岸辺の平穏・2
照明をきちんと落とし、また歪んだ戸を無理に引っ張って閉じる。少し斜めになったこのドアには、鍵穴がある。問題は鍵がない事だが、それ以前にこうも老朽化した扉の鍵がちゃんと掛かるのかは非常に疑問だ。そもそも南館に立ち入る人はそう居ないのだから、鍵がなくても中の備品……主にノート類が、荒らされるという心配は無用だった。むしろ二人がいつも気を払っているのは、誰も通りかからないが故に一晩そのままにされ得る照明や冷暖房器具の電源を落とす事である。特に冬場の週末は、暖房器具をそのままにしておくと、その月の学校への電気代請求額が大変な事になるので、二度では足りず三度は確認して出るようにするのが、交換ノート部の常識だった。
ところで、南館の教室群のほとんどは鍵が掛かっているのだが、その鍵の全てもどこにあるのか分からなくなっている。その為、廊下に並ぶ教室はあるだけで、中は扉に付いた小さな窓から覗き見るしか確認できない。このような条件が揃う南館は、放課後の夕暮れ時には廊下中が真っ暗になり、全く活動には適さない環境になるのだ。交換ノート部が昼休みに活動する理由はそこにあるのだと、祐は何となく思っていた。
屋根付きの頑丈な渡り廊下を東館へと戻り、そのまま北側階段まで歩く。さほど身長の高い方ではない祐だが、女子生徒の中でも低い方から数え上げて一ケタ台の美樹と並べば、中々に絵になる。
「今回の数学のノートは、ちょっとまとまらなかったかもなんだ。三次関数のグラフは書きにくいよね~」
「ああ、分かる気がする。どうしても線に無理が出るんだよな」
「そうそうそうなんです! 定規で書けないなんてずるいよねっ」
絵になる二人は東館を歩く間も会話を絶やしはしないから、昼休みの幸せそうな祐の顔と同程度に、睦まじい二人の様子もこの学校の名物になっていた。
「んじゃ、またな」
「うんっ。ありがとうございました~」
また、北側階段で良い雰囲気を残しながら教室の事情で一階と三階に分かれる二人も、毎日観客が居るほどの知名度を誇っている。今日も数人のオーディエンスを恥ずかしげに見やりながら、握手しあって二人は別れた。
この時間が過ぎると、祐の表情もとたんに引き締まった、ただの男子生徒へと戻ってくる。階段を三階へ上って、更に北へと歩き、祐は元の三〇六教室の扉を今度は軽い力で開いた。
殆どの生徒が戻っている教室の隙間を通り抜け、奥にある自分の席へと座る。祐はかばんを机の横に掛けてから、さっき受け取ったばかりの化学のノートを取り出した。授業が始まるまでのあと二分ぐらいの時間に、少しでも読もうという腹である。祐が期待していたアルコールとフェノールについて、美樹は『ベンゼン環[*重要*]に直接繋がっているのがフェノール、そうでないのがアルコール』とまとめ、更にヒドロキシル基という名前には『忘れ易いので要注意』と付け足し説明を書いていた。祐は全く忘れっぽい性格ではないのだが、何故か美樹は要点には、いつもこの付け足し説明をしている。
そうしてノートを読んでいる間は、すぐ前の席の住田隆志も、話し掛けては来なかった。きっとこの時間が大切な時間だと理解されているのだろう、と、その部分に関しては祐も隆志に対して良い印象を抱いている。とは言え、それは隆志に限った事ではないのだが。
祐には嫌いな教科が三つある。その内の一つが、これから始まる月曜日五時間目の家庭科だ。理由は交換ノート部に関わっていて、プリント学習しかしない家庭科はノートが存在しないからである。同様に体育と音楽も、ノートがないという理由で祐は嫌っていた。
チャイムが鳴り、気の強そうな初老の女先生がガラガラと音を立てて教室の前側の戸を引いて入ってくると、祐の背中には睡魔の手が掛かる。祐は気合を入れようと自分の頬を引っ張ったが、睡魔はその程度では去らず、祐が静かな寝息を立て始めたのは、そのすぐ後の事だった。
「ほんま良い寝方するなぁ。見習いたいわ」
