第19話 「喪ったもの」
ユーキたちが魔物と出会う少し前、シンディ捜索の指揮を執る為に、情報の集合地点として設定された広場でアレクたちは待機していた。
もちろん子供たちは全員この場に居て、勝手に森へ入る事は許されていない。
「ねぇ。これじゃ、捜索に加わった意味が無いわよ?」
「そうは言っても……。エリザベス様と約束したし、今は動きようがないわよ……」
大人たちとは少し離れた場所でカーラが愚痴をこぼす。もちろん目の届く範囲内である。
捜索開始当初、大人たちと共に森へ入ろうとしたのだが、それは認められず広場での待機を言い渡された。
何も出来ない事に苛立つカーラをクララが諭すが、それで納得できるなら最初から文句など口にはしない。
「ねぇアレク。アタシ、空から見て回るわ。フードを被れば誰も気付かないでしょ」
「うん、そうだね。リゼット、お願いできるかな?」
「ぼくもリゼットおねぇちゃんと一緒にいく~っ」
「ダメよ。フードは1つしかないし、アンタはアレクの鞄の中で大人しくしてなさいっ」
リゼットはそう言って、1人フードを被って鞄から飛び立つ。残されたベルは不服そうにしているが、無理に追いかけようとはしない様子だ。
森の空へと飛んで行ったリゼットを見送ったアレクはキョロキョロと周りを見渡して、いつの間にかエメロンとミーアの2人がいない事に気付く。
「あれ? ミーアとエメロンは?」
「2人なら、ホラあそこ。知ってる人を見つけたみたいで挨拶してくるって」
クララの指差す方を見てみると、確かにエメロンとミーアが大人と喋っている姿が見える。アレクはその大人に見覚えが無いが、エメロンはともかくミーアの知り合いなのだろうか?
そんな事を考えていると、2人がその大人と共にこちらへと歩いてきた。
「キミたちが迷子のシンディちゃんの友達っスね。安心するっス。すぐにシンディちゃんを見つけてみせるっスから」
「この人はヴィーノのお兄さんのブローノさんだよ。シュアープ軍で小隊長をしてるんだって」
「ヴィーノの? あ、そういえば慰霊祭で喋ってた人だ。ミーア、知り合いだったの?」
「いいえ、初対面ですよ? ブローノさんは捜索隊の指揮を執っていらっしゃるらしいので、お話を伺っていたんです」
エメロンの紹介で、その人物がヴィーノの兄である事が判明する。……ヴィーノと喋り方がそっくりだ。
そしてエメロンとミーアは、ブローノから捜索の状況を聞き出していたらしい。
「それでっ! シンディはまだ見つからないんですかっ⁉」
「お、落ち着くっス。ま、まだ見つかってないっスけど、森の中にいるなら数時間もすればきっと見つかるっス。けど……」
「「けど」っ⁉ けど、何ですっ⁉」
「カーラさん、落ち着いて。教会の先生の話では、孤児院にお兄さまとレックスさんの姿が無いそうです。恐らく、シンディさんを探しにこの森にいるものかと……」
「ユーキたちなら心配ないよ。この森にいるなら、すぐに捜索隊の目にも止まると思うし」
ブローノからもたらされた情報は、事態の好転を示すものではなかった。
捜索の完了には最大で数時間かかるという事、そしてユーキとレックスの2人が新たに捜索対象として追加されたという事だけだった。
「まったく……、何してんのよ、あのバカっ」
「きっと、責任を感じていたんでしょう。シンディさんの事を話す時も随分慌てていましたから。お兄さまも……、困っている人を見過ごせなかったんだと思います」
「まったく、帰ってきたらたっぷりお説教してやるんだから。まったく……」
何も出来ない苛立ちをぶつけるように、この場に居ない2人に対して悪態を吐くカーラ。
だが、ミーアに言われるまでも無く分かっていた。2人はシンディを心配したが故に行動したのだと。自分の悪態はただの八つ当たりなのだと。本当は何も出来ないでいる自分と比べて、2人が羨ましいだけなのだと。
「ちょっとっ、なんで大人が近くに居るのよっ?」
