帰ったら結婚しようなんて一番信じたらだめですよね
石畳の小道が緩やかに続く小さな村ミルヴェイル。ここは王国の最も辺境に位置し、都の喧騒からは遠く離れた場所だった。朝靄の中、一人の若者が村はずれに立っていた。
「リック、本当に行くの?」
振り返ると、幼い頃から共に過ごしてきたエリナが息を切らせて駆けてきた。茶色の髪を朝日が照らし、彼女の目には不安と悲しみが浮かんでいた。
「行かなきゃならないんだ」
リックは答えた。平凡な顔立ちと細身の体格は、とても勇者と呼ばれる人物には見えなかった。しかし、昨晩の夢で彼は選ばれたのだ。
「王都から使者が来たんだ。魔王の力が強まっている。僕に何ができるかわからないけど、行かないわけにはいかない」
エリナは黙って首を振った。村人たちはリックの出立を不思議に思っていた。なぜこの平凡な若者が勇者として選ばれたのか。彼に特別な力があるわけでもなく、戦いの経験もない。しかし王宮の賢者は彼の中に眠る特別な資質を見抜いたのだという。
「必ず戻ってくる」
リックはエリナの手を取った。
「魔王を倒したら、必ず村に帰ってくる。そして...」
彼は言葉を詰まらせた。
エリナは微笑んだ。
「そして?」
「結婚しよう、エリナ」
リックは真剣な表情で言った。
「僕が帰ってきたら、一緒に暮らそう」
エリナの目に涙が浮かんだ。
「約束よ、リック。あなたが帰ってくるのを待ってるから」
二人は固く抱き合い、リックは王都へと向かう迎えの馬車に乗り込んだ。彼が振り返ると、エリナは手を振っていた。その姿が見えなくなるまで、リックも手を振り続けた。
*
王都へ辿り着くと謁見もそこそこに、魔王討伐のための旅の仲間と引き合わされた。騎士団のカイル、賢者のマティアス、そして弓の名手ローラ。彼らは最初、このような平凡な若者が本当に予言の勇者なのかと疑っていた。
「本当にお前が勇者なのか?」
カイルは初めて会った時、不信感をあらわにした。金髪と整った顔立ち、鍛え上げられた体格の彼は、まさに英雄的な風貌を持っていた。リックとは対照的だった。
「自分でもわからないよ」
リックは正直に答えた。
「でも、行かなければならない気がしたんだ」
旅を続けるうちに、リックは次第に仲間たちの信頼を得ていった。彼の持つ純粋な心と決断力は、困難な状況でチームを導いた。カイルは特にリックを認めるようになり、二人は親友となった。
「村に婚約者がいるんだろう?」
ある晩、野営の焚き火の前でカイルが尋ねた。
リックは頷いた。
「エリナという名前だ。子供の頃からの幼馴染で...僕の全てを知っている人だよ」
「幸せな奴だな」
カイルは星空を見上げた。
「俺にはそんな人はいない。騎士になることだけを考えて生きてきた」
「魔王を倒したら、一緒に村に来ないか?」
リックは提案した。
「エリナにも会わせたいし、きっと村のみんなも喜ぶよ」
カイルは笑った。
「そうだな、考えておくよ。俺はあまり幸せな子供時代じゃなかったから、二人の過ごした村で穏やかに暮らすのもいいな」
*
魔王城は漆黒の山の頂に聳え立っていた。雷が絶え間なく走り、不吉な雰囲気が漂っていた。
「いよいよだな」
カイルが言った。
「用意はいいか、リック?」
リックは頷いた。彼の手には聖剣が握られていた。旅の途中で手に入れた伝説の武器だ。
魔王との戦いは熾烈を極めた。仲間たちは次々と傷つき意識を失うまで戦い抜き、最後にはリックとカイルだけが立っていた。
「リック!左から!」
カイルの警告で、リックは魔王の攻撃を辛うじて避けた。しかし次の瞬間、魔王の黒い魔法がカイルを直撃した。
「カイル!」
リックの叫びが城内に響いた。
倒れたカイルの傍らに駆け寄るとカイルを抱き起こした。
「…リック…そんな顔をするな、…勇者だろう…、俺に悔いはない…勇者を…いや親友を守る事が出来て、本望だ…かならず、エリナのもとへ帰り、幸せになれよ…」
カイルは言葉を残すと動かなくなった。悲しみに打ちひしがれるリックを魔王の笑い声が引き上げた。
「愚かな人間よ、お前の友は死に、お前も間もなくな」
怒りに震えるリックは聖剣を高く掲げた。
「許さない…許さないぞ!」
聖剣が光り輝き、リックは魔王に斬りかかった。激しい戦いの末、ついに魔王は倒れた。しかし、魔王の最後の呪いがリックを襲う。
「私は死なぬ…だが、今の肉体は朽ち果てる…お前の体を…いただくぞ…」
魔王の魂がリックの体内に侵入した瞬間、彼は激痛に苦しみながら意識を失った。
その時、亡骸となったカイルの体がまるで最後の力を振り絞るように淡く輝いた。行き場を失った消えるだけだったはずのリックの魂が、そんなカイルの体に吸い込まれていった…
*
