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何かに気付いたように空を見た後、もう帰らなきゃいけない時間だと告げる少女は、男から視線を外し表情を曇らせながら背を向ける。
「ね、あなた…お名前は?」
「…知ってどうする?」
背を向けたままの小さな少女は、竜の名を訊いた。偶然出会っただけの人間に名を告げる事を躊躇うが、彼女はもう一度振り返り、やはり真っ直ぐに見上げてくる。
「じゃあ私から教えるね。私はアリスティアよ。みんな呼びにくいみたいで、アリアと呼ぶわ」
「…お前、こちらの話を聞いているか?」
会話が成り立たないという次元で、アリアは問いに応えずにこにこと笑うだけ。名を告げるまで待つ気かと、盛大な溜め息が零れてしまう。
「レヴィ、だ」
竜にとって名など大した意味は無い。ただ個を識別するためのもの…その程度にしか考えていなかったが、アリアは満面の笑みを浮かべ、白い大きな手を取り喜んだ。
「お名前まで綺麗なのね!レヴィ、明日もここで会える?」
「…は?」
この泉を訪れていたのは、翼の傷を癒すため。それが済めばもうここに留まる理由は無い。今日にでもこの地を離れるつもりでいたが、アリアは期待に満ちた眼差しを向けている。
人間とこれ以上関わるつもりは無い…そう突っ撥ねてしまえば彼女は諦めるだろうか。少しだけ逡巡するが、どうにも無理な気がしてしまう。
「私がお前とまた会う理由は?」
「理由がなくちゃ、会えない?」
「…………」
何故か、肯定出来なかった。頷いてしまえばそれで済んだ話だろうが、アリアが表情を曇らせるのを見たくないと思ってしまう。
「ならば理由を用意してみろ」
無感情に、そして不愛想にレヴィは言葉だけで突き放す。この純真な少女が、それで折れるとは思えないけれど。
「う~ん、理由かぁ…」
細い腕を組み考える素振りを見せるアリアは、少し経って答えを出した。
「あなたの怪我を治した、お礼をください」
「…は?」
何を言い出すかと思えば、治癒の対価を求めてきた。
「私は去れと言ったはずだ。頼んだ覚えもない」
「でも、治らなくて辛そうにしてたよね?」
「…………」
見抜かれていたのか…驚くと同時に、返す言葉を見つけられず視線を逸らすしか出来なかった。
あらゆる魔法に精通はしているものの、自身の背にある翼の傷を治すのは難しかった。助けられたのは事実で、魔法を掛けてくれた彼女に礼をするのは当然でもある。
「で?私はお前に何を払えば良い?」
人間が求める対価は金銭がほとんど。または金銭に換えられる何か。人間が取り扱う貨幣を持ってはいなくとも、金になる品を渡す事は不可能ではない。
しかし、アリアが求めるのは金品の類ですらなかった。
「じゃあ、明日も私と、会ってください」
「……それで礼になるのか?」
「うん!」
迷いなく頷いたアリアは、本当に嬉しそうに笑っている。こんな得体の知れない竜に再び会いたいと望む少女は、レヴィの手を取って握り締めるともう一度告げた。
「今度こそ、本当に戻らなくちゃ!レヴィ、また明日来るからね!」
握っていた手を離すと、少女は踵を返し駆け出して行った。
時折、何もない地面で躓きかけるアリアは、その都度よろめきながらも走り去っていく。小さな姿がさらに小さく遠ざかるのを見送ってから、静寂を取り戻した泉の端に腰を下ろし座り込んだ。
「一体、何なんだあの人間は…」
今まで見てきたどんな人とも違う反応に、困惑せざるを得ない。数千という永きを生きる竜は、自身の手のひらに残る少女の、あまりにも小さな手の感触を思い返すように握り締める。小さいけれど温かく、そして…異常なまでの細さに表情を顰めた。
「…明日、か」
彼女はもう一度来ると言い残して去った。ならば待っていればきっと彼女は来るのだろう。もし来なければそれまでと諦めればいい。たった一日程度の時間くらいなら、待ってみても損をする事は無いのだから。