「ひゃっ……。リゼット……?」
その時、アレクの耳元でリゼットが小声で囁いた。
全く予期していなかったアレクは、耳をくすぐるその声で軽く悲鳴を上げてしまう。
「どうかしたっスか?」
「う、ううん。何でもないっ」
ブローノに不審に思われたものの、透明になるフードを被っているリゼットの姿は目に映っていない。声もアレク以外には聞こえてはいなかった。
「それより大変よっ。階段があったのよっ! ベルっ! アンタの仕業でしょ⁉」
「ご、ごめんなさ~い。だって、すぐに帰ると思ってたんだも~んっ」
「階段って……、妖精の国に行く階段っ⁉ それ、大人に見つかったらダメなんじゃないの?」
小声のまま、リゼットがベルを叱責する。なんと、ベルは「こちら」へと来る際に出した階段を消さずに、そのまま放置していたというのだ。
もし階段が捜索隊に見つかったら大変だ。リゼット1人の存在でも、大人たちに見つからないように隠れてきたのだ。十数人の妖精が暮らす、妖精の国の存在が大人たちにバレるのはきっとマズイ。
本当は、問題は妖精だけでは済まない。『上』と『下』、その2つを繋ぐ階段の存在など、それだけで学者などの興味を引いて止まない。場合によっては、世界の在り方をすら揺るがす程の大事件だ。
だがアレクはそこまで頭が回らず、ただ「リゼットの家族の妖精が、悪い大人に捕まってしまう」、その心配だけをしていた。
「もう遅いわよ。だって……」
「お~いっ! ブローノ~っ!」
「ん? どうしたっスか? ひょっとして迷子が見つかったっスか?」
「いや、まだだ。だが今、不審な物を発見したって報告があってな……」
ブローノは部下からの報告を聞く為、その場を離れた。子供たちに聞かせて良い報告かどうか分からない為だ。
子供だけになったその時、リゼットとベルが鞄から飛び出して情報を共有する。
「もしかして、今の報告って……」
「絶対に階段の事よっ! アタシが階段を見つけた時、もう大人がソコに居たものっ! も~っ、ベルのおバカっ!」
「ふぇ~んっ、おっきぃおねぇちゃ~んっ」
「わっ、ベルくんっ⁉ ……で、どうするの?」
リゼットも、数年前に同様に階段を出しっぱなしで放置した事があり、その結果エメロンとユーキが『上』で野犬……魔物に襲われるという被害を出した前科があるのだが……。そんな事は素知らぬとばかりにベルを責め立てる。
もちろんエメロンはその事に気付いているが、突っ込みはしない。今重要なのは、クララが言った「これからどうするか?」だ。
「ボクは早く階段を消した方がいいと思うけど」
「って言っても、見つからずには難しいわよ? 階段の出し入れには1分くらいかかるし……」
「それじゃあ見張りがいたら難しいわよね……。夜遅くに、見張りがいない隙に消しに行くとか?」
「それは無理でしょう。聞いた話では、その階段は光っているんですよね? そんな怪しい階段、寝ずの番を置かれるのでは?」
エメロンが考えている間も、アレクたちは階段への対策を相談する。
しかしエメロンが考えているのは、階段への対策では無かった。いや、それも重要ではあるのだが、それよりも1つの懸念がエメロンの頭にこびりついて離れない。もし、もしもだ……。
「もし、ユーキたちが階段を上ってたら……?」
エメロンの放った一言で場の空気が凍り付いた。少し考えれば誰でも気付く、あり得る話だ。そして事実……、アレクたちは知らない事実だが、既にユーキたちは階段を上って『上』に居る。
もし、ユーキたちを『上』に残したまま階段を消してしまったら、ユーキたちが『下』に降りてくる手段は無い。階段は妖精たちにしか出し入れ出来ないのだ。
一応『上』に住む、女王さまや他の妖精の協力で階段を出してもらえる可能性はあるが、ユーキは女王さまの家の場所を知らない。『上』の森がどのくらいの広さなのかは分からないが、偶然妖精たちの家に辿り着くという可能性は、決して高いとは言えないだろう。
