続・なぞとき『幻の絵馬』~「己が命の早使い」篇
たぶん高校生のころだったか、駅で電車を待っていると、背広姿の男が近づいてきて、どの駅まで行くのかを尋ねてきた。私が下車する駅名を答えると、自分は××新聞の記者だが、あなたが降りる駅までこの封筒を持っていってくれないか、プラットホームで××新聞の社員が受け取るように電話をしておくから、渡してほしい、と言った。そのころはネットも存在せず、それどころかファックスも不鮮明で頼りないものだったから、そして新聞社というものも公共の役にたつ仕事をしていると今よりもずっと社会が信じていた時代だったから、不審を抱くような話ではなかった。
空いた電車の座席に腰を下ろして、軽い気持ちで引き受けた封筒を膝の上に置くと、その上に読みかけの本を広げて続きを読みはじめたのだが、電車が進むにつれて、私は不安を募らせた。そのとき読んでいたのは、日影丈吉の『吉備津の釜』という短編小説だった。
『吉備津の釜』は、題名から連想される上田秋成の怪談ではなくて、次のような民話をもとにしたサスペンスである。
閉伊川の原台の淵という処を、通って行くと、非常にきれいな女が現われて、この手紙をある処へ屆けてくれといった。無筆な男だから、後生大事に、持つて来る道で、山伏に出遇った。処が、山伏が、その話を聞いて、そりゃ劍吞だから開けて見ろといった。そして、開けて見ていうのには、この手紙をこのまま持って行ったら、お前の命はなかったんだ。私が書き直してやろうといって、別に手紙を書いてくれた。それを、何食わぬ顏をして、その男が持って行ったならば、先方にはやはり、きれいな女が出て来て、その手紙を受取って、開封をして見て、非常に喜んで、お礼に小さな石臼をくれた。欲しい物があるたびに、その石臼を一回し回すと、何でも出て来る。(柳田國男『妖怪談義』「己が命の早使い」)
柳田國男はこの話を「己が命の早使い」と名づけて、いくつかの類話を挙げている。手紙を書き換えたおかげで何も起こらなかった、手紙を書き換えずに渡して殺された、などのヴァリエーションがあるのだという(念のために「己が命の早使い」を砕いていっておくと、自分の命を左右することになる届け物をそれと知らずに運んでいる急ぎの使い、という意味である)。
日影丈吉の書く主人公は、金策に困っているところを、酒場で知り合った男から、金を貸してくれるという資産家に宛てた紹介状を書いてもらうのだが、その途中でふと、昔聞いた「己が命の早使い」の話を思いだして、いてもたってもいられなくなり、さんざん迷った末に開封すると……という話だった。
偶然にも程があるというものだけれど、そのときの私は、まさに読んでいる本の中の男ときわめて類似する状況に置かれていたのである。
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さて柳田國男という人は周知のとおり泉鏡花の親友、畏友の一人で、小説『湯島詣』には柳田をモデルにした熱血人物が登場するし、晩年の『山海評判記』は柳田民俗学と鏡花小説の "合作" とでもいうべき作品である。一方で柳田の『妖怪談義』では、先に『遠野物語』(明治43年・1910年)で紹介した「己が命の早使い」に対して、「鏡花君」から、そんな話ならもう知っているといった反応をされたことが、苦笑いするような調子で記されている。
鏡花はなぜか、この「己が命の早使い」という民話に、異様なほど執着している。
はやくも『遠野物語』の二年後に発表された『南地心中』(明治45年・1912年)でこの話についてふれているし、『夜叉ヶ池』(大正2年、1913年)ではさらに詳しく引用している。
「昔も近江街道を通る馬士が、橋の上に立つた見も知らぬ婦から、十里前の一里塚の松の下の婦へ、と手紙を一通ことづかりし事あり。途中気懸りに成つて、密と其の封じ目を切つて見たれば、==妹御へ、一、此の馬士の腸一組参らせ候==としたゝめられた――何も知らずに渡さうものなら、腹を割かるゝ処であつたの。」(『夜叉ヶ池』)
それどころではない。朝田祥次郎の注釈に教えられたのだが、『遠野物語』に九年先立って書かれた『註文帳』(明治34年・1901年)ですでに、この民話を意識したらしいプロットを、鏡花は小説中に組みこんでいる。
『註文帳』の「二人使者」という章題にも明らかなのだが、命の早使い(欽之助)は、第一の使者(鏡を届けに来た夫人)、第二の使者(刎橋の女)に頼まれて、紅梅屋敷の女への使者となり、最後には命を落とすことになる。日影丈吉のように民話のパターンを現代に複製するのではなく、民話のもつ原初的な構造の力を借用して超自然的な描写に説得力を与えるという、超絶技巧といってもいい方法である。
