第32話 「滴る美女」
「あ……アレク……」
巨大アリは倒した。その頭部はユーキの「炎の剣」で斜めに別れ、残された胴体もピクリとも動かない。
だがユーキは勝利の声を上げる事も、安堵の息を漏らす事も出来なかった。
その原因は、目の前のアレクの姿のせいだ。
巨大アリが死の間際に放った強力な蟻酸。それを身体に浴びてしまったのだ。
蟻酸を浴びたゴブリンは僅か数秒で肉が溶け落ちていた。アレクの身体も今、ゴブリンと同じように溶けているに違いない。
そんなアレクの姿を直視する事は、ユーキには出来なかった。
だが……。
「んべっ、ぺっ。うげぇ~、ネバネバする~」
「ア、アレク?」
巨大アリを倒してから既に数十秒が経過している。ゴブリンと同じなら、アレクの身体は崩れ落ちていてもおかしくない筈だ。
なのに、アレクの口からは普段通りの吞気な声が聞こえてきた。
少しだけ躊躇いながらもユーキはアレクに目を向ける。そこには顔に付着した黄土色の粘液をドレスのスカートで拭き取るアレクの姿があった。
「アレクっ! 無事なのかっ⁉」
「あっ、ユーキっ! さっすがだよねっ! ねぇ、ユーキの新技の名前って何ていうのっ⁉」
「んなコトよりっ、その粘液は大丈夫なのかっ⁉」
絶望と思われていたアレクの、何とも呑気なセリフに少しだけ安心してしまう。
だが、まだ心配が尽きた訳では無い。アレクの身体にはまだ蟻酸が大量に付着しているのだから。
「あ、コレ? 危ないと思ったから咄嗟に身体強化したんだ。溶けはしないみたいだけど、おかげで動きづらくってさー」
どうやらアレクの『根源魔法』による身体強化は蟻酸からも身を守る事が出来るらしい。
だがそういう事ならゆっくりはしていられない。アレクの魔力操作は決して上手くはない。いつ強化が切れてしまうかも知れないのだ。そうなれば身体に付着した蟻酸がアレクを溶かしてしまう。
「ちょっと待ってろっ。今、何か拭くモンを……」
「驚いたな。アレク、無事なのか?」
そこにやって来たのはバルタザールだ。彼も蟻酸を浴びてもピンピンしているアレクに驚愕の目を向けている。
「アンタ、何か拭くモンを持ってねぇか? 早く粘液を拭き取らねぇとっ」
「ふむ、ならオレの上着で良ければ使うがいい」
ユーキに言われ、バルタザールは上着を脱いで寄こした。
仮にも皇族がパーティーに着てくる礼服だ。戦闘で汚れてはいるが滑らかな手触りが安物では無い事を伝えてくる。
だが今は一刻を争うのだ。モタモタしているとアレクの命に関わるかも知れない。
「ありがてぇっ。アレクっ、ホラこれで身体を……」
「あっ」
”ズルっ”
バルタザールから受け取った上着をアレクに渡そうと振り返った瞬間、不穏な声と、何かがずり落ちるような音と、その直後に”ベチャッ”という音が聞こえた。
それは大部分が溶けながらも、奇跡的にアレクの身体に引っ掛かっる様に残っていたドレスだった。それが限界を迎え、蟻酸でドロドロになった無残な姿で地面に落ちたのだ。
ユーキの目の前には、一糸まとわぬ姿のアレクがいる。
残念な事に下着まで溶けてしまって、アレクの防御力は完全にゼロだ。
「あ~あ。でも裸の方が身体を拭きやすいかな? ユーキ、サンキュっ」
「バカっ! こっちくんなっ⁉ ってか、前を隠せっ‼」
無防備に近寄るアレクに、ユーキは顔を背けながら後ずさる。
アレクに「女」を意識した事など無いが、それとこれとは別問題だ。ユーキは見てはいけないものを見てしまったような罪悪感から目を逸らす事しか出来なかった。
「大したヤツらだが……こうして見ると只の子供だな」
そんな2人を見て、バルタザールはそう零したのだった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇
突然、目の前で吹き飛んだ扉。その部屋の中を覗いたフランは状況の把握に努めようと、注意深く室内を観察した。
この部屋はパーティーの外部スタッフの控室として用意した部屋の筈だ。
だが先程の爆発の影響か、中は物が散乱して酷い有様だ。窓ガラスまで全て割れている。
そして室内には3人の男女がいた。
(ドレスの女性……。手にはピック? 向かい合っている男性は目を負傷している? 手には杖……さっきのは彼の魔法? その後ろにもドレスの少女……。彼は彼女の護衛かしら?)
