第13話 「ボクの英雄」
「……っお、オオカミっ⁉」
「野犬……だと思うけど……」
エメロンの指摘の通り、その獣は狼と呼ぶにはやや小ぶりで体長は尻尾を含めても1mあるかどうかだ。このサイズの犬なら町中でペットに飼っている人も見た事がある。
実際アレクは、散歩中の犬を見かけて触らせて貰った事があるが、その時の犬は大人しくてアレクにされるがままだった。
とはいえ、だ。
獣の瞬発力、鋭い牙と爪、強力な咬力で襲い掛かられれば、子供のアレクやエメロンなどひとたまりもない。
そして目の前の野犬はペットの犬とは違い、目を血走らせて低い姿勢を取りながら唸り声を上げている。
警戒しているのか、2人から距離を取ってはいるが今にも飛び掛かってきそうだ。
「エメロン、腕から血が出てるよっ⁉」
「あ、うん。さっき少し嚙まれたけど、大丈夫。それより、どうにかしないと……」
エメロンの右腕には野犬の噛み跡があった。返事を聞く限り、あまり深くは無さそうだが流れ出る血が痛々しい。
腕の傷を治療する為にも、何とかこの場を切り抜けなければ。
アレクは考える。この場を何とかするには野犬を追い払うか、逃げるかだ。
逃げるのは得策とは言えないだろう。森の中を子供の脚力で、野生の獣から逃げ切れるとは到底思えない。町で出会った犬は、小さな犬だってアレクよりよっぽど速く走っていた。
ならば追い払うしかない。しかし武器もなく、近づくのはあまりに危険だ。
「……よぉし」
なにか武器になる物を……、と考えたアレクはその場でしゃがみ、小石を拾う。
そして大きく振りかぶり、野犬に向かって小石を投げた。
「やっ!」
「……っ‼」
野犬は危機を察知したのか、その場から飛びのく。アレクの投げた小石は野犬には命中せず、地面に弾かれた。
攻撃を受けた野犬は警戒心を高めるが、それでも逃げる様子は無い。
「エメロンも石を投げてっ! 無理なら、石を拾って! アイツを追い払うんだっ!」
「う、うん! わかった!」
アレクの指示でエメロンも石を拾い、2人は野犬に投石を始める。
2方向から行われる投石攻撃に野犬は更に距離を取るが、やがて……。
「ギャンっ!」
「当たった!」
アレクの投げた石が野犬の腹部に命中した。野犬の悲鳴を聞いた2人は、喜びからか一瞬手が止まる。
……その隙を野犬は見逃さなかった。
「……え?」
野犬はエメロンに向かって一直線に走ってくる。
投石によるダメージを感じさせないその動きに、エメロンもアレクも対応できなかった。そして”ドンっ!”という衝撃と共にエメロンは野犬に押し倒される。
「くっ……、うぅ……」
「エメロンっ!」
野犬はエメロンの上に覆い被さるように立っている。次の瞬間にもエメロンに止めを刺さんばかりの体勢だ。
アレクはエメロンを助けようと、手にした石を投げようとするが寸前で思いとどまった。
(ダメだ……っ! エメロンに当たったらケガさせちゃう! ……そうだっ!)
アレクは石を手放し、エレナから貰った匂い袋を取り出して野犬に投げた。匂い袋は見事に野犬の顔に命中し、それに驚いた野犬は大きく後ろに飛び退いた。
その隙にアレクはエメロンに駆け寄る。
「エメロン大丈夫っ⁉ 立てるっ⁉」
「う、うん。ありがとう」
アレクはエメロンを助け起こし、野犬の様子を窺う。
エレナの匂い袋の効果は確かにあったようで、野犬は自身の顔についたであろう匂いを取ろうとしているのか、しきりに頭を振っている。
「エメロン……、今のうちに逃げようっ!」
「え? う、うんっ!」
野犬の注意はアレクたちから逸れている。今の内なら逃げ切る事が出来るかもしれない。
そう考えた2人は一気に駆け出す。
しかし、逃げ出す2人を野犬はただ見送る事は無かった。
背を向けて走るアレクたちを決して見逃さない、とばかりに野犬も走り出す。その速度差は圧倒的だ。
「くそぅ、追いかけてきたっ!」
「アレクっ! 前っ!」
「えっ⁉ ぅぐっ……!」
追いかけてくる野犬を気にして振り返ったアレクは、進行方向に立つ木に気付かなかった。エメロンが注意をするも間に合わず、木にぶつかってしまう。
直撃ではなく肩がぶつかっただけだが、その衝撃でアレクは転んでしまった。
「うぅぅ……」
「アレクっ‼」
