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二月三十日の待ち合わせ  作者: さらさら
一.陰鬱なき時間
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谷間の霹靂

 火曜日の朝は、他の日に比べて祐が見かける登校する生徒の数は少ない。元々、この辺りにある高校と言えば祐の通っている所ぐらいしかないから、そう多くの学生を見かけるという事もないのだが、その中でも火曜日は際立って少なくなる。

 その理由は明確だった。火曜日は、体育系クラブの超早朝練習の日なのだ。普段から体育系クラブは『早朝練習』と称して部員任意の練習をしているのだが、火曜日になるとこれが超早朝練習……生徒達は『超朝練習』と略しているこのシステムへと変わり、部員は強制参加させられるようになる。こうして、普段は早朝練習を休んでいる生徒が超朝練習に駆られて早くに登校せざるを得なくなるので、火曜日は人が少ないのだった。

 騒がしくない道を、祐はあまり好いていなかった。何となく寂しい。人恋しい気持ちにさせられる。これまであったものが、忽然と姿を消してしまったようで、時には小さい不安にさえ襲われる事もあった。家からたった七分の短い距離を、今日も祐は憂鬱を感じながら登校した。

 校門を中へと入る。思わぬ事故に備えていつも家を早くに出ている祐は、無遅刻記録を中学校の頃からずっと積み重ねてきている。ただし、さすがに寄る病魔には勝てず病欠は何度かあった。その何度かの内二度は、流行性のインフルエンザに巻き込まれたのだった。その時から祐は、シーズンにはマスクをするようになった。

「ほんま早いなあ。おはようさん」

 いつものように先に来ている隆志が、祐に声を掛けた。

「そっちの方が早いだろ」

「まあ、そらなあ。こっちは家が隣やし」

 早朝練習や超朝練習で生徒らが叫ぶ声は、町内でも一度問題になったほどに近隣へ響き渡る。要するにうるさいのである。そんな環境で、五分や十分家を出るのを遅らせても、あまり気分が晴れないのだと隆志は常々言っていた。

「ほんま堪らんわ。特に今日は、超朝練習やろ?」

 普段からうるさい早朝練習に超が付けば、それがどれだけうるさいかは聞かなくても分かる。実際、学校はこの火曜日に関してのみ、学校の近くの家々に理解を求める文書を送っていた。幸い、普段から素行については評判を得ていたので、何とか認められたのである。

「そうだな」

「何とかして貰いたいわ」

 二人がそんな会話をしている内に、第一次電車勢の九人が教室へと到着して、各自の席へと座った。第一次電車勢というのは電車通学の生徒が乗ってくる、時間帯の合う四つの電車の内、一つ目の電車に乗ってくる生徒達の事である。もちろん第二次、第三次、第四次と続いていくのだが、第三次のみ電車ではなくバスで、よく渋滞に巻き込まれて遅刻してくるので、陰では『大惨事バス勢』と微妙にイントネーションをずらして呼ばれていた。

「一時間目は現代文やな?」

「ああ、多分」

「よっしゃ。ほな、ちょっと予習するわ」

 と、隆志は振り返っていた体を真っ直ぐ前に戻した。祐も、机の横に掛けていたかばんから、黄緑色の現代文のノートを取り出した。

 現代文は、比較的美しくノートをまとめられる教科である。縦書きという特殊性はあるものの、書くべき点が明らかである事と、補足説明のしようが様々にある事、そして縦書きである故に日本語が美しく見えるという事、様々な点において、現代文は交換ノート部の目玉となりうる科目なのだ。その上、難度も思うほど高くはない。

 夏休み明けの二学期前半、今やっている教材は、夏目漱石の『こころ』だ。元が長編小説である為に、教科書に載っているのは一部場面を切り取っただけの全く不完全な物だったが、美樹と祐はここに本分からの引用を加えてノートに解説を書き入れる事で、ノートの内容に厚みと説得力を持たせていた。この方法を取ると、ノートは美しいだけでなく、どこか格好良くなるのだ。

