第3話 「アレクは逃がさない」
少しだけ時間は遡り、ユーキの家の前で仲間たちと別れたアレクは1人で……、いや、鞄の中のリゼットと2人でユーキの家の裏手に回っていた。
これは、何度も門前払いを食らったエメロンが「多分、エルヴィス先生は中に入れてくれないと思う」と言ったのに対して、リゼットが「じゃあ、コッソリ入っちゃえばいいじゃない」と意見した結果である。
最初は、比較的常識人のエメロンとクララが反対したのだが、他に確実な手段が思いつかなかったのと、他ならぬエメロン自身が正攻法では無理だと言った事、そして多数決の結果、このような事になっていた。
今はミーアたちが、エルヴィスの足止めをしてくれている筈である。
「ユーキの部屋は2階よね? どうやって上がる? アタシがロープか何か探してこよっか?」
鞄から顔だけを出したリゼットがそう提案する。
アレクの立つ位置からはユーキの部屋の窓が見えるが、階段はもちろん、ハシゴもないし、足場になるような物も何もない。
「ううん。あんまり時間もないし「アレ」をやってみるっ。危ないかもしれないから、リゼットは鞄から出てて」
「えっ、「アレ」で上るつもり? 大丈夫?」
アレクとリゼットの言う「アレ」とは『根源魔法』を使った身体強化の事だ。
『根源魔法』には以前にアレクが使った、魔力そのものを放出する魔法の他に、魔力で自身の身体を強化する魔法もある。それを使えば、身体をより固く、より強く出来るのだ。
エルヴィスから魔法を教わるようになって既に3年近く。ひたすら魔力制御の上達に努めたアレクは、多少なら『根源魔法』や『戦闘魔法』を使う事も出来るようになっていた。
しかし、それはリゼットが心配しているように、決して自由自在とか、安全に、というものではない。他の事に気を取られずに集中してようやく、といった感じなのだ。
今回のように身体強化でジャンプしようとする場合、うっかり強化を強くし過ぎれば、身体が反動でダメージを受けたり、高く跳び上がり過ぎて墜落してしまう可能性があるのだ。
「ダイジョーブだって」
だというのにアレクはいたって楽観的だ。
アレクは笑顔でリゼットを鞄から追い出すと、少し屈んで屋根を見上げて集中し始めた。
こうなってしまうとリゼットに出来る事は何もない。下手に口出しをすればアレクの集中を乱してしまうだけだ。
数十秒の間、無言で集中していたアレクは「よし」と呟くと、魔法で強化した下半身を一気に伸ばして跳び上がった。
「わっ、わっ!」
アレクは自分で思い描いた位置よりも少し高く跳び上がり、”ドスンっ”と大きな音を立てて屋根に着地した。
反動で、強化をしていない腰から上が痺れる。全身を満遍なく強化すればこの問題は解決できたのだが、この時のアレクにはその発想が無かった。
「っくぅ~~っ! ……はぁっ、何とか着地成功っ。……あっ、屋根が少しヘコんじゃった。ユーキ、怒るかな?」
「もうっ、危なっかしいわね。でもまぁ上出来ね。褒めてあげるわ」
飛んで外から見ていたリゼットが偉そうにそう言う。着地の衝撃で陥没した屋根についてのコメントは無いようだ。
アレクもヘコんだ屋根の事についてこれ以上言う事もなく、屋根の上を移動し始めた。向かう先はユーキの部屋の窓だ。
「アレク、足場が不安定だから気を付けなさい」
「リゼットって意外と心配性だよね。ダイジョーブだって、ホラ」
注意喚起を促すリゼットに対して、アレクはあんまり聞き入れる様子は見られない。リゼットを心配性と評した上、自分の余裕を見せつける為か、片足でバランスを取り始めた。
「アンタ、その楽観的な性格直さないと今に痛い目に遭うわよ?」
リゼットも他人から見れば人の事を言えるような性格とは言えないのだが、自分の事を棚上げして上から目線でアレクに忠告する。もちろん、そんな言葉がアレクの心に響く筈もない。
