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今日も天気が良い。神の祝福を得た大地は穏やかな風が吹き、長い緋色の髪を揺らしている。
薄汚れたローブを纏う少女はいつものように、郊外の泉へと訪れた。他に誰も来る事のない静かなこの場所は、全ての煩雑な現実を忘れるのに丁度よかった。
しかし彼女は出会った。誰もいないはずの泉の畔で佇む、一体の白い竜に。
「わぁ…大きな竜」
その姿を目にしても恐れるどころか、蒼い瞳をきらきらと輝かせている。海の如き蒼白の輝きを放つ四翼を畳んで地面に寝そべる竜は、眠っているのかその目を閉じている。しかし少女の声を聞き取った竜は、ゆっくりと瞼を押し上げ声の主を視界に収めた。金色の眼差しは鋭く、拒絶を込めた視線を若き少女へと向けていた。
『…去れ』
低く、身体の芯へ響くような声が脳に届く。音とも違う声は、しかしどこか苦し気に感じられ、少女は首を傾げた。
「ねえあなた…どうかしたの?」
その場から動こうとしない白い竜を見つめる少女は、ゆっくりと歩み寄り大きな体躯のあちこちを見回す。怪我でもしているのか⋯と、心配する少女がさらに一歩を踏み出そうとする寸前、再び声が届いた。
『近寄るな…去れ…』
少女へと向けていた視線を逸らす竜は、しかし動き出す事は出来ずにいた。彼女が案じる通り、白い竜はその翼に傷を負っている。飛ぶ事も出来ず、魔力が濃いこの場所で癒す他無かったからだ。
「あっ!あなた、やっぱり怪我をしているのね?」
蒼い瞳はその箇所を見つけた。淡い輝きを帯びる翼の一部に赤い血が滲んでいる。目の前にいる竜がそのせいで拒絶の言葉を吐いたのだと、少女も察した。
「ひどい傷ね…治してあげる」
何でもない事のように告げる少女は、小さな手を翳し翼に向けて魔力を放つ。
『何をしている…やめろ、人間』
言葉だけは拒絶を繰り返す竜は、しかし翼に寄せられる魔力が傷口へ作用していくのを感じている。治癒魔法を掛けられているのだと察し、何も聞かずに治療を行おうとする少女へと問う。
『お前は…私が恐ろしくはないのか?』
人間は誰しもが、自分達と違う存在を恐れる。そのせいでこうして傷を負わされた竜は、目の前で微笑む人間の少女を警戒している。
「え、怖くはないよ?だって言葉も通じるし、それに…こんなに綺麗な竜だもの」
彼女が一言を告げる間に、翼にあった傷はすっかり癒えていた。自力では治しきれなかったため、こうして力の集う場所での癒しを必要としたというのに、少女の魔法は竜にも効果を齎すほどの力を有していた。
「うん、これで大丈夫かな。ね、もう痛くはない?」
人間に付けられた傷を、人間が癒した。その事実は竜を戸惑わせていた。
『…おかしな人間だ』
その上、竜を見て綺麗だと言い放った。彼女に抱いた印象はそのまま『おかしな人間』以外になかった。
傷が癒された事で、僅かに警戒を解いた竜の白い体躯は光り輝き、次第に小さく集束していく。やがて人の形を象っていき光が消えた直後、そこに現れたのは長身の男の姿。
「わぁ…あなた、人に成れる竜なのね?」
白銀に海を思わせる青が混じった長めの髪と、竜の時と同じ金の瞳をした、美しい容姿の男。しかし少女はその姿に見惚れる事も無く、背に携えた四翼へと視線を向けている。
「翼、形はおんなじなのに、人に成ると小さくなるのね?」
「気になるのはそこなのか…」
人の身を取った竜の胸よりも低い背丈の少女を見下ろして、呆れたように声を出す。脳内に響いたものと同じ声に、少女は朗らかに笑った。
「人に成っても、綺麗ね」
「…もう一度聞く。お前は、私が恐ろしくはないのか…?」
人間と変わらない姿で、背には翼があり頭には角も生えている。この容姿を恐れ危害を加えようとする人間ばかり見てきた竜は、少女の意外過ぎる反応に戸惑い動揺していた。
攻撃に対してはやり返せばいい。だが受け入れてしまう人間とは出会った事が無い。
「どうして、怖がると思うの?」
「私が人間ではないからだ」
「えぇ~?そんなぁ」
人間ではないと告げた直後、少女は驚いたように声を上げた。翼と角以外は人と変わらないこの姿だが、翼と角のせいで恐れられ、異端として襲撃される事は数えきれないほど経験してきた。本来の竜の姿ではさらに酷く、討伐の名目で襲い掛かる人間もいた。そんな者達を庇護せねばならない事に憤りを覚えるほど。
しかしこの少女からは、恐怖心を抱いている様子は微塵も感じられない。
「こんなに綺麗なのに怖がるなんて、しないよ?」
「…ッ!」
少女は翼と角を持つ男を見上げて、再び綺麗だと言った。蒼い瞳は純粋そのものの眼差しで、真っ直ぐに男を見つめる。
嘘でも虚勢でもなく、本心から言っているのだと分かり、困惑する竜は耐えられずに目を逸らしていた。
「そんな事を言われたのは、初めてだ」
誰もいない泉の畔で、竜は少女に出会った。
数多の辛苦を経て、心を凍らせつつあった竜を絆す少女の存在が、白い水の竜に課せられた運命を大きく変えるとも知らずに。