 ノートを眺めながらそんな事を考えている内に、チャイムが鳴って、同時に若い国語の男性教師が入ってくる。この国語の教師は若いと言っても中々しっかりした厳しい先生で、先生の姿を見るや否や起立の令を待たずに全員が立ち上がるので、生徒間でのあだ名は彼の名前である『本保』と掛けて『起立屋本舗』だった。今日も、起立屋本舗の合図が出る前に、祐を含めて教室中が立っていた。

「では、授業を始めますよ。よろしくお願いします」

 必要ないほどに深々と、全員が頭を下げる。起立屋本舗に目を付けられると、放課後に呼び出しを受ける破目に陥ると誰もが知っているのだった。

 さて、『こころ』の内容を掴む上でまず肝心なのは、主人公『私』と親友『K』との心情を比較し、そのすれ違いを正確に読み取る事である、と祐は考えていた。

<私にはKがその刹那に居直り強盗のごとく感ぜられたのです。>

 たったこれだけの文章にも、様々な『私』の心情の変化が読み取れる。それらを上手く簡潔にまとめてノートに書けば、それだけでノートが光り輝いてくれるのだ。現代文はだから、時間にさえ気をつけていれば簡単な教科だった。先生から当てられる事もほとんどない。

 居直り強盗、という言葉を黄色い蛍光ペンで囲っておく。こういう表現は美樹も祐もよく知っているからあえて囲まなくても分かるのだが、何となく囲んでおいた方が親切な気がして祐はそうしていた。別にそうするからと言ってノート全体の見栄えが良くなる訳でもないのだが、不思議とそうしなければならない使命感に駆られるのだった。また、こんな事は、ノートを取る上ではよくあった。美樹の『忘れ易いので要注意』という付け足しも、恐らく同じ根を基にされているのだろう。そう祐は思っていた。更にはきっと、美樹も同じ様に考えながら、祐の取ったノートを眺めているのだろうと想像していた。

 現代文がノート作りにおける弱点を持っているとすれば、それは分量がどうしても多くなってしまうことである。まだ数学のノートが最初から三分の二を費やしただけなのに対して、現代文は既に二冊目の、八十パーセントを消費していた。一度の授業につき大体二ページ以上使うのに、週に四回も授業があるから、すぐになくなってしまうのは当然だ。それに、同様の理由から、腕も疲れる。

 祐が今日の分のノートの二ページ目を書き終えた頃、

「……そろそろ時間ですね。では、これで終わります」

 と起立屋本舗は、その普段からもかなり冷静に聞こえる声を、もう一段落ち着かせて言った。起立屋本舗が急にそう言ったので、教室中の生徒達は少しのざわめきを帯びながらも立ち上がった。普段から起立屋本舗は授業を切り上げるのが早いのだが、今日は特に早い。まだ授業時間終了まで、五分強ある。

「ありがとうございました」

 生徒達が深々と頭を下げる。その中を、何か用事でもあるのだろうかと疑ってしまうほど足早に、起立屋本舗は教壇を下りて教室を出て行った。

 そう言えば、一年生の頃にもこの時期に一度こんな事があったような気がする。と、祐は遠い記憶を掘り起こそうと頭を回した。確かあの時には古典教材を扱っていて、まとめが間に合わなかった祐は先生の突然の早退に救われたのだ。

 ふと、祐は違和感を感じた。だがそれは、振り返ってきた隆志の声によって掻き消された。

「起立屋、何やろな?」

「さあ。忙しいんだろ」

 簡単に受け答えする。すぐに、もう一度違和感を見つけようと試みたが、違和感はもうどこにあったのか分からなくなってしまっていて、再び見つける事はできなかった。

引用:

夏目漱石 『こころ』

青空文庫様のデータから引用致しました。

http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/773_14560.html

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