祐はそんな皮肉交じりの声に腕を掴まれ、睡眠と覚醒の狭間から引き上げられた。
「ああ、どうも」
「プリント、写してもええで」
まだハッキリとしない頭で、隆志から薄い紙を二枚受け取る。実はこのような事は今回が初めてではない。祐の家庭科嫌いは高校生になってからずっとであるし、隆志と知り合いになった夏休み以降、もうこれが四度目になる。断る理由がないから、という事もあったが、隆志の字はその人柄からは想像しがたい丁寧さと柔らかさを兼ね備えており、注釈も的確でよくまとまっていて非常によく仕上がっている為に、実は祐も重宝していた。
「すぐ写して、返すから」
「ええってええって、ほんま。明日返してくれたら十分やわ」
「それじゃあ明日返すな」
人に好かれそうな隆志の積極的な人柄が、やはり祐は苦手だ。悪い気はしないのだが、どうしても気後れしてしまう。それも二年生の始まりからだったのなら今頃かなり仲は深まっていたのかも知れないが、二学期からとなると、何か別の意図を疑ってしまって、祐の気乗りは更に悪くなっていた。
どうやら、授業は終わっていたらしい。十分間の休憩の内七分もの時間を費やしてしまった祐は、出しっぱなしのいつの間にか配られていた自分のプリントと隆志のプリント、それに家庭科の教科書を一緒に、かばんへとしまった。そして、数学のノートを取り出す。次の時間は数学だから、休み時間を過ぎてもノートをじっくりと楽しむ事が出来るのだ。今日、月曜日の午後は、五時間目と六時間目で清濁を併せ持っている時間だった。祐は清濁併せ呑むほどの完成した性格ではないので、残念ながら五時間目は寝てしまうのだが。
数学はまだ、微分法のさわりに差し掛かるか掛からないか程度の所までしか進んでいないが、三次関数における増減表の作成やグラフの作図、頻出する分数の為に、ノート作成は中々に難度が高い。とは言え、一つ前の単元であった数列分野のシグマ記号によって散々苦しめられた祐と美樹にとっては、何とかなるレベルではあった。
美樹の書いた最新分のノートは、彼女が自身で言っていたのとは反対にかなり丁寧にまとまっていた。増減表も、簡潔すぎず冗長すぎず、必要なだけの情報がスペースを取り過ぎずに示されている。ただし、三次関数のグラフについては、消しゴムで何度も消したからかその下の紙が全て灰色になっていて、なるほど錯誤の跡が見てとれた。
ノートは美しさより分かり易さを重視しなければいけないが、それは美しさがどちらでも良いという意味ではないのである。まず見て、ああ、これは綺麗なノートだなぁと思えなければ、ノートを読む気をなくしてしまう。お互いがお互いのノートの質を決める以上、妥協は許されないのだ。そういう点で、消しゴムによる紙の弱まりやくすみは、美しくはないものの勲章だった。
祐は、左ページいっぱいまで数字が並べ書かれているのを確認した上で、右ページの一番最初に自分の名簿番号と名前を書き入れた。二人しか居ないのだから、こんな事をしなくてもノートの筆記者は一目で分かる。だがこれも、交換ノート部の慣例というか、ある意味一つの楽しみでもあるのだ。名前を書くのはつまり、やあやあ我こそはと名乗りを上げるような物で、名乗りが戦場の華ならば記名はいわば紙上の華であろう。少なくとも祐や美樹にとっての記名とは、そういう物である。だから、いかに美しく自分の名前を書くか、というのは、彼らにとっては時に人物評価の重要なポイントになり得る。
そんな事を考える時、祐はまた、自分が隆志を苦手な理由を悩まずには居られなかった。隆志は字が上手いし、もちろん自分の名もとびっきり美しい字で記す。そんな人物がしかも、自分に寄ってきてくれているのに、何故それを素直に受け入れないのだろう。
明確な理由もなく、何となく嫌い。祐ができる説明はその程度だった。その内チャイムが鳴って、数学の老けた爺先生……生徒にはその髪の色から白爺と呼ばれている眼鏡の先生が入ってくると、祐の意識は授業とノートの方へ移った。