「もう捜索が始まって2時間は経つ。ユーキたちが『上』に居る可能性は、高いと思う」
「だったら早く探しに行かないとっ! だって、『上』には……」
「うん。凶暴な野犬……、いや、魔物も居たからね……」
ただの迷子の捜索。その筈だった。
だが、事態はもっと深刻なものだった。その事を、子供たちはようやく悟った。
しかし既に、取り返しのつかない大事な物を喪っていた。その事を、カーラはまだ知らなかった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇
夜の闇の中、自分たち以外誰もいない森の中で、ユーキたちは最悪の生物と遭遇してしまった。
そして最悪の生物との遭遇は、更に最悪の結果をもたらした。
レックスの死――。
『ボーグナイン紛争』で父親を亡くし、孤児となった少年。
父親の死をサイラスの責任と考え、その息子のユーキを毛嫌いしていた少年。
強気なのに気が小さく、臆病で……、なのに妹分のシンディを助ける為に必死に強がっていた少年。
そのレックスはもう、怒る事も、笑う事もない。それをする顔が無い。頭が無い。
大亀の何らかの攻撃で頭部を失い、胸の辺りまで抉れている。その断面からは大量の血液が流れ落ち、地面に血の水溜まりを作っている。周囲には強烈な刺激臭が撒き散らされ、ユーキの鼻を突く。
「レックス……レックス……っ! クソっ……クソクソクソ……っ‼」
名前を呼んでも反応はない。声を聴く耳が無い。返事をする口が無い。
レックスが死んだのは一目瞭然だ。それでもユーキは名前を呼び、返事が無いことに悪態を吐く。レックスが死んでしまったのが理解できない訳ではない。それでも、ただ気が付けばレックスの名前を連呼していた。
しかし当然ピクリとも動かないレックスを見て、ユーキは歯を噛みしめ「その凶行」を為した生物を睨みつけた。
紅い眼をした大亀……。
その高さはユーキの背よりも高く、2m近くあるかも知れない。恐らく全長は5m以上あるだろう。
そんな巨大な亀の紅い双眸が、地面に倒れ伏しているユーキたちを見つめ、当然ユーキと目が合う。
(デケェ……っ‼ それに……、紅い眼……っ‼ 最悪だ……っ‼ クソクソクソっ‼ 最悪だ最悪だ最悪だっ‼ 何でこんな……、レックス……っ‼)
「……シンディっ‼ 立てっ‼ 逃げるぞっ‼」
ひとしきり心の中で悪態を吐いた後、ユーキは即座に逃走を選択した。
魔物でさえなければ、威嚇すれば近寄ってこない可能性がある。野犬たちのように。
だが、魔物が相手ではそのような手段は通用しない。敵がどれだけ大勢だろうと、轟音が鳴ろうとも火に巻かれようとも、例え手足が千切れようとも決して人間を襲う事を止めない。それが魔物が魔物と呼ばれる所以だ。
魔物に襲われて無事に生き残るには、逃げ切るか、魔物を殺すか、だ。……レックスのようになりたくなければ。
魔物化した動物は元よりも身体能力が向上する、というのが通説だ。この亀の種類は分からないが、凶暴な種類の亀の咬力は凄まじく、中には人の骨を嚙み砕くものもいるらしい。
もし、レックスの惨状が噛みつかれた結果だとしたら、近くに居るのは危険極まりない。遠距離からの攻撃手段に乏しいユーキにとっては、戦いたい相手ではない。シンディがいる現状なら尚更だ。
幸い、相手はノロマな亀だ。その上、あの巨体では走るのが得意とは到底思えない。
戦うよりも逃げる事を選択したユーキの判断は正しい。だが……。
「シンディっ‼ 立てっ‼ おいっ⁉ 聞いてるのかっ⁉」
「だ、だって……。レックスちゃんが……」
シンディはレックスの亡骸を揺すり、立ち上がろうとしない。必死に呼びかけるユーキだが、それでも愚図るシンディに苛立ちを覚えた。
「諦めろっ‼ レックスは死んだっ‼ 見りゃ分かんだろっ‼」
