第4話 「殴り合い、そして崩壊」
「っだあぁぁっっ‼」
「ぅらあぁぁっっ‼」
アレクとユーキ、2人のパンチが互いの顔面に打ち込まれる。
互いに防御も回避も一切考えていない。相手の出した攻撃は全て受け止める。それは何かの意思の表れだったのか、それとも頭に血が上り過ぎて防御する事すら考えられなかったのか。
力と力の真っ向勝負。本来ならそれはユーキが圧倒的に有利な勝負だった。
年上である事、体格に差がある事、そして男女の差。これだけの要因があれば負ける筈がない。というよりユーキの事を無分別で恥知らず、と非難されてもおかしくない案件である。
しかし実際は、2人の力はほぼ互角であった。それはユーキがここ数日、ロクに食事も摂らず引き籠っていた事が大きな要因だ。
食事を摂らず、運動もしないユーキの身体は、たった1週間で筋肉量も落ち、あばらも浮き出て、脱水症状さえも出始めていた。殆ど半病人と言って差し支えのない状態と言える。
「がっ、んだらあぁぁっっ‼」
そんな状態であるにも関わらず、ユーキは足を踏みしめ、拳を握り、腕を振るう。
怒りで興奮したユーキは、自分の身体の不調を忘れていた。
「んぶっ、ふっんがあぁぁっっ‼」
だがアレクも負ける訳にはいかない。たとえ、ユーキがどれだけ自分より強くても、どれだけ不調であろうとも。
自分の全てをユーキにぶつけ、ユーキの全てを受け止める。そんなある意味、決死の覚悟でアレクはユーキにケンカを吹っ掛けたのだから。
「ちょっともうっ! 止めてってば~っ! こ、こうなったら……。2人ともっ、みんなを呼んでくるから少し待ってなさいっ!」
自分では2人を止められないと悟ったリゼットは、ミーアたちに助けを求める為に部屋の外へと出た。
この決断はリゼットにとって、あまり取りたくなかった手段である。なぜならミーアたちの居る場所には、大人であるエルヴィスが居る筈なのだから。しかし自分の保身の為に、これ以上2人の争いを放置する事は出来ない。
アレクは飛び去って行くリゼットを横目で見ていた。
だが、そこにユーキの拳がアレクの顔面に叩き込まれる。
「あぐっ⁉」
「何よそ見してんだ? まさか自分からケンカ売っといて、エメロンたちに助けて貰おうってんじゃあねぇよなぁ?」
不意打ち気味に殴られたアレクの鼻から、血がボトボトと流れ落ちる。どんどんと溢れてくる鼻血は、拭ったくらいでは一向に止まる気配がない。
下を向いて痛みに耐えるアレクに、ユーキは勝ち誇るように言い放つ。
「今「ゴメンなさい」っつうなら、許してやってもいいぜ?」
それはケンカで優位に立った者の常套句。だがこのセリフは、続行するかどうかの選択を相手に委ねる言葉に他ならない。それは言い換えれば「自分はもう止めたいけど、お前はどうだ?」と尋ねる事と同義である。
そう、ユーキはケンカをもう止めたかった。だがアレクは、そんなユーキの弱気を許すつもりは無かった。
アレクは、流れ落ちる鼻血を抑える事すらせずに下を向いた姿勢のまま、ユーキに向かって突進した。
「ぐぁっ⁉」
アレクの頭部がユーキの顔面に直撃し、ユーキの鼻からも血が溢れ出す。
「これがボクの答えだっ! ユーキがボクを許しても、ボクは『そんなユーキ』を絶対に許さないっ‼」
「て……んめぇ……っ!」
血の滴る鼻を抑えながら、鬼のような形相でアレクを睨むユーキ。
だが、自分自身でも自覚していないユーキの心は、まるで悲鳴のような感情で渦巻いていた。
せっかく終わりにしようと思ったのに。せっかく終わりになると思ったのに。まだ続けようというのか?
身体中が痛いのに。立っているのも辛いのに。まだ続けなければいけないのか?
もう殴りたくない。もう殴られたくない。なのにコイツは、まだ殴り足りないのか?