さらにこれも朝田祥次郎の注釈に詳しいのだが、『日本橋』(大正3年・1914年)では「己が命の早使い」が、根本のプロットにより深く食いこんでいく。つまり、命の早使い(葛木)が第一の橋姫(清葉)からの手紙(姉の形見の人形)を持って、第二の橋姫(お考)のところへ行く途上で、忠告者(伝悟)が彼を呼び止めて手紙を書き換える(姉→清葉→お考になぞらえられた人形が、ふたたび清葉へ、そして姉に見立てられるようになる)ことで、第二の橋姫の嫉妬は消滅する、ということになる。
『日本橋』を未読の方や、市川崑の映画で観ただけという方にはわけがわからないと思うのだが、筋を追ってほしいわけではなくて、ここで注目したいのは次の三点である。
大正三年時点の鏡花の小説では、「己が命の早使い」の骨組みが自家薬籠中のものとなり、作品全体のプロットを支配するまでに活用されていること。命の早使いに手紙を託す人物は「橋姫」として、つまり女の情念を伝える者としてそのキャラクターが固定されたこと。鏡花の小説ではこの頃において際だって、登場人物の言動やその動機が(たとえそれが唐突で不自然であっても)隠されたプロットによって左右されるようになったこと、である。
冷静に考えれば、お考や伝悟(赤熊)のあまりにも激情的な言動だとか、恋も医学の研究も放棄して出家する葛木のはた迷惑な決意とか、『日本橋』という小説は不自然な飛躍の多い、かなりハチャメチャなストーリーなのだが、同時にそれが必然であるかのような説得力も備えている。あいかわらず心理描写には背を向けながらも、民話を典拠とするプロットを潜ませることで、いかなるハチャメチャをもねじ伏せる筆力を得たのが、絶頂期の鏡花だともいえる。ここでは「己が命の早使い」は、まるで絵師が発見した秘密の構図のように、小説のなかに隠されながら、そのはたらきを先鋭化している。
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この頃の鏡花にとってはとりわけ、ストーリーは人間のドラマではない。人間界の外からもたらされる神話のような、人間の理解を超えたものである。ストーリーではなくて、超人間的な飛躍の点と点を埋めることばや比喩や文飾によって、ありったけの情緒や愛憎や美意識を盛りこむのである。音楽を作る場合でいえば、感情を表現するメロディを口ずさみながら作る方法もあれば、コードを分解した音列を組み合わせてメロディを作る方法もある。鏡花は意外と後者のタイプであって、しかも前者であると誤解させうるほど、前者に見せかける文藻力と、後者であることを隠す技巧にたけている。
先に書いた「なぞとき『幻の絵馬』」の末尾で、「いったん完成させた創作の方法論を極限まで使い尽くしたことで、一時的に内面的葛藤へと立ち戻るスピード調整を行う必要が鏡花のなかで生じた」などと書いたのだが、具体的にいえば「いったん完成させた創作の方法論」というのは、『日本橋』で極限まで使い尽くした「己が命の早使い」(あるいはまだ発見されていない、他の説話の骨子?)を隠れたプロットとする方法論のことで、おそらくは『芍薬の歌』(大正7年・1918年)のころまでは、それをゆるやかに解体する時期だったのではないかという気がしている。
『幻の絵馬』(大正6年・1917年)は、その解体の途上にある作品であって、「己が命の早使い」のプロットは、作家の骨身に染みた技法として、まだ影をとどめている気がしてならない。
『幻の絵馬』の和歌子がなぜ、いきなり、人形の霧之助殿に命を捧げるほどの恋をしたのかというのは、人間の心理としては謎でしかないのだが、ここにも「己が命の早使い」のヴァリエーションがひそんでいるのではないか。
つまり、錦木和歌子は命の早使い、かつ手紙そのものであって、第一の使者(槙ヶ原家の執事)から託された手紙を第二の使者(一寸法師)によって書き換えられた結果、「橋姫」たることを自覚するのである。
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日影丈吉の『吉備津の釜』を読み終えて、××新聞の記者から封筒を託された車中の私は、当然ながらその中身を確かめないでいることはできなかった。
封筒の中には、ただ一枚、キャビネ判の、なにかの建物を写した写真が入っていた。
紙面で使う写真の受け渡しの手間を省くために、用を頼みやすい、しかも受け取る社員が見つけやすい、空いた電車から降りてくる高校生だというので私が選ばれた、ただそれだけのことだった。
柳田國男は、もともとの原話が中国のものであり、早くも『今昔物語』に類話がみられる「己が命の早使い」について、「なぜこんな突拍子もない話がわざわざ日本にまで輸入せられたか……学者が、万年かかっても、とても明らかにする事のできない人類の秘密」だといっている。
なるほど、人類の秘密とやらがたやすく開示されるほど、現実は不思議に満ちているわけではない。しかし、その秘密を秘密のままで、まるで古代のオーパーツを使いこなす魔術師のように駆使しつつ、日常が非日常へ、現実が非現実へ、突拍子もないけれど、あくまでも優美に飛翔する小説ばかり書いたのが鏡花なのだった。