谷間の霹靂・2
二時間目の体育の為に更衣室へと向かう祐の表情は、一向として晴れない。
その原因は、さっき感じた違和感ではなかった。祐はもうそんな事はとっくの昔に忘れて、目の前の憂鬱な体育に目を向けてうつむいているのである。元々ノートのない授業だから好いてはいないのだが、祐がそれほどに嫌がるのには他の理由があった。と言うのも、二時間目と三時間目の間に連絡等をするホームルームがあって、このホームルームの前後だけは普段十分間ある休み時間が五分に短縮されるのである。つまり、二時間目の授業に体育が来ると、更衣の事情でホームルームへの遅刻の可能性が非常に高くなるのだ。これを生徒達は『二限体育トラブル』と呼んで恐れていた。祐は、夏休み前は上手く避けられていたのだが、夏休みが明けてついに遭遇してしまっていた。体育の授業ですっかり疲れた足で廊下を駆け抜け、階段を駆け上がらなければならないだけでも辛いのに、すれ違う先生達は褒めるでもなくむしろ廊下は走るなとたしなめるのである。不条理すぎる二限体育トラブルを、祐も他の例に漏れず嫌っていた。
最近の体育は、もっぱら体育館でのバスケットボールに終始していて、身長の高くない祐には尚の事辛い。できればずっと更衣室へと歩き続けていたかったが、無情にも祐の目は、生徒達が詰め寄せて混んでいる更衣室を近くへと捉えていた。
集団の流れに乗って更衣室へ入ると、すぐに更衣室の酸っぱい汗の香りが祐の鼻を突いた。更衣室にもちゃんと換気扇は付いているのだが、どうにも低機能で、前時間の汗の匂いを完全に入れ替える事は不可能なのだ。そこで生徒達は自主的に消臭剤を持ち込む様にしたのだが、何重にも重なる芳香はかえって汗臭さを助長してしまい、今の悪臭に至っていた。
ただ、この匂いに関して、祐はそこまでに悪いイメージを持ってはいない。決して良い匂いだとは思わないが、気に留めるほどの酷い物でもないというのが祐の意見だった。同様に、タバコの匂いというのも何となく落ち着きを感じるので、祐は好いている。
ふと、体操服をかばんから出している時、祐は疑問を感じた。タバコの匂いなんて、一体どこで嗅ぐ機会があるのだろうか。両親は根からの嫌煙家だし、先生がタバコを吸っているのも見た事がない。もちろん、友人に喫煙者が居よう筈もない。
……。途方もない記憶の先にしか、その答えはない様に思えた。忙しい高校生にそんな思索の時間があるはずもなく、祐はすぐに自ら疑問を掻き捨てて、体育館靴を手に更衣室を出た。
秋の足音が聞こえるか聞こえないかといった季節の影響で、体育館は何となく暑い。それは、ただ立っているだけなら汗は掻かないが、少し動けば汗が汗を呼び、気が付けば全身汗まみれと言った気温状況である。バスケットボールのような動きの激しい競技をすれば、汗だくになるのは当然の帰結だった。
「ほんま暑いなあ。こっちはもう汗だっくだくやで」
体育館に入って、すぐに風の吹く通風窓の近くへ腰掛けた祐へ、少し離れた所で立ちながら隆志は言った。
「汗っかきやさかい、大変やわ」
「そんな長袖してるからだろ」
そう、祐は隆志の、ポケットに入れられている右腕を指差した。隆志は下は年中ハーフパンツを履いていたが、同じ様にして年中上には長袖を着ているのだった。それは、まだ彼と話した事もなかった二年生の春に祐が隆志に抱いた一番のイメージであり、今でも不可解な事の一つだった。
「長袖の方が疲れへんさかいに」
「そうなのか?」
「汗を吸うてくれるんや」
隆志は両手を振り上げて笑った。やはりおかしな奴だと、祐はそう思って、通風窓から外の様子へ目を向けた。外は絶好の晴れ模様で、日差しが眩しい。窓から見えるのはそんな日差しと、誰も管理していないらしく茂りに茂った草むら、それからその上を飛び回る小さな虫だけだった。
体育の授業は、大体チャイムが鳴る数十秒先に始まる。体育の先生は決まってせっかちなのだ。そして、生徒達が体育の授業を心待ちにしていると思い込んでいる。祐は、突然掛かる号令に遅れないよう、集合場所である体育館の左奥、体育館内倉庫の扉前へと立ち上がった。
その祐の後ろを、隆志は追いかけて来なかった。この妙な潔さが、尚の事祐の隆志を見る目に不信感を与えていた。あるいは不安感かも知れないそれは、まるで観察されているような、そんな気分によるものだ。友達になりたい、という目的と行動が一致していない。隆志はもしかすると、訊けばその理由を教えてくれるのかも知れない。だがそれは、アンタッチャブルな領域だと、祐には思えてならなかった。
祐が倉庫前に着いた頃、線の細い体育教師の男が体育館へと入ってきた。見た目にはひ弱そうなのだが、この体育教師は入学して最初の体育の授業で、
<じゃあ、まずは腹筋五十だ。先生もやるからな>
と言った伝説を持っている。しかも他のどの生徒より腹筋を早くやり遂げたので、畏敬を込め、彼は彼の名である町尾と掛けて『細マチオ』と呼ばれていた。
細マチオが真っ直ぐ倉庫前まで歩いてきたので、遠くで談笑に興じていた他の生徒達も、隆志も、そろそろ始まるのだろうと予測して動きを始めた。
「さ、始めるぞ。集合!」
その読み通り、細マチオはそう言って笛を鳴らした。祐は、すぐに自分のいつもの場所へと一番に並んだ。
バスケットボールというのは、やはり身長の低い者が不利を被る競技である。リバウンド、ディフェンス、あるいはシュート自体に至るまで、基本的には身長が高い方が常に有利だからだ。上手い低身長の選手は下手な高身長の選手に勝ち得るが、上手い高身長の選手には勝ち得ないのである。その一点において、運動が得意でもなく身長も高くない祐は、バスケットボールでは役に立たない一人に数えられていた。
もう一点、バスケットボールは六人チームという特性を持っている。これにより、一人が役立たずというだけで、チーム全体の戦力がガクンと落ちてしまうという事になってしまう。そんな訳で祐は、ひたむきに勝利を目指す生徒にとっては、役立たずかつ煙たい存在でさえあった。
だから祐は、試合中にはずっとディフェンスに専念していた。攻撃に参加すると、ボールを奪われた時に相手に決定的なチャンスを与えかねない。その点ディフェンスなら、もし軽く抜かれたとしてもそう大きい責任は及ばないという訳だ。
「よっしゃ、祐!」
ただし、同じチームの隆志だけは、そんな祐の思惑に逆らって祐にパスを回した。何となく悪い気はしないのだが、奪われては大変だと祐もすぐに味方へと投げる。すると、それが回り回って背が高い隆志の所へ戻ってきて、また祐へとパスがされるのだった。
「はい、一旦休憩!」
細マチオの声に、祐は息を切らして体育館の端へと座り込んだ。