これでもユーキは言葉を選んだつもりだった。しかし、罵るように浴びせられた怒声は、冷酷にレックスの死をシンディに告げる。それを受け止めるには、5歳のシンディはあまりにも幼過ぎた。
「……ぅ……、ひっ……、うっ……、ぐっ……」
「泣くなっ‼ 立てっ‼ 立って走れっ‼ レックスはお前を探しに来て死んだんだっ‼ お前が死んじまったら、レックスは何の為に死んだんだっ⁉ お前が死んだらレックスは無駄死にだっ‼ それが嫌なら走れっ‼」
しかし、とはいえユーキだって12歳の子供だ。このような状況で、幼子を優しく諭すような余裕がある訳が無い。結局、ユーキに出来るのはシンディに罵声を浴びせ、責める事だけだった。
不思議な事がある。
当然ユーキはこの間も、大亀を警戒して目を離していない。だが何故か……、何故かは分からないが、シンディに大声で怒鳴るこの間も、大亀はユーキたちに襲いかかる事なくじっとこちらを覗き込んでいるだけで、動かなかった。
ユーキはその事を疑問に思いながらも、今はシンディを逃がすことに意識が割かれ、深く考える暇が無い。
「泣いてどうにかなると思ってんのかっ⁉ どうにもならねぇっ‼ ジっとしてりゃ、コイツにやられて俺たちもお陀仏だっ‼ レックスと同じようになっ‼」
「レックスちゃん……。レックスちゃん、レックスちゃん……」
罵声を浴びせるうちに、ユーキの中の「怒り」がどんどん強くなる。それと同時に浴びせる罵声も、どんどん口汚くなっていく。
それをちゃんと聞いているのかいないのか、シンディは助けを乞うようにレックスの亡骸に縋りついて離れない。
「レックスに頼ってんじゃねぇぞっ‼ それとも何か⁉ 死んで詫びようとか思ってんじゃねぇだろうなっ⁉ 勘違いすんな‼ お前が詫びる相手はレックスじゃねぇっ‼」
「…………? ……だ……れ?」
幼いシンディにも、レックスが自分を探しに来た事くらい分かっている。……その中でレックスは命を落とした。その死の原因が、自分である事も理解していた。
だから「死んで詫びよう」というのも的外れではなかったかも知れない。ハッキリとそう考えてなくても、「自分なんか死んで当然だ」くらいは考えていたかも知れない。だから……。
ユーキの言葉が図星だったからだろうか。詫びる相手を間違っているという言葉にシンディが反応を示した。
「カーラだよっ‼ お前ら3人は兄妹みてぇなモンなんだろがっ‼ まずカーラに謝るのがスジだろうがっ‼ それともお前も死んで、カーラを1人ボッチにするつもりかっ⁉」
「…………っ」
3人は、『ボーグナイン紛争』にシュアープの兵が参戦した時から、教会の保護の元で一緒に暮らしていた。そして紛争が終結してからも、孤児院で共に暮らした。
たった1年半ほどの期間ではあるが、孤児という共通の境遇が生んだ連帯感は、家族と呼ぶに差し支えの無いほどの絆を育んでいた。
自分の所為で、大切な家族を死なせてしまった……。その事を、残ったもう1人の家族に謝らなければならない。それにカーラを……、大切な家族を1人ボッチになんて出来ない。……そうだ、死んで詫びるのはいつだって出来る。もし……、カーラに自分が必要なくなる時が来たら、その時は死んで……、神様の所にいるレックスに謝りに行こう。
ユーキの言葉はシンディに、そんな考えを齎した。
5歳の幼児が考えるには、あまりにもネガティブな思考だろう。健全とは、とてもではないが言う事は出来ない。だが、この思考がシンディにこの場を生きる気力を与えたのも事実だった。
「……いま、は……、いきる……」
「……っ! よしっ! 手ぇ出せっ!」
「生きる」と、そう呟きながらヨロヨロとした足取りで立ち上がるシンディ。そしてユーキに手を引かれながら、2人は階段のあると思われる方角へと歩いてゆく。しかし、シンディのその歩みはふらついて危なっかしく、そして亀のように遅い。
だが、そんなユーキたちの姿を見ても大亀はそれを眺めて見るだけで一向に動きを見せない。
(なんだ……? 何で襲ってこない……?)