「ダイジョーブ、ダイジョーブっ」
アレクだって本気で危ない事をするつもりなどない。危険に自分から突っ込む気など無いし、出来ない事をやろうとしてケガをするつもりもない。……それらが全てアレクの主観であり、他人から見た時に無謀に映るのが問題なのだが。しかし、それを指摘されてもアレクが考えを改める事はないだろう。
だってアレクが危なくなれば、きっと仲間たちが……、絶対にユーキが助けに来てくれる。アレクの仲間たちに対する、特にユーキへの信頼感は根拠のない万能感に満ちていた。
きっとアレクのこの考えは変わらないのだろう。リゼットの言う「痛い目に遭う」その日まで……。
軽い足取りでユーキの部屋の窓までやってきたアレクとリゼットは、窓の外から部屋の中を覗き込む。部屋に明かりは無く薄暗い。ただ、ベッドの上の布団がこんもりと膨らんでいるのが見えた。
「ユーキ、寝てるの?」
「ふんっ、いい身分よねっ。真っ昼間から居眠りなんて、どこの貴族様かしら? こらっ、起きなさいよっ!」
不満と嫌味たっぷりにそう言って、リゼットが力いっぱいに窓を叩く。とはいえ、リゼットの体格では”カンカン”と小さな音が響くだけなのだが。
しかし、その行為は効果があったようで、ベッドの上の布団がのそりと動き出す。そしてはだけた毛布からユーキの顔が姿を現した。
ユーキの顔を見た瞬間、アレクとリゼットの動きは止まり、息を吞んだ。
髪はボサボサで寝癖が酷い。頬は痩せこけて、輪郭までもが変わってしまっている。目は落ち窪み、隈が酷い。眼は血走り、ギョロリとアレクたちを睨んでいる。それらの風貌と緩慢な仕草は、まるで物語の中の不死者か食人鬼のようだ。
「ユー……キ…………?」
目の前にいる少年は本当にユーキなのだろうか?一度、ではない。二度、三度と見直しても、それでもこれがユーキなのだと信じられない。目も、口も、表情に至るまで、全てがまるで別人だ。
ユーキはゆっくりと立ち上がり、窓際へと近づいてくる。アレクとユーキは互いに顔を見合わせながら距離が詰まってゆく。
アレクは言葉を発する事も、何らかの動きを見せる事も出来なかった。目に映る光景を整理しようと、でも理解できなくて、何もする事が出来なかった。
やがてアレクとユーキの間には窓一枚を挟んで、僅か数十cmの距離となった。
「…………帰れ」
短く、たった一言だけ、自分の要求を伝える為にユーキは口を開いた。
1週間ぶりに聞いた親友の声もまた、別人のようにしゃがれて掠れていた。なのに窓を挟んでいても、まるで頭に直接響くかのようにハッキリと聞こえる。
しかし、「帰れ」と言われて素直に帰る訳にはいかない。
せめて一目でもと思ってやって来たが、本当に一目見て帰るつもりは毛頭ない。なにより、それで見たユーキの姿がこれでは帰れる訳がない。
「ちょ、ちょっと待ってよっ! ユーキ、どうしたのさっ?」
「帰れ」
「みんなも来てるんだよ? みんな、ユーキを心配してるっ」
「帰れ」
頭の整理も儘ならないまま、アレクは必死に訴えかけた。「何を言おう」とか、「どう話を持っていこう」などという考えはなく、ただ「放っておけない」という気持ちで一杯だ。
しかしアレクの気持ちがユーキに伝わる様子もなく、表情をピクリとも動かさずに淡々と「帰れ」と繰り返す。そこには感情が一切感じられず、まるで壊れたおもちゃのように同じセリフを繰り返していた。
「そ、そうだっ! ユーキに伝えなきゃいけないコトが……」
「帰れっつってんだろっっ‼ …………っ!」
引き下がる事なく話を続けるアレクに痺れを切らしたのか、ユーキはとうとう叫びを上げた。アレクは驚きに目を見開き、ユーキの顔を凝視する。
そして一方的に言い放ったユーキは、顔を隠すように毛布を頭から被り、背を向けてゆっくりとベッドへ向けて歩き出した。