王都アストリアでは、魔王を倒した勇者の帰還を祝う準備が進められていた。王宮の中央広場には花々が飾られ、市民たちは熱狂していた。
「勇者様がついに魔王を倒されたのですね」
アイリス王女は微笑んだ。しかし、その笑みの裏には打算が隠されていた。
「お父様、勇者様をどうされるおつもりで?」
グレゴリー王は口髭をなでながら答えた。
「うむ、当然のことだが、彼に相応の報酬を与えねばならん。爵位と…そして…」
「そして?」
アイリス王女は父王の言葉の続きを促した。
「そして、お前を彼の妻として差し出すのが最も相応しい」
王は断言した。
アイリス王女は表面上は喜びを表しながらも、内心では不満だった。噂によれば、勇者は見た目が平凡で田舎出身だという。彼女のような高貴な王女が、そんな男と結婚することに抵抗があった。しかし、「勇者の妻」という肩書きは魅力的だった。
「しかし、勇者には婚約者がいると聞きましたが…」
側近の一人が恐る恐る進言した。
「愚か者め!」
王は声を荒げた。
「一介の村娘など問題ではない。勇者には王女との結婚が相応しい。それが王国の栄誉だ」
アイリス王女は冷たい微笑みを浮かべた。
「そうですわ。勇者様は必ず私を選ぶでしょう。私は王国最高の美しさを誇る姫なのですから」
そして、魔王城から戻ってきた「リック」は、王都で英雄として歓迎された。しかし、彼の目には異様な光が宿っていた。
*
ミルヴェイル村では、遠い王都からの噂が少しずつ伝わってきていた。
「聞いたかい?勇者となったリックが王女と結婚するらしいぞ」
「まさか…エリナとの約束はどうなったんだ?」
村人たちの間で噂が広がり、エリナの耳にも入った。最初は信じられなかった彼女だったが、次第に不安が大きくなっていった。
「リックが約束を破るはずがない…」
エリナは自分に言い聞かせた。しかし、日が経つにつれて、彼女の心は揺れ始めた。
ある日、王都からの使者が村にやってきた。
「勇者リック・ミルヴェイルと王女アイリス・アストリアの盛大な結婚式が、来月に王都で執り行われることをここに宣言いたします」
エリナはその言葉を聞き、その場に崩れ落ちた。村人たちは彼女を慰めようとしたが、彼女の心の傷は深かった。
「なぜ…なぜリックは約束を破ったの…」
彼女は涙ながらに呟いた。
*
王宮では、「リック」こと魔王の魂が宿った勇者の体が、王やアイリス王女の思惑通りに結婚の準備を進めていた。
「勇者様、村の婚約者のことはもうお忘れですか?」
側近の一人が恐る恐る尋ねた。
「リック」は不気味な笑みを浮かべた。
「村など、もう過去のことだ。私は王都で新しい人生を始める」
しかし、その笑みの裏には邪悪な計画が隠されていた。彼の目的は王家を内側から崩壊させること。アイリス王女との結婚は、王家の血統に魔族の血を混ぜ込むための手段に過ぎなかった。
アイリス王女自身も、勇者の平凡な外見に嫌悪感を隠せなかったが、「勇者の妻」という地位のために我慢していた。
「あなたとの結婚が楽しみですわ、勇者様」
アイリス王女は作り笑いを浮かべた。
「リック」は内心で嘲笑した。
(愚かな女め、お前の胎に魔族の子を宿させてやろう)
結婚式の準備が進む中、王宮の一部の賢者たちは「リック」の異変に気づき始めていた。特に王の弟であるアーサー公は、姪の花婿に不信感を抱いていた。
「兄上、勇者の目に宿る光が、かつての魔王と同じものに見えませんか?」
しかし、王はそれを一蹴した。
「愚かなことを言うな。勇者は魔王を倒したのだ。疑うことなどできん」
*
一方、リックの魂が宿ったカイルの体は、長い療養の末に回復した。彼はすぐに自分の体に起こったことを理解した。
「僕はリックだ…しかし、この体はカイルのもの…」
彼は混乱しながらも、すぐに決断を下した。
「エリナに会いに行かなければ」
カイルの姿をしたリックは、療養の間、付き添っていた仲間のマティアスとローラに真実を打ち明けた。
「信じられないことだが…」
マティアスは驚きを隠せなかった。
「魔王の呪いによって魂が入れ替わったというのか」
「私たちは王都に戻って真実を告げるべきだ」
ローラは提案した。
しかし、カイルの体のリックは首を振った。
「いいや、僕はまずはエリナに会わなければならない。彼女は今、僕が王女と結婚すると思って苦しんでいるはずだ」
そして三人は、ミルヴェイル村へと向かった。
*
ミルヴェイル村に到着したとき、村は沈んだ雰囲気に包まれていた。村人たちはカイルたちを見て驚いた様子だった。
「あなたたちは…勇者様の仲間だった方々ですね」
村長が声をかけた。
カイルの姿のリックは頷いた。
「エリナに会いたいのですが」
村長は悲しげな表情で答えた。