殆ど泣き言のような気持ちのユーキとは裏腹に、アレクの心は闘志に満ちていた。
まだ自分はユーキに全部をぶつけてない。まだユーキの全部を受け止めてない。全部、出すんだ。全部、出させるんだ。だから、こんな中途半端で終われない。全部を出せば、出させれば、その時きっと何かが解決する。だって、だってだってユーキは――。
「ボクの『英雄』のユーキは、そんな弱虫じゃないっっ‼」
「…………はっ?」
「ユーキは強いんだっ! 凄いんだっ! 何だって出来るし、出来ないコトだって出来るようになるんだっ! 絶対に諦めないし、負けたって負けないんだっ! 仲間想いでっ、優しくてっ、気遣いも出来てっ! 賢くってっ、ちゃんと考えててっ!」
「俺……は、そんな…………」
それはアレクのユーキに対する一方的な期待だった。「ユーキにはこう在って欲しい」という。
腕を振り回しながら叫ぶアレクの声に、ユーキの呟きは掻き消される。「俺はそんな立派な人間じゃない」という呟きが。
だが、続くアレクの叫びが、ユーキの心の核を撃ち抜いた。
「1人で何でもやろうとしてっ! ホントの気持ちを言えなくてっ! 他人に頼るコトを知らなくてっ! ……大好きなおじさんが死んで悲しいクセにっ! 不安なクセにっ! ……ボクを……ボクと、ボクの父さんが憎くてしょうがないクセにっ‼」
それはこの数日間、ユーキが心に浮かぶ度に否定してきた言葉だった。
アレクの拳が、言葉が、心臓に突き刺さる。
親父とは、そんなに仲が良かった訳じゃあない。むしろケンカばかりしてきた。
貯金もあるし、働けばきっと何とかなるだろう。世の中には、もっと悲惨な子供が溢れている。
アレクの親父さんを……、ましてやアレクを憎むなんて、お門違いにも程がある。
「…………ぉ」
ずっと……、ずっとそうやって否定してきた。
悲しんで何になる?
不安がっても解決しない。
あの人を……、親友の親父さんを憎むなんて……、無理だ。
「……ぉっ……、お前に、何が分かるーーーっっ⁉」
アレクの指摘は、否定してもしきれない、それでも否定するしか己を保てないユーキの本心の叫びだった。
だからユーキはアレクを否定する。否定して、否定して否定して……。「お前は何も分かっていない」と。アレクは、ユーキよりもユーキの事を理解っているというのに……。
目から涙が溢れてくる。それを誤魔化すようにユーキは雄叫びを上げて、アレクに突進した。
身体を支えきれずに倒れたアレクの上で、ユーキは何度も拳を振るっていた。
「ああぁぁぁーーーっっ‼ ……そうだっ‼ お前らがっ‼ お前の親父がいなけりゃっ‼」
ユーキは、アレクが憎くてしょうがなかった。
ずっと我慢して、ひた隠しにして、否定してきた。それを続ける為には、アレクを否定するしか……、なかった。
アレクは無抵抗でユーキの拳を受けていた。
ユーキの拳は痛くはなかった。ユーキの体力が尽きていたのか、それとも本気で殴っていないのか……。ただ、ユーキの顔から零れてくる雫が、傷に沁みて痛かった……。
「兵隊なんて、ならなきゃよかったんだっ‼ お前の親父がっ‼ 俺の親父を殺したんだっ‼」
いつしかアレクを殴る手は止まっていた。
ガラスで切って、ユーキに殴られて、傷だらけのアレクと見つめ合う。
「親父……帰ってくるって言ったのに……。俺……独りじゃねぇか……」
それは、心からの悲鳴だった。
口にすれば他人を傷つける、自分を保てなくなる。だから、他人を傷つけてでも自分を保つために黙ってきた。
「……ユーキは独りなんかじゃない。ボクが、ボクたちが一緒にいる」
それは、力強い断言だった。
自分も相手も傷つけて、ユーキの心を破壊して。ボロボロのアレクが、ボロボロのユーキに放った言葉。
ユーキがここまで必死に取り繕って守ってきた、心の壁の最期の1枚は、アレクのこの言葉で――崩壊した。
「……ぅ……うわあぁぁぁぁーーーーーーっっっ‼」
◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「ちょっとミーア! 何で止めに行かないのよっ⁉ アレクとユーキがケンカしてんのよっ⁉」
2人のケンカを止める為、みんなの手を借りようと玄関までやってきたリゼットだったが、それはミーアの「もう少し様子を見ましょう」というセリフで静止された。
「大丈夫……。きっと、姉さまとお兄さまなら大丈夫ですから」
そういうミーアだったが、外から見るとちっとも大丈夫そうに見えはしない。
ミーアの瞳は不安げに揺れているし、何より何度も「大丈夫」と繰り返すのは不安の裏返しではなかろうか。
「……僕はそこの妖精さんの言う通り、止めに行った方が良いと思うけどねぇ。……ほぉら、中々の暴れっぷりだねぇ、これが」
エルヴィスの言う通り、2階からはドッタンバッタンと暴れ回る激しい物音に加え、時折叫び声が聞こえてくる。
