも遠回しで分かりにくく、祐にとってはノートにまとめ辛い点である。ただし、効率の悪い授業進行に祐は常に辟易とさせられていたが、相方である美樹はと言えば、
<物理の授業って、ゆっくりでまとめやすいよ~>
とべた褒めだったので、実際の所は分からない。もしかしたら祐に馴染まないだけで、素晴らしい授業なのかも知れなかった。
しかし、どちらにせよ祐が書くにあたって不便なのには変わりない。祐は溜め息を吐きながら、黒板に書かれた要点を押さえない文章を、ノートに書き換えつつ写し始めた。
三時間目終了のチャイムが鳴る。祐はノートをしまって、かばんはそのまま机の横に掛け立ち上がった。
隆志が、未だに帰ってこないのである。普段の隆志ならいざ知れず、細マチオに向けたようなあの態度でいる隆志だと、先生が隆志に何らかの処分を下さないとは言い切れなくなってくる。責任はなくとも、隆志があんな行動に出た要因は自分にあるのだから、彼の申し開きを擁護する義務は恐らくあると、祐は考えたのだった。
幸い、四時間目は音楽で、ノートを取る必要がない。一時間分の授業が飛ぶのは痛かったが、身を挺して自分を庇ってくれた隆志を見捨てるのはそれ以上に忍びなかった。机と机の間を早足で抜けて教室を出ると、真っ直ぐに階段へと向かって、四階へと上った。
四階の南側に、生徒指導室という部屋がある。そこはいわば取調室のような所で、狭くてじめじめとした空間に押し込まれて尋問を受ける環境は、全く警察や検察のそれと変わりない。時に学校は別件逮捕のような手法まで用いて更生を促す事で、学校内の風紀を保ち、また校外での評判を得ていた。多分、というよりも十中八九、隆志はそこに居るだろうと祐は考えていた。そして、四階に上がってすぐ聞こえた細マチオの怒鳴り声から、それは確信に変わった。
あまり入りたくはない空間である。祐は生徒指導室の前に立って、とりあえず三度ほど扉を叩いた。
「む。学年と名前を告げなさい」
「二年の小松祐です」
「ああ……。入りなさい」
中からそう祐を誘導した声は、柔道部顧問の小林先生だった。あまりに怖い顔つきと態度から、あだ名を付ける勇者は未だに現れていない。祐は、ごく、と唾を呑み込みながら、
「失礼します」
と部屋へ入った。
部屋の中は、とりあえず予想される通りの湿気に満ちていた。狭い室内に、隆志と小林先生と細マチオ、それにさっき保健室へ運ばれていった財布盗難の被害者が居る。状況を分かりえない祐は、とりあえず戸を閉じた。
「ちょうど良い所に来たな。こいつ、お前に言いたい事があるそうだ」
「……財布、俺のかばんにあったよ。勘違いだった。ごめん」
被害者の男が、祐に深々と頭を下げてきた。
「まあ、話はそんな感じで進んだんだけど。隆志君が殴っちゃった件も解決したんだけど。どうしても君を陥れようとしたんだって所で、意見が噛み合わなくてね」
「ああ、なるほど……。きっと違うだろうと思いますし、俺は気にしませんよ」
「そう言ってくれれば、全部解決だ。よし、解散解散。四時間目に遅れるなよ」
細マチオは少し疲れた様子で、そう言って祐の肩を叩いた。突然解決したと告げられたそれはしかし、どうも強引に事を済まそうとして済まされたらしい。隆志の表情はいつも通りで、その前を被害者でなかった男が通っても何の反応も示さず、小林先生に促されてやっと立ち上がった。
あまりしっくりと来ないまま、祐は隆志と一緒に生徒指導室を出た。
「……大丈夫か?」
「ん。もちろんやで。ちょっと出しゃばってもうたな。ほんますまんかったわ」
廊下を、右に祐を置きながら、隆志はそう言った。
「いや、それは良いけど。……でも、どうしてだ?」
核心に、一気に迫る。たとえ四時間目がノートのない音楽であろうと、ここで心のわだかまりを解いておきたいと思ったのだった。
「……次は、音楽やんな?」
だが、隆志はすぐに答えようとはせず、話を逸らした。祐も、黙って頷き、隆志の真の返答を待つ。
「理由なあ……。あ、物理のノート、貸してくれるか?」
「ん。教室戻ったらな」
「ほんま助かるわ。……あ、あと、去年の数学のノート持ってたら、復習したいし借りたいんやけど」
ああ、と再び頷きかけて、祐は途中でそれを止め、立ち止まった。そして真剣に、ごく真剣に、記憶の中を探り始めた。
昨年度も、祐は間違いなく美樹と共に交換ノート部に在籍していた筈である。だからもちろん、一年生の頃もノートを作っていた筈だ。なのに。どうしてか、祐には一年生の頃のノートの居場所が、思い出せなくなっていた。いや、それだけではない。ノートを作った記憶も、交換ノート部として活動していた記憶も、どれもがあやふやで、明確でなく、それが二年生の時だったか一年生の時だったかがはっきりしなくなっている。だが、二年生の始めには間違いなく交換ノート部だったし、新たに入部届を出したのでは決してない。おかしな話だがしかも、入学の頃の思い出はきちんとあるし、部活動以外の記憶はきちんとしている。曖昧なのは、ただ唯一交換ノート部に関する記憶だけだった。
「……理由はまだ言えへん。けど、今祐が感じてる疑問を突き詰めてったら、答えに至るかも知れんで」
祐は隆志の顔を改めて見つめた。その顔は、まさに、何もかもを知っている風だった。