「お待ちください!彼女は...勇者様の裏切りで心を痛めています。お会いになるのはお勧めしません」
「それでも会わせてください」
リックは懇願した。
エリナの家に案内された三人は、庭で花の世話をする彼女の姿を見つけた。以前の明るさは消え、悲しみを湛えた目が印象的だった。
「エリナ…」
カイルの声でリックが呼びかけた。
彼女は振り返り、カイルを見て驚いた様子だった。
「あなたは…もしかしてリックの旅の仲間の…」
「僕はリックだ、エリナ」
彼は真剣な表情で言った。
エリナは混乱した。
「何を言ってるの?リックは王都で王女と…」
「違う」
リックは彼女に近づいた。
「魔王城での戦いで、僕の体は魔王に乗っ取られた。そして僕の魂はカイルの体に入ってしまったんだ」
エリナは信じられない様子だった。
「証拠はあるの?あなたが本当にリックだという…」
リックは静かに微笑んだ。
「僕たちが子供の頃、森の中で見つけた青い鳥のことを覚えているか?怪我をしていたその鳥を、二人で看病して、元気になったら空に放した。その時、エリナは言ったんだ。『私たちもいつか、あの鳥のように自由に飛べるといいね』と」
エリナの目に涙が浮かんだ。その思い出を知っているのは、リックしかいなかった。
「リック…本当にあなたなの?」
彼女は震える声で尋ねた。
「ああ、約束を守るためにここに戻ってきたんだ」
二人は抱き合い、長い間、言葉を交わさなかった。
*
王都では、「リック」と王女の結婚式の準備が整っていた。しかし、アーサー公は自分の疑念を確かめるため、古い魔道書を調べていた。そして彼は恐ろしい真実を発見した。
「魔王の魂の乗っ取りの術…」
アーサー公は息を呑んだ。
「これは最悪の事態だ」
結婚式当日、華やかに飾られた大聖堂に人々が集まっていた。アイリス王女は豪華な衣装に身を包み、「リック」は勇者の証である聖剣を腰に下げていた。
式が始まろうとした瞬間、アーサー公が大きな声で叫んだ。
「止めなさい!彼は勇者ではない。魔王に乗っ取られているのです!」
会場に動揺が走る中、「リック」の表情が一変した。
「愚かな人間どもめ…」
彼の声は低く、不気味なものに変わっていた。
「ようやく気づいたか」
突然、「リック」の体から黒い霧が立ち上り、彼の目は赤く光り始めた。
「私の計画が台無しになったな...だが、もう遅い」
彼は高らかに笑った。
「この王女の腹には既に我が子が宿っている。王家の血に魔族の血が混ざったのだ!」
婚前にも関わらず、すでに純潔を捧げ何度も肉欲に溺れたアイリス王女は恐怖で顔を青ざめさせた。
「嘘…嘘よ!」
アーサー公は準備していた封印の術を唱え始めた。魔力を帯びた鎖が「リック」の体を拘束し始める。
「愚かな…私を封じることはできん!」
魔王は抵抗したが、アーサー公の力は強大だった。
「我が王家の名において、汝を封じる!」
アーサー公の最後の言葉と共に、「リック」の体から魔王の魂が引き剥がされ、用意された封印の壺に閉じ込められた。
リックの体は力なく崩れ落ちた。それは魂のない空の殻となっていた。
*
王宮の事件から三ヶ月後、ミルヴェイル村では小さな結婚式が行われていた。カイルの体のリックとエリナの結婚式だった。
マティアスとローラは二人の結婚式を見届けると、アーサー公に助力するため王都へと戻っていった。
村人たちは最初、この状況に戸惑いを隠せなかったが、次第にカイルの姿をしたリックを受け入れるようになっていた。
「見た目は違うけれど、中身は変わらないリックね」
エリナは微笑みながら言った。
「私はあなたを愛してるわ、どんな姿でも」
リックは彼女の手を取った。
「ありがとう、エリナ。君がいてくれて本当に幸せだ」
王都では、アイリス王女が魔族の子を産んだことで王家は大きな混乱に陥った。王とアイリス王女は退位し、アーサー公が摂政として国を治めることになった。魔族の子は特別な修道院で育てられることになり、その存在は秘密にされた。
カイルの体のリックとエリナは、村で平和な日々を送っていた。エリナはお腹にリックの子が宿り幸せな家庭を築いていた。
「リック、後悔はない?」
ある夜、エリナは夫に尋ねた。
「勇者として凱旋すればもっと美しい人や王女さまと結婚できたのに…」
リックは妻を抱きしめた。
「一度も後悔したことはないよ。エリナと結ばれないなら魔王と相打ちで良かったくらいだ。でも、カイルのことは…、…出来たら、生まれた子が男の子だったら、カイルと名付けていいかな?」
「まぁ…なんて素敵なの、もちろんよ。私たちでカイルを大切に育てましょう」
そして二人は、男の子を家族に迎え小さな村で穏やかな日々を過ごし続けた。
終