先程の爆発。そして3人の剣呑な雰囲気から戦闘があったのは容易に想像がつく。そしてその立ち位置から長身の女性と、杖の男が敵対しているのも明白だ。
本来なら王宮内での戦闘行為など見逃す事は出来ない。フランは第1王子付きのメイドであり、近衛騎士団の一員なのだから。
しかし、今の状況を鑑みてフランは迷う。
メルクリオやジュリアを危険に晒す訳にはいかない。リッジウェイ侯爵家の嫡男・フレデリックも同様だ。ギルド長だって、無暗に危険に巻き込んで良い訳が無い。
おまけに今は、武器の1つも持っていないのだ。
本来なら見過ごすなど有り得ない。
だがフランの出した結論は「このまま見ぬ振りをして謁見の間への移動を急ぐ」というものだった。
それは、メルクリオたちの安全を第一に考えれば当然の判断だった。
フランは後方の4人へと合図を送ろうと振り返る。
しかしその時、室内の女性の声が聞こえた。……聞こえてしまった。
「危ない所だったわぁ。惜しかったわね、エメロン」
女性は確かに「エメロン」と、そう言った。
それは、この2ヵ月で何度も聞いた名前だ。ユーキの口から「幼馴染」だと、「仲間」だと、「親友」だと。
どれもフランには縁の無かった存在だ。
7歳の頃に1人で王都へとやって来たフランに「幼馴染」などいない。
「裏切者のボーグナイン」であるフランに「仲間」はいない。
当然、「親友」なんていなかった。
そんなフランにとって大事なものは、幼かったフランに優しく接してくれたメルクリオだけだ。
本当ならボーグナイン伯爵家もどうだっていい。父親に従うのも、反発すればメルクリオの迷惑になると考えたからだ。
「エメロン」という男などどうでもいい。全く見知らぬ他人なのだから。彼が生きようと死のうと、メルクリオには何の関係も無いのだから。
「くっ……。直撃の筈なのに、何で……?」
「何か言ったかしらぁ? ゴメンなさいね、さっきので耳がやられたみたい。なぁんにも聞こえないわぁ」
エメロンと女の会話が聞こえるが関係が無い。むしろ、このまま通り過ぎる材料が増えただけだ。
エメロンは負傷しているし、女は耳が聞こえないようだ。今なら気付かれずに移動できる。
「動かないでねぇ、エメロン? 今度はキレイにくり抜いてあげるから」
「エメロンっ‼ 逃げてぇっ‼」
女がピックを構え、後ろの少女が叫ぶ。エメロンは動かない。いや、動けないのか?
それを見たフランは――。
「待ちなさいっ‼」
耳の聞こえない女にも、自身の存在を誇示するように全力で叫んでいた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇
エメロンは絶体絶命の状態だった。
渾身の魔力を込めた風の魔法だった。本来ならマリアの身体は吹き飛び、壁へと激突していた筈だ。
なのにマリアは直前の位置から一歩も動かず、エメロンへと反撃してきた。
その攻撃でエメロンは右目を突かれ、目が開かない。おまけに自分の魔法の影響で左耳も聞こえない。
右目の激痛が激しくて魔力の集中ができない。三半規管を痛めたのか立っていられない。
エメロンの左目には、「耳が聞こえない」などと言いながら平然と立っているマリアがまるで怪物のように映った。
「動かないでねぇ、エメロン? 今度はキレイにくり抜いてあげるから」
そう言うマリアも、実は無傷ではなかった。
風の魔法で吹き飛ばなかったのは『精霊魔法』で咄嗟に自身の足を凍らせて床に貼りつけたからだ。足首まで凍らせたが痛みはない。マリアの両脚は、付け根の辺りから義足なのだから。
そしてエメロンと同様に……いや、両耳に被害を受けたマリアの平衡感覚は完全に失われていた。平然としていられるのは只の強がりに過ぎない。
だが、その強がりはエメロンには効果的だった。
何をしても効果が無い。通用しないと誤解したエメロンの心には絶望が広がる。
「エメロンっ‼ 逃げてぇっ‼」
シルヴィアは、なぜ自分がそう叫んだのか分からなかった。
エメロンを巻き込んだのは自分だ。危険が迫っていると分かっていてエメロンを利用したのだ。そしてもし、エメロンが自分を見捨てて逃げてしまえば命運が尽きるのは明白だ。
自分勝手で不合理な自分自身を、シルヴィアは理解する事が出来なかった。
三者三様の心中だが、事実としてエメロンに為す術は無い。
ダメージのせいで魔力の集中が乱れているし、そもそも距離が近すぎる。体術で抵抗するのにもダメージが大きいし、何より体勢が悪い。
このダメージでは、この体勢では素早く動けない。今、攻撃をされれば躱す事は出来ない。
エメロンは、覚悟を決めつつあった。
だが、その時――。
「待ちなさいっ‼」
第3者の声が響いた。
エメロンとシルヴィアは元より、耳の聞こえないマリアまでが振り向く。そこには、赤いドレスを着た女性がいた。
「王城での狼藉、近衛の1人として見過ごす訳には参りませんっ!」
「あらぁ? 勇ましいお嬢ちゃんね。ひょっとして、邪魔をするつもりかしら?」
フランに反応したマリアだが、その声が聞こえている訳では無い。ただ空気の振動から気配を察知しただけだ。フランが「近衛」と言ったのも聞こえてはいない。
だが、エメロンとシルヴィアにはハッキリとフランの声が聞こえた。
(近衛? ……助かった?)
