第35話 「捕らわれの王子様」
メルクリオの意識は、深い闇の中にいた。
20年を生きたこれまでの人生は、決して輝かしいものではなかった。
エストレーラ王国の第1王子として生を受けながら、生まれつき身体の弱かったメルクリオの幼少期の記憶はほとんどがベッドの上だった。
衣食住の全てはメイドたちの手によって行われ、ただ本を読んで空想の世界に逃げるだけの毎日だった。
たまに父母が様子を見にやって来るが、その態度は腫れ物に触れるかのようだった。弟がいるという事は知っていたが、当時のメルクリオは会う事も出来ず、顔さえも知らなかった。
家族にさえ碌に会う事の出来ない子供……。しかしそれも仕方のない事とメルクリオは諦めていた。
父も母も、国王として、王妃としての公務で忙しいのは知っている。弟に会えないのも、自分の代わりに王太子としての教育を受けて大変だからだろう。
自分の弱い身体が恨めしい。
この身体は月に数日は高熱でうなされ、立つ事も出来ない程の痛みに襲われる。こんな身体では父母の、弟の、国の役に立てる訳が無い。まさしく役立たずだ。
「殿下。今日からこの娘が専属のメイドとなります」
ある日、メイド長からそう紹介されたのは同じ年頃の、栗色の髪と、琥珀色の瞳をした少女だった。
彼女は幼いながらも他のメイドたちと同じ意匠のメイド服を着て、メルクリオに深々と頭を下げた。
「はじめまして。フランチェスカ=ボーグナインと申します」
それがフランとの出会いだった。
自分以外の子供を初めて目にしたメルクリオはフランに興味を示し、仲良くなろうと必死になった。
(僕と友達になってくれないかな?)
普通の家に生まれたなら自然と得られる筈の「友達」は、メルクリオにとっては夢のような存在だった。
苦楽を共有し、互いに助け合う。損得など関係なく信頼で結ばれ、時にはぶつかり合って喧嘩もする。そんな存在に幼いメルクリオは……いや、今現在となっても憧れていたのだ。
「ねぇ、フランって呼んでもいいかい?」
「もちろんでございます、殿下」
「殿下ってのはやめて欲しいな。僕の事はメルって呼んでいいよ」
「とんでもございません。殿下は殿下です」
「そんな事を言わないでさ。僕と友達になってくれないかい?」
「私などには勿体ないお言葉です」
だが、フランは想像以上のカタブツだった。メルクリオより1歳年下の7歳だというのに。
それからもメルクリオは何度も親睦を深めようとしたが、フランの素っ気ない態度は崩せなかった。
年上のメイドたちとは違い、同年代のフランなら……と考えていたのだが、フランの態度はむしろ年上のメイドたちより高く分厚い壁があるように感じた。
だがそんなある日、小さな事件が起きた。
メルクリオの寝室には空気を清浄にする道具が設置されている。『一般魔法』で動く、その空気清浄機の魔石の取り換えをフランが忘れてしまったのだ。
「ハァ……ッ、ハァ……ッ」
「でっ、殿下……っ⁉」
「フランチェスカっ、退きなさいっ!」
朝、メルクリオの容態の変化を目の当たりにしたフランは狼狽し、ベテランのメイドに押し退けられる。
そして清浄機が作動していない事を確認すると、メイドはフランを激しく叱責した。
「魔石の交換を忘れるなんて……っ!」
「もっ、申し訳……」
「謝って済む問題ですかっ!」
メイドからすれば当然の叱責だ。こんな「うっかり」で、王子の命を危険に晒すなどあってはならない。
幼いフランもその事は理解しており、口答えも許されずにただ縮こまるしか出来ない。
だが自分が体調を崩した事で怒られるフランを、メルクリオは黙って見ている事は出来なかった。
「ま……待って……。こんなの……いつもの事だよ……。たまたま、重なっただけさ。だから……フランを、怒らないで……」
清浄機が動かなかった事など関係はない。時々体調が悪くなるのはいつもの事だ。今回は、それが偶々フランのミスと重なっただけだ。
メルクリオはそう言って、フランを弁護した。
それを聞いて、メイドは安堵の溜息を漏らした。
これだけ喋れるのならメルクリオは大丈夫だろう。そう判断したのだ。
「フランチェスカ、部屋に戻りなさい。いいですね?」
「はい……」
そう言ってメイドはフランに退室を促す。
だが、部屋を出ていこうとするフランをメルクリオは呼び止めた。
「待って……。フラン……。手を、握ってくれないか……? 少しだけで、いいから……」
なぜそんな事を言ったのか、後で思い返してもメルクリオには分からなかった。熱にうなされて弱気になっていたのかも知れない。
ただそれを聞いてメイドは再び溜息を吐き、フランはベッドの側で、小さな両手でメルクリオの手を包んでくれた。
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「ん……? ここは……?」
意識を取り戻したメルクリオは、簡素で固いベッドの上で目を覚ました。
壁は石造りで薄暗く、身を預けていたベッドもシーツは新しいものだがそれ以外はボロボロだ。まるで何十年も使われていないような年季を感じる。
「お目覚めかしら、王子様? まだ、あの世じゃないわよぉ?」
キョロキョロと周囲を見渡していると、すぐ側で女性の返事がした。イスに腰かけた女の顔を見て、メルクリオは自分の置かれた状況を思い返す。
(そうだ……。私はこの女に殺された筈では? 生きて……いるのか? なぜ生かした? ここはどこだ?)
