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二月三十日の待ち合わせ  作者: さらさら
一.陰鬱なき時間
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岸辺の平穏

 -OHはヒドロキシル基と呼ばれ、フェノールとアルコールに分かれる。エチルとアルコールが結合するとエチルアルコールになるが、これを一般にはエタノールと呼ぶ。

 有機化学の入り口の入り口、眠たくなるような初歩の話である。だがこんな程度の事でも、ノートに丁寧にまとめるとなると、中々に骨が折れる。構造式に表せば良いのか、文章で示せば良いのか。フェノールとアルコールの性質の比較をどう行うと、より綺麗に見えるのか。そんな事を考えていると、詰まらない授業でも生き生きとしていることが出来る。

 小松祐はそんな文章を思い浮かべながら、今日書いた化学のノートの仕上がりを確かめていた。時間は十二時四十分。昼食を終えた後の貴重な昼休みに祐がノートを見直しているのは、彼が勉強好きだからではない。

「またやってるん? お前、ほんま好きやなあ」

 彼のすぐ前の席に座る住田隆志が、そう言いながら祐を振り返った。夏休みが明けてから、つまりは高校二年生の二学期が始まってからまだ一ヶ月と経っていない。だがその一月間に、祐はそれまで全く会話すらした事もなかった筈の隆志から、猛烈なアピールを受けていた。勿論、同性愛の持ちかけなどではなく、友人になりたいとの申し出だ。

「まあな。俺も、そろそろ慣れてきたから」

「あの可愛え彼女さんとやろ? ほんま羨ましいわ」

 断る理由もなく祐は頷いたのだが、隆志はそれでは納得しなかった。どうしても本物の友達になりたいのだ、としつこく詰め寄ってくる隆志に、祐はどう対応すれば良いのか内心迷い続けている。

「冷やかすなって」

 化学のノートをかばんにしまって、祐は立ち上がった。かたん、と音を立てる椅子の右へと足を通して、椅子を机の中へと押し込む。十二時五十分の待ち合わせへ、祐は向かわねばならなかった。

「んじゃな」

「おう。また五時間目で会おう、や!」

 アニメの有名なセリフをオマージュして隆志が見送るのを背に、祐は早足で机と机の間を抜け、教室の扉をくぐった。

 祐は、二人しかいない“交換ノート部”の部員の一人だ。交換ノート部と言うのは、その名の通り『同学年の部員同士』が授業ノートを交換し合い、色んな人が手を加えたノートを作り上げていくという部活動である。最終的に思い出のあるノートが人数分出来る為、青春できるのではないかというのが数年前の卒業生の考えだったらしいが、現在部員は二人しかいない。二人でノートを交換し合うだけの部活動、と聞くと何やらひどく詰まらなそうだが、祐は交換ノート部をかなり満喫していた。

 と言うのも、もう一人の部員が、祐のガールフレンドである杉野美樹なのである。つまり、日毎に教科数だけの交換ノートを行える今の交換ノート部は、交換日記などを遥かに凌ぐときめきなり楽しみなりを持っているという訳だ。

 昼休みは、交換ノート部の主な、というより唯一の活動時間だった。祐の表情はその喜ばしい時間に対して憚らない。廊下を歩くこの間中ずっと垂れ流しになっている幸せそうな顔は、学校内では上級生にも下級生にも知れわたっていて、すれ違う誰しもが彼に暖かな目線を送るのだ。彼はそれに気付いていないが、この学校の小さな名物の一つである。

 三階東館から階段で二階へと降りて、いくらか南方向に廊下を歩くと、旧校舎である南館へと続く渡り廊下に辿り着く。東館と北館が新校舎と呼ばれ現在の授業のほとんどを受け持っているのに対し、南館は先生や事務員ですらほとんど立ち入らなくなった、廃館同然の校舎だ。交換ノート部はこの廃南館に、独自の活動教室を持っていた。

 校内の美化活動が順調に行われているのを示すように、埃一つ感じさせず光っていた廊下が、石造りの渡り廊下を抜けて南館に入ると埃を被った木床に変わった。空気もどこか、年季を感じさせる湿った空気が淀んでいるようで、お世辞にも良い環境ではない。だが、この踏みしめる度に音を立てて軋むこの床も、鼻をくすぐる異質の香りも、祐のお気に入りなのだった。