アレクは見逃さなかった。いや、ユーキの姿を見た時から一瞬たりとも、その顔から目を逸らさなかった。だから気付いた。
ユーキが叫んだ瞬間、その表情には「怒り」の感情が宿っていた事を。その後、更に何かを言おうとしたが、それを押し殺して呑み込んだ事を――。
「……リゼット、ゴメン。危ないから、またちょっと離れてて」
「アレク? どーすんの?」
こうするのが正しいのか、それは分からない。いや、きっと間違っていると、そう答える人の方が多いだろう。でも、アレクにはこれしか思いつかなかった。だってユーキの「怒り」は、間違いなく自分に対して向けられたのだと感じたから。
大丈夫。リゼットは離れたし、ユーキは頭から毛布を被って背を向けている。誰もケガはしない。
最後に確認をしたアレクは意を決して、目の前のガラス窓を殴り割った。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「帰れっつってんだろっっ‼ …………っ!」
突然、窓から訪問してきたアレクは何度「帰れ」と言っても帰る様子が見られない。そのあまりのしつこさに、つい苛立って大声を出してしまった。いや、苛立ったのはアレクがしつこかったからだけではない。
ユーキがその後に続けて言おうとして、何とか踏みとどまったセリフが本質的な理由だ。
『そもそも、お前の親父がいなきゃ、俺の親父が死ぬ事なんてなかったのに』
それは、ある意味では事実である。レクターが居なければサイラスは兵士になる事も無く、少なくとも此度の戦争で死ぬ事はなかっただろう。その怒りの矛先を娘のアレクに向ける事は、ある意味で当然の感情と言える。
しかし、たとえ事実であっても決して口にしてはいけない言葉でもある。当のレクターだって戦死しているのだ。それを娘のアレクに言う事は、彼女にとって理不尽以外の何物でもない。辛うじてではあるが、現状のユーキでもその分別はついていた。
ユーキは怒りに歪んだ自分の顔を隠すように毛布を被り、ベッドへと向かう。
これ以上アレクと話していてはいけない。この「怒り」をアレクにぶつけるのは筋違いだ。でも話していれば抑えていられる自信が、ない。
だからユーキは、アレクと自分の心に背を向けて……、逃げた。
ユーキはおおよそ12歳の子供とは思えないくらい賢い子供だ。するべき事、するべきではない事の分別もつくし、相手の気持ちを慮る事も出来る優しい子でもある。
だが、いくら賢くても優しくても、12歳の子供なのである。幼い頃に母親を亡くし、そして今、父親も亡くした。その心には「不安」と「怒り」が渦巻いている。そして、誰かに「縋りたい」、「甘えたい」そんな気持ちで一杯だ。
……なのに頭の良さとプライドの高さゆえに、これらの気持ちを無意識に否定する。意識したとしても押し殺す。
もはやユーキは思考の袋小路に陥っており、1人ではどうやっても抜け出せない状態になっていた。
なのに他人を傷つけたくない、いや、自分が傷つきたくないユーキは他人を拒否していた。エルヴィスを。そしてアレクを。
……それが自分も他人も、より傷つける選択になっていると気付きもせずに。
だが、「逃げる」ユーキをアレクは簡単には見逃してはくれなかった。
”ガシャァァンッッ‼”
激しい物音に振り返ると、そこには割れた窓ガラスと、ガラスを割ったままの勢いで入室してきたアレクの姿があった。ガラスで切ったのか、拳や頬が切れて血を流している。
しかしアレクは負傷を気にも留めずにそのままユーキの元へ駆け寄り、その右腕を振るった。
「ユーキィィッ‼」
「ぐっ……」
突然アレクに殴られたユーキは訳が分からない。一体なぜ殴られたのだ?確かに怒りの感情を向けはしたが、一線を越えてはいないハズだ。それとも自分が気付かない内にアレクの怒りの琴線に触れてしまったのか?