「な、なぁ……、やっぱ少し様子を見に行った方がよくねぇ?」
「でも……、アレクくんは「何があってもエルヴィス先生を足止めしといて」って……」
「いやでも、何か壊れる音もするっスし……。ヤバくねぇっスか……?」
2人の暴れる音に子供たちも次第に不安になってくる。
既にエルヴィスを拘束する腕の力も弱まり、その気になればエルヴィスはいつでも抜け出せる状態になっていた。
だが、いざエルヴィスが抜け出そうとしたその時、左脚を掴む手に力が込められた。
「……アレクを信じよう。ミーアの言う通り、2人なら大丈夫だよ。今、僕たちが行っても……、きっと邪魔になる……」
「エメロンさん……」
エメロンは2人を信じていた。
ユーキは強い。強くて賢い。身体も、心も、自分とは比べられないくらい。
アレクは真っ直ぐだ。一途で、眩しくて……。たまに、見ていると胸が苦しくなるくらい。
ずっと一緒にいたエメロンにはよく分かる。ずっとアレクを見てきたエメロンは痛い程に知っている。
あの2人には、特別に強い絆がある事を……。アレクが、誰を一番見ているのかを……。
だから、2人は大丈夫だ。きっと、何があっても2人なら乗り越えられる。例え、2人の間に自分が居なくても……。
それが、悲しくて……、悔しくて……、羨ましくて……。
「やぁれやれ、これじゃあ抜け出そうにないねぇ。でぇも、ちょっと痛いから少ぉしだけ、力を緩めてくれると嬉しいんだなぁ、エメロン君?」
「……その手には乗りませんよ、エルヴィス先生?」
「君はユーキ君と違って、もっと素直だったのにねぇ。先生は悲しいんだなぁ、これが」
そして数分後。2階からひと際大きな叫び声が聞こえた。
「これ、ユーキの声だよな? ってか、……泣いてねぇか、これ?」
「……そんな風にも聞こえるっスね」
「あのユーキくんが? まさか……」
聞こえるのは確かにユーキの声だ。それは間違いない。
そしてロドニーの言う通り、気合の雄叫びとも、苦痛の悲鳴とも違う。まるで幼子の泣き声のようだ。
しかし、あのユーキがこんな泣き声を上げるか?ユーキはいつも大人ぶってて、利口ぶってて、格好つけで……。
そのユーキがこんな、まるで迷子の子供の様な、親にワガママを言う子供の様な泣き方をするのが信じられない。
「なぁ、もう決着ついたんじゃね? そろそろ様子見に行かねぇか? 今行きゃ、ユーキの恥ずかしい姿が拝めっかも……」
「あ、それ、わたしもちょっと見てみたい……」
「ロドニーさんっ! クララさんまでっ! 真面目にして下さいっ!」
「だってよぉ……。一体いつまでこうしてりゃ、いいんだよ?」
ユーキの泣き喚く姿を見たいと、やや不謹慎な言葉をミーアが咎めるが、ロドニーは更に不満を漏らす。
確かに、既に10分以上こうしている。ケンカの決着が着いたというのなら、様子を見に行くというのも道理ではある。しかし、その動機がユーキの痴態を見たいからというのは……。
「僕は、もう少し待ってあげた方がいいと思うな。ヴィーノは?」
「オイラも同感っスね。だいたいロドニー、立場が逆なら絶対に見られたくないっスよね?」
「うっ……、そりゃあ……。な、なぁ、リゼットはどうよ?」
「……アタシは最初っから上に行こうって言ってたんだけど?」
珍しくロドニーと意見の分かれたヴィーノは、暗にユーキの気持ちを考えろ、と言ってくる。
痛い所を突かれたロドニーは、話を逸らすようにリゼットに意見を求めるが、こちらは非常に不機嫌な様子だ。
「3対3か……。きれいに別れちゃったね……」
別に多数決をとっていた訳ではないのだが、エメロンがボソッと呟いた。
様子を見に行くのに賛成なのが、ロドニー、クララ、リゼット。反対なのがエメロン、ヴィーノ、ミーア。確かにキレイに真っ二つだ。
「そぉれじゃあ、僕は様子を見に行く方に票を入れようかなぁ? そぉれとも、僕には投票権は無いのかなぁ?」
別に多数決をとっていた訳じゃない。だが、エルヴィスの発言を否定する者は誰もいなかった。
そうこう話している内にユーキの声は聞こえなくなり、家の中は驚くほどの静けさに包まれていた。
子供たちは自分の足音すらも響く中、そぉっとユーキの部屋の扉を開く。
「あっ! アレ――っ!」
「しぃーーーっ。静かにっ。ユーキが起きちゃうよ」
「おぉやおや、これはこれは……」
窓ガラスが割られ、暴れ回って散らかった部屋の中で、切り傷と痣、そして鼻血でボロボロになったアレクと、そのアレクに頭を抱きしめられて眠る、同じく痣でボロボロになったユーキの姿があった。
その部屋の惨状と、2人のケガは凄惨と呼んで差し支えないものだったが、疲れて眠るユーキの顔は非常に穏やかなものだった。
そして、ボロボロの顔で……、それでも満面の笑顔でピースをするアレクの姿は眩しかった――。