一瞬そう思いはするものの、フランの姿を見て考えを改める。
フランは武器も持たず、服装もドレス姿なのだから。どう見ても戦う姿には見えない。
「気を付けて下さいっ! この女は普通じゃありませんっ!」
思わぬ援軍の到来だが、マリアは隙を見せていない。それにエメロンはまだ立ち上がって攻撃をするほど回復していない。
出来るのは、ただ大声でフランに注意を促す事だけだった。
フランは己の行為を後悔していた。
なぜ声を上げたのか、自分でも分かっていない。気がついたらマリアがエメロンに止めを刺すのを制止していたのだ。
状況も分からずに危険に身を晒すなど、愚者と呼ぶ外ない。
だがいくら愚か者でも、これ以上の愚を犯す訳にはいかない。
最優先はメルクリオの安全だ。まだマリアはフラン以外の存在には気付いていない。
だからフランは、廊下で待つギルド長にメルクリオの安全を任せようと目配せをしたのだが……それが悪手だった。
「あら? まだ誰かいるのかしらぁ?」
マリアはフランの視線の動きを敏感に察知し、視界の外にいるギルド長たちの存在に気付いてしまう。
「これは、さっさとお仕事を片付けないと面倒になりそうねぇっ!」
そう叫んだマリアがエメロンに止めを刺そうと動いた。
マリアもまだ回復しきってはいないが、それはエメロンも同様だ。エメロンは立ち上がり後ろへと下がろうとするが、足がもつれて距離が取れない。
「させませんっ!」
そこへフランが飛び掛かり、マリアの攻撃を阻止しようと手を伸ばす。
一瞬、右手首を取られたマリアだったが、左手でフランに掌底を放ち、フランは回避する為に手を放す。
フランの攻撃は不発に終わったが、その攻防のおかげでエメロンはマリアの間合いから離れる事が出来た。
「あら、良い動きじゃない? 只のお嬢ちゃんじゃ無さそうね?」
エメロンの魔法でダメージを受けていなければ手を取られる事も、掌底を躱される事も無かっただろう。だがそれでも普通の令嬢であったなら、このような攻防は出来はしない。
フランが近衛だという事を聞いていなかったマリアは、素直に驚いていた。
だが実力の高さに驚いていたのはマリアだけではない。
フランも、マリアの素早く正確な攻撃を躱すのが精一杯だった。
(この女……只者ではない……っ)
僅かな攻防から、彼我の実力が伯仲していると感じたフランに緊張が走る。
動きは互角。だが相手の手には武器が握られている。気を抜く事は出来ない。
フランの読みは誤りだった。
確かに先程の動きは互角だ。しかしそれはマリアが受けたダメージを考慮できていない。外傷が無く、平然としているマリアからそれを感じ取るのは無理があるというものだが。
(感覚が戻るまでもう少しかかりそうね。まだお邪魔虫がいるようだし……。どうしたものかしらぁ?)
時間をかければ邪魔者を倒すのは簡単だ。先の攻防でマリアは実力差を把握できた。エメロンもダメージが深く、大きく動けはしなさそうだ。
だが、どれだけいるかも分からない敵の援軍を全て相手にするほど悠長には構えてはいられない。時間をかければかけただけ、増援が増える危険もあるのだ。
少しの思案の後にマリアは、邪魔者を無視してシルヴィアを攻撃する事を選択した。
フランは、突然自分を無視して踵を返したマリアに反応できていない。シルヴィアは只のお姫様だ。碌に動く事も出来ない。
その大きな灰色の瞳から、脳天に届くようにピックを突けば助かりはしない。
そうなれば後は離脱するだけだ。邪魔者程度の実力なら、仮に10人に囲まれていても逃げるだけなら訳はない。
あと一歩踏み込めばシルヴィアの命に手が届く。……その時、異常事態が起きた。
踏み出した右脚……その義足の付け根から伝わる感触に違和感を感じる。何か柔らかいものを踏んだような感触。だが、そんなものは無かった筈だ。
強引に踏み込めばシルヴィアに手が届く。だがマリアは足元に視線を落とした。
そこにあったのは、ゴム毬のような形をした水の塊だった。
「間に合った……っ」
そう言ったのはエメロンだった。
膝を付きながら伸ばした杖の先から水が伸び、マリアの足元へと続いている。
「はあぁっ‼」
気合の雄叫びと共に杖から魔法陣の光が輝き、大量の水が放出される。
「くっ⁉」
危険を感じたマリアは回避を試みるが間に合わない。
水は重力に逆らいながらマリアの身体に纏わりつき、頭以外の全てを包み込んだ。水の抵抗で素早く動く事が出来ない。足は水に浮かされ、踏み込む事も出来ない。
「やられたわぁ。まさか、まだ魔法を使えたなんて」
身動きを封じられたマリアは身体の力を抜いて、観念したかのようにそう言ったのだった。