 南館の、交換ノート部部室より更に必要性の薄そうな教室群……予備化学実験室、体育館倉庫別室、弁当一時保管教室などを横目に、南館二階の最西端に位置する目的地へと歩みを進める。日光の加減でこのお昼時には、照明のない南館の廊下は薄暗くなる。だから、祐は容易に、部室から灯りが漏れているのを確認する事ができた。今日は先を越された。祐はそう頷きつつ、灯りへと近付いていった。

 傾いているのか、南館の教室の扉は大体建て付けが悪くなっていて開けるのに力を要する。その例に漏れない交換ノート部の部室の戸を力一杯に引き開け、祐は中へと入った。

「早かったんだな、今日は」

「えへへ、一番乗りしちゃった~」

 そう言って祐を出迎えたのが、祐の恋人である杉野美樹だ。その人懐こい気性と当たり障りのない外見や成績が受けているから、二人の恋人関係を妬んだり馬鹿にしたりする者がこの学校には居ない。彼女は好かれ者だった。

「でも、交換ノート部の勝ち負けは、スピードでは決まらないのです。授業中の集中力が大事大事~」

「授業中に寝てる事があるって聞いた気がするけどな」

「ふえ、ななな何の事だろ?」

 両手を上へ下へ、動揺と戸惑いをそのままに表す美樹に、祐はこらえ切れず吹き出した。

「ひ、酷いよ祐くん~!」

 ちょうど、ハムスターが珍しく怒る時とそっくりな動きに、尚の事笑いを止められなくなった祐は、表情をそのままにしてかばんを彼のいつもの指定席である、五つ机が横に並べてある内の、一番左の机へと置いた。

「ま、とりあえず交換しようぜ」

「うんっ、らじゃーだよ~」

 美樹もその右隣の椅子に腰掛け、手に提げていたかばんを自分の膝の上へと置いた。

「化学と、数学だったよね?」

「ああ、そうだな」

 二人のノート交換は、非常に緻密なスケジュール表によって管理されている。授業のタイミングに合わせて、出来るだけそれぞれが一回の授業を受けるごとに交換できるようにシステム化されているのだ。とは言え、クラスの違う二人のタイミングを合わせるのは難しく、大抵の場合は二時間から三時間ぐらい片方が続けて書いていた。その中で唯一化学だけが、一回ごとの交換で回していける教科だった。それで二人は、他のノートよりも更に力を入れて、化学のノートをまとめているのだ。

 二人は、二冊のノートを取り出して、ノートを交換し合った。これは交換ノート部の謎の伝統で、ノートの受け渡しの時には黙ってするようにとの部則があるのである。顧問の先生すら不明なこの部活動でそんなルールを守る必要があるのかはやはり不明だったが、二人は律儀にその伝統を守っていた。

「……おお~っ」

 二人して黙ったままノートを広げ、やっと美樹が歓声を上げた。ノートを開いた後は、自由に喋ってもルールに抵触しない。

「字が、また綺麗になってる。さっすが~」

「結構書き直したんだけどな」

「努力の結晶ですね! 私も頑張らないとっ」

 すっきりした体型の美樹は、そう言ってノートを胸に抱きしめた。毎度決まって行われる美樹のこの動作によって、全てのノートは美樹の胸の線の分だけ軽く反り曲がっている。

「ああ、楽しみにしてる」

 祐がノートをかばんへとしまう。ノートは授業の時か、家に帰ってから読む、というのが祐のポリシーだった。何故かは分からないが、何となくそうする方が格好良い気がしてならないのだ。

「えへへ、自信作です。……さてさて、戻ろっか」

 午後の授業開始時刻は、一時五分である。戻るのに掛かる時間も考慮すると、交換ノート部の実質活動時間は十分程度しかない。

「おう、行こう」

 だが、二人はそれでもここに来て、ノートを交換していた。そしてその事に、二人は何の疑問を抱いてはいなかった。疑問を抱かないから、それが自然になっている。効率化、という言葉は、二人には似合わないのだ。祐は、立ち上がってかばんを肩に掛けた。

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