シンディの説得に成功したユーキは、ようやく大亀の腑に落ちない行動に疑問の目を向ける。
魔物であれば問答無用で襲い掛かってくるものと思っていた。しかし、目の前の大亀にその気配は全くない。
襲う事が出来ない?襲う必要が無い?……そんな筈はない。様々な仮説を浮かび上がらせ、否定を続ける。
やがて一つの可能性に至ったユーキは、その場で足を止めて大亀に向き合った。
「おにい、ちゃん……?」
「嫌な予感がする。シンディはそのまま階段を目指して移動しろ。俺もすぐに後から行く」
「で、でも……、わたし1人じゃ……」
「大丈夫だ。少しアイツを見張るだけだ。シンディを見失う前に後を追うよ」
1人になる事に不安を感じたシンディ。だが、ユーキは「行けっ!」と強く命令する。
不安が解消された訳ではない。ユーキの考えも読めない。だが、その意志の強さを感じたからか、シンディは1人で再び歩き始めた。それを確認したユーキはナイフを抜き放ち、大亀と対峙した。その時だった――。
本来、意志の読み取れない無表情な爬虫類。その眼から強い殺意を感じた。
大亀はゆっくりと大顎を開け、ユーキの……、いや、その先にいるシンディへと殺意の籠った視線が向けられる。そして先程、レックスが死ぬ直前に聞こえた音が響いた。
”ギ……ギィコ……”
(これは……、さっき感じたヤバい感じだっ‼ くっ、間に合えーーっ‼)
大亀の姿を確認する直前に感じた悪寒。それを再び感じたユーキは、「それ」の標的がシンディだと確信し、大亀に向けて突進する。
右手に持ったナイフに魔力を通わせ、それと同時に魔法陣が輝き、”ブゥゥゥゥン”と振動が手に伝わる。そして、そのまま大亀の頭部を目掛けて、横から切りつけた――。
その直後、”ヴォゥンッ‼”という轟音がユーキの顔面の横を突き抜けた。そして”ドゴォォォンッ‼”という破壊音が鳴り響く。
破壊音の地点を見れば、へし折れた木と、その脇で倒れたシンディの姿があった。
「シンディーーっ⁉」
「……ぅ……ぅうぅぅ……」
大声でシンディに呼びかけるが返事はない。ただ、呻き声が聞こえた為、生きているのだけは分かった。
ユーキは見た。先程の轟音、そして木を破壊した物の正体を……。
それは「石」だった。大亀は口から高速で石を吐き出したのだ。……木を破壊するほどの速度で。
石を吐き出す直前、ノコギリを引くような不快な音が鳴っていた。レックスが死ぬ直前にも……。レックスは大亀に噛みつかれたのではない。大亀の吐き出す石の直撃を受けたのだ。
シンディだけ先に行かせたのは失策だったかもしれない。だが2人で逃げていれば、きっとこちらの手が出せない距離から先程の攻撃をしてきただろう。その時、躱す事が出来た自信は無い。どちらにしても、今は過ぎた事を悔いている時間は無い。今考えるべきは、どうやってこの窮地を逃れるか、だ。
シンディは、どこかを負傷したのか立ち上がらない。立ち上がれないのかも知れない。仮に立ち上がれたとしても、先程までの鈍足を鑑みればまともに移動するのは困難だろう。
かと言って、シンディを見捨てるなどというのはあり得ない。そんな事をすれば、それこそレックスは無駄死にだ。
そして問題の大亀は……、石を吐き出した後も大きくは動かず、じっとユーキを見つめている。その眼の奥……、首のあたりにある、先程ユーキがナイフで付けた切り傷がドクドクと血を流して、レックスの亡骸が作った血溜まりに落ちている。
(ナイフの刃は通る……。あの傷も浅くはねぇと思う……、クソっ、これがナイフじゃなくて剣なら首を落とせてたかも知れねぇのに……)
ナイフの刃は深くまで刺さった。通常の生き物であれば致命傷となっていてもおかしくは無い。普通なら逃走するか、痛みに暴れるかするだろう。だが魔物である大亀はどちらもせず、ただじっとユーキを見つめ続ける。
魔物には痛覚が無いのか?それとも、ユーキが思うより傷は浅いのか?無表情の爬虫類の面貌からは、その意思を読み取る事が出来ない。ただ1つだけ確かなのは、大亀がユーキたちに殺意を向けているという事だけだ。それは表情からではなく、2度の攻撃でハッキリしている。
(シンディは倒れて動けねぇ。大亀はあまり動かねぇが、こっちを逃がす気は無さそうだ。顔からはダメージは見て取れねぇ、けど攻撃は通る……。だったら……)
覚悟を決めたユーキは両脚のスタンスを大きく取り、右手に握るナイフを身構えた。
勝算がある訳ではない。もし大亀の一撃を食らえば間違いなく致命傷だ。対して、こちらの攻撃手段でこの巨体を倒せる保証はない。
だが、未だ息のあるシンディを担いで逃げるのはリスクが高い。だったら――。
「だったら、コイツをぶっ倒すしか手はねぇよなぁっ‼」