混乱するユーキだが、口の中に広がる血の味が身体に緊張を伝え、無意識に拳を握る。
「…………何の、つもりだよ?」
「痛かっただろっ? さぁっ、やり返してみなよっ!」
ユーキの質問に答える事なく、アレクは胸を張って「やり返せ」と言ってくる。しかし……。
「くだらねぇ……。俺にお前を殴る理由はねぇよ」
ユーキはそう言って再びアレクに背を向けた。
殴られた事は殴り返す理由にはならない。恐らく、腑抜けた自分に喝でも入れるつもりだったのだろう。
サイラスの件を殴る理由にしてはならない。それは、ただの八つ当たりになってしまうから。
だが事がここまで至っても、なおも逃げようとするユーキは認識が甘いのか、それともアレクを侮っているのか。
アレクは背を向けたユーキにタックルをするように跳びつき、倒れたユーキの上に馬乗りになった。
「ちょっとっ、アレクっ! 何してんのよっ⁉」
「逃げるなっ! 殴り返せよっ! このっ、卑怯者っ‼」
リゼットの制止も聞かず、そう叫びながらアレクは何度もユーキを殴る。
手加減なんて微塵も感じない。小柄なアレクの殴打でも、1発殴られる度に身体が痛む。
アレクの行為は、ユーキが必死に抑え込んでいた「怒り」を次第に肥大させ、溢れさせる。
コイツは一体何でこんなに怒っているんだ?俺がコイツに何かしたのか?したとしても、こんなに一方的に殴る事はないんじゃないか?そもそも俺の方がコイツに怒っていたんじゃないのか?そうだ、怒るべきは自分の方なのに……。俺は親父が死んで、こんなにも悩み苦しんでいるのに……。なのにコイツは父親が死んでも、それほど堪えているように見えない。それに何だ?卑怯者?俺の何が卑怯だって言うんだ?無抵抗の人間を殴るお前の方がよっぽど卑怯者じゃないか。お前が偉そうに語るなっ!父親が死んでも普通でいられる薄情者のクセにっ!何でこんな奴に殴られなきゃいけないんだっ⁉何で俺が我慢しなきゃいけないんだっ⁉何でっ、何で俺ばっかりがこんな目に――。
溢れる感情が身体に力を与える。歯を食いしばり、腹に力を入れ、拳が固く握りしめられる。
「どうしたっ⁉ 何で殴り返さないっ⁉ ボクが女だからかっ⁉ それとも――ぶっ……!」
セリフの途中。それを遮るように、アレクの右頬にユーキの左拳が叩き込まれた。
「そんなに殴って欲しけりゃ殴ってやるよ。……後悔すんなよ」
「あ~もうっ、ユーキまで~っ⁉」
ユーキの反撃を受けたアレクは馬乗りの状態から後ろに下がり、立ち上がったユーキと互いに睨み合う。
「ね? もう止めよ? ホラっ、2人とも殴り合っておあいこってコトでさっ」
「散々、好き勝手やってくれたな。……覚悟は出来てんだろうな、アレク?」
「ユーキこそ、年下にケンカで負ける覚悟はできてるのっ? 今なら許してあげてもいいよ?」
「お前がっ、俺に敵うと思ってんのかぁっ⁉」
必死に仲裁しようとするリゼットだったが完全に無視されて、2人は殴り合いを開始してしまった。
「もぅ~っ! 人の話を聞きなさいよーっ!」