あの時、確かにメルクリオは自分の命を差し出した。そして目の前の女も「その提案に乗る」と、そう言った筈だ。
だが自分は生かされている。
「疑問が尽きないな。いくつか質問をしてもいいか?」
「答えられるかどうかは分からないわよぉ?」
「構わない。まず、君の名は?」
「あらぁ? てっきり別の質問だと思ったのだけど。ま、いいわ。マリアよ」
暗殺者の女……マリアは決してコミュニケーションの取れない人物ではない。ならば会話を円滑に、より深く、多くの情報を得る為にもまずは互いの距離を縮めるのが優先だ。
そんなメルクリオの目論見通りにマリアは会話に応じ、名を名乗った。
「暗殺者にしては美しい名だな。私はエストレーラ王国の第一王子・メルクリオ・ルノー=エストレーラだ」
「知ってるわ。……ヘンな王子様ね」
暗殺者に名前を問い、自分の名を名乗るメルクリオを「変」と評したマリアの感性は常識的だ。
しかしメルクリオは自分をおかしいなどとは思っていない。会話を試みるのならば、まずは互いの名前を知る所からだと考えていたから。
だから「互いに名乗る」という儀式を終えた今、メルクリオは遠慮なく本題に取り掛かる。
「ではマリア、私を生かした理由は何だ?」
それは最大の疑問にして尋ねない訳にはいかない疑問だ。そして、この質問が飛んでくるという事はマリアも予想できた。
だからマリアは「勘違いしないで欲しいのだけど」と念を押してから続きの言葉を紡いだ。
「助かったなんて思わない事ね。貴方を殺さなかったのは、雇い主への嫌がらせよ」
「嫌がらせ?」
「皇女様の代わりに貴方を殺したと言っても、あの男は不満を言ってくるもの。だから些細な抵抗、ね」
メルクリオはマリアの目を真っ直ぐに見るが、そこに嘘や欺瞞は感じられない。
確かに王子を連れ帰るなどをすれば、その処分にも頭を悩ます事になるだろう。当然、生かして返す訳にはいかないだろうが、死体の処分にも困る可能性は高い。
人里離れた森や山奥に埋められてしまえば見つかる事もないだろうが、その場合は「行方不明」となってしまう。もし明らかな「死亡」の確認が必要ならば、その手は使いにくい。
なるほど、確かに嫌がらせにはなる。
だが、たかが嫌がらせの為に人間1人を運ぶリスクを冒すとは。気を失っていたメルクリオにはどうやって運んだのかは分からないが、マリアは雇い主の事を相当嫌っているようだ。
「その雇い主というのは誰か、聞いてもいいか?」
「流石にそれは教えられないわぁ。あんな男でも目的を果たすまでは一応、協力者だもの」
期待をしていた訳では無いが、雇い主の名までは教えてはくれなかった。分かったのは「男」だという事だけだ。
流石にそれだけでは首謀者は判明しない。王国の過激派貴族の可能性もあるし、帝国の手によるものかもしれない。ただのテロリストの可能性もある。
「では、君たちの目的とは? 帝国との講和の妨害か? それとも戦争でも起こそうとしているのか?」
「あいつらの目的はよく分からないわ。聞いても理解できないもの」
「あいつら? では君の目的は?」
目的が分かれば正体も判明するかも知れない。そう考えたが、マリアの答えは「教えられない」ではなく「分からない」だった。
「あいつら」と言った事から複数である事が分かるが、まだ候補は絞れない。
そしてメルクリオは、マリアには別の目的がある事を察して反射的に疑問を口にした。
「私の目的は『真実の愛』」
「愛? それは……?」
”バタンッ”
だがその時、部屋の外から扉を乱暴に開け放ったような音が響いた。
身構えるメルクリオだが、マリアは呆れたように溜息を零した。
「この気配、あいつね……」
「あいつ? 君の雇い主か?」
「違うわ。一応、同僚という事になるのかしら?」
一瞬、顔を顰めたマリアを見て雇い主かと思ったが、どうやら違うらしい。
そして足音は近くに迫り、やがて2人のいる部屋へと無遠慮に入ってきた。
「おっ? マリア姐さんも仕事は終わり? あれっ、ソイツ誰よ?」
入ってきた人物は明るく軽い態度の青年だった。
だが彼の容姿や言動より、その両手に抱えられた2人の人物が気にかかる。1人を肩に、もう1人を脇に抱えるようにして運んでいるのだ。どうやら2人とも意識が無いようだが……。
「クロウだったかしら? そういう貴方こそ、その荷物は何……あら? ヴィーノ君?」
面倒臭そうにクロウと呼ばれた青年に応対するマリアだったが、彼が肩に担いだ人物を見て名前を呟いた。
「ヴィーノ」……。それはユーキから幾度となく聞いた、共に王都へとやって来た親友の名前だった。