仰向けに倒れて痛みに悶えるアレク。その痛みが引く前に、アレクは自身の身体の上に何かが圧し掛かるのを感じた。
目を開ければ自分のすぐ前に野犬の顔が見える。
前脚でアレクが起きださないように押さえつけ、口からは生臭い息が放たれる。そして、その眼は獲物を射殺……いや、噛み殺さんとする意思に満ちている。
アレクは恐怖から動けなかった。
次の瞬間にも、あの牙がアレクの喉笛に突き立てられるのだろう。そうなってしまったら、もうアレクに抵抗する術は残されていないだろう。
動けないのはエメロンも同じだった。
エメロンは元々臆病な性格だ。たとえ自分自身の危機ではなくても……むしろ、だからこそ恐怖が身体を縛っていた。
「あ……ぁ……」
(死ぬ……、アレクが死んじゃう……。助けないと……、僕が、いかないと……)
””ドクンっ……ドクンっ……””
2人の心臓が早鐘を打つ。
(今ならまだ間に合う)(まだ動いていない)(いつ動く?)(武器は?)(何か手は?)(もう今にも動く)(何でこんな事に?)(……父さん……母さん)
時間にしてほんの数秒の間だが、2人は断片的な思考ばかりが巡り打開策が思いつかない。
それどころか身体を動かそうとする事すらも忘れ、半ば諦めかけていた。
その時だった。
「ぉぉおおおーーーっ‼」
何者かが突進してきて、そのまま野犬に体当たりをした。
野犬とその人物は地面を転がり、やがて”何か”にぶつかり……、止まった。
「ギャウゥンっ‼ ……カフっ……ヵフ……」
「っハァッ……っハァッ……ハァッ……」
「……ユー……キ?」
野犬に体当たりをして、アレクの窮地を救ったのはユーキだった。
野犬は動かず……いや、動けずに口から血を吐いている。ぶつかった”何か”……石壇にもたれるように倒れ、今まさに命を散らそうとしている。
「……ユーキっ!」
金縛りが解けたかのようにエメロンはユーキに駆け寄る。
近寄って見てみれば、野犬のそばに座り込んだユーキの手には包丁が握られていて、その刃は野犬の身体に突き刺さっていた。
ユーキは決して狙ってやった訳ではないが、包丁は野犬の肋骨をすり抜けて心臓に達していたのだ。
たまたまクララの父親に料理を教わる為に持参していた包丁。
間一髪でアレクの窮地に間に合った事。
計らずも致命傷となった一撃。
これらの偶然が重ならなければ、きっとアレクの命は無かっただろう。
「……フーっ……ふーっ……。だ、いじょうぶか……? 2人とも……」
「うん……、僕は大丈夫。……それよりアレクはっ⁉」
息を整えて2人の安否を気遣うユーキ。
それに答えたエメロンはアレクに気を向けた。
アレクは2人に返事もせず、倒れたまま動けないでいた。
負傷の為では無い。その碧瞳は、目つきの悪い茶髪の少年・ユーキに釘付けになっていた。
ケンカをしたユーキ。ヒドイことを言ったユーキ。料理バカのユーキ。頭のいいユーキ。カッコつけのユーキ。なんでも上手に出来るユーキ。実は努力家のユーキ。いつも気遣ってくれるユーキ。たまにバカにしてくるユーキ。大人びてるユーキ。なのに子供じみたトコもあるユーキ。自分が怒らせてしまったのかもしれないユーキ。それでも、いつもピンチの時には駆けつけてくれるユーキ。
ユーキ、ユーキ、ユーキ。
(ユーキはボクの……『英雄』だ……)
石壇を背景に、しゃがみ込んだまま振り返ってアレクを見るユーキの周りにユラユラと紅い光が集まってきて非常に幻想的だ。
あの石壇が女王さまやリゼットが言っていた祭壇だろうか?
いつの間にか薄暗くなっていた森の中で、ぼんやりとした光の中心にいるユーキの姿は、まるでアレクの好きな冒険小説の挿絵のようだ。
「あれ……、何の光だろ……?」
「…………っ! ユーキっ!離れてっ!」
ボーっとしていたアレクが呟くのとほぼ同時に、エメロンが叫ぶ。
その直後、絶命したハズの野犬が”ムクリ……”と立ち上がった。
「……な、にが……?」
「グ……オオオォォォォッッッ……‼」
「……魔物化、した……っ⁉」
狼狽しながらも立ち上がり身構えるユーキ。
未だに事態が呑み込めないまま横たわっているアレク。
そして事態を大方把握しながらも、恐怖に身を竦ませるエメロン。
三者を順に睨む野犬の眼は紅く、煌々と輝いていた。




